第90話 父、健闘を祈る
「はぁ……はぁ……やっべぇぇ♡」
上半身裸で汗を流す強靭な肉体を、一心不乱に見つめるクリアブルーの瞳。
その顔は恍惚に歪み、垂れる涎を気にする素振りは全く無い。
「レン……スッゴい♡」
その横で、少年を見つめる金色の瞳。
『師匠』と全く同じ顔を晒し、悩ましい吐息を漏らしている。
この数日で、彼女に一体何があったのだろうか……。
「49っ!…………50っ――ぷはぁ! やったぁぁ!」
枝から飛び降り、拳を高く突き上げる少年。
其処へ、微笑みを浮かべた中年が歩み寄る。
「良くやった。素晴らしいぞ、レン」
「はいっ! ありがとうございます!」
そう、遂にレンカイは懸垂をやり遂げた。
それも、たったの1週間で。
すると、瞳がハートマークになっている大神官長が駆けて来る。
「ラディオ様ぁぁ♡ お疲れ様でしたぁ♡」
「あぁ、有難う」
渡されたタオルで汗を拭うラディオ。
それを肩に掛け、満足そうに少年を見つめる。
すると、レンカイの元にも少女が駆け寄って行った。
「お疲れ様、レン! 頑張ったね……ホントに、スッゴい……♡」
「おう! 師匠に比べたら、まだまだだけどな」
同じく、渡されたタオルで汗を拭う。
その間、少女の瞳は少年に釘付けだった。
この1週間で、レンカイは見違える様に逞しくなっている。
盛り上がった肩、太くなった前腕。
厚くなり始めた背中に、割れ始めた腹筋。
懸垂の他に、腕立て伏せや腹筋、スクワット等々。
ラディオのメニューを毎日こなし、食事管理を行い、促進効果のある軟膏マッサージを受けた賜物である。
「さぁ、レナンが起きる前に、次のメニューに移ろう。腕立て200回だ」
「はいっ!」
「レミアナ、これを頼んでも良いかな?」
「あっ、俺も頼むわ。宜しくな、リータ」
「あはぁ〜♡ ご褒美ですぅ♡」
「勿論。ちゃんと……持ってるからね♡」
女性陣にタオルを渡し、トレーニングに入るラディオ達。
レミアナ達はまたテラスに座り、ギュッとタオルを握り締める。
しかし、徐に鼻の前に持って行ったかと思えば――
(すーっ! はーっ! すーっ! はーっ! ラディオ様の香り……やっべぇぇぇぇ♡)
(くんくん……レンの匂い……クラクラしちゃう……♡)
これである。
大神官長は、もうしょうがない。
しかし、いたいけな少女だった筈なのに。
本当に、たった1週間で何があったのだろう……。
「レミアナ、少し良いか?」
「くひひひひ♡ え、ふぁい!? な、何でしょうか!」
ラディオに呼ばれ、直ぐ様横にしゃがみ込む。
すると、ラディオは上下していた体を止め、申し訳無さそうに此方を振り向いた。
「差し支えなければ……私の上に乗ってくれないか? 少し、負荷を掛けたい」
「え……よ、よよ、宜しいのですか!?」
「……あぁ。君さえ良けれ――」
「ご褒美を有り難うございますッッ♡」
「そう、か……?」
「ではッ! 失礼しますぅぅ♡」
荒い吐息を隠しもせず、ラディオの分厚い背中へ乗っかったレミアナ。
ローブの裾を捲り、地肌が触れる様に女の子座りをして。
大神官長は、触れ合うチャンスを決して逃さない。
「…………では、動くよ」
「は、はいっ♡ はぁ……はぁ……あぁ、ラディオ様……あっつい♡」
今、2人を隔てるのは、1枚の下着だけ。
薄い布越しに伝わる、強靭な筋肉の躍動と汗の湿り気。
蕩けてしまいそうな体温と、思考をグラつかせる香り。
レミアナが、小刻みに震え出した。
(あんっ♡ ラディオ様が、動かれる度に……はぁ……あっ♡ もう、ダメ……ダメダメぇ! 出ちゃうよぉ♡)
大神官長の下腹部は、とうに臨界点を超えていた。
分厚い広背筋が、汗とは別の液体で濡れ始める。
すると其処へ、テラスにひょこっと影が1つ現れた。
「う〜ん……ちちぃ……」
グレナダだ。
眠そうに目を擦りながら、ラディオを求める。
「起きたのか。おいで、レナン」
言うが早いか、とてとてと駆けて来た娘。
例によって瞼は閉じているが、そんな事は問題にならない。
