SKY 1
階段を上っていた。階段と言っても、特段書き加える必要性も感じない、どこにでも普遍的に存在する階段である。普段から清掃そのものが行き届いていないのか、灰色に集積した埃が階段の凹凸に癒着するようこびりついている。逐一掃除はされているのだろうが、ある程度建造から年季が入っているからか経年による塵の累積を防ぐことはやはり困難なようだった。周囲は夕方特有のぼんやりとした暖色が周包んでいて、こちらに曖昧な眠気と怠さを抱かせる。橙色の明かりは共感覚を呼び覚まして、どこか母親の腕の中のような安堵感をもたらすように思えた。学校特有のすえた香りが鼻腔を刺激して、僕の眉を歪にひそめさせる。小学校、中学校、高校とそれぞれに特異な臭いが存在して、しかしそれは個別に多少違う匂いを発してはいるけれど、どうしたって学校の香りという一括りに纏められるほど野暮ったい臭気だった。規則的な足音が響いて、なんとなく定期的な感情の凪を生み出す。心の思考が一瞬だけ鳴りやむあの感じ。火照った思考回路を少しだけ冷ましてくれているようで特に不快感はない。辺りをもう一度見回してみるが、周囲に人影はなかった。というか人の気配そのものが存在しなくて、僕という一個体だけがこの世界に存在しているという錯覚を誘発している。決してそんなことはないのだが、なんとなく自分だけが世界から隔絶されてしまったというあの感覚。少しだけ心細いけれど、なんとなく安心感を覚えるフィーリング。きっと僕は孤独が嫌いではないのだろう。クラスメイトの多くは表面的な付き合いだけの友達を量産して、彼らと群れることが好きなように思えたが、結局人間は単一個体であり純完全生物ではない。単独で全てを完結させることは不可能だし、意識的にも無意識的にも誰かを頼ったり頼られたりしている。人間は一人で生きていくことは不可能ではあったが、孤独というものに拙い憧れを抱くこと自体は、人間社会が大きく成長して、あらゆる階層や序列の共同体を生み出した結果だとも言える。常に社会に所属しているという強迫観念が、軽率に孤独を望ませるのだろう。きっとそれは大きくなり過ぎた人間社会が生み出す心の弊害なのだろうが、決して不快なものには思えなかった。人は群れて生きるものだが、独りを恋しく思う時もあるのだ。
階段を上る自分の足音だけが周囲に反響して、僕の元へ帰ってくる。その規則的な物音は僕の感情を一定の脈拍になべて、数学的に美しいフラットな基調を生み出した。心が一定間隔に抑制されると、感情や思考の速度が画一化されるような不可思議な感覚が脳に浸透する。普段は取り留めのない考えを蜂起させている脳みそが、足音に基づく規格に統一されるイメージ。この感覚は嫌いじゃない。余計なことや無駄なことを考えずに済むから。僕は一般人に比べたら物事に気が付きすぎ、疲れすぎるきらいがある。だから多少脳みそに制約が存在した方が、人生を楽にさせるのだ。例えそれが自分の持ちうる最大限の能力を規制する結果になろうともだ。
視界の内に、暖色の夕日を映し出す窓付き扉が目に入る。その窓の縁が夕日に照らし出されてその境界線を曖昧にし、いわゆるハレーションのような現象を引き起こしているようだった。そこで僕はようやく階段を上りきれたことを理解する。自分が階段をどれだけ上っているのか、そしてあとどれくらい登ればいいのかは、おしなべられた感覚の底に消えてしまったらしい。だから遂に屋上へ到達していたとしても、自分が屋上の踊り場に立っているという事実を実感として認識するのに多少の時間を要してしまった。それは橙色に輝く太陽が僕の網膜を通して眠気を誘引しているからかもしれなかったが、別にそんなことはどうでも良い。僕にとって今必要なことは、屋上に出て、そしてその屋上の端に落下防止用のフェンスが設置されているかどうかということだ。
僕はようやく自意識の実感を取り戻して、屋上の外へ出ることができる扉の前に立つ。僕より少し背の高い窓付きドアは当然のことながら言葉を発することなく、目の前にそびえたっていた。なんとなく威圧感を感じて、僕がこれからやろうとしていることを引き留めようとしているようにも感じられたけれど、それでも僕は扉のドアノブに手をかける。そうして、そのまま祈るようにドアノブをゆっくりと回した。開かないことも想定はしていたが、その窓付きドアは歪な金属音を響かせながら軋むようにその胴体を回してくれる。どうやら鍵は掛かっていないようだ。普通に考えて生徒が闖入しないように施錠をしていると思ってはいたが、どうやらその心配は杞憂だったらしい。まぁ扉の年季そのものが入っているように見受けられるし、もしかしたら施錠したつもりで壊れているだけかもしれないが、どちらにせよこちらにとっては好都合だった。
ドアノブを回して、僕は外へ出る。窓付きドアが開いた途端、若干底冷えした熱気がドアの隙間から漏れ出て、汗ばんだワイシャツを撫でていく。今は夏だからこの時間になると多少は涼しくなるが、最近は温暖化の影響で昔ほど涼しくはならないらしい。高校の教師は温暖化温暖化とうるさいが、そもそも生徒たちは数十年前の気候など知る由もないので、実感が湧かないというのが実のところか。
