SKY 8
空へ往く、と彼女は言った。それは本当に何気ない一言で、注意して聞いていなければ聞き逃してしまうほど小さな言葉だったけれど、それ以上にこの台詞に込められた膨大な意味を無意識に理解して、ハレーションのように印象的なフィーリングを与える。それはあの日、あの運命の日。僕が彼女の秘密を、彼女の背中に生えている神秘を間近で見てしまった時に聞いたことだった。
私の使命は、空へ往くこと。どこまでも広がっている大きな天球に帰ること。とっても論理的じゃない。殆どロジカルな思考は排除されているけれど、それでも胸を突く衝動には気が付いていた。あの大空に戻ろう。そうすればきっと私の願いが叶う。とても精神的な感覚だけれど、そんな理解に近い納得があったの。そのことを考えると胸が青くなる気がして、清涼な海波に足を晒しているような気分になって、嗚呼、それが私にとって“正しい”ことなんだねって、そう思えるから。だから往こうと思うの。あの空へ。
彼女の言葉は本人が言うように現実的な、そして論理的な思考形態からは大きく乖離している気がして大枠としては捉えどころがなかったけれど、悔しいほどに理解できてしまう自分がいた。大空へ帰る。それは灰色の時代に生きていた僕が常日頃から考えていたことであって、その気持ち――考え方は唇を噛んでしまうくらい心に上手く落ち着いてくれた。空を飛ぶ。あの広かった大空に飛び立って、そうして自分の願いを叶える。それは今この瞬間にも僕が考えていたことであって、きっとそういう部分も似通っていたから、僕は彼女と似ていると考えることができるんだと思う。それほど彼女の願いには痛いほどの共感が生まれていて、同じ思いを抱える同志という意識が芽生えていた。
僕は元々空にいた人間だ。それ故に空の快適さを知っているし、そこから失墜したことがあったからこそ墜ちることの恐怖を哀しいほどに知っていた。もし天使がこの世に存在するのなら、どうして彼らが地上に降りてこないのかが身に染みてわかる。それはもちろん天上が過ごしやすいからで、甘い思いをしている者ほどそこから下落はしたくないと思うものだ。もちろん僕は天使ではないけれど――目の前に鳥か天使かわからない友達はいるが――墜落する辛さは身をもって体感していた。
だからこそなのかもしれない。僕は空から墜ちた人間だ。だからこそ、水瀬に――飛鳥に自分の願いを託してしまうのかもしれない。彼女は今、大空へ飛び立って自分の願いを、自分の熱望を叶えようとしている。それはもう僕にはできないことであって。イカロスのように蝋でできた翼を太陽の放射熱で溶かされた僕は、もうあの空へは戻れない。それ故に美しい透明な翼を持つ彼女に対して、自分の願いを預けてしまうのだ。自分には不可能なことを彼女に代行してもらう。僕はきっと自分の分まで翼に込めて、そしてどこまでも蒼い天球へ旅立たせて。そんな彼女を眩しそうに手で陽光を遮りながら、ゆっくりと空を見上げたいだけなんだと思う。
この時間帯は星が良く見える。それはこの地域がそこまで都市化していないからで、基本的に星の明かりを阻害するほどの光源は存在しない。だからこそ都会に住んでいた僕からすれば、夜空に星々が浮かんでいるのはどこか非現実的で、本当は当たり前のことながら幻想的な心地を抱かせる。空で煌めく星たちは良く見ると若干その放っている光色が異なっているらしいが、ここから見ても仔細な違いはよくわからなかった。だけれど見上げる限りに広がっている夜空に輝く星々は本当に形容しがたいほど綺麗で、現実味というものを優しく溶かしていく。まぁそれ以上に現実感のない存在が目の前にいるのだが、それでも空に上っている星々は美しく思えた。
ここに来る前に靴を脱いできたから、今は裸足だ。だから足元にはシアンブルーのタイルが持つ独特な感触が鬩ぎ合っていて、季節が夏であることを意識させる。その感触は手のひらにも伝わっていて、少しだけくすぐったい。ちょっとだけ鼻腔に感覚を集中させると、水に混じった塩素の特異な刺激臭が漂ってきて、眉間をほんの少しひそめさせる。夜であるのに夜風は少しだけ熱を伴っていて、わざわざ着てきた学生服を汗で染みさせた。
