SKY 11
「飛鳥!」
緊迫の糸が一瞬にして緩んで、その場に倒れ込みそうになる。だけど何とか身体を持ち堪えさせて、ゆっくりと飛鳥の座っている方へ歩み寄っていく。飛鳥も飛鳥で僕の登場を長いこと待っていたのか、切望するように瞳を揺らめかせながらこちらへ近寄ってきた。そして僕たちは池のほとりでようやく再会する。連中が町中に蔓延っているという現状がありながらも、このような状況下で無事に再会できたことは単純に喜ばしい。見たところ飛鳥に怪我はないようだし、一安心というところか。
「来てくれるって信じてた。良かった、大地君……」
飛鳥は薄く目尻に涙を溜めていて、彼女の心細さを物語っていた。女の子一人がよくわからない組織に追われるというのも笑えないが、良くそのような絶望的な環境で逃げ延びることができたものだ。そして彼女の状態は僕の予測が殆ど正しいものであったことを示している。やはり連中はしっかり町中に解き放たれていて、飛鳥のことを探しているようだった。
「それはこっちのセリフだよ。怪我とかなさそうだけど、大丈夫?」
内なる安堵感を噛み締めながら飛鳥に尋ねる。彼女は手のひらで目尻を拭いながら、大丈夫だと首肯した。
「いつからここにいたの? だいぶ長く待っていたように見えるけど」
そのように聞いてみると、飛鳥は軽く呼吸を整えてこちらから少し離れた。ちょっとだけ寂しい気もするが、近寄ったままでは会話もしにくいので仕方ない。
「今朝から。朝方に目が醒めて、何か嫌な物音がしたからそっと外を眺めていたら、あの人たちが家を囲もうとしてた。私、怖くて……すぐに準備をして、家の裏手から外へ出たの。もうどうしたら良いかわからなくて、とにかく湖へ逃げようって。大地君ならきっと気が付いてくれると思ったから。――ほんとに来てくれて嬉しい」
なるほど、そうなるとかなり長い時間隠れていたことになる。そうなれば精神的な疲労は計り知れないだろう。自分が言うのもなんだが、女子高校生の精神的耐久性など頭打ちだ。逆に良くここまで耐えられたと表するべきだろう。それにしても僕が湖を訪れることを信じてずっと待っていたのか。それはそれで信用されているものだが、冷静に場所を移動しなかったことは好手と言える。移動すればするだけ発見される可能性は上昇するわけだし、連中には露見していない場所で待機しておくのは最善手のように思えた。
とにかく一旦は安心しても構わないが、だからといって頭を使うことを放棄してはならない。今の状況はどちらにしろ危険な状態だし、このまま延々と湖で待機しておくわけにはいかないはずだ。今は大丈夫そうだが、このままでは湖の場所がバレるのは時間の問題だろう。連中が町中に展開している今、こちらとしても何か行動を起こす必要があった。しかしどうすれば良い。家にも帰れないし町中はどこも危険。そうなるとそもそもこの町の中で逃げるというのは無茶なように思える。だけれどこのまま連中に捕まってしまったら、それはそれで何をされるかわからない。誰にも頼れない以上、自分たちの身は自分たちで守らねばなるまい。そこまで思考して、僕はある一つの方法を想起する。高校生には過ぎた計画だが、今のところこれしかない。
「飛鳥」
水を打ったような声色で僕の言葉は飛鳥に投げかけられた。口調の変化を感じ取ってくれたのか、飛鳥は真面目な面持ちでこちらを見つめ返してくれる。その目を未だに見ることができないまま、しかし僕は言葉を続けた。
「このまま町にいても彼らに見つかってしまうだけだ。ここは一旦町を出よう。それで連中が町中にはもういないと判断して諦めてくれるまで、少しの間だけ隠れるんだ」
先行きの怪しい発言ではあったが、下手なことができない以上、今可能なことは彼らの探知範囲から逃げてしまうことだった。連中にしても恐らく捜索範囲はこの町中だけだろうし、むしろもう町にはいないと判断させれば、監視の目を緩ませることができる。余分にお金も持って来ていることだし、少しの間なら逃げ延びることは可能なはずだ。
飛鳥の表情を見やる。もちろん視線は合わせないように。彼女は困ったように唇を真一文字に結んでいたが、しばらくしてコクンと小さく頷いてくれた。
「わかった。そうなると、まずはこの町から離れなければいけないんだけど」
今のところ目下の問題はこれだった。町の外へ出るには電車か陸路を利用するしかない。しかし電車も陸路も数が限られているので、恐らく監視の目があり突破は困難だろう。無理矢理突破するにしても作戦を練らねばならないし、前提としてあまり現実的ではない。僕たちは無力な高校生なのだ。素性のわからない組織に打ち勝てるという考え自体が甘い。先に考えておくべきことはいかに接触せずに町から脱出できるかで、もし遭遇した場合についてはいくら考えても無駄だ。だからこそ先に町から逃げ出す方法を考えねばならなかった。
「電車も陸路も使えないとなると、そもそも町から出るのが難しいんだ。何か案はないかな」
そのように尋ねると、飛鳥はうーんと顔を伏せてしまう。綺麗に切り揃えられた前髪が眉毛にかかって、なんだか少しだけあどけない印象を抱かせた。だけど待つまでもなく、飛鳥は顔を上げてくれる。
「確か町の北西に、真っ直ぐ山を抜けて隣町へ出られる旧道があったような……昔その辺りで遊んだことがあったから覚えてたけど、今もあるかどうか――この辺りは地震で土砂崩れもあったりするから、危険で封鎖されてるかも」
