第70話 父、愛の証として
「ちち〜、まだいかないのだ〜?」
ラディオに抱かれ、此方を見上げながら問い掛けるグレナダ。
風に乗った潮の香りが鼻を刺激し、波の音が耳をくすぐる。
念願の海を目の前にして、興奮を抑えきれない様子。
だが、心苦しく思いながらも、娘を宥めるラディオ。
「ごめんよ。父は……父は大事なお話があるんだ」
頬を膨らませる娘をレミアナ達に預け、テラス席に歩いて行く。
其処で待っているのは、エルディンとサニア。
そして、ニャルコフと同じ首飾りを持つダークエルフだ。
「遅れてすまない」
「とんでもないですわ。私は、いつ何時でも、ご主人様の命に従う所存ですので」
ラディオが着席すると、ダークエルフは穏やかに微笑みを浮かべ、頭を下げる。
その瞳に変わらず恍惚の光を灯し、『ご主人様』を見つめて。
少しの沈黙の後、ラディオは初手から核心を突いた。
「……腹の探り合いは止めよう。君は一体何者だ?」
「勿論、『ニャルコフ』ですわ。 お嬢様から頂いた、私の命より価値のあるものですわ」
「そうか……やはり、そうなのか」
ラディオは、それ以上何も言えなかった。
何故なら、ダークエルフの言葉には『嘘』が無い。
纏う雰囲気、魔力の質、醸し出す匂いまでもが、共に過ごして来た『ニャルコフ』そのものなのだ。
(私の警戒が甘かったのは事実……だが、それならば目的は何だ?)
ダークエルフを見れば見る程、困惑と疑問が溢れてくる。
実は、普段から初見の人・物に対して保険を掛けていたラディオ。
ニャルコフをペットとして迎えたのも、その点について不備が無かったからだ。
ラディオが確認した中では、『只の猫』としての認識しか無い。
だが、今目の前に居るのはダークエルフ。
エルフ族が魔法に長けている事は周知の事実。
中でも、《変身魔法》に秀でているのならば、完全に動物化する事も可能。
でも、だからこそ違和感が拭えない。
ラディオやグレナダの命を狙うのであれば、チャンスは幾らでもあった。
そうでないならば、わざわざ猫に変化して近付いて来た理由は何なのか。
目的が全く見えて来ない。
(……確かめるしかない、か)
すると、ラディオの目付きが変わった。
ダークエルフを見据え、静かにオーラを滾らせる。
真剣な眼差しを向け、ラディオはゆっくりと口を開いた。
「今から、君を良く見させて貰いたい。威圧的に感じると思うが……了承してくれるか?」
「ご主人様の命とあらば、如何様にも」
「では……《竜眼》」
滾らせていたオーラが、目元に集約されていく。
すると、ラディオの瞳が変化し、縦に割れた瞳孔が現れた。
これは『竜の眼』を己に宿し、その能力を得る技。
超長距離を見通す視力、どんな暗闇でも昼の様に見える暗視能力等に加え、この眼の真価はそれだけに留まらない。
例えば、魅了や洗脳、幻術や催眠等を行使する又はされた者は、魔力の流れに『歪み』が生じる。
そして、『竜眼』はその『歪み』を見抜く。
体内の魔力の流れを読み取る事で、外見では判別不可能な、微細な情報まで得られるのだ。
これこそ、ラディオが掛けていた保険の正体。
しかし、普段は瞳が変形する程魔力を込める事は無く、網膜に多少のオーラを纏う程度だ。
何故なら、《竜眼》を発動してしまうと、ラディオの雰囲気がガラリと変わってしまう。
更に、そもそもの問題として、縦に割れた瞳孔はかなり目立』のだ。
しかし、今回はそれが仇となってしまった。
網膜を覆う程度では、全てを読み切れなかったのだから。
だからこそ、今一度ダークエルフを見定める必要がある。
(ふむ……)
上から下まで念入りに見回すラディオ。
本来、ラディオがこの様な無礼な行為に及ぶ事は無い。
了承を得ているとはいえ、気まずさも感じる。
しかし、娘を護る為ならば、背に腹はかえられない。
結果次第では、命を摘む可能性すらある……そう思いながら、慎重に視線を巡らせるが――
(これは……どういう事だ)
何度見ても、結果は変わらなかった。
ダークエルフの魔力の流れは、完璧に読み取れてしまうのだ。
歪みなど一切無く、疑う余地が微塵も存在しない……その事が、ラディオを余計に困惑させていく。
すると、記憶を反芻していたハイエルフが口を開いた。
「お前の見立ては間違っていないぞ、ラディオ」
旧友の苦い表情から、心の内を読み取ったエルディン。
だが、ラディオとは違い、どこか納得した顔を見せている。
「恐らくだが、この娘には他意が働いていた。何故なら、私から見ても、歪みは無いと断言出来るからな。そうなると……既に痕跡は消えた、と考えるのが妥当だろう」
「痕跡は消えた……痕跡……成る程」
エルディンの言葉を受け、ラディオもハッと気が付いた。
