憧憬デカルコマニー
41作目です。今年の夏休みは何処にも行けないので、妄想で補うことにしている私です。
1
鴎が啼いている。潮風に揺らされて、何処か遠くへ行きたいと啼いてアピールする。行き過ぎた緑がさわさわと靡いている。海の煌めきは少し眩しすぎるような気がする。
どうやら夏という季節は案外つまらないらしい。
風無瀬行方はキャンバスの隅を青く塗り潰しながら考えていた。
柔らかい夏の風が開け放たれた窓から流れ込んで行方の髪を揺らして去った。美大を卒業してから髪は一度も切っていない。邪魔ではないのだが、唯一の悩みは結構な頻度で性別を間違われることだ。元から中性的な顔をしているのも要因だろうけれど、行方は自分の性別に誇りを持って絵を描いているため、尚更、間違われることが気に食わないのだ。
行方の絵は自由奔放な自然をありのままに描き出すものだった。自分の絵がどうしても女性的になることを自覚している彼は、積極的に力強く、なるべく男らしいタッチで描こうと心掛けている。
けれど、男らしいタッチも女らしいタッチもわからなかった。いつもいつもそうだ。結局、ふわふわとしたどっちつかずの絵になってしまう。
彼の長所であり短所だ。
行方は筆をパレットに置き、美大時代から愛用しているミニテーブルにあったマグカップを手に取った。氷がカラリコロリと歌っている。ココアの海でカラリコロリと。
彼はイーゼルの前の椅子に腰掛けた。これも美大時代から使っているもので、よく長持ちしているものだと行方でさえも思うのだ。大して高級な品でもなく、貧乏学生が近所のホームセンターで、汚れたり壊れてもいいようにと安さ優先で買ったものだ。絵の具が飛んでカラフルになったが、壊れてはいない。行方の身体をしっかりと支える。
行方はココアを啜った。
窓辺に吊るした風鈴がチロチロと鳴る。気紛れな風鈴で、風が吹いても鳴らない時が多々あるのだ。しかし、それもまた愛嬌だと行方はなかなか愛用しているのだ。
ここ数日、割と天気がいい。その分、気温は高いが、それでこそ夏だと行方は考えている。昨日まで降っていた雨は海の向こうに消えたらしく、今日は雲すらも遠い。
行方が住んでいるのは、波打ち際や海辺の町を見下ろすことができる丘の上の小屋だった。ここは知り合いの土地で、その知り合いが放棄した古呆けた小屋だ。形こそ何とか保たれているが、雨漏りが酷く、通風性も充分過ぎるほどにある。昨日までは天井付近にブルーシートを張らなければ、まともに絵も描けなかった。
部屋の隅にあるベッドも美大時代からのものだ。安いベッドの割に長持ちしているが、いい加減、スプリングがバカになってきているらしい。その所為か、ここ最近はあまり眠れていない。
過剰な通風性のため、よく虫が侵入してくる。特に夜になると、天井から吊るした白熱電球に蛾が寄ってくる。行方はその蛾に「モスガ」と名付けて親しみを感じていた。モスガは特定の蛾ではなく、来訪してきた全ての蛾の愛称だ。複数来訪してきたら「モスガA」などと呼ばれ始める。
最近、小屋が傾き始めているのが気になっている。絵を描くのに支障が出ると面倒だ。何故なら、行方はこの町の海と空の風景こそが、探し求めていた「憧憬の景色」だったからだ。
行方がこんな襤褸小屋に住んでいるのも、この小屋の立地がベストポジションだからだ。実は、行方はそこそこの金を持ち合わせている。画家としてはそこそこの名があるのだ。それでも、この景色に拘る行方は、この廃墟同然の小屋に住んで絵を描き続けている。
休憩を終えた行方は椅子から立ち上がって、パレットから筆を取り、またキャンバスと向き合う。一週間前から取り組んでいる絵で、雲が嫌に低い昼下がりの海を描いている。
行方は気に入った風景を脳内で写真として保存して、それを絵にしている。行方は眼にしたものを「忘れられない」人間で、彼はそれが自分の最大の短所だと思っている。
人間の基本的性能の欠如。「忘れられない」とはそういうことだ。
