第76話 父、頑張りを褒める
カコーーン……
均整の取れた鹿おどしの音が、心地良く反響する大浴場。
沸き立つ湯気のカーテンをくぐると、20畳分はあろうかという、巨大な浴槽が見えて来る。
光沢のある漆黒の石で造られたその中には、乳白色のお湯が並々と注がれ、ポコポコと楽しげに気泡を出していた。
楕円形の浴槽から向かって右手の壁際には、屋根付きの洗い場が3つ。
檜の様な、清々しい香りの木材で造られている。
同じ木材で組まれた塀を背に、向かって左手には、壁を廃したオーシャンビュー。
見上げれば、満点の星空と満月の優しい灯り。
大浴場を照らす明光魔石と混ざり合い、神秘的な雰囲気を醸し出す。
心打たれる見事な景観。
そう、此処は『露天風呂』だ。
伝説の名工であるギギが、その能力を遺憾なく発揮して―無駄遣いとも言うが―拵えたもの。
ロッジの二階から渡り廊下を伸ばし、岩山を巧みに使って造り上げた。
それも、たったの半日で。
カコーーン……
「ふぅ……」
そんな露天風呂の洗い場に、1つの影。
全身を隈なく覆った泡を、行水の如く豪快に流していた。
初雪の様な白い肌に張り付いた美しい長髪を、さっと搔き上げ一纏めにする。
水滴の弾けたその姿は、もぎたての果実の様に瑞々しい。
何とは無く空を見上げると、脱衣所から楽しげな声が響いて来た。
「きゃははっ♡ おぉ〜! きれいなのだ〜!」
やって来たのは、すっぽんぽんのグレナダだ。
これから風呂に入るのだから、裸である事に何ら違和感は無い。
しかし、どこから着ぐるみを脱いで来たのだろうか。
真紅の瞳をキラキラと輝かせながら、露天風呂を見渡すと、一目散に浴槽へ駆けて行く。
縁の丸石に立ったグレナダは、右手を突き上げ、何やらポーズを決めると――
「りゅーきしレナン、さんじょーなのだっ! とおっ!」
名乗り口上と共に、浴槽へダイブした。
湯を飛び散らせながら勢い良く上げた顔には、『やってやった感』が漂っている。
すると、再び脱衣所から誰か飛び込んで来た。
「……遅かったか」
渡り廊下で着ぐるみを拾いつつ、急いで娘の後を追いかけて来たラディオ。
服を脱いでいる時には、既に水しぶきの音が聞こえてしまっていたのだが。
ここで、洗い場にいた人影が反応を見せる。
それそもその筈、いきなり裸体の中年が飛び込んで来たのだ。
羞恥心から、悲鳴が上がるのも時間の問題だろう。
若しくは……『劣情の喜び』かも知れないが。
何はともあれ、すっと立ち上がった人影が口を開くと――
「ふむ、中々体の使い方が良いぞ。小さき王は、筋が良い様だ」
聞こえて来たのは、感心した様な低い声。
何と、瑞々しい果実の正体はエルディンだった。
とても紛らわしいのだが、このハイエルフは極めて美形である。
元々美形揃いの種族の中でも、特に群を抜いて。
更に、普段外で活動しない事もあって、色白の肌は女性に負けず劣らずきめ細かい。
更に更に、常に寄っている眉間の皺を除けば、長い睫毛にくっきりとした目鼻立ちと、流れる様な長髪という特徴。
これだけで、女性と見紛うには充分過ぎたのだ。
「きゃははっ♡ たのしいのだぁ〜♡」
パチャパチャと湯を叩きながら、グレナダは満面の笑みを零す。
しかし、ラディオはふぅと軽い溜息を吐き、浴槽の縁へしゃがみ込んだ。
「レナン、いきなり飛び込んだり、走ったりしてはいけないよ。他の人に迷惑が掛かるからね」
「あい……ごめんなさいなのだ……」
ラディオに注意を受け、シュンとしてしまうグレナダ。
顔半分を湯に浸け、ブクブクと泡を立てる。
すると、ラディオはふっと微笑み、娘を抱き上げた。
そして、ギュッと抱き締めながら、優しく頭を撫でる。
「それに、とても危ないからね。怪我が無くて良かった」
「……ちちっ♡」
こんなにも幼いのだから、失敗や間違いは当然だ。
