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WING  作者: 柚月 ぱど
SKY 前編
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SKY 4

 屋上の窓付き扉は相変わらず施錠されていないらしい。ドアノブを捻った途端、軋むようにそれは回って僕を屋上へ誘った。扉を開けると夏らしい湿気た風が頬を撫でて、目を軽く細めさせる。目の前は陽光に照り付けられた床がてかてかと光っていて、その温度感をこちらに伝えていた。そのまま僕は屋上へ出て軽く辺りを見回す。もちろんそれは件の少女がいるかいないかと確かめるためであって。もしいなくても弁当を食べるつもりだから構わなかったが、どうやらその心配は杞憂に終わったらしい。屋上の出入り口から離れたところのフェンス。緑色に煌めくフェンスの端に、背中を預けて空を見上げる影があった。

 長い髪を伴ったその人影は確認するまでもなく、昨日この場所で飛び降りを敢行しようとしていた少女だ。彼女は物思いに耽るように蒼い大空を見上げていて、どうやらこちらの存在にはまだ気が付いていないらしかった。

 心臓が少しだけ加速する。その鼓動は全身の意識を目覚めさせるようで。まさか本当に屋上へ来ているとは思わなかった。事件が起きたのは昨日のことなのだ。だからすぐさま屋上を訪れているとは考えにくかった。しかし昨日の今日でまたこの場所を訪れているということは、また飛び降りを考えているのではなかろうか。そういった懐疑心が僕の中で生まれて、胸の内を滞留した。もし本当にそう考えているのならば、絶対に止めないと。一度彼女を止めた人間としては、どうしても見棄てちゃいけない気がするのだ。

 意を決して、僕は弁当箱を持ったまま奥の方で呆けている女の子の方へ歩み寄っていく。するとこちらの足音が聞こえたのか、彼女はふと顔を僕に向けた。綺麗な丸い瞳がこちらを見据える。その視線は僕の真意を探ろうとしているように思えて、一瞬だけたじろいでしまうが、それでも僕は彼女に向かって歩き続けた。

 そうして僕は女の子の近くまで寄る。その間彼女はこちらを不思議そうに眺めていたが、何か言葉を発することはなかった。お互いにお互いを観察しているような段階。いつまでもこのような状況が続くかと思えたが、このままでも埒が明かないので先に声を掛けることにした。

「――どうしてここに来たの?」

 僕の言葉は昨日に比べたらはっきりしていて、しっかりとした輪郭を伴ったものだった。もちろん彼女もこちらの言葉は聞こえたようで、首を少しだけ上げて僕の方を見つめ直す。

 鼓動が早まっているのを自覚する。自分から誰かに声を掛けるのは苦手なのだ。だから普段は受け身な姿勢で、誰かに話しかけることは少ない。今回はイレギュラーだとは言え、やはり日頃の癖が出てしまっているようだ。

 しばらくこちらの様子を観察していた女の子だったが、不意に口を開いて、

「――練習するため」

 と、そのように一言答えた。

 だけど彼女の言う“練習”の意味がよくわからなくて、少しだけポカンとしてしまう。しかしここで会話を途切れさせるわけにはいかないので、続けて質問をすることにした。

「えっと、何の?」

 そのように聞き返すと、女の子は何を当たり前のことを、と言った表情を浮かべて、

「空を飛ぶ練習」

 昨日と同じような具合で、さも当然のように答えた。

 空を飛ぶ練習――頭の中で、彼女の発した言葉を反芻する。しかし目の前の女の子の言葉はどこかズレているように思えて、正常な思考回路で意味を断定するのは難しいように思えた。だから僕はそれについて深くは聞かないことにする。もしかしたらこちらをからかっているだけかもしれないし。そういうわけで今は別の質問をした方が良いだろう。

「えっとさ、名前、聞いて良いかな?」

 十中八九は水瀬飛鳥と答えるであろうが、こちらから水瀬飛鳥だよねと尋ねるのは失礼に思えた。水瀬飛鳥当人でない可能性も鑑みると、一応このように尋ねるのがベストだろう。

 すると女の子は再度小さく口を開いて、「水瀬飛鳥」と短く答えた。どうやら僕の推察は間違っていなかったらしい。奇遇なことに僕と彼女はクラスメイトであって、今まで一度も顔を合わせていなかったという非常に珍しい関係のようだ。