行方は淡くも何処か鮮明な青をキャンバスに広げた。一週間、ずっと下地の用意をしている。まだ記憶の「忘れられない」青さに達していない。行方は自分が色を作ることに不得手だと知っていた。それでも、妥協なんてことはしたくなかった。忘れられるなら妥協もするが、「忘れられない」以上は、その記憶に、その風景に忠実に色を作らねばならない。
漸く空の色が再現できた頃には、空は立派な茜色に染まっていた。この帰らなければいけないと強制するような時間帯が行方にとって憂鬱だった。子供たちの遊びを終わらせるチャイムと同様、自由を奪っているようにしか思えなかった。
行方はパレットに筆を置き、夕飯の準備をすることにした。準備といっても、ただ鍋に水を入れてパスタを茹でるだけだ。パスタは知り合いの老人から大量に貰ったが、ソースはないので、麺のみを食べる。塩味だけのパスタも案外悪くないと、食べる度に行方は思う。
外が暗くなって来たので電球を点ける。行方はアンチLEDだ。そして、アンチデジタルだ。携帯電話もパソコンも持っていない。自分には合わないというのが理由だが、それよりも自分の思い描く世界を侵食してしまいそうで怖かった。
夕食を終える頃には光に誘われて虫が集まり始めていた。蛾は確認できるだけで二匹。つまり、モスガAとBだ。種類には疎いので正確にはわからないが、二匹は違う種の蛾のようだ。
蛾を見ると中学生の時の国語の授業を思い出す。ヘッセの作品だった。あれからヘッセの作品を読んだことはない。
あのぼんやりとした朗らかな時間は不可逆なのだと知っているが、それでも思い描いてしまう。プールの授業の後の長閑さには欠伸を重ねた。平和という言葉の意味は、その時間に詰まっているので今はもうわからないし、確かめることもできない。
ただ、何でもない日の昼下がりに人気のない海岸に立って潮風や押し寄せる波を感じる時、あの平和の感覚と近しいものを感じるのだ。
行方は小屋から出て、少し離れたところにある小屋に向かった。こちらは新しく建てられたため、見た目的にも問題はない。普段の小屋、アトリエよりも高度は幾分か高いところにあるこの小屋は、行方の風呂のためのものだ。行方は入浴することを愛しているので、こればかりは妥協したくなかったのだ。
この湯船からは海が一望できるようになっている。ここは行方が珍しく大枚を叩いた場所なのだ。
今日は星が踊っているように見えた。雨の降った次の日の空は美しい。まさに宝石を散らしたような美しさをしている。残念なのは、その宝石を手に取って見ることができないという点だ。
行方は湯船に沈み瞑想を始める。
彼がこんなにも風呂を愛しているのには理由があった。美大時代、作品の提出に終われていた彼は不眠を患い、睡眠薬に頼ることが多かった。そして、不注意にもそれを飲んでから入浴をしてしまった時があった。
眩暈、快楽、幸福、緩慢な心拍。
ある線を跨ぐような感覚が行方を優しく包み込んだ。線を跨いだら戻れないことは何となくわかっていた。自分は天国の扉を叩くには値しない人間だと思いながら眼を閉じた。
眼が醒めた時、行方は変わらず湯船にいた。すっかり温くなった湯で身体を動かした。彼は幸運にも生きていた。冥界行きの空港までは行ったが引き返した。土産はそれなりの脱力感で、行方はゆっくりと湯から出て、軋む床に仰向けになった。
まだ描いていたい。
そんな無意識が戻ることを優先したのだろう。
ある種の臨死体験以降、彼は湯船に浸かることが幸せとなった。死に瀕することを幸せに思っているわけではない。それに伴う生の実感を幸せだと思っているのだ。
行方は水面から顔を出し、軽く噎せた。息苦しさの中に眺める満天の星は格別だと思った。自分はどんな単位から見ても矮小な存在だ。だからこそ、途方もない天の煌めきに感動できるのだ。
三時間、湯船に浸かっていた。死ぬならここがいいといつもいつも思う。しかし、まだ死にたいとは思わないので湯船から出た。夜の丘に吹く風は火照った身体をちょうど冷やしてくれる。アトリエの入り口付近にネモフィラが一輪だけ咲いている。美大時代の同級生から貰った種を植えたものだ。種は全部で五十二粒あり、毎年一粒ずつ植えて咲くのを楽しみにしている。残りは四十四粒。死ぬまでの日課ならぬ年課として楽しむつもりだ。ここ数年、ネモフィラを絵にしたことはないが、そろそろ描いてみようと思った。ずっと前に見た一面のネモフィラを。
