幻のリフレッシュ休暇
「リフレッシュ休暇を取得したいんですが」
そう切り出したおれに向かってF社B開発部C課統括、課長の河野は眠たいカバのような目を向けた。
「リフレッシュ休暇……?」
「はい」
「なにそれ」
まあ、そうだろうなと、おれは長い交渉を始める覚悟を決める。
「うちの会社には勤続五年毎に、一週間……正確には五日間ですが、特別休暇が与えられるシステムがあるじゃないですか」
「そんなのあったっけ?」
「あるんです。ほら、ここを見てください」
おれはあらかじめ用意しておいた社内規定冊子の二十六ページ目を開き、蛍光マーカーで印を付けた項目を指し示す。
「ふうん……はあ……なるほど……」
「…………ですので、」
放っておけば午前中いっぱい、社内規定を見つめてうなっていそうなカバ野に対して、おれは話を続ける。
「来月、三月の第二週に、この休暇を取りたいんです」
「そう……」
「はい」
「…………きみ、入社五年目だっけ?」
「五年目です」
「そう……」
「はい」
「……いや、でもさ……」
「駄目なんですか? なにか問題ありますか?」
あまり攻撃的な口調にならないよう注意しつつ、だがはっきりと意思を告げる。昨夜練習したとおりだ。
「いやあ、でもねえ。この休暇とってる人、今まで見たことないよ」
「そうですか。もったいないすね」
「うん、だからさあ……急に言われてもねえ……」
「べつに急じゃないすよ。休暇取るのは、まだ一ヶ月以上先ですから」
「いやあ、だけどさあ……」
カバ野のどっち付かずの口調はいつものことだが、今日は特に煮え切らない。予想通りではあるが。
「で、休暇の申請は具体的にどうすれば良いんでしょうか? なにか書類とかあります?」
それについては社内規定にも載っていなかった。形骸化した、というよりハナから機能していないシステムなんだろう。
「いやあ、知らないな。私に聞かれてもねえ」
「規定には直属の上司に申請すること、と書かれてありますが」
「ちょっと、わからないなあ。きみの方で調べてよ」
「はあ……」
暖簾に腕押しの第一ラウンドは終了した。
まあ、すんなり休暇の許可が降りるなんて元々期待していない。
わがF社は旧態依然の前時代的カチコチ血栓企業だ(つまりごくありふれた平均的な日本企業だ)。お洒落で気取った外資系大手の、私服オーケー社員ニコニコ有給全消化なんてところとは訳が違う。
◇ ◇ ◇
「リフレッシュ休暇?」
「はい」
総務課の新人、氷山は困ったように首を傾げた。
「えっと、ちょっと……わからないんですが……」
当たり前だ。勤続三十年のカバ野ですら存在を知らなかったのに、いくら総務課といえど今年入社したばかりの氷山にわかるはずがない。
面倒なことに巻き込んで悪いとは思うが、おれは休暇をほしいので仕方がない。
「うーん、ちょっと、待ってくださいね…ええと、ええと……」
この新人はいつも困った顔をしている。出来ないことなら出来ないとはっきり言ったほうが自分にも相手にも都合がいいのだが、彼にはそれが分からない。真面目な新人がハマりやすい罠だ。
「あ、いいですよ。権田課長に聞きますんで」
困り山はほっとした顔で、すみません、そうしてくださいと言った。
困り山がゴン太に聞きに行くと、あの厳しい課長から説教を食らうだろうから、ここはおれが自分で直接聞いたほうがいい。
「権田課長」
「ん、なんだ」
「リフレッシュ休暇を申請したいんですが。どうすればいいんですか」
「はあ? なんだそれ?」
ゴン太もか。おれはカバ野にした説明を繰り返す。
「はあ……よくこんなもん掘り返してきたなあ……」
ゴン太は呆れたように社内規定を眺めて呟いた。
「うーん、知らんなあ……こんな休暇使ったやつ見たことないからなあ……」
総務課の責任者のこの男が知らないということは、本当に過去三十年間、一度もこのシステムは使われていないのだろう。
だが、おれは使うのだ。
「お前ら、だれか知らないか?」
カバ野と違って、ゴン太はそれなりにやる気を出してくれた。
総務課全員がゴン太の元に集い、あーだこーだと議論を始める。
いや、僕もわかりませんね……
特別休暇の申請書を使えば……
あれは冠婚葬祭限定だろう……
そもそも、今でもこの規定は有効なのか……
社則から削除し忘れているだけなんじゃ……
わんわん。
犬の寄り合いを、おれは一歩離れたところでぽつんと立って眺める。
おれが休むために、忙しい総務課の面々が骨を折ってくれているのは何だか申し訳なかった。
