第89話 父、条件がある
「良く体を解しておくんだよ」
「はいっ!」
翌朝、まだ陽も上らぬ頃、ラディオ達は庭で柔軟体操をしていた。
今日から本格的に修行が始まる。
体が解れてきた所で、ラディオは魔力を込めながら少年に声を掛けた。
「レン、これから君に教えるのは、『試合』ではなく『戦闘』だ。だがそれは、命のやり取りを制する為では無い。それは、必ず生きて帰る為。再三言うが、私の修行は厳しい……付いてこれるかな?」
「はいっ! 宜しくお願いします!」
「……良い目だ。少し待ってくれ、《竜体使役》」
ラディオから溢れ出した大海の如き蒼色のオーラが、見る見る巨大な竜へ形を変えていく。
それは屋根に寝そべると、家を包み込む様に両翼を広げた。
突然の光景に、呆気に取られる少年。
「よし、これでレナンは大丈夫。では、行こうか」
「……え、あっ! はいっ!」
巨大なオーラの竜は、さながら家の守護神の様に鎮座している。
勿論、使命はすやすやと眠る愛娘を護る為。
その為だけに、一個大隊を相手に出来る程のオーラを放ったのだ。
「先ずは森の外周を、そうだな……10周しようか」
「が、頑張ります!……ははっ」
和かに微笑んだラディオが、先頭を切って走り出す。
その後ろをレンカイも直ぐに追い掛けるが、振り返れば見える巨大な竜。
少年は、思わず笑ってしまうのであった。
▽▼▽
「中々良い速度だった。明日は、少し上げようか」
「はぁ……はぁ……はいっ!」
陽が顔を出し始めた頃、ラディオ達は外周を終えて帰って来た。
汗もかかず、涼しい顔の中年。
対して、脇腹を抑え息を整える少年。
だが、互いに満足のいく顔をしていた。
「これから2週間、毎朝走るぞ」
「はぁ……はぁ……ふぅ。2週間、ですか?」
「あぁ。丁度その頃、ギルドで『昇級試験』を行うそうだよ」
「うわぁ……頑張ります! 次はどうしますか!」
昇級試験と聞いて、瞳を輝かせたレンカイ。
やはり、修行をする上で強くなった実感は必要である。
それがやる気に繋がり、更に身が入ると言うもの。
レンカイは腰に差した小刀を取り、次のメニューは何なのかと期待に胸を膨らませた。
だが、小刀を受け取り、何故かテラスに置いたラディオ。
ポカンとする少年を他所に、竜のオーラを回収しつつ、穏やかな笑みを浮かべる。
「先ずは、基礎体力をつけてもらう。次は、懸垂だ。初日だから……50回にしておこう」
「懸垂、ですか……」
庭に入ったレンカイは、革のグローブを手渡された。
「それを着けたら……ふむ、この枝で良いだろう。ぶら下がってくれ」
言われるがままグローブを着け、枝に飛び上がった少年。
同じ様に、ラディオも更に高い枝にぶら下がる。
この時、レンカイは少しガッカリしていた。
仮にも、冒険者として迷宮に潜っていた身である。
懸垂なら、軽く100回は出来るのに。
早く実戦形式で修行がしたい。
ならばと、意気込んで懸垂を始めるが、直ぐ様ラディオの待ったが入った。
「レン、それでは駄目だ。これからやる懸垂では、1回に60秒掛けてくれ」
「え……60秒ですか!?」
「そうだ。順手でも逆手でも構わないが、最初は逆手の方が良いだろう。顔を枝の上に出すまでに30秒、そこから顔を下ろし、腕を伸ばし切るまでに30秒だ。見ていてくれ」
そう言うと、ラディオは懸垂を始めた。
腕を伸ばし切った状態から、徐々に持ち上がっていく体。
まるで足場を使っているかの様に、綺麗に上へ向かっている。
枝と顔が平行になった時の、上腕の太さたるや。
そして、またゆっくりと体を下ろしていく。
「さぁ、これを50回だ。それが終わったら朝食にしよう」
「わ、分かりました!」
ダランと枝にぶら下がり、『ふぅ』と呼吸を整える少年。
指から腕、全身へと力を込める。
先程のラディオの様に、出来る限りゆっくりと体を上下させる。
腕を伸ばし切った瞬間、額から汗が吹き出し、体温が高まっていく。
「ぷはぁ! キッツい……!」
想像していた懸垂とは、次元が違った。
普段のやり方は、全身の反動を使っていたに過ぎない。
それを、意図的に秒数を使う事によって、反動を殺し、筋肉の力だけで持ち上げなければならないのだ。