ラディオの匂いと気配があれば、障害物があろうと関係無いのだから。
直ぐにラディオに辿り着き、首元にひしっと抱き着いた。
「レミアナ、少し重心がズレる。気を付けて」
そう言うと、ラディオは娘を抱える為、片腕立て伏せになった。
「え――あっ♡ やだっ、ラディオ様ぁ……激しいですぅ♡」
片手になった事で、背中の筋肉が動きを見せらしい。
その影響を受けて、どこかしらに刺激がいった様だ。
モゾモゾと足を動かし、更にラディオの背中を濡らしていく。
(ふむ、片腕ならばと思ったが……変わらないな)
しかし、当の本人は気付く素振りも無い。
レミアナが乗っただけでは負荷を感じられず、片手でも大した差は無い。
そんな事しか考えられない鈍感さは、最早世界トップレベルである。
「師匠、やっぱスゲェ! リータ、俺にも頼む――うわっ!」
「言われなくても乗っちゃうよ〜♡ あっ……レン、こんなに分厚いんだね♡」
「お……おぉ……」
此方も言うが先か、ぴょんっとレンカイの背中に乗っかったリータ。
しかし、少年は腕を震わせ、動く事が出来ない。
「リー、タ……だはぁ! やっぱ無理だ〜」
「えぇ〜! ちゃんと動いてよレン〜!」
レンカイは地面に倒れ込んでしまった。
リータは頬を膨らませ、ポカポカと背中を叩く。
「お師匠様は片腕であんなに動いているよ!」
「師匠と比べんなよ〜。とにかく、もう終わりっ!」
「〜〜! レンのバカぁ!」
耳をピンと立てたリータは、ぷんぷんしながらテラスに戻って行く。
だが、レンカイは其方を見ようとはせず、地面に伏せたまま。
よくよく見ると、頬から耳から真っ赤に染め上げていた。
(無理に決まってんだろ。あんな……柔らかいなんて、知らねぇし)
そう、リータも師匠同様ローブの裾を捲っていたのだ。
下着越しに伝わる、少女の体温と繊細な肌の感触。
少年は、敏感なお年頃なのである。
しかし――
「レン」
「は、はい!」
「やり直しだ」
「……はい」
何も察せない中年は、容赦しない。
因みに、女性陣は2日目の朝から毎日来ている。
朝の礼拝を終え、何となく様子を見に来た時、そこで目にしたのは上半身裸の愛しの人。
その日以降、大神官長達の肌ツヤが上がった事は、言うまでもない。
▽▼▽
「さて、休憩したら、新たな修行に入ろうと思う」
「はいっ! 頑張ります!」
昼過ぎ、庭で食休みをするラディオ達。
芝の上に座り、暖かな日差しを体に染み込ませていく。
冷たいジュースで喉を潤しながら、頬を撫でる風に瞼を閉じて。
「ちち〜♡」
ラディオの膝に座り、満開に笑顔を咲かせるグレナダ。
頬を撫でられ、嬉しそうに顔を擦り付ける。
すると、ラディオが少年に手招きをした。
少し照れながらも、師匠の横に座り、グレナダの頭を撫でるレンカイ。
「……少し知識を深めよう。刀を貸してくれるかな?」
「はい」
小刀を受け取り、娘に当たらぬ様、慎重に鞘から刀身を抜き出す。
一見すると、何の変哲も無い刀。
只、下緒だけは鮮やかな桜色に染まっていた。
「やはり……レン、この刀について知っている事はあるかな?」
「えと……母ちゃんは、『形見』だって言ってました。多分……アイツの」
「君はどう思う?」
「俺、ですか……実際分かりません。アイツの形見だったら、使いたくないです。でも、でも……何か、母ちゃんの気配がするんです。だから、手離せなくて……あっ、1回手離しちゃいましたけど」
「そうか。では、もう1つだけ聞かせてくれ。母君の角は何本あった?」
「え……1本、ですけど?」
「そうだろうな……これは返そう。決して、手離してはいけないよ」
「師匠?」
刀身を鞘に納め、少年に手渡す。
穏やかに庭を照らす太陽を見上げながら、ラディオは静かに語り出した。
「レン、それは只の刀では無い。鬼人族にのみ造る事を許された至高の武器。『神器』や『竜装』と同格の力を持つ、『妖刀』だ」
「えっ!? これが、妖刀……!」
