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WING  作者: 柚月 ぱど
SKY 後編
15/31

SKY 13

 気が付いたのは、電車の中に橙色の光が差し込むようになったくらい。愚鈍な脳みそがちょっとした振動で起動して、僕を現実世界へ引き戻してくれる。かなり疲労が溜まっていたのか夢らしき夢は見なかったらしい。こういう時に見る夢はロクでもない場合も多々あるので、むしろ深い睡眠にありつけたことに感謝したい気分だった。

 薄く瞼を開ける。視界が段々と開かれていって、網膜に陽光による刺激を与えた。その幻痛で再度明瞭な視覚を喪失してしまうが、すぐに視力は回復する。急発進させた頭はまだギアが入っていなくて、ニュートラルで惰性的な運転を行っているけれど、身体は明確に目覚めたようだ。空回りを続ける脳を地に付けて、僕は上体を軽く起こした。

 橙色の明かり。それはもちろん太陽の光であって、レイリー散乱によってオレンジのスペクトルを構成している。暖色というものは共感覚で眠気や疑似的な温度感を誘発するが、もう一度眠りに落ちようという気分にはなれなかった。それは僕の隣で眠っていたはずの飛鳥がこちらを嬉しそうに眺めているからで、寝顔を見られていたと思うと恐ろしく恥ずかしい気分に陥ったからだ。

「いつから見てたの」

 真っ直ぐにこちらを見つめる飛鳥と視線を交錯させないように、僕は顔を逸らした。視界の端で少し残念そうにする飛鳥の顔が映ったが、あまり深く考えないことにする。彼女は軽く微笑んで、少しだけこちらに顔を近づけた。

「ちょっと前から。良く眠ってたね」

 そのちょっと前からという言葉を信用できるか若干怪しかったが、精神衛生上信じておくことにする。軽く頷き返すと飛鳥はおかしそうに微笑み、こちらからちょっとだけ顔を離して正面に向き直った。彼女の様子を眺めて、なんとなく僕も正面を向く。

 電車の窓の向こうには橙色の太陽があって、こちらの逃走劇に対して慈愛を込めて見守っているようだった。いつも変わらずに昇って沈む太陽。何千年と同じ周期を繰り返している彼に対して、なんとなく嫉妬心が湧いてしまう。それは僕と飛鳥の関係がずっと未来まで続くわけではないことをどこかで分かっているからで。どうしたって人間の関係性というものに不変性はあり得ないことを痛感していた。

「綺麗だね」

 ふと飛鳥がポツリとどことなく呟いた。彼女の小さな言葉に対して、正面を向いたまま頷き返す。こういう非日常を体験しているからか陽光はどこか温かみをより深く感じさせて、そしていつもより美しく感じるのだった。

「ずっと変わらなければいいのにな」

 飛鳥が言葉を続ける。僕は無言で彼女の続きを待っていた。飛鳥の言葉の続きがとても重要であることをわかっていたから。

「人生って、大して面白いものじゃないけどね。それでもここ一か月くらいは楽しいんだ。それはもちろん大地君がいてくれたから。珍しいんだよ? 私が時間を惜しく感じるのって。静止していてがらんどうだった私がこの瞬間が永遠に続きますようにって、そう思えるなんて。今でも信じられないの。大地君と空を飛ぶ練習をして、そうやってずっと夏を過ごすこと。それがどんなに尊いものか、染みるように感じるよ」

 飛鳥の過去について僕は何も知らない。いや、それには語弊がある。きっと僕は飛鳥の過去から目を逸らしていたんだ。それは多分、自分と向き合うことに繋がってしまうから。自分を見つめるのが怖くて、僕はきっと飛鳥に彼女自身の過去を聞かない。それが決定的な“何か”を逃していると知りながら、それでも尋ねられないんだ。臆病だから。自分と向かい合うのが怖いから。だけど飛鳥は僕と過ごす毎日を楽しいと言ってくれた。僕はその意味を良く理解している。そう、これから続く飛鳥の言葉も、なんとなくわかってしまうのだ。

「――本当に、空へ往かなきゃいけないのかな。胸を突くような衝動は揺らがない。だけど、きっと空へ往ったら帰って来られないの。それがわかっているから怖い。わからないの。自分がどうしたら良いのか」

 飛鳥は太陽から視線を逸らして、こちらを真っ直ぐに見つめた。彼女からの目線をしっかりと知覚していながら、僕は彼女と目を交錯させることができない。それでも飛鳥はこちらをしっかりと見据えて、

「ねぇ、大地君はどうしたら良いと思う?」

 空へ往くと彼女は言った。それが自分の運命であると。だけど彼女は今迷っている。空へ往くのか、それともこの地に残るのか。重大な決断だ。しかし飛鳥はその決定を僕に委ねている。それが根本的に間違いであることをきっと悟っていながら。自分自身のことは自分で決める。そんな当たり前のようで非常に難しいことから逃げて、その選択を他人に任せようとていた。そうして僕はここで彼女の運命を決定するべきではないとわかっていながら、それでも口をついてしまうのだ。

