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WING  作者: 柚月 ぱど
SKY 後編
11/31

SKY 9

 風邪を引かれても困るので、空を飛ぶ練習の回数は限られている。それは湖やプールに落ちた後に何度も練習を繰り返せば、服も着ていることだし体温が急激に下がって、体調不良を引き起こしてしまうと考えたからだ。そこは水着を着れば良いのではないかと一瞬考えたが、水着の構造上背中が空いているものは少ないから、どちらにせよ翼の邪魔になってしまうらしい。だから仕方なく普段着で飛ぶ練習をしてもらっているが、それ故に風邪を引きやすいと言える。そう言うことも相まって、何度か練習したら切り上げてすぐに予備の服へ着替えてもらう必要があった。

 飛鳥をプールの岸まで引き上げて、取り敢えず着替えてくるよう指示を出す。プールでの練習は初めてだし、まずは場所の感覚を掴むだけで十分だろう。下手に長時間練習を行えばそれだけ教職員に発見される可能性が上昇するわけだし、その辺のリスクヘッジは当たり前だが重要だ。下手に見つかって親にでも連絡されたら目も当てられない。僕は諦念に満ちた目で僕を見つめる両親の姿を思い浮かべて、頭を横へ振った。馬鹿な想像をしている。余計なことは考えなくても良いのに、嫌なことばかりの想定をしてしまうのだ。それは僕の病気がそうさせているのかもしれないが、やはり迷惑なことには限りなかった。マイナスなことばかり考えるのは楽しく人生を生きるうえで一番邪魔なものだ。だからこそ脳にこびりつく不快な想像は早いところ切り捨てる必要があった。

 思考をプラスなものに切り替えながら、僕は女子更衣室の入り口付近の壁に背を預ける。この更衣室はプール用のもので、プールの下部というか一階に設置されているものだ。プールは二階にあるから着替えを終えてそのまま階段をあがれば泳げるという構造になっているため、僕は飛鳥を待つため男子更衣室を抜けて先に待っていた。湖で練習をしている時よりプライバシーは守られていて安全である。湖の時は着替えを茂みの中でするしかなかったから、なんとなく警戒心を抱いてしまっていて。もちろん僕も見てしまわないようにそっぽを向いて待機していたが。まぁそんないつもの着替えよりかは安心できるということだ。

 飛鳥とは夏休み前に知り合ったが、それ以降殆どの時間を彼女と過ごしていた。それはもちろん空を飛ぶ練習に付き合うということもあったが、それ以外にも学校で過ごす時間の多くを彼女と過ごしたのだ。飛鳥は基本的に教室へは顔を出さないが、学校へは毎日きちんと登校している。だから飛鳥と会うとすれば休み時間や放課後となるわけだが、そもそも教室に長居したくなかった自分としては逆に好都合だった。休み時間毎に屋上へ行けるわけではないが、それでも時間が許す時は飛鳥に会いに行く。昼休みはその殆どを屋上で過ごしていただろう。流石に毎回のように彼女を尋ねるのは嫌がられるかと思ったが、そんなそぶりは一切見せずに顔を見せるととても嬉しそうな表情を浮かべてくれた。

 休み時間、昼休み、放課後。僕たちは色々な話をした。それは空を飛ぶ練習のこともあったが、それ以上にお互いのことについて話しただろう。僕がどのような経緯でこの学校へ転校してきたのかも、少し話を濁しながら話した。僕の経歴を誰かに対して話すという経験は初めてだったが、その相手が飛鳥で本当に良かったと思う。彼女は僕の話を真剣に聞いてくれて、何度も相槌を打ってくれた。あまり面白い話ではないから具体的な内容は殆ど無かったように思えるけれど、飛鳥はしっかりとこの捉えどころのない話を理解してくれたように見える。話の最後には、そうだったんだと言って、それで少しだけ悲しそうな表情を浮かべた後、今まで通りに接してくれた。このような話をして、それでも何も言わずに受け止めて、それでいて仲良く接してくれる友達というのはとても稀少なものに思えて、僕は飛鳥と友達で良かったなと感じるのだ。