行方は小屋に入り、ベッドに転がった。
今日もまた、生きるのには最適の日で、死ぬのにも最適の日だ。そう思いながら日々を生きている。
ベッドに仰向けになっていると、見えないのに星が見える。想像や記憶などではなく、まるで天井なんかないように、リアルの星が見えるのだ。夜風が通っている所為か、まだ火照った身体が冷めない所為か、今はベッドが銀河の何処かで回っている感覚に溺れるしかないのだ。
2
朝、起きると空が青かった。時間はわからない。この小屋に時計なんてものはない。時計に関して、デジタルでもアナログでも行方は嫌いだった。時間に脅されている感じがするからだ。
ベッドから立ち上がった。少しふらふらした。今日もあまり眠れなかった。ベッドを買い換えないと不眠が続くばかりだが、それを行動に起こす気はあまりなかった。
行方は描きたいものがある限りは生きたいと思っているが、その生に執着はしていない。棄てざるを得ないのなら棄てても構わないという考えだ。生きていたいというのはあくまで願望でしかない。それを積極的に叶えようとは行方は思っていないのだ。
欠伸を四回連続でした後、冷蔵庫からサニーレタスを取り出し、千切って食べた。昨日の朝もサニーレタスを千切った。粗雑な食生活をしている割には健康に被害は出ていない。もし深刻な被害が出たら変えればいいと思っている。
サニーレタス四枚で朝食を終え、着替えることにした。行方が持っているのは十枚の真っ白なTシャツと数本のジーンズだけだ。寝る時はつなぎのようなものを着て寝ている。顔を洗い、歯も磨くが、髭は生えない体質なので剃らない。髪を適当に櫛で梳いで、身仕度を終える。
午前中は基本的に筆を持たない。行方のエンジンの起動には時間が掛かるので、まずはただ空を眺めることにしている。
青に浮かぶ雲の行く末を想像している。
今日、君は綿菓子のようにふわりとしているが、明日になれば容貌を悪鬼の如くに変えるのではないか。君は無貌の存在だ。
行方は瞬きをあまりせずに空を眺める。瞬きをした一瞬の変化を見逃すことが勿体ないからだ。空も人間も絶えず作り換えられている。昨日までの風無瀬行方は、今日の風無瀬行方ではないし、あの広大無辺な空だって昨日と今日では違う空なのだ。
「杞憂」という言葉があるが、果たして空が落ちない保証は何処にあるだろうか。空は千変万化の賜物で、それに切れ目などないとどうして言えるのだろうか。
空が落ちたら、その時は眠ろう。
行方は雲が千切れゆく様を脳内写真にして保存した。いつ描く時が来るのかわからないにしても、メモリを消費するより、見逃す方が悲しい。
メモリの積み重ねが今の自分だ。
入り口ドアを叩く音がした。
行方がドアを開けると中津原摩子が立っていた。行方に土地を貸してくれている人物で、彼の美大時代の友人でもある。
「や、おはよう」
彼女は溌剌とした声で言った。ここが彼女の長所で、同時に短所な点であるとも思う。行方の波長と微妙にズレているようだが、摩子の鈍感さと行方の無頓着さの所為か、ふたりの間に渓谷はない。
「おはよう」
「ゆくちゃん、ご飯食べてる? 眠れてる? 何だか萎れたレタスみたいになってるけどもさ」
「食べてるし、寝てるよ。心配しないで」
「ならいいけど。偶には私がご馳走くらいするのに」
「いいよ。そんなの」
「んー。でもね、私の生活ってゆくちゃんの絵で賄ってもらってるようなものでしょう? 何だか申し訳ないんだよ……」
摩子は照れながら言った。
「気にしないで。摩子ちゃんは僕に最高の土地を貸してくれてるんだから。それに見合う程度は返さなきゃいけないから」
「んー。そっか、そうなのかなぁ。あ、ねぇ、でも、今日の昼ごはんはご馳走させてよ。漁師さんからお魚貰ったからさ。ヒラメとかイカとかさ、ゆくちゃん好きでしょ?」
行方は顎に手をやって頷いた。
「でもね、今日は約束があるんだ。だから……」
「じゃあ、一緒に食事しましょう。その人、魚介は苦手?」
