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WING  作者: 柚月 ぱど
SKY 後編
9/31

SKY 断章

 ありきたりな少年の話をしよう。本当にありふれていて、どうしたって矮小な一人の物語を。非常に平凡でそれ故につまらない、ただのフラットなストーリーを。

 彼は優秀だった。優秀だったと言っても、それは親の力によるところが大きい。それは彼が幼い頃から両親によっていわゆる英才教育を施されていたからであって、少なくない金額の投資を得て知能を発達させた少年は、同年代の少年少女とは異なる知能体系を有していた。数的判断能力、論理的思考能力、直感的判断能力。その全てを鍛え上げられた少年は、初等教育に臨んだ段階で一人だけ他人に優越していた。彼は自分が他人と違うことに気が付いていたのだ。明らかに自分だけが有能であるということを。他の人間が自分と同じレベルで思考をしていないということを。そのことに気が付いた少年はしかしとても精神的には純粋で、他者が自分の存在を受け入れてくれるものだと信じていた。優秀な自分が他人を引っ張って、そうしてみんなを助ければ良いと。彼はそれがとてもおこがましい思考であることに気が付かなかった。大人からすれば、鬱陶しがられる考えであることを知らなかったのだ。子どもという純粋な存在故に。だからこそ彼は小学校で他人から目の敵にされ、要するにいじめのような状況に陥ってしまった。

 いじめは苛烈を極める。自分より優秀なものに対する嫉妬心から引き起こされたそれは、少年の純粋な心に疑問を抱かせるには十分だった。肉体的、精神的な側面からの攻撃。クラス全体を巻き込んで行われたそれは、担任の教師でさえ無視を決め込んで、段々とエスカレートを続けていってしまう。だけれど少年は、自分がいじめられているという意識を持っていなかった。それは自分が優秀であるが故に、そのような攻撃対象にされるなどとは一切考えていなかったから。少年はただ自分に対してちょっかいをかけてきているだけだと感じて、同級生たちを相手にしなかった。しかしいじめは横行して、少しずつ少年の心に疑問を抱かせる。どうして攻撃を仕掛けて来るのか。どうして仲良くしてくれないのか。クラスで孤独になった少年は、いつしか他人に対して積極的に絡むことを諦め、休み時間でも読書に徹する物静かな性格へ変貌した。そしてなるべく目立たないように、攻撃を仕掛けられないように、自分の個性というものを全てかなぐり捨てる。好きだった赤めの洋服も着なくなったし、眼鏡を取られて隠されたりしたから、いくら黒板が見えなくても眼鏡を掛けなくなった。給食の美味しいメニューを取られても、苦手な野菜をたくさん盛り付けられても我慢して食べられるように努力したし、授業で一切手を挙げなくなった上、一番運動ができたのに劣等生を気取っていつも体力がない振りをした。そうすれば攻撃が止んでくれると思っていたのだ。だけれどいじめが止むことはなかった。むしろ自分の能力を制限していることに嫉妬されて、更に攻撃は加速する。もう少年はどうしたら良いかわからなくなってしまった。どうすれば自分を放っておいてくれるのか。どうしたら学校で平和に暮らせるのか。プライドが高かった少年は、どうしても親に相談をしなかった。いじめを受けているという事実を、両親に知られたくなかったのだ。それがいじめの止まらない一番の原因でもあったのだが、少年はそこまで考えが及ばなかった。

 小学四年生の時だ。少年は母親から中学校受験の話を持ち掛けられた。そもそも少年の両親は地元の中学校に少年を入れるつもりはなく、私立の中高一貫校へ入れようとしていたのだ。中学校になっても小学校の同級生たちと一緒に暮らさなければならないと考えていた少年にとっては、まさに渡りに船の持ち掛けであった。