 しばらくとめどない思考に身を委ねていたが、不意に女子更衣室の方から物音が聞こえる。それは小さな足音であって、それは段々とこちらへ近づいてきていた。相変わらずこちらに少し気を遣っているのか、着替えの時間が早い。少しだけ苦笑しながら身体を起こして、出迎えるために更衣室の入り口へ顔を向けた。するとそれと同時に飛鳥が顔を出して、はにかむように笑ってくれる。

「ごめんね、いつも待たせちゃって」

 すぐに謝るところも相変わらずだが、他人に対して謙虚である点は対人関係を円滑にするうえで大事なことに思えた。

「いいや、全然待ってないよ。遅くなっても悪いし、とにかく学校を出ようか」

 今のところ教職員の気配はないが、長居は無用だ。見つかればただじゃ済まないだろうし、早く校内から出た方が身のためだろう。こちらの提案に対して飛鳥は水滴を拭き取ったばかりであろう長い髪を除けながら頷いてくれた。


 プール棟から学校を出るための最短ルートは、一旦校舎を縦断してそのまま校門へ出る道筋だ。誰かに見つかってしまう可能性は確かに低くなかったが、それでも教職員に見つかる危険性は学校にいる以上いつでもはらんでいるわけで、それだったら最短の道筋で学校を出た方が危険性も低いように思えた。

 プール棟から出て僕たちは校舎の裏口に入る。普通は施錠されているものだと思っていたが、基本的に出入口はどこも鍵がかかっていなかった。明らかに警備員か当直の教師の怠慢であるが、それ故に僕らがこうして空を飛ぶ練習が出来ているので、その辺りは不問にしておく。しかしこの調子だと誰かに発見される確率は思ったより低いかもしれない。当直と言っても聞く話によるとただ眠っているだけらしい――学校に忍び込んだ僕たちの先駆者がクラスで自慢していたのを又聞きした――ので逆に安全な可能性もある。気を付けるべきは警備員の類だが、今のところ一切遭遇していないので、もしかしたら夜間警備の依頼そのものがないのかもしれない。まぁどちらにせよいないに越したことはないので、このまま曲がり角で遭遇、なんて珍事が起きないと嬉しいのだが。

 校舎の裏側から内部に入って、周りを警戒しつつ昇降口へ向かう。やはり今のところ僕たち以外に人の気配はない。遭遇する危険性を鑑みても、職員室周りを通らないようにすれば大丈夫そうだ。プールへ忍び込む際も遭遇はなかったので、このまま何事もなく脱出できそうだった。

 少しだけ安心感が先行しつつも、僕たちは昇降口へ向かう。校舎の裏口から昇降口はそこまで離れていない。だから少し廊下を歩くだけで目的地へ到着できてしまうわけだ。職員室も通り道には存在しないし、比較的安全である。そんなことを思いながら、昇降口へ顔を出した時だった。

「大地君」

 ふと、服の袖を後ろにいる飛鳥が掴んだ。少し緊張感をはらんだ口調だったから、僕は少し驚いて彼女の方を振り返ってしまう。顔を飛鳥の方へ向けると、彼女はなんだか表情を硬めていて、こちらの意識を引き締めた。

「誰かいる」

 その言葉を受けて僕は昇降口の方へ顔を向ける。そして音を立てないように確認してみると、飛鳥の言う通り何者かが昇降口の扉に背中を預けていた。背丈的には女性に思えたが、どうしてか細く鋭い糸鋸のようなプレッシャーを放っていて、こちらに只者ではないということを意識させる。

 ほぼ反射的に僕は昇降口にいる人間が教職員ではないことを悟った。あの独特なプレッシャーを放つ人間はこの学校にはいない。考えにくいことだが、彼女は学校には関係のない部外者だ。その瞬間、嫌な想定が脳裏を掠める。一か月前。商店街で僕たちを尾けていた人影。彼らと同じような気配を感じた。