「……いや、好きだと思うよ。えっと、僕は構わないけど、相手が嫌がったらどうするの?」
摩子は首を数回左に傾げてから言った。
「さぁね」
「さぁねって」
「私は期待して料理するから、もし、オッケーなら私のうちのテラスまで来て。相手はひとりでしょう? うん、期待してるよ」
行方は、仕方ないな、と息を吐いた。
相手のことを思い浮かべたが、意地悪く断るような人間ではない。寧ろ、とても柔和な人格だ。
溌剌とした摩子が去った後、行方は小屋の真ん中に座った。
そういえば、今日は去年の今日から一年経ったのだ。自分はこの約九千時間を通して何か変われたのだろうか。何かの進歩を期待している反面、何も変わっていなければいいと思う自分もいる。
行方は小屋の隅に置いていた絵の掛けられている布を取った。
去年の今日は酷い雨降りだった。確か、台風が接近していたからだった。空は低く黒くうねり、海も怒りに呑まれたかのように荒れていた。その日、行方は珍しく散歩をしていた。何かのインスピレーションを求めていたのかもしれないが、そこについて行方は記憶していない。どのルートを通ったのかすら曖昧だが、行方は海岸を歩いた。荒れ狂う波のひとつひとつの描写を記憶しながら。
遠くに人影が見えた。その人影の下半身は海に浸かって、寄せる波に抗って進んでいた。それを見て行方は立ち尽くしていた。何故かわからないが、手を出してはいけないような気がしたからだ。人影はやがて消えて、行方の耳には嫌に五月蝿い風音ばかりが聞こえた。
ここから先はあまり憶えていない。気付けば小屋の床に倒れていた。ブルーシートで防ぎきれなかった雨が零れて行方や描きかけの絵を濡らした。晴天がテーマの絵だったが、もうそこに面影はなく、誰かが悲哀の涙を落としたかのように淡く滲んでいた。
三日後、台風が遠退いたので、今度こそインスピレーションを得ようと散歩に出掛けた。何も考えずに歩いていたら海岸に着いた。何やら人が集まっているようだったので、行方も野次馬になることにした。
人々の視線の先には華奢な足が見えた。深い海から来たように青い。少なくとも生きてはいないということだけはわかった。
もしや、この前の人影だろうか。
行方はそう思いながら、青い身体の上半身を見た。その身体は薄手のワンピースを着ていた。可愛らしい少女だったようだ。三日間も波に遊ばれたというのに亡骸は綺麗なものだった。
少女の傍で少年が泣いていた。少女に負けず劣らず華奢な身体をしている。少年は声を噛み殺して泣いていた。
行方は海の方を見た。少年の視線が亡骸ではなく、海の方を見ていたからだ。台風一過で海は凪いでいて、水平線を青空が駆けている。その海に不思議なものを見た。それは足首までを海に浸けた透明に近い少女だった。そして、その透明少女は亡骸の少女と同じ顔をしていた。つまり、幽霊ということになるのだろうか。今でもわからないが、そのシーンは行方の脳内で厳重に保管され、絵として描かれた。しかし、絵は行方が隠しておくことにした。まず、あの時の少年に見て欲しかったからだ。
3
ドアを誰かが叩いた。恐らく、摩子ではない。だとすると、約束の相手しかいないだろう。
「どうぞ」
行方がそう言うと、ドアが軋みながら開いた。下の方の蝶番が壊れているのを思い出した。
「こんにちは、風無瀬さん」
「上がってください、名嘉伊さん」
名嘉伊はスリッパに履き替えて小屋に入り、まず行方の絵を眺めた。彼は大きめのビニール袋を持っていて、中でカラカラと鳴っていた。恐らく注文したものだろう、と行方は思った。
「いい空だね。これから海を描くんだね?」
「はい。そのつもりです」
「時間がある時でいいから、私にも絵を描いてくれたりしないかい?」
「勿論、いいですよ。気に入っている場所があれば、そこを教えて下さい。風景を記憶しに行きますので」
行方は靴紐を縛りながら言った。
「優れた記憶力を持ってるんだね。羨ましいよ」
名嘉伊はそう言いながらビニール袋から何かを取り出した。それは大きな法螺貝だった。
「注文の品だよ」
「ありがとうございます」