そういう事か。
確かに、それならば色々と説明がつく。
「誰が何の目的で、という事は分からんがな。だが、私達の感知をすり抜ける等、それ以外考えられん。だからこそ、小さき王も受け入れたのではないか?」
「……その通りだ。やっと分かったよ、ニャル――すまない。君が猫になった原因は、『呪詛魔法』ではないか?」
「ご明察ですわ」
ラディオの問い掛けに、ダークエルフは柔らかな微笑みで頷いた。
その美しい碧色の瞳に、どこか安堵を滲ませながら。
すると、エルディンが顎を指で叩きながら、残る疑問の1つを投げ掛ける。
「しかし、何故自らの口で言わなかった? コイツの顔を見れば分かるだろう。私達が答えに辿り着かなければ……命が無かったと」
エルディンは不思議だった。
呪詛魔法を掛けた者の事よりも、ダークエルフがその弁明をしない事が。
しかし、今度はラディオが納得した様に頷いて見せたのだ。
「信憑性……ではないかな。私達が可能性を絞っていけば、己で説明するよりも遥かに信頼度が増す。君は、そこに命を賭けたんだね」
胸に手を当てながら、安堵と共に頷いたダークエルフ。
心なしか呼吸が乱れているが、それも当然というもの。
《竜眼》に晒され、横にはエルフ族で知らぬ者の居ない大魔導士と、竜王が座っているのだ。
相当に神経をすり減らしたに違いない。
「言われればそうかも知れないが……何方にせよ、真偽を確かめる術が此方にはある」
エルディンは顎を摩りながら、チラリとサニアの方を見やる。
「妾は余り気が進まぬが……息子と孫の為ならばやぶさかではない。勿論、其方の意思を尊重した上でじゃが」
「いえ……許されるのであれば、私からお願いしたいですわ」
ダークエルフは、ここでもしっかりと頷いて見せた。
この事が、ラディオの確信を強めていく。
ダークエルフは、サニアが『記憶を読む能力』を有していると知っているのだ。
「そうか、では……うむ……そうかそうか。我が息子ながら……罪な奴じゃ〜」
ダークエルフの額に手を当て、記憶を読み取ったサニア。
すると、堪えきれない笑いを漏らし、息子をチラチラと見始めたではないか。
暫くすると、ダークエルフの肩に手を置き、そっと耳打ちをした。
「これは、其方の口から言うのが良いじゃろう。妾は孫の元に戻るぞ。待って居る者達に、説明をしてやらねば。良いか?」
「竜王様の御心遣い、感謝致しますわ」
ダークエルフの言葉に、サニアは満面の笑みを見せる。
そして、息子の肩をバンと叩いてから、ハイエルフを引き連れ孫の元へ悠々と歩いて行った。
何の説明もされずに残されたラディオは、どうしていいか分からない。
すると、ダークエルフが大きく息を吸い、ローブの裾をたくし上げたではないか。
「ご主人様に……見て頂きたいものがありますわ」
ダークエルフは後ろを向き、美しい臀部を露わにした。
頬を赤らめながら、恥じらいと共に顔を伏せる。
しかし、見事に育った褐色の桃の右側には、凶々しい刻印が入っていたのだ。
「その紋章……君は、『裁きの英断』だったのか」
瞬間、ラディオから夥しいオーラが溢れ出て来た。
臨戦態勢に入り、今にも飛び掛からんばかりに。
この時、ダークエルフの命を獲らぬ理由はただ1つ。
サニアが記憶を読み取った後、という事だけ。
それ程迄に、ダークエルフの刻印は危険なものだった。
『裁きの英断』とは、暗殺を生業とした傭兵団である。
その特徴は、類を見ない残虐性と団員全員が持つ刻印。
左半分は女の顔、右半分が髑髏の顔、脳天から剣が刺さり、先の割れた長い舌を覗かせたおぞましいものだ。
更に、その舌に数字を持つ者達がいる。
それらは『業を持つ者』と呼ばれ、若い数字を持つ者程、とてつも無い力を有していた。
嘗ての『大戦』において『魔王軍』側に与した大罪人でもあり、深淵教団と深い繋がりを持つ傭兵団。
ラディオを含め、英雄達と激しい戦闘を繰り広げたのは言うまでも無い。
「……私にそれを見せた事、何か真っ当な理由があると願っている。でなければ……命の保証は出来ない」
ラディオは拳を握り締めながら、何とか椅子に座っている状況だった。
だが、ダークエルフの刻印に数字は無く、女髑髏の顔の周りを、変形八角形が覆っているだけ。
これは、養成の様な扱いであったとラディオは記憶している。
しかし、危険因子である事に変わりは無い。
「ご主人様の仰る通り……嘗て私は、『裁きの英断』として育成を受け、幾つもの命を奪って参りましたわ」
ダークエルフは意を決すると、包み隠す事無く過去を語り始めた。
▽▼▽
ダークエルフが物心ついた時、既にその手は血で染まっていた。
親兄弟の記憶など無く、感情すらも持ち合わせていない。
