SKY 3
耳障りなアラーム音が部屋中に響いている。機械的な音響を奏でるそのアラームは、深い睡眠状態にある人間の意識を覚醒させるには十分すぎる音量を有していた。ぼんやりと宙を漂っていた僕の意識はそのアラームによって強引に地表へと引きずり出されて、現実感というものを強制的に取り戻させてくれる。
耳鳴りを続けている脳みそが少しだけ意識を取り戻して、薄く視界を開かせた。かなり深々とした睡眠状態にあったらしく、強烈なアラーム音を耳にしてもすぐさま身体を起こしてそのアラームを止める気にはなれない。多分それくらい僕は昨日の出来事に心を奪われていて、余りある疲労感を解消しきれなかったんだと思う。眠りにつくまでも、延々と考えさせられたこと。それは言うまでもなく屋上から飛び降りようとしていた女の子のことであって、彼女は“空を飛ぼうとしていた”などと発言していたが、僕にとってはその場限りの言い訳としか思えなかった。
緩慢とした思考を伴いながら薄手の毛布を剥ぎ取る。多少寝苦しかったのか、その毛布には薄く寝汗がへばりついていた。基本的に電気代が勿体ないので夜中はエアコンを付けないように努めているのだが、あまりやり過ぎるのも身体に毒かもしれない。まぁ今回に限って言えば昨日の出来事が尾を引きすぎて、あまりしっかり眠れなかったとも言えるだろう。寝始めた当初は上手く深い睡眠に入れず覚醒と睡眠の狭間を行き来していた感じなのだが、段々と疲労が溜まって朝方にようやく寝付けたらしい。だから深い眠りに入れた段階で目覚まし時計に叩き起こされる形になってしまったので、若干恨めしいとも言えた。
だけどいつまで経ってもアラームを放置しておくわけにもいかないので、うざったく思いながらも上体を起こして狭い視界の中で目覚まし時計のスイッチを叩く。その瞬間、延々と鳴り響いていたアラーム音が鳴り止んで、寝室の中に重苦しい静寂が訪れた。その静寂が心の凪を生み出して、少しの間思考を停止させる。若干二度寝をしたいという欲求が生まれるが、今日も学校があるので布団にとんぼ返りするわけにはいかない。学生の本分は勉強であって、最低限週に五回は学校へ通わねばならなかった。そもそも五日分の疲れを二日間の休日で癒さねばならないというのは現代人の必須事項であって、かなりの無理難題である。まぁ同年代で私立の学校に通う高校生は週六回高校へ出向かねばならないので、そういった面を鑑みると自分の環境はまだマシであると言えた。
まだ靄がかかったようにぼやけた自意識の中、ベッドから起き上がる。全身の血流の圧力が変化して少しだけ眩暈を覚えた。この歳で貧血気味なのは笑えないが、低血圧というのもあって基本的に朝は弱い。それでも朝早く学校へ向かわなければならないのは、現在の教育制度を定めた人間に文句の一つでも垂れたいところだ。
ベッドから起き上がって取り敢えず伸びをする。昨日のうちに荷物の整頓は済ませているので、慌てて教科書やノートをバッグに詰め込む必要はない。といっても大体の資料や教科書は学校に置き勉しているので持っていく必要はないのだが、宿題という厄介な存在があるのでその全てを置き去ることはできなかった。今日も数学――僕は文系なのに高校二年生になってもやらされている――の宿題を持って行かなければいけないので、その教科関連の教科書やノート、問題集の類は持って行かねばならない。面倒なことこの上ないが、学生である以上は宿命であるとも言えた。
教科書類が入ったバッグをちらりと眺めて、あまり時間的な猶予がないことを思い出す。家から学校はそこまで遠くはないものの、遠くない故に心理的な余裕があっていつもギリギリの時間帯に起床しているのだ。今日は昨日の件もあってあまり眠れていないし起きるのも若干遅かったから、のんびり考え事をしている時間はない。そう思ってすぐに寝室から出て、僕は洗面所へ向かった。
寝室から出てリビングを通り、洗面所へ向かう。僕の家は一戸建ての住宅だが、そこまで広いとは言えない。しかし一軒家に住めている時点で感謝をするべきなのだろうが、朝の八時近いというのにリビングには明りが灯っていなかった。僕は無言のままリビングに入り、そこに横たわっている存在を見据える。リビングに居座っている――というか眠っているのは僕の母親で、こちらの存在など気が付いていないかのように、静かな寝息を立てていた。僕は普通の家庭がどのような環境下にあるのかは知らない。ただ数年前までは、子どもが想像するような朝のせわしなさが僕の家庭には存在した。だけどそれはもうない。当たり前のようにあったものがある日突然なくなってしまう感覚。それは一言で喪失感と呼ぶのかもしれないが、そんな言葉で簡単に括れてしまうほど軽い感情だとは思えなかった。まるで胸を鉄のパイプで貫通させられたかのような。そんな身体の一部を穿たれたかのような心象が胸の内にはあった。
リビングで眠り続ける母親を見下ろして、やはり声を掛けようかという気持ちが湧いて出る。そうして反射的に唇を開いてしまうが、僕の口は何か言葉を紡ぐことなくそのまま閉じられてしまった。わかっている。ここで僕が何か言葉をかけたところで、何も反応をくれないことくらいは。だけどどこか期待してしまうのだ。母さんが僕の言葉に反応して、笑顔を返してくれるんじゃないかと。寝坊したと恥ずかしそうに微笑んで、朝ご飯を作ってくれるんじゃないかと。だけどそれが幻想であることは僕が一番わかっている。一度壊れてしまったものは簡単にはもとに戻すことなどできないのだ。