「――飛鳥の目的は、空へ往くことだったよね」

 そのように小さく呟くと、飛鳥は一瞬だけ泣き出しそうな表情になる。僕はしっかりと理解していた。飛鳥が一体どのような答えを望んでいたのか。そうしてどう答えるべきが正解であるのかを。だけれど僕たちは正解を選べない。正解がわかっていても、どうしても正解を掴まない。人間と言うのはどこまでも愚かで、だからこそ複雑で美しい生き物であった。

「だったら空へ往きなよ。目的を果たすんだ。それが飛鳥の運命なんだよね」

 よくわかっていた。僕は飛鳥を利用している。空へ戻ろうとしているのは飛鳥じゃなくて、どこまでも僕だった。空から墜ちて、地に這いつくばっていた僕。だけれど空に憧れて、そこで翼を持つ少女と出会った。きっと僕は飛鳥なんだ。飛鳥に自分を重ねて、そして空へ戻ろうとしている。飛鳥を踏み台にして空へ帰ろうと。どこまでも醜くて残酷な願い。呪いとでも言うのだろうか。そういった呪詛がそれでも僕の足に楔を打つのだ。

「――うん。大地君がそう言うんだったら、そうする」

 飛鳥は少しだけ寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに取り繕った笑顔になった。その様子に僕は微笑み返して、そして未だに飛鳥と視線を合わせられていない自分がいることに気が付く。しかしそんなことに構うことなく、列車は終点に到着することを告げ始めた。


 終点に辿り着いてしまって、僕たちはそのまま降車する。本当ならば追手を考えて数駅前で降りておきたいところだが仕方ないだろう。今から戻るという気分でもないし、逆に終点で降りておけば追手を躱しやすくなるかもしれない。裏の裏をかくというやつだ。

 そんなこんなで僕たちは改札をくぐって駅前まで出る。そう言えば僕たちが降りたこの駅はなんという名前なんだろう。不意にそんなことが気になるが、なんとなく後ろを振り返る気が起きず、そのまま前進を続ける。飛鳥もなんだか気力というものに欠いているようで、ぼんやりとした状態のまま僕の少し後ろから付いてきていた。駅前はほとんど何もなく、そもそも人工物らしきものが見当たらない。こんな場所に人がいるのかと思うほどに空虚――というか自然であって、むしろなんとなく安心感を覚える。田舎のローカル線を使って終点まで行くとこのような場所に出るのか。冷静に考えてみれば隠れられる場所が皆無なので危険であったが、脳が相当に摩耗していたからか考えは浮かんでも実行に移す根気が一切湧かなかった。

 僕たちは互いに無言のまま、延々と続く砂利道を進んでいく。お互いに交わす言葉は一切ない。もう言葉が要らないのか、それとも言葉を交わす気力すら抜けてしまったのかはわからなかったけれど、とにかく静寂が僕たちを支配している。聞こえるものと言えばひぐらしの鳴き声くらいなもので、自然音が包む環境において僕たちは感覚を絡めとられてしまったようだ。

 彼方まで続いているかと錯覚するほどの砂利道。橙色の太陽が見つめる先に何があるのか。僕たちは結論を知らないまま、悠久の時を過ごす。頭は先ほどから完全に停止していて、足だけが規則的に動いていた。ひぐらしの声と僕たちの足音。世界にこの二つしか音源が存在しないかと錯覚する。断続的に響く音響が現実感を狂わせていく。その響きのせいだろうか。そんな偏狭した思考の中で次に気が付いた時には、僕たちはどこまでも広がっていくすすき畑に立っていたのだ。

 黄金色のすすき。それらは柔らかく流れる風に揺らいで爽やかな音を立てていた。少しだけ草木の匂いがして、自分が自然に帰ったような感覚に陥る。すすき畑から見上げる空はどこまでも高くて、空へ至ろうとしている自分の矮小さを痛感した。僕は、あんなに高いところへ往こうとしていたのか。それはあまりにもおこがましくて、そして傲慢な人間の証左であると言えた。人間は地で暮らさなければならない。そのような警句を突きつけられているような感じ。空は鳥の住処であって、侵してはならない。このような文句が胸の内に浮かぶのだ。

 不意に、すすき畑の流れが変わる。すすきの響き方が変わって、僕はそっと周囲を見回した。すると僕たちの周りに、黒いスーツに身を包んだ男たちが何人もこちらを囲っていることに気が付く。彼らはじっとこちらの動きを静かに観察しているようで、下手に動くと危険であることを示していた。擦り切れた脳みそが、ようやくチェックメイトを打たれたことを悟る。もう逃げられない。そんなことをちゃんと理解していながら、しかし僕は逃げようという気分にならなかった。

