第52話 竜の子、笑顔を見せて
雲1つ無い夜空に輝く月明かりが、時折謎の陰に覆われる事がある。
そして、陰が消え去ると、眼前に美しい女が現れると言うのだ。
何もなければ、女も直ぐに去って行く。
だが、そうで無かった場合は……見た者が消息を絶つのだとか。
一方、無事に帰り着いた者は、口々に『驚いた』と言う。
何故なら、眩い閃光に包まれた女が、その姿を変えたのだとか。
巨大な両翼を生やし、強靭な尾を翻して、万物の頂点に立つ『竜』の姿へと。
そして、一飛びで空の彼方に舞い上がり、あっという間に見えなくなってしまう……この辺りには、そんな奇妙な噂が立っていた――
「何をしているのじゃ」
黒曜石と見紛う艶やかな漆黒の毛束が何本も入った、煌めく天の川の様な純白の長い髪。
褐色の肌に良く似合う髪色と同じドレス姿は、息を飲む程に妖艶そのもの。
夜空に浮かぶ星々の如き銀色の瞳を彩るは、世にも珍しい虹色の光彩。
しかし、特に目を引くのは女の頭……耳の上辺りから天を穿つ様に生える、湾曲した一対の大きな角だった。
「あ、あぁ……! や、やっぱり……!」
やっとの事で言葉を絞り出した飼育員は、冷や汗が止まらない。
何故なら、眼前に現れた女こそ、噂に聞く『竜』なのだから。
「答えろ」
竜は冷たい眼差しを向けながら、淡々と質問を繰り返す。
しかし、飼育員達は竜から発せられる絶対的強者のオーラにあてられ、口をパクパクさせるだけだ。
「これで最後じゃ……何をしていた」
「あ、か……その……あ、あのガキを、助けるた――」
斬ッッッッ!!
「あぁぁぁぁぁぁ!!」
瞬間、飼育員の両腕が地面に落ちた。
漆黒の尾に付いた血を払いながら、凄まじい悲鳴を上げる飼育員を睨み付ける竜。
「空言を吐くとは愚かな……正直に言えば、楽に死なせてやったものを」
「あぁぁぁぁ! 痛ぇ! 痛ぇぇぇぇ! あぁぁぁぁぁぁ!!」
「た、た、助けてくれぇぇぇぇ!」
「……情け無い」
すると、仲間の凄惨な姿を見て、もう1人が逃げ出した。
しかし、竜は表情を変える事無く、走り去る背中に向かって手を翳す――
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!」
逃げ去った飼育員は紫色の業火に焼かれ、瞬く間に灰と化した。
「貴様も共に果てろ」
「はぁ、はぁ、やめ――ぎゃぁぁぁぁ!!」
残った飼育員も同じく焼き焦がすと、近くに倒れ伏す少年を見やる竜。
「う、ぐはぁ……くっ! ふーっ!」
「ほう、まだその様な目付きが出来るのか……大したものじゃ」
意識が飛びそうになりながらも、突如現れた存在を睨む少年。
だが、竜はふっと微笑むと、小さな体を飛び越えて女の骸の前に着地した。
「少し覗かせて貰うぞ」
徐にしゃがみ込んだ竜を見て、少年は焦りを募らせた。
2人の男を容易く殺す場面を間近で見ているのだから、それも当然だろう。
これ以上、女の亡骸に好き勝手させる訳にはいかない。
少年は最後の力を振り絞り、地面を這いつくばっていく。
「うむ…………そうか。後は任せて、今は安らか――ふふっ」
屈みこんで女の額に手を当てていた竜は、足元を見やり微笑みを浮かべる。
其処には、足首に噛み付く少年が居たのだ。
ボロボロで、血塗れで、最早指一本動かない体で。
「は、あえろ……! う、うぅ……!」
その時、くしゃりと眉根を寄せた少年。
こうしていないと、瞳から悔しさが零れてしまう。
こんな事しか出来ないのか、亡骸さえ護れないのかと。