だが、グレナダは注意を聞き入れ、素直に謝る事が出来る。
ラディオは、そんな娘が愛おしくて仕方が無かった。
「すまなかったね、エル」
「エルぅ……ごめんなさいなのだ」
「ふっ……子供はそうで無くては。何より、筋が良いからな」
エルディンはグレナダの頭をわしゃっと撫でると、満足げに浴槽に向かった。
先程から言っている『筋が良い』の意味は全く分からないが、此方にもグレナダは謝る事が出来た。
ラディオには、それだけで充分である。
「さぁ、髪と体を洗おうね」
「あいっ♡」
ちちの太い腕に抱かれ、嬉しさと安心感から、グレナダはご機嫌に尻尾を振り振りする。
2人は洗い場へ移動すると、対面になる様風呂椅子に座った。
ここで、ラディオは感嘆を覚える。
娘が持って来た風呂椅子は、自分専用と言って良いサイズのもの。
尚且つ、滑って落ちない様に、両縁がU字型になっているのだ。
ここまで気を配るとは、流石伝説の名工である。
「手を出して……これで良し。洗ってごらん」
「あいっ♡」
出された小さな両手の上に、シャンプーを適量落としていくラディオ。
自分も手に取り、軽く混ぜ合わせ頭を洗っていく。
グレナダはちちの真似をしながら、角付近をくしくしと一生懸命に擦り始めた。
暫くすると、ラディオに向かって元気良く手を挙げる。
「ちちっ! あらったのだっ♡」
眩い笑顔を見せる娘。
しかし、泡立っている部分は角付近のみ。
更に、グレナダは腰程まで伸ばした長髪なので、全く洗えていないと言って良いだろう。
それでも、ラディオの頬はゆるっゆるに崩れ、娘の頑張りを褒める。
「しっかり自分で洗えて偉いね。じゃあ、今度は父の番だよ」
「あいっ♡」
指が引っ掛からない様に、優しく髪をほぐしながら丁寧に泡立てていく。
その間、グレナダは本当に嬉しそうに尻尾を振っていた。
これが2人のいつもの光景。
自分で出来る所までやった後は、ラディオが仕上げる。
幸せな『普通の日常』の一時だ。
「流すから目を瞑って」
シャワーを使い、丁寧に泡を流していく。
綺麗に洗い終えると、髪のお湯を切りつつ、お団子ヘアーに纏める。
顔を洗ってやると、これまた幸せそうに笑うのだ。
「次は体だよ。レナン、うーん」
「うーーん♡」
ラディオに言われた通り、顎を上に向けるグレナダ。
首から肩、腕から胴体、そしてお尻や足をたっぷりの泡で包んでいく。
足の裏を洗うと、グレナダが笑い声を漏らした。
「きゃははっ♡ くすぐったいのだぁ♡」
「次は尻尾だよ。後ろを向いて」
「あいっ♡」
最後は、身長とほぼ同じ長さを持つ、鱗の生えた太い尻尾だ。
傷を付けないように注意しながら、少し力を込めて擦っていく。
「さぁ、流すよ」
「ちち〜? りゅうさんは〜?」
「……そうだね。《竜体使役》」
ラディオが魔力を込めると、30cm程の蒼い子竜のオーラが3体現れた。
グレナダはいつも登場するこの子竜を、非常に気に入っている。
「竜さんが流してくれるからね」
「あいっ♡」
子竜達はグレナダの周りをフワフワと飛び回り、温かな水流を掛けていく。
嘗て、母が愛を込めてしてくれた様に。
綺麗に流し終わった後は、お待ちかねの浴槽だ。
少し熱めのお湯にゆっくりと浸かる親子。
「……ふぅ。レナン、熱くないかな?」
「きもちいいのだ♡ ちちっ! みてっ! うみなのだ〜♡」
「本当だね。とっても綺麗だ」
ラディオ達がオーシャンビューを堪能する傍らで、ハイエルフは瞼を閉じてじっと浸かっていた。
時折、満足気に『ふぅ』と息を吐いている。
「レナン、20数えたら上がろうか」
「あいっ♡ いーち、にーい、さーん――」
ラディオが娘と共に数を数えていると、突如巨大な魔力反応を感知した。
このとてつもない濃度は、尋常ではない。
ラディオとエルディンが、グレナダを背にして立ち上がった瞬間――
怒轟ッッッッ!!