取り敢えず屋上に出た僕は、とにかく後ろ手に窓付きドアを閉める。この時間帯なら屋上へ誰かが来ることは考えにくいが、リスクヘッジはしておくに越したことはない。マーフィーの法則という言葉があるように、こういう場合に限って偶然教師が屋上付近を通りかかる可能性もあるのだ。僕の計画を成功させるためにも、教師や警備員にこちらの存在を感知させないことは実行上最低条件であった。まぁ逆に見つかってくれた方がむしろそれも運命だと思えたかもしれないが、こういう場合は特に僕は頑固というか、融通が利かないところがある。いい意味にも悪い意味にも捉えられるが、とにかくそういう性格なので、初志貫徹というか一度決めたことは曲げたくない性情なのだ。
ふと、夏特有の無差別な温風が頬を掬って流れていく。生温い風は心の隙間を縫い留めるような力を有しているように思えたが、それと同時に額の上を同じような生温さを伴った汗が伝った。やはりどこか緊張しているらしい。しかしそれも無理はないだろう。これらか僕がやろうとしているのは、人生史上一番勇気が必要な事柄なのだ。緊張もするだろうし、それ以上に覚悟がいる。僕は意思が強い方ではないが、今回に限って言えばかなり精神力を試されるだろう。精神力というか、絶望感というか。そう言った言葉遊び的な部分は割愛して、とにかく大きな衝動が必要になることには変わりなかった。
そうして、僕は視線を屋上の縁へ向かわせる。この場所を訪れたのは他でもないのだが、重要なのはあの緑色のフェンスがあるのかどうかということだ。公園などによく設置されている金網みたいなフェンス。それが存在していると、計画は大幅な変更を必要とする。僕はそのまま屋上と空の隙間に視線を送ってやるが、しかしそこには残念なことに例の緑色のフェンスが当然のように設置されていた。高さ二メートルほどはあるそのフェンスはこちらを威圧するように佇んでいて、僕はあからさまな溜息を吐いてしまう。やはりそう簡単にはいかないらしい。今の社会は人間に対して優しすぎ、そして厳しすぎた。僕の安直な衝動など見透かしているかのように、フェンスはそこに屹立している。もちろんフェンスがあっても不可能ではなかったが、しかし僕にはそこまでの勇気もなかった。計画は失敗だ。もうここにいても仕方ない。嘲笑われていると思えた僕は再度溜息を吐いて、その場を立ち去ろうと踵を返す。そうして回っていく視界の中で、何か異物のようなものが混入していることに気が付く。それを網膜に映してしまった僕は、そのまま身体を元の位置に戻してその物体を注視する。その物体は百六十センチメートルほどの立方体であり――いや、その物体は無機物ではなく、一つの生命であった。その流線型のフォルムの肉体は女性のものであり、まだ幼い――と言っても僕と同い年くらいであろうが――少女のものだ。長い黒髪を伴ったセーラー服の女の子は、フェンスの外側に背を預けていた。風に長い髪をたなびかせて、彼女はそのまま眼下の地表を見下ろしている。それは僕にとって、まるで今すぐにでも地上へ落下しようとしているように思えてしまって。
心臓が跳ねる。その動悸は身体中の血液を蜂起させるような勢いを秘めていて。気が付いた頃には、身体が勝手に動いていた。僕はほぼ無意識的にフェンスまで走り寄って、それをがむしゃらによじ登り、その外側へ飛び出す。自分の身の危険など殆ど度外視していた。それほどまで僕は自動的で。目の前の女の子を――死にゆく少女に手を差し伸べようとしていたんだと思う。
「だめだ!」
口をついて叫んだその言葉は、自分のものとは思えないほど溌剌としていて、彼女の注意を引くには十分すぎるものだったらしい。フェンスの外側に立つ少女はハッとしたようにこちらへ振り返って、そして驚いたような表情を浮かべた。彼女と僕の視線が交錯しそうになって、僕は目線を逸らした。しかし僕が声をかけてしまったから、少女は全身のバランスを崩してしまったらしい。片足を滑らせたのか、彼女は地面に吸い込まれるように落ちていく。そんな様子をどこか傍観するように見つめながら、僕はそれでも手を突き出した。間に合わないかもしれない。自分が落ちてしまうかもしれない――でもそんなことはどうでも良かった。僕はただ、目の前で自殺しようという女の子を、どうしても許せなかっただけなんだと思う。
今思えば、これが僕の運命の始まりだった。彼女の手を掴んで、懸命に引き上げたあの日。僕は自分の心と女の子の生命と、そしてこの世界に生きる人類全ての意思を背負ってしまったんだ。どうしたって重すぎる運命だけれども、きっと何度も傷ついて泣いてしまうけれど、最後の最後には笑っていられると信じて。だって僕は少女の生命を繋いだと同時に、自分の生命さえも救っていたのだから。
『WING』