EARTH 1
白い光。どこまでも鋭くて真っ直ぐなその極光は僕の閉じられた瞼を貫通するようで、閉ざされた視界の奥にある網膜を灼いてしまうようだった。本来は見えないはずのものが見えている。実際には瞼の光量吸収が追い付いていないだけのことなのだが、僕は瞼の先にある光の眩しさに眉をひそめる。すると溶かされていた全身の感覚というものが急激に戻ってきて、身体の各所に少しだけ痛みを感じた。おかしい。怪我なんてしていなかったはずなのに――だけれど身体中が擦り切れるように痛いということは、やはり怪我に気が付いていなかっただけなのかもしれない。僕はほぼ本能的に身体の状態を確認するために、愚鈍な瞼をゆっくりと開いた。
最初に視界に入ったのはやはり白い光だ。僕の真上に設置されていた白い蛍光灯はその光度が高く、こちらの視界を少しだけ奪い去ってしまうようだった。ここまで光量の強い――恐らく僕が慣れていないだけだと思うが――光を当てられると目が眩んでしまうのは当然なわけで、目を開いた途端にその眩しさに顔をしかめてしまう。白い光が視界をハレーションするように存在感を主張していたが、瞳孔が光量を調節し始めたのか、少しずつ周りの状況が鮮明にわかるようになってきた。
白い蛍光灯に、白い天井。そして白いカーテン。この場所はどうやら白ずくめなようで、どこか現実味に欠けている。僕は大型病院に入院したこともあったが、逆にここが病院ではないことを早々に勘付いていた。色彩を抜きにすれば病院らしい風貌であったがしかし、普通の病院であれば色調に白を多用することはない。どちらかと言えば薄めの彩色を利用するはずだ。だからここは何かの医療施設――もといそれに類するものであろうが、だからと言って一口に断ずることの出来ない不穏さを醸し出していた。
ふと、白ずくめの環境において、それにそぐわないものが存在することに気が付く。それは何もかもを飲み込む黒色を主張していて、その黒いスーツを着込んだ女性が僕の隣に腰掛けていた。状況的にやはり僕はベッドで寝かされているらしい。女性との角度からそう察した僕は、黒スーツに身を包んだ女性が例の女性であることに気が付く。何度も僕らを付け回して、飛鳥の夢を否定した女性。最終的に僕たちは彼女に追い込まれることになってしまったが――僕は過去を想起する。飛鳥と共に町から逃げ出して、電車に乗り彼方の地まで逃亡した。そしてすすき畑で女性たちに追い込まれて、そして飛鳥を空へ往かせたのだ――そうだ。飛鳥は今どこにいる。頭の中で彼女の笑顔が浮かんだ。空へ往くと飛鳥は言っていたけれど、それで結局彼女は空へ往けたのだろうか。飛翔する彼女の様子を見た限りでは大丈夫そうだったが――しかし僕は肝心なことを失念していたらしい。飛鳥が空へ飛び立ったら、彼女は一体どこへ往くのか。空へ往って、そして帰って来られるのか。そう言えば飛鳥は実際に戻って来られない、みたいなことを言ってはいなかったか。そうなると彼女は空に行ったっきりということなのか。そもそも飛鳥の翼に関することには不明な点が多すぎる。彼女の翼自体が現実離れしているわけだし。そこで僕は隣にいる存在を思い出した。黒スーツの女性。彼女は僕たちを追っていて、素性や経歴はわからなかったけれど飛鳥の翼について何か知っているような口ぶりをしていた。だったら彼女に聞けばいい。そう思った僕は少しだけ顔を横へずらして、女性の方へ向けた。
女性の方へ顔を向けたが、どうやら彼女はこちらが起きたことに気が付いたらしい。少し驚いたように眉を吊り上げたが、無味無臭な無表情に戻った。
「おはよう広野大地。よく眠れたかしら? ――こんなに早く起きるとは思わなかったわよ。意外と麻酔効かないタイプ? まぁちょっとした誤差でしょうけど」
女性はおどけたように歪に笑って見せたが、なんとなく心では笑っていない感じがした。だけれど今僕にとって重要なのは、もちろん飛鳥の安否だ。だから僕は女性の軽口を無視して、聞きたいことを聞くことにする。
