SKY 10
異変が起きたのは、その女性と出会った次の日のことだった。日常に不協和音が生じるのは本当に突然のことで、それに至るシグナルはいくつか事前に張り巡らされているとしても、気が付けないのが人間の愚かさかもしれない。だけど結果として僕は先手を打たれてしまっていて、不利な立場に陥ったことには変わりなかった。
次の日はいつも通りの夏の日で、朝から燦燦とした日光が降り注いでいる。事前に、と言うか昨日、町の駅前で飛鳥と会う約束をしていた僕は朝起きてしばらく自宅で時間を潰し、十時ごろに駅前へ向かつもりであった。そもそも夏休みなので早起きではなかったから、そこまで居心地の悪い自宅で過ごす必要はない。もちろんリビングには母さんがいたが、やっぱりこちらに話しかけてくることなくただ沈黙を続けていて、僕はその隣を通り過ぎるだけだ。このような親子関係はもちろん健全ではないが、ここに至るまでの経緯を考えると、どこか必然のようにも思えてしまって笑えない。しかし今の僕には飛鳥がいる。彼女を空へ送り出すことができればきっと僕の心は晴れるだろう。そんなことを考えながら、時間が来たのでそのまま家の外へ出ていった。
飛鳥とは毎日のように会っていたが、今回に限って言えば今日の待ち合わせは僕の不安感に由来するものと言えるだろう。それは昨日のあの女性の言葉。『後悔しても知らないわよ』というセリフ。あの言葉が交渉決裂に際して発せられた捨て台詞という一義的なものだとはどうしても考えられなかったのだ。つまりあの一言には何か意味があり、こちらに対して何らかの働きかけをしてくる可能性が考えられた。その実はやはり不鮮明だが、組織単位で行動を起こしているように見受けられたし、一日二日では何かアクションを起こせないというのが僕の予測ではあったが、どうしても内心の焦燥感は拭えない。だからこそ今日はいつもより会う時間を早めて、午前十時を待ち合わせの時刻としたのだ。
家から出て真っ直ぐ駅前へ向かう。万が一のために何の役に立つかはわからないがある程度のお金を財布へ入れながら。しかし僕は自分の危機意識が間違っていなかったことをすぐに悟ることになるのだった。
自宅から駅へ向かっている間、身体にはずっと違和感が纏わりついていた。背筋にねばつく液体が付着している感覚。しかしそれは勘違いではなかったらしい。周囲を注意深く観察してみると、明らかに人出が多かった。田舎町の人手などそもそも高が知れているようなものだが、それにしたって人が多い。僕は平静を装いながら、町に繰り出している人々を冷静に思料する。見た目は一般人を気取っているが、内なるプレッシャーというか威圧感を隠しきれていない。彼らは皆こちらを見ていないようで、どこか僕を泳がせているような雰囲気があった。
その瞬間、僕は今この町に大きな意思が働いていることを理解する。間違いなく何らかの組織的な行動が起こされていた。これがあの女性によるものかはわからなかったけれど、心の内にある警鐘が勢いよく鳴らされている。もしこの連中の目的が飛鳥だったら――考えにくいと断じることはできない。僕の脳裏には昨日の女性の言葉がリフレインしていた。一日二日で行動を起こすことは難しいと思っていたが、もし何かの切迫状況だった場合はどうだ? この人出を見て、僕は飛鳥に危険が迫っていることを理解した。なぜここまで急に相手が動き出したかはわからないが、とにかく町に人員が展開されている以上まだ飛鳥は見つかっていない。そう考えると飛鳥は多分どこかに隠れているわけで。隠れる場所として考えられるのは一か所しかなかった。
監視の目に注意して歩き出す。やはり人的資源の多くは飛鳥に割かれているようで、こちらに対する注意は薄い。なるべく人通りの少ないルートを辿りながら沿線を目指していた――電車の沿線が発見率の低いルートに思えた――が、沿線に到着するまで結局連中と思しき人間には一人も会わなかった。
沿線に到着して一度周囲を見渡す。駅前は当然監視があるだろうと考えて避けてきたが、沿線に関しての監視はゼロと言っていい。かなり人的な資源には余裕がある――というか潤沢な組織かと思っていたが、その性質上人数は限られているらしい。まぁあの女性が組織名や目的を明かさなかったのだから、やはり何か後ろ暗いことがあるのだろう。まぁ実際に後ろ暗いかどうかはわからないが、人に言えない事情があるらしい。だからと言って情けを掛ける必要もなく、このように強硬な手段に出ている以上こちらも遠慮をする必要はない。最大限頭を使って適宜対応するだけだ。
沿線をそのまま歩いていく。思い出深い緑色のフェンスが動物や人間の線路に対する侵入を防いでいて、かなりボロボロだからか変な風情を感じさせる。雑草の類も生い茂っていて、田舎の路線という雰囲気を禁じ得なかった。すすきの黄色が夏の終わりを意識させて少しだけ郷愁的な気分にさせる。そんな感傷的な思いに浸っているタイミングではないのだが、今は追手と監視に注意しながら湖を目指すだけなので、脳の回転に対して仕事が少なすぎるのだ。余った思考のリソースで別のことを考えていても悪くないだろう。
しばらく沿線の隣を進んでいくと、結局山のど真ん中を通るトンネルに到着する。やはり沿線に対しては人手が割かれていなかったようで、何とかここまで辿り着くことができた。このまま南下すれば湖のある山の麓まで到着できるが、ここから先は更に人が少ないはずだ。どう考えてもまさか山の中に隠れていようとは思いもしないだろうから。
そうして念のためもう一度注意力を引き締めながら南下を開始する。右手には薄手の山々が広がっていて、左手には住宅街の端が広がっていた。どちらかというと左手側の視線に注意を払わなければならなかったが、見た限り人の影自体が一切ない。住宅街に放たれた連中も大体はその内側に展開しているらしいので、僕の予測や行動は的を射ていたようだ。だからと言って心の余裕を生むのは隙になるので厳禁だが、とは言え隠れながら進む必要もないのでだいぶ楽である。
そんなこんなで町の端側を進んでいると、ようやく湖のある山の麓まで辿り着いた。周囲を再度注意深く観察してみるが、追手も監視もどちらともなさそうだ。どうやら、初めてのステルス・ゲームは成功に終わったらしい。内心物凄く安堵しながらも、僕は肝心の飛鳥が本当に湖を訪れているのかが不安になってしまっていた。予測は予測でしかないので間違える可能性もある。だからこそ現実を目の当たりにするまではシュレディンガーの猫というわけだが、ここは自分を信じるしかない。ここまでの自分の予測は正しかったのだ。だからこそこういう時は自分を信じてあげるのか肝要であった。
そのまま湖のある山へ入る。今は昼間だから懐中電灯を付ける必要はないが、それでも木々に陽光を遮られて視界が良いとは言えない。足元に気を付けて進まないといけないのは変わりないが、夜に比べればだいぶマシだ。そう思って進んでいると、慣れもあったのか間もなく木々が開いていくところまで到着した。飛鳥がいるかどうかが気がかりで足が少しだけ急いてしまうが、その心配は杞憂だったらしい。相変わらず美しい湖が視界に入った途端、こちらに待ち焦がれたような視線を送ってくる飛鳥がそのほとりに座り込んでいたからだ。