「そっか、――えと、僕は広野大地。多分クラスメイトだと思う。よろしく」

 自分の名前を名乗らないのもおかしいので、僕は取り敢えずそう答えた。目の前の水瀬はぼんやりとした様子でこちらを眺めている。何とも捉えどころのない女の子だが、別に悪い気はしなかった。直接攻撃をしてくる連中に比べたら、このように静かにしていてくれる方がありがたい。そんなことを思っていると、ふと目の前から異音がした。それは腸内が収縮する腹鳴の音で。そして水瀬の腹から聞こえてきた音だった。

 僕たちの間を若干の沈黙が支配する。水瀬は少し恥ずかしかったのか、自分の腹の方を見て顔を伏せてしまった。なんとなく聞いてはいけないものを聞いてしまった気分になり、どう対応して良いか決めかねてしまう。こういう臨機応変な対応を求められると、僕は性格上適切な反応ができない傾向にあった。いつも悪手を打ってしまい、自己嫌悪に陥るのだ。しかしこのまま無言の時間が続いてしまうのは非常に気まずい。そう思って脳内で懸命に対処法を考えるが、

「――あの、食べる?」

 結局僕は手に持った弁当箱を突き出して、そう提案していた。


 水瀬から少しだけ距離を置いて、屋上の地面に腰掛ける。そして弁当箱を包んでいた風呂敷を取り除きながら中身を取り出していく。そうしていると水瀬も近くに寄ってきて、僕の正面――少し距離は取っていたが――に座り込んだ。

「あんまり美味しくないかもしれないけど。最近作り始めたばかりなんだ」

 口ではそう言っているものの、僕は今の状況に困惑していた。どうして知り合ったばかりの女の子――僕たちの関係を知り合い同士と言えるかは微妙だったが――に、自分で作った弁当を振舞っているのだろう。そして水瀬の方もどうしてか嫌がる様子を見せず、弁当を食べるか提案したら瞬間的に頷いていた。それほど腹が減っていたということなのだろうが、彼女は弁当を持って来ていないのだろうか。というか水瀬はいつから学校にいたんだ。教室にはもちろん顔を出していなかったが、もしかして朝から屋上に――わからないことだらけだが、とにかく状況に任せるしか道を残してはいなかった。

「自分で作ってるの?」

 弁当箱を開いて中身を見せると、水瀬はそのように尋ねてきた。何度か頷いてみせると、彼女は物珍しそうに弁当の中身を覗き込んだ。

「美味しそう」

 箸を共用するわけにはいかないので、僕は予備に持って来ていたフォークを彼女に差し出す。水瀬はフォークを受け取ると、こちらに窺いを立てるような視線を送ってきた。一瞬意味を図りかねたが、そこで食べて良いか聞いてきていることに気が付く。どうぞと許可を出すと、水瀬は少しだけフォークを宙に彷徨わせた後に卵焼きへそれを突き刺した。

 そのまま卵焼きを口に運び、咀嚼する。無表情で口をまごつかせていた水瀬だったが、嚥下を終えると、

「……美味しい」

 と、嬉しそうに微笑んでくれた。初めてみる笑顔。その様子を眺めて、内心安堵する。不味いと言われたらどうしようかと思っていたが、その心配は無用らしかった。

「好きなの食べて良いよ。ちょっと残してもらわないと困るけど、あんまり気にせずに」

 自分の料理の腕を褒められた気分になって、僕はそんな言葉を口にしていた。すると水瀬は嬉しそうにフォークをウィンナーに突き刺して口へ運んだ。

 どうやら見た限り飛び降りをする気はなさそうだった。空を飛ぶというのが飛び降りを指すとしたらまだ危険はあったが、僕が傍にいればそれを防ぐことは可能だろう。そんなことより今は目の前で美味しそうに食事を摂る水瀬を見ているのが、なんだか楽しかった。なんというか久しぶりに人の笑顔を見た気がするのだ。今まで灰色だった景色が急に色彩を取り戻していく感覚。彼女の笑顔には他人を喜ばせる力が秘められているようだった。

 そんな風に水瀬を穏やかな気持ちで眺めていたが、ふと彼女の両目尻に薄く涙が浮かび上がる。そしてその涙は自重で頬を伝い落ちて、屋上に染みを作り出した。

「どうしたの――?」

 泣く理由がわからず僕は慌ててそう尋ねていた。水瀬は嗚咽を漏らしながら、フォークを握った手で両目を擦り始める。

「――ううん。違うの……お弁当が、本当に美味しくて……」

 水瀬は涙を拭うと、こちらに笑顔を見せてくれた。彼女の笑い顔を見据えて、僕は一瞬思考を停止させる。もっと何か重大なことを言われると思っていたから、若干拍子抜けしてしまったのもあった。だけど特段マイナスな理由ではなかったので、僕は呆れたように、