「そうだ。刀を手にした者に力があれば、妖刀は素晴らしい武器となる。でもね、真の力を発揮するには、鬼人族であり……その妖刀に認められる必要がある」
「それは、どういう……?」
「妖刀は、『鬼人の角』を素材に打ち出される。それは正に、その角を持つ鬼人の分身といって過言では無い。故に、妖刀を授けるのは、親から子、友から友、固い絆で結ばれた者が大半だ」
故に、鬼人の角は希少価値が高い。
元々力のある鬼人を討ち取る事は困難を極め、その死体でさえ、戦場であっても取り合いになってしまう程。
だからこそ、オルフェは角を要求したのだ。
「……それって!?」
「そうだ。モモ姫は見事な双角を有していた。が、君が知る母君は一本角……その刀には、母君が宿っている」
小刀を握り締め、眉根を寄せるレンカイ。
いつも窮地を助けてくれたこの刀。
大嫌いな父親の物だとばかり思っていたのに。
しかしその実、母の愛が、死して尚自分を護ってくれていたのだ。
「母ちゃん……ありがとう……!」
「本当に素晴らしい母君だ。その刀は、君と共に成長していく。そして、君が本当に力を求めた時、必ず応えてくれるだろう。それに……」
少年の頭に手を置き、静かに口をつぐんだラディオ。
『その刀には、もう1人……』、そう言いかけた。
だが、今は伝える時期では無い。
少年の心に余裕が出来たら、その時に伝えよう。
「私が知る限りでも、名を馳せた妖刀は幾つもある。その素材となった鬼人もまた、様々な逸話を持つ者達ばかりだ。【宵鬼】ヨミ、【陰陽鬼】セイメイ、双子の悪鬼【狂鬼】キンカクと【凶鬼】ギンカク、そして【阿修羅童子】。彼等の角で造られし妖刀は、一振りで万の軍勢を薙ぎ払ったという」
「妖刀って凄いんですね……!」
「あぁ。だからこそ、使い方を間違えてはいけないよ。そうだ、その刀の名前は?」
「これは、『ユウダチ』って母ちゃんが言ってました!」
「ユウダチ……美しい名だね。その想いに恥じぬ様、頑張ろう」
「はいっ!」
「では、そろそろ始めようか。付いて来てくれ」
そう言うと、庭の石垣を超え、家の裏手に来たラディオ達。
娘を石垣の上に座らせ、動かない様に言い聞かせる。
そして、等間隔で地面に穴を開け始めたのだ。
それも、指一本で。
「レン、少しの間レナンを頼むよ。私が良いと言うまで、君も動かないでくれ」
程なくして、円形に穴を開け終わったラディオ。
その中心部に移動し、地面に手の平を当てる。
すると、ラディオの体から燃え盛る様に紅いオーラが溢れ出して来た。
「《五色竜身・紅》……《竜骨》」
掛け声と共に、地面に掌底を撃ち込む。
すると、軽い地響きの後、大きな音を立てて地面が崩れ落ちていくでは無いか。
呆気に取られたレンカイは、どうにか走り出すのを留まるが、目の前には巨大な穴。
半径20mはありそうだ。
「レン、レナンを抱いて降りて来てくれ」
言われるがまま、グレナダを抱き締め走るレンカイ。
覗き込むと、すり鉢状に開けられた穴は深さ10m程。
その中央にラディオは立っている。
壁伝いに滑って着地したレンカイは、グレナダを渡す。
気付けば、足元と下の方の壁は泥状に変化していた。
「では、健闘を祈る」
「え……師匠!?」
それだけ言い残し、ラディオは一瞬にして外へ飛び上がってしまった。
1人残された少年。
何が始まるのかと、上を見上げた瞬間――
「うわぁ!? くっ! 何だ!?」
突如、眼前に現れたオーラの拳。
間一髪で側方に転がり、臨戦態勢を取るレンカイ。
自分と同じくらいの背丈の人型のオーラが、拳を構えている。
すると、嬉しそうな声が頭上から響いて来た。
「素晴らしい……よく避けた。だが、戦闘中に目を離すのは、愚行だぞ」
「師匠――うわっ! このぉ! これは何ですか!? ぐっ……クッソぉぉぉぉ!」
息もつかせぬ猛攻が、レンカイを襲う。
人型のオーラは、休む事無く的確に急所を狙って来るのだ。
必死に躱す少年を見つめながら、ラディオの眼差しが鋭く変化していく。
「どこまで『乱取り』に耐えられるか……見ものだな」