僕が通っている高校、そこに存在している体育用のプール。今は夏であるから男女ともに入れ替わりでプールを使うことがままあったが、もちろん今は夜中なので僕たち以外誰もいない。聞こえるものと言えば柔らかい風に揺らぐ水面の音と鈴虫の音くらいなもので、殆ど無音と言っても差し支えないだろう。当然のことながら夜中に学校へ忍び込むこと自体は校則違反だが、今の僕にとっては校則などどうでも良いものの最骨頂だった。
軽く溜息を吐いてプールの先を見つめる。この時間帯だと当直の先生や警備の人間もいるかもしれないが、多分大丈夫だろう。そんな真剣に仕事をしている感じもないし、見つかったら見つかったでそれまでだ。一応彼女の背中にあるものはどうにかして隠さなければならないが、もし見られても恐らく勘違いとして処理されるだろう。まぁそれくらい飛鳥の背中にある翼はこの世のものとは思えない神秘性を持っていて、それ故に神聖なものに思えた。
プールの岸に腰掛けながら飛鳥の方を見やる。彼女は今背中の空いた服装に身を包んでいて、それはもちろんあの翼の出し入れ――翼は消したり出したりできるらしいが、障害物があると支えるらしい――がしやすいようにということだが、僕が学生服を着ていて飛鳥が普段着というのも何かアンバランスな気もする。単に僕は外着をあまり持っていないというのもあるが、やはり何か買った方が良いだろうか。それだったらやっぱり飛鳥に選んでもらおうか。そのような考えが浮かんで、僕はそのままその思考を打ち消した。――余計なことをしている時間はない。この前のあの連中がまた探しにくるかもしれないし、もしかしたら奴らも彼女の翼について何かを探っているのかもしれない。そういうことを考えると、彼女の願いを早く叶えて空へ往かせてあげるのが最優先に思えた。
一か月前。夏休みに入る直前、僕は飛鳥の秘密を知る。彼女の背にある翼を見せされて、僕は飛鳥が普通の人間ではないことを理解した。そしてあの怪しい連中に追われている理由も、もしかしたらそれかもしれないと思えたのだ。彼らも飛鳥の翼について何かを追っていて、それで何かを仕掛けてこようということじゃないのか。詳細はわからなかったが、僕にできる最善のことは飛鳥に協力して空を飛ぶ練習を行い、その上で連中から彼女を守ることのように思えた。そんな重要な役目を僕が務めて良いのかわからなかったけれど、飛鳥は僕が良いと言ってくれて、そうして二人で空を飛ぶ練習を始めたのだ。最初はやっぱりすぐ地面に――普段は湖で練習をしているから、水面と言った方が正しいか――落下してしまったけれど、段々と滞空できる時間が増えていって、ようやく少しは飛べるようになってきた。そこで今度は学校のプールを使って対岸から対岸まで飛んでもらい、前方に飛行する練習を始めたのだ。連中に見つかってしまう可能性は高いが、一々水面に落下して泳いで岸に戻るという手間を考えたらやはりプールで練習した方が効率的だろう。それにたまには練習場所を変えた方が気分も新調できて良いはずだ。そんなこんなで今日は初めてのプール練習に飛鳥を連れて来ていた。
彼女は今こちらから見て隣の辺にいる。プールを長方形で例えた場合、僕は辺の長い場所にいて飛鳥は短い場所にいる。六レーンあるプールを泳ぐのではなく飛んで渡るというのもプールに対して皮肉が効いていて悪くないが、もちろんプールで飛ぶ練習を行っているのはもし途中で落ちてしまった際に怪我をしないようにだ。水面に落下するのであれば、上方二十メートル以内から失墜すれば怪我はなく済むらしい。それ以上だと水面が石のように固くなって怪我をしてしまう可能性があるから、そこまで高くは飛ばないように指示している。一応低く飛ぶ方が楽ではあるので、下手に高度を出したりはしないだろうからそこは安心して良いだろうが、もちろんもしもの時のために僕がいる。プールに落ちた際に足をつったりしたら助けるのが僕の役目だ。とは言っても今まで一度も僕の出番はなかったので、こうしてのんびりと飛鳥を眺めていられるのだが。