「飛鳥は今どこに?」
その言葉を発した途端、女性は口を閉じて静かにこちらを見据えてきた。その様子に少し戸惑ってしまって、僕は目を合わせないように視線を少しだけ逸らす。何というか、聞いてはいけないことを聞いてしまった感じ。飛鳥という名前自体が禁句のような雰囲気があって、僕はちょっとだけたじろいでしまう。
すると女性も僕から視線を逸らして、恐らく白いであろう床に目を落とした。その動作にどのような意味があるかはわからないが、なんとなく沈んだ空気感を覚える。
「さぁね。空へ飛んでいったんだから、そこにいるんじゃないの。――今はね、“目標”についてはもうどうだっていいのよ。もちろんあなたに関してもね。だけれど上がうるさいから一応確保しているだけであって。本来ならば今すぐにでも――」
女性の眉間に大きな皺が寄って、こちらを鋭く睨みつけた。目標というのは間違いなく飛鳥のことだろう。そういう不穏な呼ばれ方をするのは気にくわないが、指摘はしないでおく。それに彼女が次に言おうとしていた言葉についてはなんとなく察しがついてしまったし、ここは何も言わない方が身のためだろう。そう思って口を噤んでいたが、やはりわからないことがある。それは前に女性が言っていたこと。飛鳥が空を飛ぶと不都合が生じるということだ。実際にもう飛鳥は空を飛んで行ってしまったように見えるし、もしかしたら何らかの不都合が生じているのかもしれない。その実態についてはもちろん知らなかったが、ここまで女性が感情を昂らせるということは、女性に関してかなり悪影響を及ぼしてしまったのかもしれないと思える。飛鳥が空を飛ぶだけでどんなデメリットが生じるのか見当もつかないが、僕にとってはそんなことどうでも良かった。僕の目的は飛鳥を空へ往かせることだ。その目標が達成できたなら、もう十分だ。――だけど、なんだろう。指の先にあるささくれのように、心に何かつっかえが生じている。その理由を僕は知らなかった。飛鳥を空へ往かせて、それで満足だったんじゃないのか。だけれど、どうしても心残りというのだろうか。晴れるはずの心が大きく晴れない。まだ曇ったままで臥っている感じ。そのようなしこりにも似た不快感が胸に漂っていた。
「――まぁ私の一存ではどうこうできないからね。上に従うしかないっていうのが正直なところ。よかったわね広野大地。一応まだアンタには生きる権利があるらしいわよ」
生きる権利などというものをこのうざったい女性に決められるのは、はっきり言って嫌だったが言い返しても面倒なので無視しておく。しかしそれ以上に聞きたいことが僕にはあった。それはもちろん女性に生じた不都合のことで、知らないままではどうしても気持ちが悪い。何故女性がそこまでして飛鳥を追っていたのかも気になるし、流石にそろそろ教えてくれても良いだろう。
「――何かあったんですか」
僕は端的にそう尋ねる。何かあったことに関しては疑う余地もないが、そのような聞き方が一番理にかなっていたからそう尋ねた。僕の投げかけた言葉に対して名も知らぬ女性は一瞬無言になったが、諦めたように大きく溜息を吐く。
「何かあったってもんじゃないわ。広野大地。アンタは理解していないかもしれないけど、本当に取り返しのつかないことをしてしまったのよ。まぁ自分が何をしてしまったのかはすぐにわかるでしょうけど、現実はしっかり受け入れなさいね」
そう吐き捨てると、女性は僕の頭の方に手を伸ばした。何かされるのかと警戒したが、どうやらナースコールに近いものが置かれていたようで、それを押そうとしただけのようだ。短いブザーのようなものが鳴って、カーテンの向こう側から何者かが歩いてくる音がする。その足音は僕らのいるカーテンの前で立ち止まって、そのまま白いそれを開いた。するとそこには医師らしき白衣を着た男と看護師らしき女性がいて、黒いスーツの女性へ目配せする。女性がそのまま頷くと、医者らしき男がこちらに歩み寄ってきた。
