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WING  作者: 柚月 ぱど
EARTH
19/31

EARTH 4

 施設のエントランスから脱出した後も僕は延々と走り続けた。そのことが運命であるかのように、ただひたすらと真っ直ぐに。僕の行く末に何が待ち受けているのか皆目見当もつかなかったけれど、彼に言われた通りずうっと。もちろん息が切れそうになったり、足が棒のように重苦しくなってこちらに止まれとせがんでいたけれど、そんなことは完全に度外視してただひたすらに走った。

 施設の外は人工の建築物など、人の気配を感じさせるものが皆無である。施設の周りは森が蔓延っていて、時刻的に夜であったから中々先を見通すことができない。一応申し訳程度の舗装道路は存在していたが、車の往来なども一切なくやはり人の感触がしなかった。そもそもここが母国であるかどうかも不明であったが、ただひたすらに先を急ぐしかない。どうしたって先ほどの組織の連中――僕を助けてくれた彼らは除いて――が追いかけて来る可能性が高かったし、それ以上に立ち止まるわけにはいかなかった。あの男性の弁を借りれば、僕は非常に重要な人物らしい。具体的にどれほど重要かを比喩表現で教えてくれた彼だったが、今のところ全く実感はなかった。世界を救う神にも悪魔にもなれる。それはどこか現実離れしていて正常な理解というものを頑なに拒んでいるような気がするのだ。

 一応車道沿いを走ってきたが、これで正解なのだろうか。追手を巻くことを考えれば、もちろん舗装された道を通ることはあり得ない。しかし施設と道路を除けばこの辺りは完全に森林地帯であり、夜中の森などに入ればどうなるかは言うまでもないだろう。当然のことながら遭難する可能性が高いわけで、懐中電灯も装備も何もない状態の僕は大人しく道路を逃げた方が良いというわけだ。あの男性はこの発信機を持っていれば仲間が助けに来てくれると話していたけれど、実際にはどのくらい施設から距離を取れば助けに来てくれるかはわからない。通常であればあまり施設には接近したくないだろうから、少し距離を取ると考えられる。まぁ具体的にどのくらいの距離などわかるはずもなかったが、そろそろ拾ってもらわないと息が完全に切れて立ち止まってしまう。追手がほぼ確実に迫ってきていることを考慮すると、どうしても止まるわけにはいかない。ここで捕まれば今まで色々な人が僕を逃がそうと手を尽くしてくれたことが全て無に帰すのだ。責任感という観点からも、それだけは絶対に避けなければならなかった。

 そんな風にほぼ義務感から走り続けて、しかしもう限界を迎えるという段階に入った時。呼吸の苦しさで視界が不明瞭になりつつあった僕の前に、一台のバンが接近してくる。本来であればもっと早いプロセスでバンについて勘付けたはずだが、あまりの苦しさに注意力が霧散していたらしい。この車が連中のものであったら詰みだったが、そのような最悪の状況には陥らず。バンの扉が開かれて、中から早く入ってくれという声が聞こえた。ボロボロの身体で顔を上げると、そこには戦闘服に身を包んで短機関銃を持った男の人がいて、もちろんあの男性とは違う人だったけれど、こちらに安心感を抱かせるには十分だ。僕は大きく息を吐いて、その差し出された手を掴みバンの中へ入った。


 次に気が付いたのは、何時間経過したかわからないがベッドの上であった。僕が目を開くとそこは暖色の蛍光灯が設置されていて、こちらに更なる眠気を抱かせる。そこ蛍光灯の色から、目覚めたのがあの女性の施設ではなく別の施設であることを悟った。反射的に腕の具合を確認してしまうが、どうやら手錠やら足枷の類は一切施されていないようだ。先ほどまで手錠をされていた手首をさすってしまうが、拘束されていない安心感がこれほどとは。もちろん監視などは付いているだろうが、それにしたって本人を直接拘束しないでいてくれる慈悲には感謝しておきたい気分だった。