数分後、結論を出したゴン太がおれに言った。
「こっちではわからんから、上司の河野課長と相談してくれ」
何の進展もなく第二ラウンドも終了した。
ふざけるな。社則に明記されてあるシステムを、なぜ総務課が知らないのだ。…………などと愚痴るほど、おれはもう若くはない。
我がF社において、慣例は正論に優先するのだ。
とは言え、このまま無謀なアタックを繰り返したところで、カバ野とゴン太の間でたらい回しにされるのは目に見えている。
おれはチマチマ立ち回ることをやめ、一気に頂上を攻めることにした。
◇ ◇ ◇
「……というわけでして、国際経済は依然油断ならない状況が続く中、社員の皆さんには一層の奮闘を期待いたします」
月に一度の全社集会。
今日もブランドスーツのスリーピースで決めた社長のあいさつが終わった。
いつもなら退屈なだけの時間だが、今日のおれには目的がある。
「では最後にみなさんから、意見や質問などあればどうぞ」
まってました、とおれは手を挙げる。
「社長、リフレッシュ休暇についてお伺いしたんですが」
何を言い出すんだこのバカは、と隣のカバがおれをにらみつけるが知ったことじゃない。おれは休暇がほしいのだ。
「リフレッシュ休暇……?」
「はい、社則には勤続五年毎に特別休暇が付与されると書いてあるんですが、うちの河野課長も、総務課も知らないと仰るんです。このシステムは現在でも有効なんですか?」
まずそこをはっきりさせないと、いつまでもカバ野にかわされ続けるだけだ。
「……それは、今年発行の社内規定にも明記されているんですか?」
「はい。ばっちりと」
「ふむ……それなら有効でしょうね」
最高責任者の言質が取れた。
「では、どのような手続きで休暇を申請すれば良いんでしょうか?」
「それは、総務課に対応してもらってください」
聞いたかゴン太よ。
「承知いたしました。ありがとうございます」
おれは深々と頭を下げて着席した。
◇ ◇ ◇
「まさか社長に直訴するとはなあ」
集会後の午後一で総務課を訪れたおれを、ゴン太が苦笑して迎えた。
「直訴なんかじゃないですよ。ただ質問しただけです」
「そうかそうか、ははは」
鬼上司として総務課内ではめっぽう恐れられているゴン太だが、他部署のおれにとっては案外付き合いやすい男だ。もっとも、あのカバ野も他の課の若手からは温厚で話しやすい管理職として好感を持たれているらしいから、つくづく距離感というやつは重要だと思う。
「で、リフレッシュ休暇の申請の件ですが……」
「ああ、そうだな。まあ社長がいいと言うんだから休暇の処理は問題ないが……申請書は……おい、お前ら!」
ですので、通常の総合届では具合がわるいので……
じゃあ、こっちのと組み合わせて……
データベースへの登録は……
ここの申請書の、その他の欄に追記して貰う形で……
わんわん。
ふたたび始まる犬の寄り合い。
だいたいうちの会社では、こうやって無秩序に右往左往と吠えまくった末に、結論らしきものが造られる。
「じゃあ、この申請書と、これと、これに記入して、捺印して、あとは上司のハンコを貰ってください」
困り山が書類の束を渡してくれる。面倒で困った先輩だなあ、と目が言っていた。
◇ ◇ ◇
「課長! これお願いします!」
おれは一時間かけて記入した書類の山をカバ野に突きつけた。
「……これ、例のアレ?」
「例のアレです」
もう、おれとカバ野の間ではこの会話で意味が通じる。
「ふうん……はあ……うん……」
「で、確認していただけたら、ここにハンコお願いします」
「君さあ……」
「はい」
「本当に一週間も休むつもり? 君が休んでいる間、他の皆は仕事してるんだよ?」
「はあ」
「申し訳ないと思わない? 君の同期で、君だけだよ、この休暇取ろうとしているの」
「そうですね、わかりました。同期の奴らも誘って、みんなで休むようにします」
「いやいやいや、そうじゃない」
カバ野が慌てておれを止める。
「だいたいさあ、一週間も休んで何するの?」
「旅行に行きます。ほら、ここの『特別休暇取得の目的』の欄にも書いてあります」
「旅行ねえ……どこ行くの?」
「オーストラリアに。今の時期は暖かいですし」
「オーストラリアでなにするの?」
「……カンガルーとか」
「カンガルー見たいなら、動物園行けばいいじゃない」
「食べたいので」
「え、カンガルーって食べれるの」
「オーストラリアではよく食べるらしいです」
「そう……」