そして、更にキツイのは下りる時。
重力で引っ張られる体を、筋肉によって位置を固定しながら、体勢を維持していかなければならない。
たった1回で上半身が悲鳴を上げてしまうのに、50回も出来るというのか。
しかし、中年は容赦しない。
「それでは駄目だ。今は上下で20秒も掛かっていない。上げるのに30秒、下ろすのに30秒だ。やり直し」
「え……」
絶句。
確かに数えていた筈なのに。
しかし、実際は余りのキツさによって、カウントがドンドン早まってしまっていたのだ。
現実を突きつけられた挙句、既に腕は震えてしまっている。
「秒数と懸垂の回数は、この子に任せよう。30秒経ったら鳴いて教えてくれるし、50回終わったら消滅するからね」
そう言うと、《竜体使役》で手の平サイズの竜を作り出し、レンカイの枝に止まらせた。
一定の間隔で首を振り、30回目に『ギャオ!』と一鳴きする可愛らしい竜。
只、今の少年にはそうは映らない。
「要領は分かったね。そうそう、1度でも秒数を間違えた場合は、また1回目からやり直しだ。では、始めよう」
「くっ……うぉぉぉぉ!」
伝えられた、更に残酷なルール。
厳しいと言う言葉を舐めていたと、少年は痛感する。
だが、同時に強い期待も押し寄せて来た。
この人の言う事を聞けば、必ず強くなれると。
何食わぬ顔で懸垂をこなす中年の横で、少年の気合いを込めた雄叫びが木霊する。
▽▼▽
「にーちゃー! がんばるのだ〜!」
昼前、レンカイは未だ懸垂を終えられずにいた。
どうにか最高7回までは頑張ったが、それ以上は無理だった。
枝を離してしまえば、『やり直し』という言葉が聞こえて来る。
気付けば陽も高くなり、グレナダも起きて来たと言う訳だ。
しかし、最早ぶら下がるので精一杯。
全身から滝の様に汗が流れ、疲労が全身に蓄積されている。
(はぁ……はぁ……どんどんキツくなってく……これを、後43回も……!)
何度落下しただろう。
その度に、体を持ち上げるのが辛くなる。
だが、ラディオは猶予を与えない。
レンカイは枝を握り締め、最後の力を振り絞る。
「くっそ……おらぁぁぁぁ!」
竜の首振りに合わせて、徐々に持ち上げる体。
枝を超え、また下ろしていく。
ゆっくり、ゆっくり、筋肉の限界を超えて。
しかし、腕が伸びきった時、堪えきれずにまた落下してしまった。
「うあ!……くそぉ……もう、1回……」
だが、もう体力の限界だった。
指先の感覚は無くなり、腕は痙攣を始め、動かす事もままならない。
胸筋や広背筋、腹筋にも鈍い痛みが走る。
でも、やらなければ。
フラフラと立ち上がった少年が、また枝を掴もうとした時、穏やかな声が聞こえて来る。
「レン、一先ず昼食にしよう」
「はぁ……ふわぁ〜……」
力無く座り込んだ少年。
腕をダランと投げ出し、全身で息をしている。
すると、首元に冷んやりとした感覚を覚えた。
見ると、ラディオが軟膏を塗り込み、首から肩、腕とマッサージをしてくれていた。
「師匠……ありがとうございます。冷たくて気持ちいい……」
「良く投げ出さなかった。偉いぞ、レン」
『はぁ』と寛ぐ少年を見ながら、誇らしげに笑顔を見せるラディオ。
初日でこなせない事など、最初から分かっている。
だが、レンカイは挫けなかった。
落下すればするだけ、体に辛さと疲労が蓄積されていくのに。
それでも、少年は果敢に挑んだのだ。
これこそ、ラディオの求めた結果。
諦めない心と、挫けない精神。
これがあれば、『戦闘』に置いてどんな状況になったとしても、この子を生きて帰してくれるだろう。
頑張った弟子を労う為、ラディオが筋肉を解していると――
「レナンもぬりぬりするのだ〜!」
テラスから駆けて来たグレナダが、ラディオの腕に絡み付く。
「そうか。では、こっちの腕を塗ってくれるかな? 兄さんは頑張ったからね。優しくしてあげるんだよ」
「あいっ♡ 」
「レナン、ありが――あははっ! くすぐったいよ〜」
「きゃはははっ! にーちゃわらったのだ〜♡」
ちちから軟膏を貰い、小さな手で腕を摩るグレナダ。
だが、只ナデナデしてるだけなので、レンカイは堪らず笑い声を上げる。