 しかしここは一体どこであろう。そもそも前の施設だってどこにあるのかわからなかったし、今いるこの場所もどこなのか、どのような施設なのかさえわからない。母国かどうかさえもわからないこの状況はいくら何でも心細過ぎるが、かといって誰かに頼れるわけでもない。僕は完全に一人であって、少し前まではずっと一緒だった飛鳥さえもいないのだ。彼女は空へ往ってしまって、もう戻って来るのかわからない。飛鳥のことを想起して、脳内をあの大量の屍体がよぎる。施設から飛び降りを行った人たち。その全てが死んでおり、身体の一部を落下の衝撃で欠損していた。かの女性は、あれを引き起こしたのは飛鳥と僕であると言う。飛鳥が空を飛んでどうして大量の飛び降りが起こるのかはわからないが、ここまで自分が狙われていることを考えると、どうしても無関係とは思えない。だからと言って飛び降りの原因が僕たちであると理解できるわけではないが、状況からそう考えてしまうのも致し方ないと言える。

 そういえば、僕を助けてくれたあの男の人は無事なのだろうか。かなりの童顔で少しだけ髪の長かった男性。あの女性に比べたらとても親切で、朗らかな気持ちを抱ける人。彼は負傷して施設の中に残ってしまったが、無事に脱出できたのだろうか――。自分を守ってくれた人ということもあって、今はそういう場合じゃないのに気にかけてしまう。僕は少しだけお人好しのようで、そのような善の感情が自分の理性を支えていた。

 ふと、ベッドを囲むように設置されていたカーテンが揺らいだ。これまた暖色のカーテンはこちらに安らぎを覚えさせるが、一体誰が来たのかと一瞬警戒してしまう。僕はいつでも逃げられる用意をしていたが、その準備は不要なものであったらしい。それはカーテンを開いてこちらに顔を見せたのは僕を助けてくれたあの男性であって、前のように人懐っこそうな笑みを浮かべていた。

「やぁ。調子はどうかな、広野大地君。かなりの死地だったが、お互い無事で良かったね」

 彼はそのように微笑みながら、ゆったりとした所作でカーテンの内に入ってきて、腕に抱えていたパイプ椅子を立てた。その動作の最中、彼の腕やふくらはぎを確認したが、どうやら適切な医療処置を受けたようで真新しそうな包帯が巻かれていた。出血も止まっているようなので安心しても良さそうだ。

「――ん? あぁ。不甲斐ないね。弾が掠っただけで良かったよ。ホローポイントだったから直撃していたら大変だ。そもそもダムダム弾は使用禁止だったはずだけど、あの女にそんな筋は通用しないか」

 ホローポイントやダムダム弾というのは確か拳銃弾の種類だったか。必要以上に苦痛を与える可能性があるから国際法で使用は禁止されていたはずだけど。詳しいことはわからないが、とにかく無事で良かったということにしておこう。

 彼は設置したパイプ椅子に腰かけてゆったりと息を吐いた。僕も起き上がって話を聞く体勢に入る。しばらく彼は真っ直ぐカーテンの先を見つめていたけれど、

「君が無事で本当に良かったよ」

 そのようにしみじみと呟いた。僕は彼の様子から、ようやく事の成り行きについて尋ねる機会を得たことを悟る。どうやら彼の方もこちらに状況を説明するために訪れたらしいし、ちょうど良いと言えよう。

「あの、飛鳥に――水瀬飛鳥について、何かご存じですか」

 呟くように尋ねると、彼は無言のまま視線を少しだけ下の方へ下ろした。彼も元は女性の所属している組織の人間であったこともあって、ある程度飛鳥については知っているのだろう。しかし飛鳥が空を飛んだから、多くの人間が飛び降りをしたというのは原因と結果としては飛躍し過ぎている。それに今飛鳥はどこにいるのか。その辺りの説明を聞きたかったが、彼は答えてくれるだろうか。