耳を劈く爆発音が木霊する。
そして、雨の様に火炎の礫が降り注いで来た。
一体何が起こったのか。
話は、少し前に遡る。
▽▼▽
少し前の『女湯』――
「はぁ……はぁ……ラディオ様ぁぁ……♡」
絶景のオーシャンビューを見る事も無く、風呂を堪能する訳でも無く、渡り廊下と浴場を隔てた壁に張り付く物体が1つ。
煌めくプラチナブロンドの髪をお団子に纏め、たわわに実ったメロンをたぷんと揺らしながら、全裸で荒い吐息を漏らす物体。
勿論、大神官長である。
ギギから露天風呂の事を聞いていた一同。
食後、早速入浴―当の本人は酔いつぶれてしまったが―する事となった。
すると、グレナダは一目散に男湯の方へ駆けて行き、ラディオもその後を追って行く。
この時、レミアナはしれっとその後ろを付いて行こうとしたが、英傑と御手伝いに阻まれてしまう。
渋々女湯に向かい、今に至るという訳だ。
「あぁ……はぁ……向こう側に……ぜ、全裸の……ラディオ様がっ♡♡」
軽く涎を垂らしながら、眼球が飛び出そうな程壁を凝視するレミアナ。
この壁の向こうに、愛しのラディオが居ると思うと劣情を抑えられないのだ。
「ラディ……あんっ♡ ラディオ様の……あぁん♡ はぁ……はぁ……ラディオ様ぁぁ♡♡」
余りの興奮に、たゆんたゆんなメロンの先端が元気になってしまったらしい。
壁に張り付きながら悶えているので、丁度擦れる様だ。
大神官長の変態性は、最早救いようが無い。
すると、レミアナの横にすっと並んだ者が1人。
「うふふ……お先に失礼しますわ」
ニャルコフだ。
褐色のばいんばいんを揺らしながら、ニヤリと微笑むと、体に魔力を込めていく。
「《メタモルフォーゼ》」
「あぁーー!」
詠唱と共に眩い光に包まれたニャルコフは、その姿を猫へと変化させたではないか。
行使したのは『変身魔法』、その目的は勿論……男湯への乱入である。
レミアナを煽る様に一鳴きすると、器用に壁を登り始めた。
「させないわ! 《ホーリーウォール》!!」
今にも壁を飛び越え様とした瞬間、ニャルコフの体が光の壁に弾かれる。
驚きの声を上げながら浴場に着地したダークエルフは、元の姿に戻りながら険しい顔を見せた。
「……やりますわね」
「抜け駆けは許さないんだからっ!」
バチバチと火花を散らす2人。
とてつも無く不純な動機を晒しながら、激しい攻防を始めてしまった。
「お〜お〜、元気じゃのぉ」
浴槽の縁に両手を投げ出しながら、風呂を堪能しているサニア。
暴れ出した2人を見て、面白そうに笑みを零す。
その横には、耳をピクピクとさせながら、熱めのお湯を少し我慢しているカリシャ。
そして、そんな2人の眼前に浮かぶ純白と褐色のメロンメロンを、限りない羨望を持って見つめるトリーチェ。
女性陣は、それぞれ露天風呂を満喫している様だ。
「これならどうですの! 《スタックシャドウ》!」
「何よ、何にも起こら……きゃっ!? 何これぇ! 体が動かない……!」
尚も暴れていたレミアナ達。
だが、ニャルコフが放った魔法によって、レミアナの動きが止まってしまう。
《スタックシャドウ》とは、オーラの楔を対象者の影に突き刺し、動きを止めるというもの。
身体的ダメージは無いが、込める魔力量によっては、大型のモンスターでさえ動きを封じられてしまうのだ。
「うふふ……これで邪魔は出来ませんわ。貴女のご主人様に対する想いは、その程度だと言う事ですわ〜!」