町の北西にある旧道か。確かに封鎖されている可能性はあったが、それ以上に地元民しか知らない場所だし監視されている確率は低いのではないか。封鎖されていたらなおさら監視はないだろうし。そもそも道が閉ざされているだけなら押し通ればいい。まぁ押し通るだけの余裕があればの話だが。
しかし、今後の方針はある程度確定した。この湖の場所を勘付かれる前に町の北西にある旧道から隣町へ逃げる。そこからはお金も余分に持って来ていることだし、少し離れた場所まで行って隠れれば良い。できればすぐに帰って来たいが、それも状況次第と言ったところか。まず考えなければいけないのはいかにして旧道へ辿り着くかだ。
「その旧道は北西にあるって話だったけど、もしかしてここから結構近い?」
湖は町の西側に位置しているので、このまま北上すれば着くのだったらかなり楽だ。こちらの質問に対して飛鳥は小さく頷いた。
「うん。このまま一旦山を下りて北へ行くの。そうすれば電車が山の中を通るトンネルがあるから、そこの近くにある」
電車が通るトンネル。それは恐らく先ほど見えたあの山内トンネルのことか。急いでいたから付近をあまり良くは観察しなかったが、確かに山と言ってもそこまで標高は高くないし、もしかしなくても隣町へ抜けられる旧道が存在することにも頷ける。
そうなると、早いことその旧道への道のりは比較的安全だ。それはこの湖からあまり移動しなくても大丈夫だからで、現在の状態ならば発見されずに旧道まで辿り着ける可能性は低くない。旧道まで入ってしまえば追手はあまり気にしなくても大丈夫だろうし。とにかくその旧道まで安全に辿り着くのが目下の任務だと言えた。
「わかった。じゃあまずはその旧道まで行ってみよう。封鎖されているかはわからないけど、賭けるしかない。あまり時間もないしね」
飛鳥に意思を確認するように聞いてみたが、彼女はこちらの発言を受けてすぐに頷いてくれる。どうやら既に覚悟は決まっているようだ。
「よし。それじゃあ一旦山を下りよう。大丈夫、すぐに帰って来れるはずだから……」
飛鳥を励ますつもりでそのように呟いたのだが、自分で己の言葉を聞いて少しだけ呆れてしまう。すぐに帰って来られる? それはきっと希望的観測だ。相手が総出でこちらを探している以上、監視の目が緩む可能性は不透明である。彼らに見つかれば確実に捕まってしまう以上、家にも帰れない。そんな状況でいつまで持つというのか。町から逃げるという選択肢を取ったが、本当に展望というものがなかった。そう、胸の内に暖色が浮かび上がるような。そんな終りに近い気配を感じていながら、僕は無意識的に見ないふりをしていた。
山を下っている最中も一切気は抜けない。もしかしたら僕の存在が連中にバレていて泳がされていた場合も考えられるのだ。山の麓まで下りた途端連中に包囲される。そのような未来の確率は決してゼロではない。だからこそ身に降りかかる負のシグナルは絶対に認識しておく必要がある。
だけれど、山の麓へ降りるまで彼らからの接触はなかった。こうなると一応こちらの居場所が露見しているといった詰みはなさそうだ。旧道へ辿り着くまで安心はできないが、今のところこちらが優勢に思える。飛鳥も見つけたし、町から逃走するルートも確定した。このまま何事もなく終えられればいいのだが。
しばらくして僕たちは山の麓へ到着した。周囲を注意深く見回してみるが、やはり町の端に人員は展開されていないようで、人の気配そのものがない。だけど時間をかければ確実に湖まで見つかってしまうだろう。旧道の存在が連中にバレる前に移動を終えたい。そう考えると気持ちが急いてしまうが、ここで慎重さを喪うのは最もやってはいけないことだった。いかなる時にも冷静に。それは今までの人生経験が発する警句であり、僕を幾度となく助けてきた言葉だった。
周りを警戒しつつ旧道への道筋を進む。湖までは気合いで来られたものの安全を考えるなら飛鳥に先行してもらった方が安全だ。土地勘は言うまでもなく飛鳥の方があるし、旧道の入り口も今のところ飛鳥しか知らない。こういう時は僕が先を行ってあげたいが、今回は仕方ない。飛鳥は少し気持ちに揺らぎがあるようで、いつもより歩調が速い。連中に見つかる恐怖が足を速めているのだろうが、それでもここまで精神的に安定しているのは並々ならぬものがあると思う。女子高校生にしてみても飛鳥は精神的にタフだったし、その名の通り頑強であった。
しばらく山々と住宅街の間を抜けていると、目の前に在来線の沿線が見え始めた。先ほど僕が通って来た道を逆方向に進んでいたにしてはかなり近かったように思える。それは恐らく精神的な余裕が生まれたから、時間の流れが元に戻ったのだろう。飛鳥といるとやはりどこか安心感を覚えてしまう自分がいた。それは構わないが、集中力だけは切らさないように注意しなければならない。
「ほら、あそこ……トンネルの傍に細い道があるでしょ? あれが旧道だよ。多分もう誰も使ってないから、整備されてないと思うけど……」
飛鳥の言う通り、トンネルの付近には獣が一匹通れるか程の山道があった。確かに旧道という名前は的を射ているように思える。何とかして二人は通れそうだが、監視の目はないのか――もう一度ぐるりと周りを探ってみるが、人っ子一人いない。ここまで誰にも遭遇しないのもそれはそれで不気味な気もするが、チャンスは生かさねば勿体ない。この好機に旧道を使って隣町まで抜けてしまおう。
「行こう」
そう短く告げると飛鳥もコクンと頷いてくれる。僕たちは背後を警戒しながら、トンネルの隣にある旧道の中へ入っていった。