「水瀬飛鳥は――この一件の最重要人物だった。俺たちの任務は、彼女を止めることだったんだ。そのためには対象の殺害を厭わないと。水瀬飛鳥はこれまで相対してきた誰よりも優れていて、そしてそれ故に危険だった。君という協力者もいたしね。だけど流石に強引な手段は取りにくかった。俺たちは一応秘密組織ということだし、下手に自分たちの存在をひけらかすわけにはいかないんだ。その上であの女と揉めたんだけどね。組織内のごたつきもあって、君たちには十全な説明ができなかったことは認める。本当に申し訳ない」

 彼はそこまでゆっくりと紡ぐと、深々と頭を下げた。組織内の揉め事でこちらに十分な説明ができなかった、か。あの女の様子を見るにかなり尖った――特殊な人物らしいし、あの女が指揮を握っているならこの男性も苦労しただろう。そう思うとなんだか同情じみた感触が浮かんでくるが、僕にはもっと聞きたいことがあった。それについて尋ねようとすると、彼は顔を上げて続く言葉を流す。

「君が聞きたいのは、空を飛ぶことと飛び降りの関係と、水瀬飛鳥の居場所だよね。多分あの女ははぐらかしただろうから、納得できていない部分も多くあると思うんだ。順を追って説明するね――まず、空を飛ぶことと飛び降りの関係から」

 そこで一旦言葉を区切ると、彼は少しだけ顎を上げてカーテンレールを見つめた。

「厳密なことを言うと、俺も仔細な原因については知らないんだ。ただの構成員には、詳細を語らないのが上のルールらしくてね。だけれど噂話程度なら知っているよ。それでもいいなら」

 僕が頷くと、彼はそのまま言葉を続ける。

「どうやら人間の中には、優れたモデルとなる人物が創出されることがあるみたいなんだ。彼らは皆不可思議な力を持っていて、特異な人間とされている。優れたモデルというのは他でもなく、一介には“人の道しるべ”となる力を持っていることから、そう呼ばれるらしいんだ」

 人の中に現れる、人に優越した人間。飛鳥は人間に存在しない空を飛ぶという機構を有していて、それが普通の人にはない優れた能力ということなのか。人の道しるべという一点がわからないが、一応話を聞く体勢のままキープした。

「だけど問題はその能力を使い続けると、どうしてか知らないけれど他の人間にも同じような機構が現れて来るらしいんだ。つまり水瀬飛鳥の場合は翼かな。その翼が他に人間にも現れて、空を飛べるようになるってわけ」

 いきなり話が飛躍しているが、しかし僕の背中には翼が生えていない。それに彼にも。今まで会ってきた人物の中で飛鳥以外は翼を持っている人間などいなかったが、どういうことだろうか。

「翼が生えると言っても、そんな急に鳥のような翼が生えるわけじゃない。きっと水瀬飛鳥も、最初から大きな翼を持っていたわけじゃないと思う。生える種が植え付けられたと言った方が適切かな。そういうわけで、特定の人間を除けば翼が生える可能性が出て来るわけだけど」

 特定の人間というのが気になるが、取り敢えず突っ込まないでおく。まだ話の腰を折る段階じゃない。重要なのは恐らくこの先だった。彼はカーテンレールから視線を外すと、こちらに真っ直ぐと目線を合わせる。僕は視線を交錯させることはできないが、なるべく顔を合わせるようにした。すると彼は一息吐いて次の言葉を紡いだ。

「問題なのは、翼が生えた人類というのは空を飛びたがるということなんだ」

 彼の一言を聞いて、僕は一体なんで多くの人間が飛び降りを敢行したのかの見当がつく。それは荒唐無稽な話だったけれど、彼の話に嘘がないのなら論理的な間違いはないはずだ。彼はこちらの様子から気が付いたことを悟ったのか小さく頷いた。