母親から視線を外して洗面所の方へ歩き出す。いつまでもリビングにいたって仕方ない。僕には学校へ行くという責務があるのだ。だから延々と唇と噛んでいる必要なんてない――その言葉を自分に言い聞かせているという自覚がありながらも、僕はその認識を無視するように母親から離れて、そのまま洗面所へ向かった。
制服に着替えて弁当箱を入れたリュックサックを背負い、玄関まで出る。この前買ったばかりのローファーは既に薄汚れていたが、気にせず乱雑に履いた。ここまで来ればもう外へ繰り出すだけだが、それでも僕は一度リビングの方を振り返る。
リビングは照明が灯されておらず、未だに暗いままだった。僕はそんな様子に唇を軽く噛み締める。何を期待しているんだ僕は。期待などしても仕方ないことをわかっていながらも、期待せざるを得ないのが子どもじみていて嫌だった。
そのまま玄関の方を振り返ってその扉を開ける。家にいたって悲しい思いをするだけだ。だから外へ出てしまえばいい。そんなことを思いながら玄関の扉を後ろ手に閉めたが、学校へ行ったところで環境が変わらないことは自分が良くわかっていた。
玄関のドアを施錠して、僕はそのまま学校へ向かう。僕の家は住宅街の中心部にあって、住むにはこれ以上ない立地である。学校へはそのまま西へ向かえば良いので迷うこともない。家から飛び出した段階で目の前の道路には同じ高校の生徒がちらほらと見られたが、彼ら彼女らはみな仲間同士で塊まっていて、歓談しながら学校へ向かっていた。僕はそんな様子を少し恨めしく思う目線で眺めながら、同様に通学路を辿る。
基本的に登校、下校はいつも一人だ。それは僕が転校生であるという理由もあったが、単純に人付き合いが苦手というのもある。人の目が見られないのと同様に、誰かと話す時に余計なこと考えてしまって上手く喋れないのだ。何度かこの悪癖を改善しようと試みたこともあったが、その全てが失敗に終わった。人が生来的に持ちうる特徴を改善しようと努めるのはどこか見当違いに思えもしたが、結局直らなかったのだから文句を言っても仕方ないとも言える。
長い時間通学路を歩くまでもなく、すぐに大きな――とは言っても、都会の高校に比べたら小さいが――校舎が見えてきて、多くの生徒たちも見受けられるようになった。校風委員が朝の挨拶運動を行っていてなんだか野暮ったかったが、僕は彼らの間をすり抜けるように校門をくぐっていく。存在感自体が薄いのか、挨拶をしなかったからといって見咎められるようなことはなかった。
そのまま昇降口へ向かい、靴を履き替えて自分のクラスへ向かう。僕のクラスは三階にあって、思考する間もなく到着する。僕は教室に入る前に深呼吸をして、そのまま中へ入った。教室の中へ入った途端、野暮ったい喧騒が耳を叩く。朝日が降り注ぐ中で、逆光を浴びながら歓談する男女で分かれたグループたち。相変わらず群れるのが好きなようだが、男女で一緒くたのグループを作らないのがなんとも滑稽で皮肉が効いていた。彼らは僕が入ってきたのを一瞥して、そしてすぐに視線を逸らした。何でもない、いつも通りの風景。この世界は転校生に優しく手を差し伸べてくれるほど甘くはないのだ。転校当初は誰かが気を遣って声を掛けてくれる。そんなことを思っていた。しかし現実はそんな風にもいかず、片田舎の高校は土着意識が高く、部外者を仲間に引き入れようとはしなかった。それは居住地的な意識がそうさせるのかもしれないが、元々都会に住んでいた僕には理解ができない。まぁどちらにせよ自分から声を掛ける気はさらさらないので、放っておいて欲しいものだ。そんなことを思いながら自分の席へ行こうとして、ふと視界の端に何かが映るのを感じ取った。
それは別に何の変哲もないことで。視界に映り込んだのは、教室の端の誰もいない空席だった。何故かその周りだけは人払いをかけたように誰もおらず、無人のサンクチュアリが広がっている。若干不可思議に思ったものの、別に大したことではないので視線を逸らそうと思ったが、そこでようやく気が付く。あの席はいつも誰も座っていない。いつだって空席なのだ。
そして僕はあることを思い出す。それは学校の噂に関してのことで。うちのクラスでまことしやかに囁かれている風の噂。それは学校に来ていない“問題児”について。その子は僕が転校してくる前から学校に、そしてクラスに来ていないようで、そういった関係で全く面識がない。名前すらも知らなかった。だけどそう言えばその子は女の子らしく、確か『水瀬飛鳥』という名前の子じゃなかったか。
そこまで考えて、脳裏に昨日の出来事が浮かび上がる。屋上から飛び降りをしようとしていた女の子。空を飛ぼうとしていた少女。あの子の名前は聞いていなかったが、全く面識がないことから、もしかしたら例の不登校少女かもしれないと思えた。
彼女は今どこにいるのだろうか。昨日は家に帰るよう言いつけて、帰路に着くのを見届けてから帰宅したが。もしその子が水瀬という不登校少女なら、やはり何か思うところがあってあんなことをしようとしたのだろう。そこで僕はあることに思い至る。水瀬は空を飛ぼうとしていたと言っていた。その意味はよくわからないが、どちらにせよ今日また飛び降りを敢行しようとするかもしれない。それは一度彼女を止めた身からすると、どうしても許せないことに思えて。そうして僕は胸の内で決意した。――今日も屋上へ行こう。彼女がまた飛び降りを考えているのなら絶対に止めないと――そういった安直な正義感が心を燻ぶっていて、それと始業のチャイムが鳴るのはほぼ同時だった。