SKY 2
限界まで引き伸ばされた指先が中空を切って、地表へと落下していく彼女の手のひらに吸い寄せられていく。瞬間的に手を伸ばしていたものの、それでも彼女の腕に対してはまだ距離がある。かなり無理矢理腕を伸ばしていたから、伸ばした手とは逆の手で掴んでいたフェンスが痛そうに軋む音が聞こえた。全身が左右に引っ張られたように伸びきって、関節が歪に悲鳴を上げる。間に合わない――脳裏をそんな最悪の想定が闊歩するが、だけれど僕は彼女に向かって手を伸ばすことを止めようとは思えなかった。どうして見たこともない女の子のために、こんなに頑張っているんだろう。下手をすれば彼女だけでなく自分も校舎から落下してしまう。この校舎の屋上は五階に当たる高さを有していて、当然のことながらそこから落ちれば生きて帰っては来られない。そんな当たり前のことは百も承知だったが、どうしても彼女を見棄てることはできなかった。それは内から引き出された正義感がそうさせるのか、それとも同族意識を禁じ得なかったのかはわからないが、事実として僕は今彼女に向かって手を差し出している。届かないかもしれない、目の前で彼女が落ちてしまうかもしれない。だけど僕はそれでも死に物狂いで手を差し伸べていた。
突き出された手は女の子の手に向かって一直線に進んでいる。しかし彼女が地表に向かって落下する速度が思ったより早い。このままだと本当に手を掴めないまま終わってしまう――拡張された一秒の世界で、僕は歯を食いしばった。届け。届いてくれ。客観視の自分がどうしてここまで努力しているのか、氷のように冷めた目で見ている。しかしそんなことは関係なかった。ただ目の前の女の子を助けたい。その一心で僕の身体は動いていた。
限界を超えて伸ばされた手のひらは女の子の手のひらを掴むことなく空を握ったかのように思えたが、その瞬間落ちていった少女の方もこちらに向かって手を伸ばしてくれる。あと少しで届かなかった指先が、少しずつ近づいていく。その内女の子の手は大きく伸ばされ腕を掴むことが可能なほど接近してくれて、反射的に僕は彼女の腕を掴んだ。
彼女の腕を掴んだ瞬間とても柔らかい、人間の温もりというものを指先から知覚する。久々に感じた人間の温かさ。僕は久しぶりの感触に少しだけ安堵感のようなものを覚えたが、その心地よさは少女の自重を余すことなく受け入れた右腕の激痛に取って代わった。
全身が階下に引きずられていく。僕は左手で緑色のフェンスを掴んで、右手で女の子の腕を掴んでいた。右手については言うまでもないが、自分の体重を彼女の体重を支えなければならない左手の、特に指先は激烈な悲鳴を上げ始めている。当然ながら長くこの状態を保つことは不可能だ。早いところ彼女を引き上げないと、せっかく手を掴めたというのに二人とも屋上から転落することになる。それだけはどうしても避けなければならないと思えた。
砕けるほど歯を食いしばって右手に力を込める。とにかくまずは女の子を屋上へ引き上げることが先決なように思えた。左手だけでは百キロ近いであろう僕と女の子の体重を引き上げることは無理だからだ。しかしそれでも右腕には人間一人分の体重がかかっている。ただの高校生である僕には引き上げることは困難に思えた。だけどこれが火事場の馬鹿力と言うのだろうか。少女を引き吊っていた左手はゆっくりと動き出して、女の子を屋上の縁の方へ引き上げていく。脳内が粘質の塗料で塗りつぶされていく感覚。肉体的な制限を突破して行使する力に対して、脳が悲鳴を上げているようだった。強烈な負荷がかかる行動に対して思考がショートしかけるが、それでも左腕だけはしっかりと仕事を達成してくれて、無理矢理ながら女の子を屋上の縁に着地させることに成功する。