「――変な奴だな、水瀬は」

 そう呟いて、僕は久しぶりに笑っていた。


 しばらく食事を続けていたが、ふと水瀬がフォークを下ろして、こちらをジッと観察するような姿勢を取る。当然彼女の視線には気が付いているので、少しだけ頬がこわばってしまうのを感じた。水瀬はこちらを静かに観察した後、

「転校生?」

 小さく首を傾げながら、短く尋ねてきた。

 図星であったが、僕は少しだけ彼女の質問を意外に思う。それはもちろん僕が転校生であると判断できたことに対してだ。前提として、彼女の言葉は僕が転校生であるかどうかはクラスメイトの顔を覚えていないと出てこない言葉であろう。しかし水瀬は不登校――まぁ登校はしているようだが――であったので、クラスメイトの顔を覚えているとは考えにくい。だけどそれでも僕が転校生だとわかったということは、多分こちらの雰囲気がこの地域に馴染んでいないからか、僕の推論がそもそも間違っているかだ。まぁここは田舎と表現するのが妥当だと思うので、見たことない顔があればすぐに余所者と判断できてしまうのかもしれないが。

「うん、そうだよ」

 水瀬が手を付けなかったふりかけご飯を口に運びながらそう答える。水瀬はもう弁当に手を付ける気はないようで、整然とした居住まいでこちらを見据えていた。

「やっぱり。見たことないから」

 思った通りここでは殆どの住人に顔が割れてしまうらしい。都会に住んでいた身としては面白さ半分怖さ半分といったところであったが、いちいち自分の情報が拡散されてしまう可能性があるのはあまり笑えなかった。

「いつここに来たの?」

「うーんと、数か月前かな。二年生になる時にね」

「そっか。それだとやっぱり会ったことなかったよね」

 つまり水瀬は二年生になる前から不登校だったのか。彼女の事情は知らないが、不登校は長引くと面倒なことになる。そこまで考えて僕は顔をしかめた。それはあまり思い出したくない過去を想起してしまったからで、水瀬に表情の変化を悟られないように、少しだけ顔を背ける。そのまま横目で水瀬を盗み見るが、彼女は無表情のままで何か感情を読み取ることはできない。

 少しだけ僕たちの間を沈黙が支配した。多分それは僕が嫌なことを思い出してしまったからで。続く言葉が出て来なかったのだ。互いの間を無言が流れて、何か話さなければという強迫観念が胸の内で生まれる。だけど少しだけ先ほどの苦い思いが尾を引いてしまって、中々会話の筋を見つけることができない。無表情を装いながら四苦八苦していると、水瀬が不意に口を開いた。

「じゃあさ、この町についてあんまり詳しくないでしょ」

 彼女の言葉に脳裏で思考を巡らせる。ここに来てから数か月が経過するが、僕がインドア派ということもあって基本的に外へは出ない。だから学校やスーパーなど必要最小限度の施設の場所は知っているが、決して町に明るいとは言えないだろう。

「うん、多分。あんまり外に出ないから」

 そう返すと水瀬は少しだけ嬉しそうな顔になって、こちらに少しだけ身を乗り出した。その様子にちょっとだけたじろいでしまうが、

「じゃあさ、私が案内してあげるよ。この町を」

 彼女の言葉を聞いて、引き気味だった背中をゆっくり元に戻した。そうして僕は彼女の顔を、目を見ない程度に見つめる。彼女の顔は冗談を言っている感じではない。真剣に僕を町案内に誘っているようだ。僕は水瀬の態度を目にして、ちょっぴり猜疑心を抱いてしまう。出会って間もない僕に彼女は町案内を申し出た。何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまう。だけどもう一度水瀬の顔を見つめて、裏の感情が存在しないことを確かめた。どうやら彼女は本当に僕を案内するつもりらしい。どういう風の吹き回しかはわからないが、それでも僕の心は彼女の方へ傾いていた。どうして水瀬にここまで信頼感を覚えているんだろう。それが不思議でならなかったが、僕はなんとなく彼女との出会いに何か奇縁のようなものを感じていた。まるでここで会うのが元々誰かに決められていたかのような。飛び降りを止めようとした時だってそうだ。あんなタイミングで出会うことは、普通あり得ないだろう。お互いの指先から伸びた細い糸が、ようやく繋がった感触。そういった運命的なものを感じ取って、僕は、

「わかった。是非頼むよ」

 確かにそう答えて、しっかりと頷き返していた。

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