 こちらを待ち伏せているのか――そう思った途端、生温い汗が背筋を伝う。昇降口で待っているということは、間違えなく僕らが学校を訪れていることを何らかの形で知っていたということだ。どこかから見られていたのか。とめどない予測が脳裏を跋扈するが、今できることは、待ち伏せを行っている彼女と接触しないように校舎から脱出することだった。

 僕は無言で、飛鳥へ後退するよう手で指示を出す。言葉を交わさなくとも彼女は理解してくれたようで、緊張を伴った面持ちで頷いてくれる。そしてそのまま一旦裏口へ戻ろうとして、

「そこいるのはわかっているわ。別に取って食ったりしないから、出てきなさい」

 張り詰めた弓のような声色が昇降口へ響き渡った。それと同時に心臓が大きく跳ねる。こちらの存在が既にバレている――ブラフの場合も考えられたが、タイミングがピンポイント過ぎた。確実に居場所が露見していると考えた方が自然だろう。そこまで考えた僕の頭に、二つの選択肢がよぎった。――この場から逃げ出すか、それとも大人しく顔を出すか。瞬間的に脳を回転させて二つの選択肢を天秤にかけてみる。そうして僕はそこで、一つの結論へ至った。それは敵の正体を先に知っておいた方が良いということだ。僕と飛鳥は今まで正体のわからない敵から逃げていた。しかし敵の規模も目的も知らないままではどうしてもこちらが不利なままだ。そうなると適切な行動の処理が起こせないし、選択のミスも増えるだろう。これは逆にチャンスを考えるべきだ。上手いこと話を回して相手のベールを剥がしてやろう。そう思った僕は無言のまま飛鳥に頷いた。こちらの表情から飛鳥は僕が何をしたいのか理解したらしい。少しだけ怖がるような様子を見せた飛鳥だったが、それでもコクンと小さく頷いてくれた。

 僕らは言葉を発することなく昇降口の方へ姿を見せる。それと同時に人影はこちらに顔を向けて、預けた背を元へ戻した。

「賢明ね。私たちは穏便に事を進めたいの」

 女性はそう呟くと、ヒールを履いているのか、鋭い足音を立てながらこちらの方へ近づいてきた。反射的に警戒してしまうが、敵意のようなものは今の段階では感じない。すぐに逃げ出せるように姿勢を低く保っていたが、月明りがちょうど差し込んできて、歩み寄って来ていた女性の顔立ちを照らし出す。

 一言で表現すると、その女性は美人だった。そんなことを気にしている余裕はないのだが、月明りと整った女性の表情が相まって、とても耽美な雰囲気を醸し出している。少しだけ緊張感が先走るが、彼女は大人っぽい微笑みを湛えながら僕たちの前で立ち止まった。

「初めましてではないけれど、挨拶をしておくわ。水瀬飛鳥と広野大地。最初は逃げ出すと思っていたけど、意外と冷静だったわね。こちらとしても助かるわ。私たちは話し合いがしたいわけだからね」

 そう言うと女性は手を差し伸べてきた。握手のつもりなのだろうが、こちらとしてはまだ警戒を解いていないので手を出すことは躊躇われる。しばらく無言で待機していると、彼女は残念そうな表情で手を引っ込めた。

「――まぁ良いわ。それで、早速だけど本題に入るわね」

 手を引っ込めた女性はスッと表情を引き締めて、真剣な面持ちへ変化させた。その顔立ちの変遷が、こちらに滲むような緊張感を抱かせる。

「単刀直入に言うと、水瀬飛鳥。今あなたが――あなたたちがやっていることを、今すぐにでもやめて欲しいの」

 女性の刺すような発言に対して、僕たちの間を沈黙が支配した。どう返せば良いか瞬時にはわからなかったから、まずはこの女性の続きの言葉を待った方が良いだろう。そう思って無言を返事にしていると、こちらの意図を察したのか、そもそも発言を続けるつもりだったのかわからないが女性は唇を開く。

「自分達でもわかっていると思うけど、水瀬飛鳥の特殊性は本当に特異なものなのよ。そしてそれ故に、濫用して良いものではない。その上、一般の人々には見せてはいけないものでもある。神秘は神秘のまま封印しておくのが一番なの。この文明社会に、神の祝福なんて不要なのよ」