行方は頭を下げた。ずっと吹いてみたかったし、耳に当てて擬似的な海の音を楽しみたかったのだ。
「その代金は絵でよろしく頼むよ」
「わかりました」
「さて、ユクエくん」
「ユキマサです」
「ああ、失敬。どうも、昔の名前の読み方の方が馴染みがあってね。えっと、君にとっては大切な問題だったね。すまない」
「いえ、お気になさらず。選んだのは自分ですので」
名嘉伊が微笑んだので、行方も笑ってみせた。
「それで、昼食なんだが……」
「それなら、僕に小屋を貸してくれている中津原摩子って人が料理を作ってくれるみたいです」
「そうなのかね? ふむ、では、それに甘えようか」
行方と名嘉伊は天気のことなど、他愛もない話をしながら摩子宅のテラスを目指した。小屋と摩子の家の間には檸檬畑が広がっている。ふたりは檸檬の樹々を縫うように歩いた。
摩子の家は丘の中心にあり、客観的に見て豪邸だ。どうやら資産家だった祖父が残したものらしく、今は摩子ひとりのみが住んでいる。小屋暮らしの行方を心配した摩子が度々、一緒に住むことを提案したが、行方はその度に断ってきた。やはり、絵を描くにはあの場所なのだ。
テラスには真っ白なテーブルと椅子が置いてあり、既に料理がいくつか用意されていた。ヒラメのムニエルだろうか。こうなってしまうと、あの特徴的な外見も意味を為さない。皮を剥げば等しく肉だけがあるというのは言い得て妙だと思った。
摩子がガラス戸を開けて出て来た。
「いらっしゃい。あ、そちらの方がお客さんね? 初めまして、中津原摩子と申します」
「や、これは丁寧に。私は名嘉伊一佑です。支我ないビーチコーマーで、それでその日を暮らしています」
「え、ビーチコーミングをなさるの? それは大いに興味があります」
摩子は口角を上げた。確かに彼女はその手の品々が大好物だ。
「ああ、でも、まだメインに手を着けていないのです。ゆくちゃん、名嘉伊さん、まだちょっとお待ちを……」
「まだなら手伝いましょう。パスタなら自信があるのです」
名嘉伊がそう申し出たので、ふたりは家の中に消えていった。塩茹でしただけのパスタで満足している行方には手が出せないので、テラスに腰掛けて、青々とした空と海、そして、そこに意思もなく流れる雲を眺めた。今日は空の青が濃く、海と同じように見える。
まるでデカルコマニーだ。雲は後付けの飾りだ。海となる方には淡い白の絵の具で波を描こう。
遠くを眺めると過去が湧き出す。まだ、ユキマサがユクエだった頃の記憶だ。入る殻を間違ってしまった自分の髪にネモフィラを、あの日々の残滓をそっと。灯鏡翠季、そして、希舟茜。今はもういない友人たち。彼らの描いたネモフィラを、今も心臓の奥深くに活けている。
そういえば、名嘉伊が翠季の父親だと知ったのは最近だ。
翠季と茜の間には子供がいた筈だが、今は何をしているだろう。彼らの子供なら、きっと普通の子供とは違う性質をしているのだろう。
「できたよー」
摩子と名嘉伊がパスタを手に戻って来た。さっぱりとしたシーフードの匂いがした。同時に檸檬の匂いもした。きっと、摩子の得意なレモネードだろう。何もかもが久し振りだ。
三人は椅子に座り、フォークを持ち次第、料理に手を伸ばした。
ヒラメのムニエル、イカの刺身、エビマヨにシーフードパスタ、そしてレモネードという何処かとち狂ったメニューだ。でも、この散らばりが行方には心地が好かった。
まともな食事なんていつ振りだろうか。やはり、パスタは塩茹でしただけではなく、もっと味付けをした方がいいらしい。
「進捗はどう?」
唐突に摩子が行方に訊ねた。
「悪くないよ。でも、期限はないからゆっくりやるよ。僕が僕を妥協できるまでは描き続けるつもり」
「そっか。身体を壊さない程度に頑張ってね」
「うん」
「あのね、私は、君の才能は世界でここだけだと思ってるから」
「大袈裟だよ」
「いやいや。君ほど精緻な風景画を描ける奴が何処にいるのさ。まるで写真みたいに、でも、君らしく彩られた絵……」
「僕は記憶した画像を模写しているだけだよ。立派なことじゃない。オリジナリティなんてないからね」
行方はレモネードをずるずると啜りながら言った。