「そう。きっと人間は翼なんかが生えたら空を飛びたいと思うだろう。例えその翼が小さかろうが。水瀬飛鳥はどうだった。彼女もまた、空への憧れを持っていなかったかい?」

 空へ往く、と彼女は言った。飛鳥は空に往くのが使命であると。胸を突く衝動があると。そのような空に対する願いが飛び降りを行わせた。飛鳥の思いが伝播したのだ。その事実を知って、ようやく僕は自分が本当にとんでもないことをしてしまったことを理解する。飛鳥を空へ往かせたから多くの人間が死んだ。幼い翼を伴って、飛べもしないのに大地を蹴った。飛鳥に空へ往けと言ったのは僕だ。つまり全ての責任は僕にある。

 ここに来て僕はようやく自分が世界を滅ぼした張本人であることを悟った。その恐怖で、僕は耳を塞いで身体を抱え込んだ。その様子を彼に眺められていることを知覚しながらも、周りを気にしている余裕はなかった。歯の奥ががたがた揺れて、寒さに震えるように縮こまるけれど、そんな僕を気遣ってか彼がそっと肩に手を置いてくれる。

「気持ちはわかる。君はただ水瀬飛鳥を空へ行かせたかっただけなんだ。だけどその結果、世界はおかしくなってしまった。これには説明不足になってしまったこちらにも責任がある」

 世界を壊してしまった。ただの高校生が。その事実が胸に突き刺さって、簡単には抜けようとしない。――だったら、飛鳥はどうなんだ。飛鳥は他の人とは違う大きな翼を持っていた。だったら飛び降りのように墜落することなく、空の向こうまで辿り着けたのではないか。そんな小さな希望を抱いて僕は顔を上げた。

「――飛鳥は、――飛鳥は、どこにいるんですか……」

 彼の方に向くでもなくそのように呟くと、彼は少しだけ顔を背ける。その動作だけでどのような結末が待ち受けているか察してしまう。

「空には何もない。存在するのは、レイリー散乱で青く染まったスペクトルと、雲と名付けられた水蒸気の塊りだけだ。――イカロスの翼という逸話は知っているだろう。空へ行こうとして太陽の放射熱で蝋の翼を灼かれた男の話を。――そういうことだ。放射熱なんてなくても、鳥は延々と空を飛び続けられるわけじゃない。延々と空の彼方を目指して飛び続けたらどうなるか、君ならもうわかっているんじゃないかな」

 婉曲しているがそれでもしっかりと事実を突きつけてきた彼に、僕は文句など言えない。わかっていた。わかっていたんだ。どこか期待していたから。空を飛び続けたら、どれだけ気持ちの良いことなのか。そんなこと不可能だとわかっていながらも、僕は空へ往こうとしていた飛鳥に協力した。それが彼女の身を滅ぼすことだときっと分かっていながら。それでも僕は飛鳥に空へ往って欲しかったんだ。それが僕の願いだったから。空へもう一度戻るという僕の祈りを込めて、飛鳥は空へ往ってくれた。だけど、その思いが飛鳥を殺したんだ――僕は自分がどれほど愚かな人間であったかを痛感する。何が空へ戻るだ。それは飛鳥を犠牲にしてまで成し遂げたかった夢なのか。違う、違うはずだ。僕は間違ってしまった。決定的に間違えてしまったんだ。取り返しのつかないことをしてしまった事実が脳を震撼させて、まともな思考というものを押し潰していく。

「――僕は、どうすれば良いですか……」

 藁にも縋る思いで隣にいる彼に尋ねた。決定的に間違ってしまったから、もう取り返しはつかないけれど、それでも何か取り戻せるものがあるのではないか。そんな気持ちで尋ねたが、彼は少しだけ優しく微笑んでスッと先の方を見据えた。

「言っただろう? 君は俺たちにとって――人にとって大切な人間なんだ。君は世界を壊す悪魔にも、世界を救う神にもなれる。だから安心して。どんな時だって期待することを諦めてはいけない。まだ手はある。だから君の力を貸してほしい」

 彼は一体僕にどのような協力を取り付けるかわからなかったけれど、それでも僕はしっかりと頷いていた。それが自分のやってしまったことへの清算に繋がるなら。どんなことだってやってみせると、そんな風に思えたんだ。

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