 女性はそこまでゆっくりとまくし立てると、軽く口を噤んだ。どうやら言いたいことは言い切ったらしい。状況を整理すると、女性の発言的にやはり彼女は飛鳥の能力を知っているようだった。それを一体どのような形で知ったのかはさておき、知っているが故にその神秘は封印しておくべきだと言う。もちろん一般の人間に見せて良い代物ではないことくらい僕も飛鳥もわかっていたが、彼女の口ぶりはどこか奇妙だった。それは彼女の発言の重きは“一般の人間に見せてはいけない“ことよりも、”神秘を使ってはならない“ことにあるように聞こえたからだ。まるで神秘を侵すな、といった警句のようなもの。詳細は聞かされていないのでわからないが、僕としては一般人に知られるリスクから生じる警告ではないことに対して、若干の不透明さが生まれていた。

 しかしこのまま女性の依頼に対してイエスかノーで答えるだけでは、彼女から情報を引き出すことができない。そう考えた僕は取り敢えず女性から情報を引き出すことにした。

「一般人と言いますけど、あなたも一般人ではないのですか?」

 冷静に尋ねてみると、女性は鼻から小さく息を吐いた。それは少しだけ感心するような、それでいてどこか小馬鹿にするような表情。その微細な面持ちの変化から、僕はこの女性が苦手な部類の人間であることを悟る。

「まぁ、高校生にしては上出来かな。一般人、と答えたらどうするつもり? 人間の精神構造上、その質問だと自分の素性を明かしてしまいたくなるけれど、あともう一歩ね。悪くはないけど」

 女性の返答に僕は軽く顔をしかめる。やはりどこか馬鹿にされていたようだ。聞き方を大きく工夫したわけではないが、それにしたって僕たちの対峙はやはり情報戦をはらんでいるようだった。やりにくいこと限りないが、それだったらこちらにも考えがある。

「あなたの発言で一般人ではないことはわかりましたから、それで十分です。しかし自分の素性も明かさず、ただ闇雲に行動を制限されてはこちらとしても対応が難しいことは理解できるはずです。少なくともどうして行動の制限を行うのか、その理由を明示してもらわないと納得できないのもわかるはずですよね」

 静かに正論を列挙すると、女性は何も言わず静かにこちらを見据え始めた。その視線はどこかこちらを観察しているようで、居心地が悪い。しかししばらくすると彼女はその捕食者のような視線を取りやめて、呆れたように口を開いた。

「論理的ね。正論というのは正論故に反論できないのが鬱陶しいわ。まぁ人を論破するには最適よね。子どもらしくはないけど」

 節々に棘のある言い方をしながら、女性はこちらを品定めするような視線を送ってくる。思った通り、少し試されているらしい。もちろん良い気分ではないが、多少言い負かすことはできたらしいのでそれで今のところは満足しておく。

「一本取られたついでに答えてあげるわ。知りたいのは私たちの素性と、どうして行動を制限するか、よね。まぁあまり答えてはいけないんだけど、これも取引よ」

 おちゃらけたように笑って見せると、女性はすぐに真面目な表情へ戻った。僕たちの間を細くピンと張った糸のような感覚が走る。

「私たちはそうね、いわゆる“正義のヒーロー”よ。別に馬鹿にしているわけじゃないわ。本当にそう形容するのが正しいの。そう、この星に住まう全ての人間を守るのが目的。それに間違いはないわ」

 いきなり話が怪しくなってきたが、一応最後まで聞いてやることにする。唯一腹が立ったのは、彼女の物言いだとこちらが悪者みたく扱われているということだ。ただ空を飛ぶ練習をしているだけなのに、そんな言い方はあり得ないだろう。

「そしてあなたたちを追っている目的は当然、世界を守るためよね。正義のヒーローなんだから、みんなを守るのが目的なのよ。――言葉を変えると、水瀬飛鳥。あなたの力は危険過ぎる。このまま放置しておくわけにはいかないの。言っておくけど、警告を無視し続けていたら、実力行使も辞さないつもりだから。広野大地。あなたはそこまで馬鹿じゃないでしょう? 冷静に考えなさい。大人の言うことは素直に聞くのが一番よ」