そんな微笑ましい光景に、ラディオの頬はどんどん緩くなっていた。
「そうだ、昼食を食べたら買い物に行こう」
「え、はい。分かりました!」
「ちちっ! ちちっ! けーきかうのだ!?」
「えぇ〜? 昨日いっぱい食べたろ〜」
「そうだね。レナンが塗り塗りを頑張ったら、買いに行こうか」
「あいっ! レナンがんばるのだぁ♡」
「師匠!? ちょっと……あはははっ!」
ケーキと聞いて瞳を輝かせたグレナダは、更にナデナデを激しくしていく。
すると、楽しそうに声を上げる子供達。
そんな2人を、ラディオは嬉しそうに見つめていた。
▽▼▽
「レナン良かったな〜。師匠がケーキ買ってくれて」
「あいっ♡ にーちゃとはんぶんこっなのだ!」
買い物を終え、家までの坂道を歩く。
手を繋いで歩く子供達を見ながら、少し後ろを歩くラディオ。
ランサリオンに沈む夕陽が3人を照らし、穏やかな空気が流れる黄昏時。
その時、先に家に着いた筈の少年が、此方に駆けて来た。
何やら驚いた様子で、ラディオに訴えかける。
「し、師匠! に、にに、庭に……庭に何かあります!」
必死に家の方を指差すレンカイ。
すると、少年の頭に優しく手を置いたラディオは、感心した様に頷くのだ。
「ふむ、流石だな。本当に半日で終わるとは。工務店に御礼を言いに行かなければ。さぁ、一流の仕事を見てみようか」
「え……」
ラディオに促されながら、坂道を上っていく。
すると、庭には尻尾をブンブン振ってソワソワしている娘の姿。
「ちちーっ! おうちふえたのだー!」
「これは、兄さんの部屋だよ。しかし……本当に素晴らしい出来だ」
庭に植えた2本の大木。
その内の1本を巧みに使い、造られた螺旋階段。
そして、枝を密集させ足場を作り、その上にワンルーム型の部屋が設置してある。
大きな窓からは、リビングが見え、大木と家を繋ぐ渡り廊下も完璧な出来栄え。
「師匠……今、俺の部屋って……」
「そうだ。昨日発注を掛けてね。今日買った家具も、もう届いている筈だよ。君の家は、此処にある。そして、君だけの部屋が、彼処にあるんだ」
少年の肩を抱き、優しい笑顔を浮かべるラディオ。
レンカイは瞳を輝かせ、それに負けないぐらいの笑顔を見せた。
「俺、嬉しいです……ありがとうございます!」
そう言うと、『自分の部屋』に駆けて行った少年。
『あぁ〜!』と羨ましそうな声を上げる娘を抱き上げ、ラディオもその後を追う。
部屋に入ると、樹上とは思えぬ程広々とした空間が広がっていた。
大きなベッドに小机、本棚と箪笥。
仄かに香る木の匂いと、温かな色調。
レンカイはベッドにダイブすると、天井を見上げながら溜息を漏らした。
「にーちゃ! レナンもとぉっ!ってするのだ〜!」
ラディオの腕から降りると、グレナダもベッドにダイブする。
寝そべりながら、笑い合う2人。
一方、部屋の隅々まで見て回るラディオは、ドワーフの仕事に感嘆の唸りを上げていた。
「造り込みも素晴らしい。何と、こんな所まで……ふむ、期待を裏切らないな」
ぶつぶつ言いながら細部を眺めていると、グレナダが足に絡み付いて来た。
両手を広げ、抱っこをおねだりして。
ラディオは頬をゆるっゆるにしながら、優しく娘を抱き上げる。
「ちち〜、おなかすいたのだぁ〜」
「そうだね。直ぐに晩御飯にしよう。そうそう、この部屋を使う上で2つ条件があるんだ」
ベッドに座り直し、ラディオの言葉に耳を傾けるレンカイ。
一体、何を求められるのだろう。
そう思うと、少し緊張してしまう。
「1つは、この部屋は君の物だ。どんな遠慮もする事無く、自由に使う事」
「え……?」
想像していたものと随分違う。
レンカイは困惑するが、ラディオは微笑んだまま。
そして――
「もう1つは、家に居る時は私達と食事を取る事。これだけは外せない絶対条件だ。守れるかな?」
「……はいっ! 絶対守ります!」
少年は、満開に咲かせた笑顔で頷いた。
それを見たラディオは、『そうか』とレンカイの頭を撫でる。
「約束だよ。では、降りて晩御飯にしよう」
「あいっ♡」
「はいっ!」
3人は笑い合いながら、ツリーハウスを後にした。