「そういえば、今日はお天気ですね。去年とは大違い」
摩子がイカの刺身を醤油に浸しながら言った。
「去年はとんでもない台風だったからね。小屋が吹き飛んでしまうかと思ったくらいだ」
「だからこっちに住めばいいのに……」
摩子は口を窄めながら言った。
「あの台風の時、女の子がひとり亡くなったのを憶えていますよ。そのイメージだけ、ずっと鮮明に残ってるんです」
行方がそう言うと、名嘉伊がフォークを握る手を止めた。
「どうしました、名嘉伊さん」
「いや、どうもしないさ。ただ、思い出しただけさ」
「そういえば、名嘉伊さんもあの場所にいましたね」
「ああ、いたね。彼女を探していたからね」
「というと、彼女は?」
「私の孫だよ」
名嘉伊はそう言った。つまり、亡くなった少女は翠季と茜の子供ということになる。そして自分は、その少女が波に逆らって歩いて、やがて消えるのを見殺しにしてしまったということになる。
「……そうだったんですね」
見殺しにしたことを言うべきだろうか。
行方は悩んだ。頭の中で光よりも速く思考が巡った。やはり、言わなければならないことだ。
「えっと……」
「どうしたんだい?」
「僕、その子が海に入っていくのを見ました。確証はないけど、いや、絶対そうだ。もしかしたら、僕は彼女を助けることができたかもしれません。でも、僕は……」
「気にしないでくれ」
名嘉伊はレモネードを片手にそう言った。
「彼女は自分で自分に見切りをつけて終わりを選んだ。あれはあの子の選択で、君が後悔することじゃない」
「……それなら少しは楽に思えます」
ふと行方が前を見ると摩子が泣いていた。彼女の感受性は人よりも優れている、いや、過敏過ぎる。それでも、彼女を想って涙を落とすのは正解だろう。前触れもなく吹いた風が輝きを遠くに拐った。行方は風の吹いた方を見た。ただ、さっきと変わらない、ぼんやりとしてふんわりとした雲が、まるでクロマキーで追加したような違和感を醸し出しながらゆらりゆらりと流れている。
涙が拐われた後、三人は他愛もない話をしながら食事を楽しんだ。他愛もない時間の大切さを各々が知っているから、その話に咲いた花は萎れることはない。レモネードのさらりとした風味が三人を饒舌にした。ゆっくりと時が流れているように思えたが、それはやはり錯覚で、実際には一分間に六十秒が確かに刻まれていた。デカルコマニーの景色だった空と海は次第に色を違うものにしていった。
結局、行方が摩子の家を去ったのは、夏空に火を揺らして降らせたような茜色の時間だった。この忌々しい風景でさえ、「忘れられない」ままで、絵にすることもないのにだらだらと残ってしまうのだ。
名嘉伊とは檸檬畑の出口で別れた。
「またいつか会いましょう」
「ええ。私なら大抵は海岸で彷徨いてますから、いつでもどうぞ。絵、期待していますよ」
「期待していて下さい。この町の海と空の美しさは僕がしっかりと描いてみせます」
行方は名嘉伊の手を握って誓った。
丘から下るには、長くて配慮の薄い勾配を行くことになるが、名嘉伊は「ビーチコーミングで鍛えた足があるさ」と笑いながら歩いていった。
行方は小屋に戻り、電球を灯すと、椅子に腰掛けた。そして、少し眠った。疲れて身体が重くなったのではなく、吐露して身体が軽くなり、その軽くなった分の重さを取り戻そうとして眠ることにした。
名嘉伊にあの絵を見せなかったのは、やはり、最初はあの少年に見せたかったからだ。透明な彼女を見ることができるあの少年に。そして、少年に訊きたいことがあり、それは透明少女のその後だ。彼ならきっと知っているだろうと行方は思った。
行方が眼を醒ますと、既に陽は何処にもなく、月さえもない。今夜は新月らしい。行方は外に出て、ネモフィラに水をやって、遮るもののない場所に立った。狂ったように美しい星が、暗澹とした宇宙で地球を蹂躙するように輝いている。星の輝きは海に投影され、そこにも無数の白や青や赤の点が揺らめいていた。
この夜の空と海もまたデカルコマニーで描いたみたいだ。
彼は背丈の低い草の斜面に仰向けになり、もう少し眠ることにした。