ふと飛鳥がこちらに合図を出した。それは当然今から飛ぶという合図であり、必ずこちらに確認を取るように指導していたのだ。こちらが確認していないタイミングで飛び立たれて万が一があっても困るのでそのように指示していたが、なんだか彼女が手を挙げる様子が可愛らしくて、少しだけ微笑んでしまう。子どもを相手にしている気分というのだろうか。なんとなく年少者を相手にしている気になってしまって、軽く頭を振って手を挙げた。
するとこちらの返事を受け取ったのか、飛鳥は少しだけ屈むような姿勢を取る。その瞬間、彼女の背中から透明に縁どられた滑らかな翼が生え出て来た。その透明な翼は少しずつ大きくなっていって、遂には飛鳥の身長を優に超える大きさになる。翼はしっかりと彼女の呼吸を受け取っているのか、脈打つように少しだけ揺らいでいて、生命の持ちうる器官であることを理解させた。うねるように波打つ翼はどう形容しても鳥か天使の翼のようであって、そのどちらかはわからないけれど、やはり神秘的な気配を感じさせるものだ。
飛鳥は屈んだと思うと、そのまま顔を引き締めて勢いよく跳び上がった。それと一緒に背から生えた翼が大きくはためいて、彼女を夜空へ運ぼうと動き出す。巨大な一対の翼は鳥のように己をはためかせて、地面をそのままに置いていった。どうやら空へ飛びあがることには成功したようで、飛鳥は嬉しそうにプールの上方で笑顔を浮かべている。
「いいよ、そのまま向こう岸まで飛んでみて」
手で拡声器のような形を作りながら、僕は立ち上がってそのように声を上げた。飛鳥はこちらの声に大きく頷いて、そのまま神妙な表情で対岸を目指し始める。その軌道は非常にゆっくりと確かめるような動きであったが、この前よりも洗練されていてこちらに不安感を抱かせないものだった。やはり少しずつ上達している。この調子でいけば、そこまで遠くない未来に空へ往くことができるだろう。そんなことを思って少しだけ顔を綻ばせた時だった。
ふとプールの中心地点を通過していた飛鳥が、少しだけバランスを崩して体勢を揺らめかせてしまう。こういうのは自転車と同じで、一度体勢を崩すと持ち直すのはかなり難しい。あ、と思った時にはもう遅く、飛鳥は平衡感覚を失ったまま垂直にプールへ墜落していった。
激しい水しぶきがプールの岸まで届く。それと同時に水音が響いて、身体をちょっとだけ竦めさせた。だけど驚いている場合ではない。僕はそのまま岸の方まで駆け寄って、彼女の安否を確認する。
「飛鳥、大丈夫?」
もし浮き上がって来ないようなら飛び込んで助けることも辞さない覚悟だったがしかし、飛鳥はすぐに水面へ浮き上がってきて、その大きな翼を仕舞った。そして濡れた長い髪を手で分けながら、恥ずかしそうな笑顔を向けてくれる。
「ごめんね、落ちちゃった……大地君は濡れてない?」
「うん、大丈夫だよ。ほら手。早く上がらないと風邪ひいちゃうから」
僕はこちらへ水を掻き分けながら歩いてきた飛鳥の手を掴んで、彼女を地上へ引き上げた。顔には出さないようにしていたが、やはり下の名前で呼ばれるのはむず痒い。初めて飛鳥の翼を見た日に、彼女から下の名前で呼んで良いか許可を取られた。もちろん良いよと返したが、逆に今度は僕も彼女を下の名前で呼ばないと変なので、お互いにそうすることにしたのだ。誰かを下の名前で呼ぶのは本当に久しぶりで、気恥ずかしさもあったが、だけれど嬉しさの方が勝っていた。
プールの岸へ上がってきた飛鳥を見て、僕は目を逸らす。それは彼女の服が少しだけ透けていたからで、見るのが申し訳なかったからだ。
「――着替えに行っておいでよ。それと今日はこのくらいにしようか」
視線を外しながらそう呟くと、視界の端にちょっぴり恥ずかしそうに小さく頷いた飛鳥の顔が映った。