「軽くバイタルを確認します。そのままで構いませんよ」
どうやら起床したからか身体に異常がないかどうか確認するらしい。何かとんでもないことをされるかと思って緊張していたが、その心配は無用らしかった。そういうわけで少しだけ安心して、身体の位置を変えようと手を動かす。しかしそこで、僕は手の付け根に違和感があることに気が付く。そうしてそのまま無造作に腕を上げてみると、両腕には頑丈な銀色の手錠が施されていて、僕は自分がとんでもないことに巻き込まれていることを悟るのだった。
医師からのバイタルチェックを受ける。それは体温や血圧、眼底検査などの基本的なものであったが、彼らの様子を見る限り異常はなさそうであった。ここの場所に拘束される前にどうして眠っていたかはわからないけれど、黒スーツの女性は麻酔などという物騒なことを言っていたので、きっとそういうことなんだろう。一応まだ脳がフルに起動していない気分であったが、最低限の思考容量は残されているらしい。だから頭が回らないという不快感はなかったが、その麻酔というのが効いているのか多少ぼんやりとした部分がある。まぁこれもじきに治っていくだろう。
医師からのバイタルチェックを終えて、彼は僕の傍から離れた。やはり異常ななかったらしく、特段精密検査やらなんやらには陥らない。僕を担当していた医者は黒いスーツの女性に何事かを告げると、看護師の女性を引き連れてカーテンの向こう側へ消えていってしまった。そうして僕は黒いスーツの女性と共に取り残されてしまう。なんとなく心細さと女性に対する忌避感が胸を埋めるが、手を拘束されている以上下手に動くことはできない。そもそも彼女は公安の人間ではなさそうだし、逮捕権など持っていないだろう。前提として僕がこのように拘束されているのは不法行為に思えるが、女性はそんなことお構いなしに軽く手を叩いた。何をしたのか一瞬意味を図りかねるが、彼女が手を叩くとすぐにカーテンの向こう側から黒服に身を包んだ大男が二人入ってくる。もちろんその黒ずくめの洋服にも目が行くが、それ以上に視線を引き付けるのは二人ともが両手に持った短機関銃だった。どうやら女性たちの組織は短機関銃を所持できるほどの力があるらしく、ここが日本国内なのかということを疑いたくなる。やはり女性が所属しているのは、世にいう“まともな”組織ではないようだ。
「起きろ。アンタに見せたいものがある」
女性はそう言ってパイプ椅子から立ち上がると、黒服たちに指示を出した。命令を受けた黒服の二人は僕のベッドの両サイドに回って、こちらに短機関銃を向けてくる。ただの高校生に対して銃口を向けるなどあってはならないことだが、それ以上にこのような状況下に置かれていながら僕は至って冷静だった。
僕は少しだけ向けられた短機関銃を見やって、そのまま手を使わずにベッドから上体を起こす。やはり身体中が少し軋むように痛かったが、だからと言ってベッドへとんぼ返りするわけにはいかない。悪手を打てば発砲される危険だってあったのだ。あまりにも現実離れしている状況だが、僕は無言のままベッドを下りた。
「そう。従順なのは良いことよ。この前みたいに馬鹿なことはしないでよね」
恐らく女性を山で気絶させたことを指しているのだろうが、やはり多少は根に持っているらしい。子ども相手に舐めた態度を取るから実際には自業自得であろうが、もちろん口にはしなかった。現状は当然女性有利であり、下手をすれば撃たれる可能性があるからだ。
僕は病衣を着せられていたようだが、病衣の上に手錠をされているとなると、なんだか本当に犯罪者になった気分である。女性からの扱いも腫物に似たようなものだし、やはりそれは飛鳥を空へ往かせたことと何か関係しているのか。今は予測しかできないが、女性についていけば何かわかるかもしれない。
ベッドから立ち上がると黒服の二人は僕の背後に立って、背中に短機関銃を突きつけた。どうやら進めということらしい。背筋に銃口を当てられている不快感を見ないようにしながら、女性が歩いていく先に付随していった。