その瞬間、僕は緑色のフェンスに全身を預けた。それと同時にこれまでにないほど荒い息が肺から放出されて、そのまま肩で呼吸をさせる。彼女を引き上げている間は気が付かなかったが、右腕も左腕も優に限界を突破してしまったようで、全く力を入れることができない。なんとかフェンスに掴まって落下しないように注意しているものの、殆ど腕の感覚はなかった。だけれど今の僕にとってそんなことは本当に些細な問題だ。そうだ。女の子を救えた。飛び降りようとしていた女の子を一人助けることができた。こんなちっぽけな僕という存在でも、生きている意味はあったんだ――そんな拙い自己肯定感に酔いしれながら、肩で呼吸を整える。だけど僕はそこで、ようやく隣からの視線に気が付いた。
摩耗した思考の中で僕は視線の方へ顔を向ける。もちろんこちらに視線を送ってくるのは件の女の子であって。ゆっくりと視界の中に彼女の顔が映り込んでいく。長い黒髪に、大きな瞳。顔は個人的に可愛らしいと思える。ちょっと奥手そうな垂れ目が、なんとなく儚げな雰囲気を醸し出していた。
視線が交じり合う。だけど僕は彼女の目線を直接受け止めることはできなかった。それはただ単純に僕が人と目線を合わせるのが苦手というだけで。それに綺麗な女の子と間近で視線を交錯させるとなると、緊張してしまうのは言うまでもない。だから僕はすぐに交らせた視線を外してしまったが、それとほぼ同時に女の子が口を開いた。
「――どうして」
ポツリと呟かれたその言葉はこちらの心を真っ直ぐ通過して、そのまま通り過ぎていくようだった。一瞬彼女の発した言葉の意味が理解できない。それはどうして助けたのか、という意図で発せられた言葉であるように思えたが、しかし彼女の口調はどこか本当に不思議に感じている思惟を含んでいるように感じた。自分を助けてくれることに対する純粋な疑問。僕はそういう風に彼女の発言を受け取って、そして少しだけ怒ってしまった。それは本当に単純なことで、自分を助けてくれる存在に対して理解が及ばないことに憤ったらしい。
「助けるに決まってる」
ほぼ反射的に漏れ出た言葉はそのようなものだった。もちろんこの僕が言えた義理でもないのだが、どうやら目の前で生命を散らそうとしている存在を直視して、どうしても許せないような気持ちになってしまったらしい。それは自分そのものを見ている気がしたからかもしれないが、詳しいことはやはりわからなかった。
僕の言葉を受けて少女は瞳を揺らめかせる。彼女が今何を考えているかはわからないが、とにかく現状を何とかする必要があった。それは僕らがフェンスの外側で会話しているからで、不意に風が吹いた場合に転落してしまう可能性があったから。せっかく助けることができたのに、延々とフェンスの外側に滞在して落下するなど愚の骨頂だ。
「取り敢えず中に戻ろうよ。このままだとまた落ちちゃうかも」
細々とした言葉を紡いで、恐る恐る女の子の方を見やる。やはり視線を合わせること自体が怖かったが、表情を窺い知れないというのも怖い。そう思って視線を彼女の方へ向けると、女の子は少し逡巡するように視線を漂わせた後、コクリと小さく頷いてくれた。
そうして僕たちはそのまま緑色のフェンスを乗り越えて、屋上の内側へ戻る。殆ど足場が存在しないフェンスの縁から内側へ戻るのはかなり苦労したが、女の子と協力することで何とか戻ることに成功していた。まずは僕が一人でフェンスを乗り越えて内側へ入る。そしてフェンスの上から女の子の手を引き内側へ引き戻したのだ。冷静に考えてみればこの女の子は一人でフェンスの外へ出たのだから、もしかしなくても一人で内側へ帰って来られたのかもしれないが、放置して一人でフェンスを登らせるのもおかしいように思えた。そして僕の推察自体は間違っていなかったのか、女の子の手を引いた段階で彼女の身のこなしはかなり軽い。まぁそれでも一人でフェンスの外側から内側へ戻って来ることは危険なことだし、協力するに越したことはないのだろうが。