 少年はそうして三年間の勉強を始める。小学生にとって三年間を勉強に費やすことは容易ではない。普通は途中で嫌になるか能力が伸びずに辞めるか、志望校を妥協するかだ。だけど少年はその面優秀であったから、嫌になることはあっても努力を打ち切ることはなかった。その間も小学校でいじめは続いていたが、三年間の我慢だと思って耐え続ける。いじめが続く中勉強を継続するという難題に悩まされた少年は、それもあってか受験結果はそこまで振るわなかったものの、目標の中高一貫校への合格に成功した。

 少年は人生で一番の達成感に打ち震える。それは受験に成功したことよりも、いじめから逃れられる嬉しさからだ。何年続いたかわからないいじめから遂に逃れられると感じたら、どんなことでもやってみせる自信があった。そうして少年は中学生になり、中高一貫校へ入学する。だけれど本当の地獄はそこからだった。

 中高一貫校へ編入した少年は、そこでもかなりの勉強を強いられることとなる。そもそも少年の両親の中学受験の本当の目的は、中高大一貫校へ入学させることだった。しかしいじめに悩まされた主人公はその持ち得る能力を十分に発揮できず、ワンランク下の中高一貫校へ入学したのだ。そういった中高大一貫校への合格に失敗した少年たち――少年の学校は男子校だった――が集まるその学校はそういった事情も踏まえて、難関校とされる大学への合格を目標としていた。だから小学校の三年間を越えて、また六年間の勉強を強いられることになってしまったわけだ。しかしそれでも少年はいじめから逃れられたことが本当に嬉しく、勉強などいくらでもやるつもりだった。

 だけれど異変が現れたのは、中学一年生の秋の時だ。彼は二学期の中間試験終わりに、病気を患った。それは別に不治の病というわけではなかったが、痛みを伴う病気でありまだ中学生だった少年にはかなりの重荷となる。しかしその病気は完治というものがなく、一度治ったと思ったら再発、治ったら再発を繰り返す厄介な病気であった。その病気の原因はわかっておらず、一応ストレスが原因とされているが少年にはそんなことより入院中に溜まってしまう課題の方が目の上のたんこぶになっていた。進学校に通っていた少年は宿題や課題を減らすことを許されておらず、入院中であろうが課題は積み重なっていく。そのテストや宿題、課題のお陰で病気になっていることに本当は気が付いていながら、それでも少年は入院中に課題をやり続ける。そうして課題をする、病気になる、課題をする、病気になるというまさしく負の連鎖が築き上げられてしまって、少年の心は疲弊していく。少年の病気は痛みを伴うものであったし、場合によっては手術も必要とされた。それに手術後の痛みは想像を絶するものであり、少年のわずかに残った正気さを失わせるには十分すぎるものだ。そうして疲労を重ねた少年の心はいつしか砕け散って、医学的に表現するところのうつ病に陥ってしまうのだった。

 うつ病になってから彼は学校へ行くことを拒否し始める。もう何もかもがどうでも良くなってしまったのだ。たとえそれが親の期待を裏切る結果になってしまったとしても。彼の両親は彼を学校へ無理矢理連れて行こうと躍起になった。ベッドから起き上がらない少年を力づくで立たせて学校へ行かせる。実はうつ病の人間に対して行為を共用することは一番やってはいけないことで、むしろ症状を悪化させる可能性が高いのだが、そんなことを両親は知らなかった。無理矢理学校へ行かされた少年は更に精神に変調をきたして、精神的に崩壊の一途を辿っていく。彼にはもうかつての理性的な判断能力は存在しておらず、偏重した思考回路しか残されていない。対人関係さえもこじらせていった少年に対して、流石の両親も痺れを切らし遂には彼のことを諦めることになった。かなりの学費がかかる中高一貫校を辞めさせ、別の学校へ通わせようとする。当時はもう高校生になっていた主人公は父親の転勤に合わせて、家族ともども田舎町へ向かうことになった。