それでも、全てを振り絞って精一杯噛み付くのだ。
「うぅ……はある、な――」
「そう怒るで無い」
すると、飼育員達を焼き焦がした時とはまるで違う、穏やかな笑みを見せた竜。
少年の頭を優しく撫でながら、掌から純白のオーラを溢れさせる。
満身創痍だった瞳に力が戻った少年は、自然と噛み付いていた口を離した。
「ふふっ、良い子じゃ。見ておれ」
少年を起こし、側に居る様手振りで示す。
女の瞼をそっと閉じ、純白のドレスで顔の血を丁寧に拭うと、二言三言呟きながら両手を高々と掲げた。
すると、溢れ出した虹色のオーラが女の亡骸を包み込み、ゆっくりと夜空へ昇って行く。
「あ、あぁ……あぁ!」
「心配要らぬ。これは『弔い』じゃ。小さな命を護り抜いた『淑女』は、敬意を払われて然るべきなのじゃ」
『弔い』の意味が分からず少し戸惑いを見せた少年だったが、竜から敵意は感じない。
無意識に竜に寄り添い、ドレスの端をギュッと握り締めながら行く末を見守り始める。
竜はまた微笑みを零しながら瞼を閉じると、それはそれは美しい声で歌い出した。
〜〜〜〜♪
奏でられる音色と共に、虹色の竜達が姿を現す。
女の亡骸の周りを飛び回る姿は、まるで護衛の騎士の様。
すると、ゆっくりと昇っていた体がふわりと止まり、虹色の炎に包まれた。
「あ、うぅ……ぐすっ……」
それは、とても鮮やかで、優しい光。
それを見ていると、知らない感情の波が押し寄せて来る。
雄大に奏でられる音色が心に染み渡り、少年は堪らず声を漏らした。
「ひぐっ……うぅ……んん!」
だが、涙が溢れそうになる度に、声を押し殺して必死に腕で拭う少年。
一度弱味を見せれば、飼育員達は面白がって一層激しく殴り付ける。
いつしか、少年は泣く事が無くなってしまったのだ。
どれだけ痛くとも、どれだけ辛くとも心を殺し、憎悪と怒りだけでその日その日を堪えてきた。
しかし、今は何故だか涙が溢れてくる。
どんなに頑張っても、止める事が出来ない。
「子供が我慢などしなくても良い。泣きたい時は、大いに泣けば良いのじゃ」
足元で懸命に堪える少年に、竜は優しく声を掛けた。
同時に、頭に置かれた手の温もりが少年の心を解き放つ。
「ひぐっ……うぅ……! うぇぇ……うわぁぁぁぁん……! うわぁぁぁぁぁぁぁん!!」
少年は我慢を止めた。
止めどなく溢れる雫で頬を濡らし、大きな声で精一杯喉を枯らす。
女が死んでしまった事は悲しい……だが、それ以上に女を丁寧に扱ってくれた事が、幸せだった。
温かな『愛』で包み込んでくれた事が、本当に幸せだった。
(其方が紡いだこの命……後は妾に任せれば良い。今は只、安らかに眠るのじゃ)
すると、竜が力強く抱き締めてくれた。
大きな安心感に満たされた少年は、一層泣き声を大きくしていく。
そして、愛おしそうに少年の頭を撫でながら、再び竜は歌い出す。
虹色の竜達が、女を燃やし尽くすその時まで。
▽▼▽
夜空に虹色の粒が舞う頃、少年はやっと泣き止んだ。
涙でグショグショになった顔を、竜が幸せそうに拭き上げる。
その時、少年がするりと腕をすり抜け、徐に地面に跪いたのだ。
「……何をしているのじゃ」
掌を上に向け両手を差し出した少年に、竜が悲しさを滲ませた声で問い掛ける。
これは、完全服従の姿勢。
此方に敵意や害意は塵程も無く、相手の言いなりになるという意思表示だった。
それを見た竜は心を締め付けられ、瞳を濡らし始める。
「……何故じゃ」
「あな、た……きた、から……あのひと、わらえ……た。か、ら……いう、こと……きく、ます」