取り敢えず僕たちはフェンスを乗り越えて、屋上の内側へ戻ってこられた。夕日もかなり傾き始めて、そろそろ陽光も沈もうというところ。まだ太陽に温められた大気が僕たちの肌を滲ませて疲労感を演出した。完全なる非日常を体験してしまったからか、肉体的にも精神的にも少し疲れてしまっているようだ。屋上の上に立って、額を流れ落ちる汗を腕で掬い上げる。生温い温度感の汗が腕を伝って、滴り落ちるように溶けていった。湿気た風が肌を撫でていって、その素肌を乾燥させていく。
一体、何が起こったんだろう。僕は冷静に回想してみる。屋上に来てみたら女の子が飛び降りようとしていて、懸命にそれを助けた。脳内で文章化してみるが、まるで現実味がない与太話に思える。女の子の手を取ったのは自分なのだが全く実感が湧かなかった。女の子の飛び降りを助けるなんてどこかの御伽噺か何かに思えて、自分がそれを行ったんだという認識に全く現実感がない。学校の屋上での飛び降り。それはテレビのニュースか何かで流れるくらいの対岸の火事といったイメージで、それがまさか自分の目の前で起こるなんて想像もしなかったのだ。現実というものは本当に唐突なもので、神というのは気まぐれな存在のようだった。そうして僕はその助けた女の子が隣にいることを思い出す。思索に沈んでいて放置してしまっていたが、どう転ぼうが女の子の事情を聞かないわけにはいかない。ここでそのまま屋上を離れたら、またフェンスの外側へ出て飛び降りようとしてしまうかもしれないのだ。
一念発起した僕はそのまま顔を彼女の方へ向けた。落ち着いた状態で彼女を眺めるのは初めてだったが、やはり面識はない。この学校の制服を身にまとっているものの、どこのクラス、そしてどこの学年の子なのか判別がつかなかった。自分より幼くも見えるし、むしろ大人びているようにも見える不思議な感じの少女。丸みを帯びた目鼻立ちは可愛らしさを覚えるが、どこか芯の強ささえも感じさせる。視線を合わせないように彼女を観察して、そして詳しいことは聞いて見なければわからないと断じた。
「――その」
このまま無言のままでも仕方ないので、僕は声を上げた。だけど僕の声はどこかか細くて、彼女に聞こえているのかさえも怪しい。自分の声の儚さを自覚し、もう一度言い直そうかと思ったところだったが、目の前の女の子が反応を示してくれる。
「何?」
女の子はその一言だけを口にした。とても淡白でさめざめとした口調。僕は反射的に嫌われているのではないかと思ったが、女の子の感じから推察するに、単純に感情表現の起伏がフラットなだけじゃないかと思えた。少しだけやりにくいが、発言に対して反応をくれるだけでだいぶありがたい。
「あの、どうしてあんな場所にいたの?」
また糸のように細々とした声が響く。自分で聞いていて恥ずかしい気持ちも抱くが、性格上仕方ない。いつまでも仕方ないと言っていられないのもわかってはいるが、声の大きさなどはすぐに直そうと思っても直せない分野の事柄だ。むしろ女の子に対しては声が小さい方が好ましいかもしれないので、あまり深くは考えないことにする。
しかしちゃんと僕の言葉は届けられたのか、女の子は瞳を少しだけ揺らめかせた。もちろん僕の発言は核心を突くものであったし、ある意味答えはわかっている。屋上で一人、フェンスの外に立っていたんだ。何をしようとしていたのかなんて誰だってわかるだろう。でもこうやってわざわざ聞き直したのは、もしかしたら別の可能性も考えられたからだ。ただ景色を眺めていただけかもしれない。それか屋上は涼しいから風を浴びて涼んでいたのかも。だから一応そう尋ねたが、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「――したの」
女の子が言葉を紡いだ途端、一陣の突風が僕たちの間を横切って声を攫って行った。
「え――?」
だから僕は、突風に目を細めながら聞き直した。すると彼女は僕の方を真っ直ぐに見つめて、
「空を飛ぼうとしていたの」
さも当たり前みたいに、彼女はそのような言葉を紡いだ。