 しかし勉強という重荷から解放された少年は、少しずつ今までの感性を取り戻していくこととなる。鋭かった知覚系も思考系も段々と本来の性能を取り戻していったが、全盛期までには至らない。それは未だ身体を蝕み続けるうつがそうさせているのかも知れなかったが、詳細は少年にもわからなかった。彼は新しい環境で人生をやり直そうとする。羽ばたいていた自分は地に墜ちてしまったが、それでも地面でやれることはあるはずだ。そう思って努力を続けようと決意したが、しかし田舎の高校は排他的な意識が根強く少年をそう簡単に受け入れようとはしない。結果少年は新しい高校でも孤立するようになり、そうして小学校の時のような状況に逆戻りしてしまう。嫌がらせはとめどなく続いた。小学校ほど幼稚ではないが、ある程度歳を重ねた上の狡猾さを秘めた攻撃。主人公はもう若干慣れていたから、うつ病を大きく悪化させる結果にはならなかったものの心には大きな諦念が満ちていた。どこへ行っても、誰も自分を受け入れてくれないという諦め。親さえも自分を見限って、一切の世話をしなくなってしまった。自分を見てくれる人はもう誰もいない。このままずっと一人なんだ――そういった考えが脳を埋め尽くすようになり、少しずつ心の内を橙色に染め上げた。心の中が晩秋のような雰囲気になって、段々と終わりが近づいてくるような感覚に陥る。それは恐らく死の気配、死神の息遣いであり、彼が段々とこちらの背中に迫ってきているのを感じた。生きていて楽しいことなんてない。いつも辛いことばかりで、生きていたってしょうがない――ならどうすれば良い。そう考えた時に頭に浮かんだのは、かつて見上げていたどこまでも蒼い空だった。蒼い空は本当に延々と続いていて、永遠という言葉を抱かせる。それは恐らく空への憧れと言えるものであって、次第に空へ惹かれていく自分に気が付いていた。あの空へ上れたら、どれだけ気持ちが良いだろう。あの大空をもう一度駆け巡れたら、どれだけ楽しいだろう。そのような思いが積もり積もっていって、脳を甘く痺れさせる。その大空への羨望が死への憧れであることにどこか気が付いていながらも、そんな仔細なことはどうでも良かった。あの天空へ帰れたら。元居た場所へ帰還できればどれだけ幸せなことだろう。そうして空への願いを重ねて、そうして遂に空へ往くことを決意した。

 放課後。誰もいない廊下を歩いてオレンジ色に染めあがった階段を上り、屋上へ出る。夏特有の湿気た生温い風がこちらを出迎えて、しかし屋上にはフェンスが設置されていることに気が付く。このままでは空へ飛び立つのに多少の勇気がいる。それはフェンスを乗り越えなければならないからで、精神的な負荷が更に重くなってしまうのだ。少しだけ逡巡して、今日は一旦様子見で終わらせようと思ったところ。視界の端に何か人影が映り込む。長い黒髪に白い肌を伴ったそれはセーラー服を着込んだ少女であり、彼女は緑色のフェンスの外側に座っている。これから何をしようとしていたのかは、まさに自分のことのように明白だった。

 その時、自分は何を思ったんだろう。同族意識、同族嫌悪――いや、違う。それはきっと純粋な心であって。階下を見つめる少女を視界に収めて、どうしても彼女を止めなければという気持ちになったんだ。それは幼児が落としたものを拾ってくれるように、生来的に人間が持ちうる善の心だったのかもしれない。難しいことはやっぱりわからないけれど、絶対に彼女を助けなきゃと思えたんだ。そうして発作的に走り出して、フェンスを乗り越え彼女に声を掛けた。驚かせてしまったのか、彼女はハッとこちらを振り返って身体を滑らせてしまったけれど、それでも彼女の手を掴んだ。何があっても離さないように。自分が落ちてしまうことになっても、決して離してしまわないように。握りしめた腕は温かく、久しぶりに人の温かみを感じた。そうして気が付いたんだ、少年には――僕には、少なくとも今の瞬間だけは、生きていた意味があったんだと。この一瞬だけは、僕にも生きる価値があったんだなと。そう思えたんだ。

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