SKY 7
水瀬はどこか活気だった様子で、現状を楽しんでいるという雰囲気が否応なく伝わってきた。彼女はそのまま住宅街を横断していって、その奥地へ向かっていく。家に戻るわけではないだろうが、どちらにせよ住宅街の奥地には何もなかったはずだ。先ほど商店街を抜けてからどこに逃げ込もうか考えていたところ、水瀬にとっておきの場所があるというので付いては来たが。どさくさに紛れて手を握ってしまった罪悪感から口は出さずにいるが、そのまま山の足元へ着いてしまうはずだ。しかし彼女にも何か考えがあってのことだと思って、何も言わずに付いていく。
追手は今のところ巻けたと判断して良いだろう。後方には連中の姿がなく商店街からも離れたから、移動を続ければ発見される可能性は低いはず。目下の問題としては水瀬がどこへ向かっているかだが、今は彼女に任せるしかないだろう。
やはり彼女の住宅街を越えて、そのまま山地の麓までやってきてしまう。もちろん光源の類は存在せず、真っ暗な闇が広がっていた。僕はそこまで到着して、少しだけ心配になってしまう。水瀬は一体どこへ行こうとしているのか。彼女を信じていないわけではないが、やはりここには何もないように見える。
「ちょっと待ってね。えーっと、この辺に……」
水瀬はこちらに待つよう指示を出すと、そのまま山の中というか入り口付近を探し始めた。一体何を探しているのか皆目見当もつかなかったが、嬉しそうな表情を浮かべてこちらにやって来た彼女は、その手のひらに懐中電灯を握りしめている。
「これは……?」
元々彼女が準備していたものなのか。そうすると水瀬はここへ何度も訪れていることになる。しかしどう見ても山地が広がっているだけだ。そう思って若干不安に思いながら水瀬を眺めていたが、彼女は、
「こっち。ついてきて」
と呟いて、僕を手招きしている。しかし水瀬が向かっていく方向は山の中だ。当然のことながら、懐中電灯を持っていようが夜の山に入るのは基本的に自殺行為である。それを知ってか知らずかはわからないが、水瀬は文字通り危険なことをしようとしていた。
「夜の山は危ないよ。帰って来られなくなるかも」
少し声を大きくしてそう忠告するが、水瀬は大丈夫だと言って一人山の中へ入ってしまった。彼女を放置して帰るわけにもいかないので、僕は心配に思いながらも水瀬の後に付いていく。
水瀬の背を追いかけて僕は山に入った。しかしそこで気が付く。水瀬が登っていった場所は獣道というか人がギリギリ一人だけ通れるような道が存在していて、全く未整備の山道を登るよりかは安全らしい。それに暗くてわからなかったが、この山は勾配が緩やかで、そこまで標高もなさそうだ。かと言って夜の山に入るのは当然危険なわけだが、彼女の言う通り比較的危険度は低く思えた。
前を進む水瀬を追いかけていく。彼女の持つ懐中電灯だけが頼りだ。周りの木々は不信感を抱くほどに静かで、何ら物音を立てない。僕たちの足音しか響かない世界に、少しだけ取り残されたような気分に陥る。決してそんなわけではないのだが、どうしても孤独を感じてしまって。だけどいつもとは違う。水瀬が近くにいるのだ。なんだかそう思っただけで安心感を覚えている自分がいた。
しばらく進んでいると、急に木々が途切れ始める。それに勾配も殆ど地面と平行になったようで、この辺りが山頂近くであることを示していた。先を進む水瀬がこちらに手を振っていて、早く来なよと笑っている。僕は相変わらずだなと思いながら、木々の裂け目へ出た。
清澄な風が僕の顔を撫でていく。その風に少しだけ目を細めてしまうが、僕はそれ以上に目の前の景色を視界に入れて殆ど絶句していた。
僕の視界を大きな湖が支配している。それは天球に上った白い月を映写していて、まるで世界に月が二つ存在するかのような錯覚を抱かせた。目の前にある湖はそれほどまでに澄み切っていて。周りの自然環境を相まって、完全に言葉を失ってしまう。
「どう、綺麗でしょ?」
気が付くと隣に水瀬が来ていた。彼女はこちらの様子を嬉々として窺っているようで、先の言葉を急がせているようだ。
「――うん。そうだね、綺麗だよ」
それしか出てくる言葉がなかった。澄んだ湖の水面に映る月の影。柔らかい風に揺らぐ木々。夜という時間も相まって、とても現実のものとは思えない雰囲気を醸し出していた。