カバ野はいまだに渋い顔だ。どうあってもおれを休ませたくないらしい。
「でもさあ……」
「はい」
「君、普段からしょっちゅう有給使うよね」
「余ってるので」
「残業もしないで定時で帰るし」
「残業するなというのは、今月も部長から通知されたじゃないですか」
「そうだけどねえ……だからって仕事が途中でも、五時になったら即帰宅するのはねえ……」
「タイムカードだけ押して戻ってこいと?」
「いやいやいや、そうとは言わないけどね。まあそういうのもね……自主的にやってる人もいるよね……もちろん強制じゃないけど……」
「で、書類はこれでよろしいでしょうか? 不備があるならすぐ直します」
「うーん、まあ別に不備はないけどさあ……」
「ではハンコをお願いします。私から総務へ提出しておきますので」
「君さあ……」
「はい」
「年度末の忙しい時期に、一週間も休んで仕事に支障ない? 休暇を取るにしても、また今度にしたら?」
何を言うのだ、このカバは。
勤続五年の特別休暇なんだから、次の機会は五年後だろうが。
「いえ。私がこの休暇とれるのは今年度だけだから、今月か来月しかありません」
さすがに今月すぐに休むのは無理だ。まあ、今月にしますと言ったところで、カバ野はなんだかんだと言いがかりをつけるのだろうが。
「でもさあ……XXとかZZとかの件、納期に間に合うの?」
「まったく問題ありません」
「そう……」
本当は若干厳しかったが、ここで少しでもひるめばカバ野にひっくり返される。
「はあ、まあ……わかったよ。はい」
とうとう、カバ野が根負けして印鑑を押してくれた。
これで最大の難関は突破した。あとはこの書類を総務まで持っていけば、その先は自動処理だ。
「ありがとうございます! では失礼します!」
おれは達成感で叫びたくなる気持ちを抑え、カバ野が捺印した書類の束を抱えて立ち去ろうとした。
その時。
「ちょっといいか」
げじげじ眉の大柄な男が声をかけてきた。開発部門長だ。
「インドの工場で……が止まって……どうも部品の公差が……」
「それでは客先の方も……」
「ああ、すぐにでも………早くても一ヶ月か二ヶ月……」
なんだか不穏な会話が、カバ野とげじ眉の間で交わされる。
「みんな、ちょっと集まってくれ」
案の定、神妙な顔のカバ野がC課全員を招集した。
おれは猛烈に逃げ出したい気持ちにかられながらも、染み付いた犬の性根で従順にミーティングルームへ集う。
おれと先輩二人と後輩一人、四人が着席するとカバ野は話し始めた。
「インドの生産ラインでトラブルが起きてね。開発担当を一人、よこしてくれって要請があったんだよ」
「うちからですか?」
「うん。そういうわけだから、来週すぐにでも行ってもらいたいんだよね。戻ってこれるのは四月になるけど……誰か、行きたい人は?」
いるわけがない。
「ああ、俺は駄目ですね。来月はA社さんとこの案件があって、これは外せません」
先輩の一人が余裕の態度で主張する。断る口実があるやつは気楽だ。
「そうか、A社絡みじゃしょうがないね。じゃあ、他の人は……?」
おれを含めた残りの三人は、みな一様にカバ野と視線を合わせないように俯いている。
だが、もう一人の先輩が意を決して口を開いた。
「あの、私は……嫁がいま八ヶ月でして……」
「ああ、もうすぐ子供が生まれるんだったね。それじゃあ無理は言えないなあ」
残りは二人。おれと後輩。
後輩がおずおずと話し出す。
「その……僕は、海外出張の経験もありませんし……一人でトラブル処理というのは、さすがに……」
「そうだねえ。二年目の君だとちょっと厳しいよねえ……」
全員の目がおれに集中する。
ちくしょうカバ野め。最初からおれに決まっていたんじゃないか。
「……わたしが行きます」
この状況で四人分の無言の圧力を跳ね返すウルトラCは、おれには思いつかなかった。
カバ野が満面の笑みで頷いた。
「そうか、行ってくれるか。ありがとう!」
ミーティングは三分で終了した。
C課の面々は、火の粉が我が身に降りかからずによかったよかった、と解散する。
最後に部屋を出る時、カバ野がおれに言った。
「リフレッシュ休暇が無くなって残念だったね。まあ、インドはオーストラリアよりずっと暖かいよ。カンガルーはいないけど、牛はいっぱい道路を歩いてるし。休暇のつもりで行ってくればいいさ」
一人残されたおれは、休暇申請書を破ってゴミ箱に叩き込んだ。
実際、リフレッシュ休暇の取得率ってどのくらいなんでしょうね