カーテンを抜けると、僕がいた場所がやはり病室らしき場所であることに気が付く。他にもベッドやらが設置されていたが、どれも無人でカーテンも掛かっていなかった。そんな中女性は病室など見向きもせずに外へ向かっていく。僕も手錠をうざったく思いながらも、その後を付いていった。
この施設はどうやら女性の所属している組織のもののようで、ある程度統制の取れた内装をしている。病院というわけではなく、施設の一角に病室があると言った方が適切か。しかし少しおかしいと思うところは、施設の規模に対して人が圧倒的に少ないということだった。先ほどから延々と長い廊下を歩かされたり、階段を下りたりしていたが、見かけた人はどうしてもまばらだ。だけれど共通していることと言えば、会う人全てが僕の存在に気が付くと、須らくこちらを睨みつけるということだった。その理由はやはり飛鳥に関連していることだと察しがつくけれど、どうしてこんなにも親の仇のような扱いをされなければならないのだろう。僕は不思議でならなかったが、女性についていって、その意味をようやく理解することになる。
女性はどうやら施設のエントランスらしき場所まで僕を誘導して、外へ出るようこちらへ指示してきた。どうして外へ出る必要があるのかはわからなかったが、銃口を向けられていることだし、大人しく従うことにする。僕は一人で大きなエントランスを抜けて、そのまま外の風に触れた。風はだいぶ冷たくて、病衣に手錠しかしていない僕は一瞬身震いする。それに加えてどうやら現在時刻は夜に近いようで、あまり周囲を鮮明に捉えることはできない。だけれど目の前に広がるその惨状については、いくら暗かろうが視界に収めることができる。
そこにあったのは人だったものであった。それらが大量に折り重なって地面に倒れている。人だったものと表現したのは他でもない。地面に倒れているのはその全てが屍体であって、各々が身体の各所を欠損した状態で地面に放置されている。それに大量の血液や分泌液が地面に撒き散らかされていて、僕の足元まで伝い、足裏を液体で汚す。身体の一部を欠損していることについては見た感じで大体の予想が付いた。建物の周囲に広がるように人が潰されているということは、この人たちは全て転落死したのだ。恐らく僕の背後にあるこの建物から飛び降りて。大量の人間が上層階から飛び降りて転落死していく。その様子が脳裏に色濃く刻まれてしまって、僕はその場に崩れ落ちてしまった。
「そうだ。アンタがやったのはこういうことだ」
ふと気が付くと僕の隣にはあの女性がいて、目の前に広がる惨状を悔しそうに眺めていた。
「水瀬飛鳥を空へ行かせたから大量の人が死んだ。この場所だけじゃない。世界中の人間たちが飛び降りをして死んでいっている。わかるだろう。水瀬飛鳥を空へ飛び立たせたのはアンタだ。アンタがこれを引き起こした。我々の制止を聞かずに、多くの人間を殺したんだ。――これが、現実だ」
飛鳥を空へ往かせたから、たくさんの人が転落死した――? その事実を飲み込むことができずに、ただ屍体たちを見て呆ける。だけれどこれだけはわかった。僕は自分の住んでいる世界や常識から外れてしまったのだ。僕は空にいて、そうして失墜してしまったけれど、そんなことより過酷な現状が目の前にあった。僕は空でも大地でもなく、世界から外れてしまったのだ。この事態を引き起こしてしまったのは僕だと女性は言うけれど、そんなことは到底受け入れられないし、どうしても信じられなかった。だってそうだ。世界中の人が死んだ? 僕のせいで? そんなことありえない。飛鳥が空を飛んだだけで、どうして大勢の人々が転落死するんだ。まるで論理的じゃない。理解不能だ――僕は脳内でそう結論付けたものの、やはり目の前の現状に対して理解を追い付かせることができずに、ただ屍体が遺した体液に膝を浸すしかなかった。