 どこか圧迫感を感じさせる言葉で彼女はそこまで言い切った。そして再度、僕たちの間に無言が訪れる。飛鳥の力が危険過ぎるだと。全く意味が分からなかった。空を飛ぶだけで一体誰に迷惑をかけているというのか。女性の言葉を受けて、僕の心の中には青々とした怒りの感情が湧き上がっていた。大人の言うことは素直に聞くべきだと。なら大人が言えばなんでも従わなくてはならないのか。空を飛んで、あの大空に飛び立ちたいという願いさえも打ち消して。子どもの希望を大人が握り潰して良いのか。僕には彼女の言うことが全く理解できない。それは恐らく飛鳥の希望と共に、僕の願いさえも否定されたからだとどこかで分かっていながら、そして良くも悪くも子ども故に慎重な判断力に欠いてしまうのだった。

「言いたいことはそれだけですか」

 ぴしゃりと言い放つと、女性は沈黙を返事とした。彼女は少し口が悪すぎる。こちらが子どもだからと舐めているのかもしれないが、説得対象を舐めてかかるのは交渉上一番やってはいけないことだ。それがわかっていてわざとやっている可能性もあったが、もう少し彼女が素直ならばもう少し話を聞く気にもなっただろう。

「僕には、あなたの言っていることが虚実混じりにしか聞こえません。結局素性を聞いてもでたらめな例え話で終わらせて。そんなことで人を説得することができると思っているんですか」

 心の内の怒りは、少しずつそのボルテージを上げているようだった。それほど飛鳥の願いを、僕の祈りを阻害されたことに憤慨していたらしい。慎重に立ち回らなくてはならないことを理解していながら、若さゆえに気持ちが先行してしまっていた。

「そうね。少し子ども相手だから気を抜いていたことは認めるわ。だけど、私の言葉にものの例えはあっても虚飾はない。それだけは信じて欲しいの」

「だから具体的に何者なんですかあなたは。自分たちの名前は知られていて、でも相手の名前も素性も知らない。そんな状態で信じろって方がおかしいんですよ」

 自分がヒートアップしていることは気が付いていた。しかしだからと言って停止できるブレーキの持ち合わせは今のところない。背後で飛鳥が若干戸惑っていることも知りながら、それでも僕は抵抗を続ける。

「それについては謝罪のしようもないわ。どうしても自分の名前と、素性を明かすわけにはいかないの。それだけは勘弁して頂戴」

 歯を食いしばって女性を睨みつける。彼女はとても困ったような表情をしていたが、そんなこと構わない。やはりこの女性を信用することは危険だと思えた。何か名前や素性を明かせない理由があるんだろうが、相手の事情なんてこちらには関係ない。どちらにせよ、名前も素性も明かせない危険人物と判断されるだけだ。

 これ以上対話を続けても平行線を辿ることを悟って、僕は一旦怒りを収めた。脳の赤い輪郭がぼやけていって、月明りに照らされた青い昇降口の風景に回帰する。そうして一旦大きく溜息を吐くと、後ろで僕たちの会話を聞いていた飛鳥の腕を掴む。少し驚いたような表情を浮かべる飛鳥に、

「行こう。これ以上話しても時間の無駄だよ」

 そう呟いて、女性の脇を抜けようと歩き出した。何か仕掛けて来るかと思っていたが、僕と飛鳥が隣を通り抜けても一切何もしてくることなく、ただこちらを静かに眺めている。それはそれでなんだか気持ち悪かったが、もうそんなこと気にしている段階ではない。飛鳥の手を引いて昇降口の扉までやってくると、背後から声がかかった。

「それがあなたの選択なのね。――後悔しても知らないわよ」

 捨て台詞のような一言。そんな言葉を背後から受けながらも、僕は女性に構うことなく飛鳥を連れて校舎を後にしていた。

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