「何よそれ……聞き捨てならないんですけどぉ!」
ニャルコフの挑発が、レミアナの怒りに火を点けた。
レミアナが全身に力を込めると、純白のオーラが止めどなく溢れ出す。
それは『聖なる光』であり、闇属性を打ち消す力。
【幼き聖女】の魔力は、ダークエルフの楔を消し飛ばし、尚も膨らんでいく。
「ニコ……私の想いを見なさい! はぁぁぁぁ!!」
レミアナが両手を前に突き出し、魔力を込めていく。
集められたオーラは大気を震わせ、次第に紅蓮の炎へと姿を変えた。
「それは……何ですの!?」
「ふっふーん! 私の得意魔法、《ファイヤーボール》よ!」
「馬鹿な……! それが最下級魔法である筈がありませんわ! その光、その魔力密度……上級クラス!?」
ニャルコフの見立て通り、レミアナの《ファイヤーボール》は最下級のそれでは無い。
それは何故なのか。
元々レミアナは、人知を超えた規格外の魔力量を有している。
そして、生まれながにして持つユニークスキル、【無限への解放】によって、『魔力を圧縮』する事が出来るからだ。
そう、ギギが『魔鋼』を製作するにあたって参考にした人物とは、レミアナの事だったのだ。
エルディンに弟子とする事を決めさせた力であり、ギルド生誕祭において【聖痕の洗礼】を1人で発動出来た所以である。
そして、ラディオにその身を預けられた理由もこれが原因だ。
「心配要らないわ、一割も魔力は込めてないから。でも……ちょっとは痛いと思うけど!!」
高密度の魔力で形成された火炎球が放たれる。
ダークエルフは、余りの凄まじさに一瞬たじろいだがすぐに判断を下した。
これを受け切るのは不可能だ。
防衛本能から、咄嗟に横へ回避行動を取る。
「えっ!? ちょっ……あぁ〜! お義母様〜!!」
目標を失った火炎球は、寛いでいたサニア目掛けて一直線に飛んで行く。
左右にいるカリシャとトリーチェも、本能的に危機を察知し浴槽から離れた。
しかし、サニアは動かない。
レミアナの顔も見る見る真っ青に染まっていくが、最早どうしようもなかった。
「ふむ……これはちと危ないかも知れんの、レミアナ」
瞬間、火炎球がグニャリと曲がったかと思うと、軌道を変えた。
そして、少しの静寂を経て、上空に凄まじい爆発音が響き渡る。
呆然と立ち尽くすレミアナ達。
それもその筈、サニアはうーんと大きな伸びをすると、何事も無かったかの様にまた寛ぎ始めたのだ。
「ほれ、其方達も浸かるのじゃ。折角の湯が冷めてしまうぞ?」
ふわりと尻尾を持ち上げたサニアは、女性陣を手招きする様に先端を振り振りした。
火炎球を吹き飛ばしたのは、何を隠そうこの尻尾である。
上級クラスの魔法を、いとも容易く。
これが竜王、世界を司る四王の力だった。
「あ、の……お義母様……?」
余りの事に呆気に取られ、正常に頭が回らないレミアナ。
だが、本当の問題はこんなものでは無い。
自分の身に迫る危機に、まだ気付いていないのだから。
ドシドシと近付いて足音が、脱衣所の扉を力任せに開け放つ――
「貴様は何をしているんだ……この大馬鹿者がぁぁぁ!!」
「ひぃぃ!? ごめんなさぁ〜い!!」
憤怒の形相で現れた師匠。
顔面蒼白のレミアナは、首根っこを掴まれ浴場から退室させられた。
その後、空が白むまでこっぴどく説教を受けたのは、言うまでも無い。