 黒服の男たちの中から少しだけ小柄な女性が現れる。彼女は言うまでもなくちょっと前に僕が気絶させたあの女性であって、冷酷に顔を硬めながらこちらに一歩踏み出してきた。その足取りは怒りの感情を内包しているようで、彼女のヒールがすすきの一部を踏み抜くのだ。

「これで終いよ。散々手こずらせてくれたわね。――このツケは、そう簡単には済まさないから」

 彼女はやはり内々で激しい怒りを伴っているようで、全身から青い熱気を放っているようだ。だけど今の僕にとってはそんなこと殆どどうでも良くて、ただ真っ直ぐに女性を眺めていた。精神は鋭敏化していたが身体がそれについて来られない感じ。全体的に疲労している証拠だ。

 しかしそんなことお構いなしに、黒服たちが距離を詰めて来る。危機的状況にありながら僕の心はどこか冷静だった。そもそもこうなることが分かっていたような。そんな雰囲気が心の中にある。そしてこの状況の打開方法についても、もう頭の中で見当がついていた。

「――飛べ」

 ポツリと漏れ出た言葉。それは僕の口から零れた台詞で。僕の隣にいた飛鳥はこちらにぼやけた顔を向ける。

「飛ぶんだ。それしかない」

 飛鳥はこちらの真意を確かめるかのような表情を浮かべていたが、僕の言葉が真実であることに気が付いたのか瞳に光を取り戻した。

「無理だよ。まだプールの端までも飛べないんだよ」

 飛鳥の発言は非常に妥当なものに思えたが、どちらにせよ今飛べなかったら僕たちの夢は崩壊することになる。後がない以上、今空へ往くしか方法は残されていなかった。

「行くんだ飛鳥。君なら飛べる」

 飛鳥は当惑しているのか、周りの黒服たちを見て縮こまっていた。そんな彼女の様子を見て、僕は声を大にした。

「飛ぶんだ! 君の願いはなんだ! 空へ往きたいんだろう?! なら飛ばなきゃ!」

 黒服たちが迫ってくる。僕は飛鳥に振り返りながら、黒服たちを押しとどめようと立ち塞がった。身長も体重も上の大男相手に時間稼ぎなど無茶も良いところだが、それでも逃げるようなことはしない。男たちに吹き飛ばされそうになりながらも、僕は飛鳥に向けて叫んだ。

「空へ往け! 飛鳥!!」

 当然のことながら、僕はしっかりとした確信を持っていた。このように命令すれば飛鳥はきっと飛んでくれるだろうと。だけどこれは僕の意思だ。飛鳥の意思は一切介在していない。だからこそ本来であれば飛鳥自身が決めなくてはならないことだ。僕が決定すること自体が間違っていることを悟っていながら、僕はそれでも命令を出していた。

 飛鳥は僕の絶叫を聞いて、最後の勇気を振り絞ったようだ。彼女は一瞬目を瞑ると、パッと大きく両目を開けて背中を晒した。すると透明な翼が勢いよく背から生え出てきて、彼女の両脇へと広がっていく。その透明な翼は大きなシルエットと化して僕らを圧倒し、その存在感をこちらへ披露した。飛鳥の翼。彼女の希望だ。何色にも染まらない無彩色の翼。それがようやく役目を果たそうとしている。

 飛鳥はそのまま地面へ屈んだ。いつもより深く、いつもより着実に。そして弓のように身体を引き絞って、全身の力を上方向へと持っていくための準備をする。そうして限界まで引き締められた身体は反発するよう放たれて、そのまま空へ跳びあがった。それと同時に彼女の背から生えた一対の翼がはためいて、彼女を上空へと導いていく。飛鳥の軌道に一切の迷いはない。これまでで一番鋭く、そして美しい飛び立ちだった。

 飛鳥が地上を離れた風圧で、僕たちは勢いよく吹き飛ばされる。透明な翼はただでさえ大きいが、見た目を遥かに上回るほどの膂力を有しているらしい。黒服たちと一緒にすすき畑に放り出された僕だったが、すぐに起き上がって飛鳥の軌跡を見上げた。彼女の飛行に危ういところは一切なく、僕は目標の達成を確信する。飛鳥は空へ往けるだろう。あの大空の向こう側へ往けるんだ。つまらない地上を棄てて、無際限の彼方まで――

 透明な希望を宿した少女が大空を駆けて、その彼方まで飛んでいく。彼女の翼に迷いはなく、空の向こう側に辿り着こうと飛翔する。そんな中、地上にいる僕はその晴れやかな姿を眺めていて、そしてどうしてか胸の痛みを感じていることに気が付くのだった。

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