ここがとっておきの場所か。確かに山の中まで探しに来る可能性は低いだろうし、それ以上にここまで美しい景色を見ながら時間を潰せるのなら、待機するには持って来いだ。僕は感心するように溜息を吐いて、湖のほとりに腰掛けた。いわゆる草原のような植生が芽吹いていたからか、座った時に柔らかい感触が身体を包んだ。このまましばらくのんびり景色を眺めていれば、それでもう十分だろう。そんなことを思いながらぼんやりとしていたら、水瀬が湖の方へ近づいていった。白いワンピースを身にまとった彼女の姿は、湖の水面に映えていてとても幻想的に見える。水瀬はそのまま頭に被った大きめの麦わら帽子を手に取ると、こちらに振り返った。
「今日はありがとう広野君。友達と遊んだの、本当に久しぶり。こんなに楽しかったのも本当に久しぶりなの」
少し呆れるような気分になって、僕は地面から立ち上がった。そして尻を指先で払うと、彼女の方を見据える。まだ目は見られなかったが顔に目を向けて、
「それはこっちのセリフだよ。僕も学校に友達がいなかったから、こうやって誰かと遊ぶのは珍しいんだ。楽しかったよ。ちょっと怖いこともあったけど、それでもだ」
そう返すと水瀬は嬉しそうに小首を傾げて、笑顔を浮かべてくれた。その姿がどうも周囲の雰囲気を相まってしまって。彼女の姿が絵画のような美しさを伴っているように見えて、僕は内心ドギマギしてしまう。
そんなこちらの内情など気が付かないように、水瀬は月を見上げた。僕もそれにつられて、空に浮かび上がる月を見上げる。白い月。少しだけ欠けているけれど、どうしたって綺麗に見えて。僕は自分がこの湖のほとりに立っているという事実を失念してしまいそうなほどの浮遊感に包まれていた。
「ねぇ、広野君」
ふと水瀬が切り出した。僕は月に目線を向けたままどうしたのと返す。
「初めて学校の屋上で会った時、“空を飛ぼうとしていた”って言ったよね」
水瀬と初めて学校で出会った時。彼女は屋上のフェンスの外にいて、まさに飛び降りる寸前だった。僕はそれを寸でで止めて、彼女の手を握ったのだ。
「うん、覚えてるよ」
水瀬に視線を移しながら答える。すると彼女はまるで聖母のような慈愛に満ちた目を僕に向けていて。少しだけ心臓が跳ねてしまう。
「あの言葉ね、冗談じゃないんだよ」
思考が静寂に落ち着いた。僕は水瀬の言っている意味が良くは理解できなかったけれど、彼女は僕に背を向けて、突然ワンピースの背中にあるチャックを下ろし始める。
「ちょっと、水瀬――」
慌てて僕は彼女の行動を押しとどめようと思ったけれど、伸ばしかけた手が、空中で静止してしまう。それはワンピースのチャックが静かに下ろされて、そこから想像もしなかったものが出て来たからであった。
それは、なんと形容するのが正しいのだろうか。水瀬の背中から出て来た――もとい“
生えて”きたのは透明に澄んだ何かであり、それはどんどん上や横に広がっていて、彼女の背丈よりも大きくなってしまった。そう、例えるのならば――透明な翼のようなもの。透明な何かはそのものが呼吸するかのようにうねって、血流の流れを感じさせる動きをした。
夢か何かを見ているのか――僕はそう思って右腕で両目を拭った。しかし現実の状況は変わらず、ワンピースの隙間から透明な翼を生やしている水瀬が目の前に立っていた。
「――これは……?」
そのような言葉しか出てこない。それほどまでに眼前の状況は現実感を伴っていなくて。だけど夢でも幻でもなかったらしく、水瀬は振り返るようにこちらを見つめて、恥ずかしそうに微笑んだ。
「これでわかったでしょ。“空を飛ぼうとしていた”意味。私はね、飛び降りようとしていたんじゃなくて、本当に空を飛ぼうとしていたんだよ」
すると、水瀬はいきなり身体を屈めた。その意味が全然分からなくて、僕は呆然としてしまう。だけど水瀬はそのまま湖の方を見据えて、そのまま上方斜め前に跳び上がった。それと同時に背中から生えている透明な翼が勢いよく自らを奮い立たせて、その中心にいる水瀬を空へ運んだ。
月を映す湖の上を、透明な翼を宿した少女が飛んでいた。僕は本当に理解が困難になって、ただ彼女の姿を視界に収めることしかできない。水瀬はそのまま翼を羽ばたかせて水面の上を飛んで行って、そして不意に湖へ落下していった。
脳が殆ど停止していたから、彼女が湖に落ちたという状況を瞬時に理解できない。だけどようやく何が起こったかを理解して、そのまま湖の方へ駆け寄った。
「水瀬――」
その瞬間、湖の中から白い影が浮かび上がった。それは言うまでもなく水瀬であって。彼女は翼についた水滴を払うようにして、こちらに笑顔を浮かべてくる。僕はそんな状態の彼女を見つめながら、運命というものが本当に存在するんだなということを、身をもって実感していた。