只々言われた通りに、目の前の命を摘み取る毎日。
それが、『裁きの英断』の育成方法だった。
来る日も来る日も同じ事を繰り返し、いつしか子供は自分だけとなった。
その時、刻印を入れられた。
痛みはあったかも知れないが、もう覚えていない。
その日から、『業を持つ者』の女の元で依頼をこなす事になった。
ダークエルフにとっては、変わり映えのしない日々。
数年、十数年と変わる事は無かった。
しかし、ある日の依頼がダークエルフに転機をもたらす。
それは、『金時計の抹殺』というもの。
ダークエルフは『業を持つ者』と共に、標的の元へ向かった。
『業を持つ者』は言った。
この依頼を達成した暁には、お前に数字を受け継がせると。
『裁きの英断』は、代々数字を受け継ぐ事で存続して来たのだ。
ダークエルフは特に興味も無かったが、依頼は失敗に終わる。
何故なら、相手が強過ぎた。
自分と女を相手に、金時計は思いのまま戦いを制していく。
その時、ダークエルフは初めて感情を持った。
『死への恐怖』と、『生への渇望』だ。
ダークエルフは脇目も振らず、その場から逃げ出してしまう。
それから数年経った頃、ダークエルフはひっそりと目立たぬ様に暮らしていた。
美麗な容姿を持つ事から、貴族や宮廷への潜入に適していると判断されていたダークエルフ。
その為、礼儀作法を叩き込まれていた。
それらを駆使し、辺鄙な村で何事も無く過ごしていたのだ。
しかし、『裁きの英断』は裏切り者を許さない。
とうとう見つかってしまったダークエルフは、捕縛されてしまう。
その後は、熾烈な拷問が待っていた。
何処かに情報を漏らしていないか、執拗に調べ上げる為に。
だが、決して殺す事はしない。
『裁きの英断』にとって、『死』とは至高の褒美である。
苦痛を持って生き永らえる事こそ、最大の罰であると考えていた。
そこで、ダークエルフに2つの呪詛魔法を掛けたのだ。
1つは、《獣化の呪い》。
姿を獣に変え、魔力制御を阻害するものだ。
これにより、ダークエルフは只の猫に変えられてしまった。
もう1つは、《忘却の呪い》。
これは、段々と過去を忘れさせるもの。
完全に記憶が消えた時、ダークエルフは何も出来ない猫に成り下がってしまうのだ。
だが、呪詛魔法と同時に、解呪魔法も掛けられた。
もし、他者から『真の愛』を受け取る事が出来たならば、記憶と共に姿も元に戻るというもの。
感情を知らず、命を摘み取る事しか出来ぬ者には到底無理な話だと、『裁きの英断』は考えたのだ。
野に放たれたダークエルフは、力の限り駆け巡る。
記憶が無くなる前に、『真の愛』を手に入れなければ。
しかし、それは並大抵の事では無かった。
どの街に行っても、どの村に住み着いても、愛玩動物以上の感情を向ける者は現れなかったのだ。
次第に薄れていく記憶の中で、ダークエルフはまた新たな感情を芽生えさせた。
『絶望』という名の、その身を覆う真っ黒な感情を。
それこそ、『裁きの英断』が下した最大の罰でもあった。
どれだけの時間が経ったのだろう。
数年、いや数十年か。
もう走るのも疲れた。
このまま誰にも気付かれず、野たれ死ぬしかないのか。
ダークエルフは、柔らかな草原の上に倒れ込んだ。
もう自分が何者であったかも思い出せない。
痩せ細り、汚れきった傷だらけの『猫』は、力無くそっと瞼を閉じた。
その時――
「ちち〜! ねこちゃんがいるのだ〜!」
ダークエルフが目を覚ますと、温かな毛布に包まれていた。
体は綺麗になり、傷の手当もされている。
すぐ側から、楽しげな笑い声も聞こえて来る。
見覚えの無い場所だと、『猫』は首を傾げた。
すると、目の前に真っ白な液体が置かれたのだ。
「目が覚めた様だね。さぁ、これを。飲み終わったら、また寝なさい」
「ちちっ! にゃるこふげんきになるのだ!?」
「ニャルコフ……? この猫ちゃんの名前かい?」
「あいっ♡ レナンのおともだちなのだぁ♡」
「……そうか。早く元気になると良いね」
そんな会話をしながら、笑顔を向けて来る男と幼女。
恐る恐る液体に舌を付けた猫は、無我夢中で舐め始めた。
とても温かくて、甘くて、優しい味。
それ以来、男と幼女の家に住み着いた。
何とも居心地が良い家で、常に笑顔が溢れている場所だった。
そして、数ヶ月を共に過ごした後、とうとうその日がやって来る。
男は、猫を『家族』だと言ってくれた。
猫の事だけを考えて選んだ『碧色の首飾り』を、その『愛』の証として。
その時、『解呪魔法』の条件が満たされたのである。
『真なる愛』を他者から受け取るという条件が。
こうして、『猫』は数十年の時を経て、全ての記憶を取り戻したのであった。