いつも自分を救ってくれた女の最後を、竜が敬意を持って『弔って』くれた事。
そのお陰で、女は幸せに逝けた事。
少年は全てに感謝していた。
只、『幸せ』という感情を初めて経験し、その単語を知らなかった為、『笑っていた』としか言えなかったのだ。
しかし、竜には痛い程に伝わっている。
何故なら、女の記憶の中であれだけ憎悪を向けていた『服従』という行為を、少年自ら容認したのだから。
竜は、対象者に触れる事で記憶を読み取る能力を有していた。
本来ならば、本人の許諾が無ければ絶対に使用しない。
しかし、状況が状況だけに止む終えず女の記憶を読んだのだ。
一目見ただけで、竜が嫌悪する奴隷制度の被害者である事は察していたが、より情報が欲しかった。
何故なら、竜がこの場に降り立ったのは偶然では無い。
少年が放つ膨大な魔力を察知し、急いで飛んで来ていたのだから。
「その必要は無い。其方は、もう自由なのじゃぞ?」
「いう、こと……きく、ます」
尚も頭を上げない少年。
だが、その小さな体は震えている。
「いう、こと……き――」
「もう良いのじゃ! 其方を苦しめる輩はもう居ないのじゃ……! 其方は、妾の村で幸せに暮らせば良いのじゃ!」
堪らず少年を抱き締めた竜。
すると、少年は再びくしゃりと眉根を寄せた。
「……いな、い?」
「そうじゃ! 何も心配は要らぬ。村人達は皆心許せる者ばかりじゃ。だから……もう良いのじゃ」
「いな、い……うぅ……うえ〜〜ん……!」
温かな腕に抱かれ、少年の中に残っていた不安が溶けていく。
少年は最大の恩返しとして、『服従』する事を選んだ。
だが、やはり刻み込まれた恐怖が邪魔をする。
それでも、『弔い』に報いる為に必死にその身を捧げようとしたのだ。
「本当に良く頑張った……もう大丈夫じゃ。後は妾に任せれば良い」
「うぇぇぇぇん! うぇぇぇぇぇぇん!!」
もう涙を止める術が分からない少年。
力の限り少年を抱き締めた竜は、涙で滲む瞳を拭ってやり、優しく語り掛ける。
「妾は其方の事がもっと知りたくなったのじゃ。この手を当てると、其方の全てが分かる。無理強いは決してしないが……嫌か?」
本当に申し訳無さそうに伺いを立てた竜。
だが、少年は嫌な顔一つせずに首を横に振った。
竜は嬉しそうに微笑むと、優しく額に手を当てる。
(…………これは何じゃ)
記憶を読んでいる途中で、竜は激しい怒りを滾らせた。
少年が受けて来た拷問は常軌を逸している。
まだ年端もいかぬ幼い子供にする事では、断じて無い。
(この落とし前は必ずつけてくれようぞ……!)
少年に怒りを悟られない様に注意を払いながら、竜は今後の動きを1つ確定させた。
しかし、記憶を読み取っていくと、今度は驚愕を覚える事となる。
(まさか……あの力は《絶対王者》だったのか……! そうか。これは……『運命』やも知れぬな。そうじゃろう、ダンテ)
膨大な魔力の正体は、竜の良く知る力だった。
それは数百年前に遡り、以来発現させた者は居ない。
確かに、良く見れば黒髪に黒目の少年の顔には、愛しい既視感がある。
竜は『運命』の不思議さに戸惑いながらも、覚悟を決めた様な凛々しい眼差しを見せた。
「其方に提案がある……妾の息子になってはくれぬか?」
美しい銀色の瞳を愛で満たし、竜が問い掛ける。
だが、少年は何と言えば良いか分からず、俯いてしまった。
「これも無理強いは出来ぬが……駄目、か?」
何も答えられない少年。
困った様な顔を浮かべ、チラチラと此方を見るだけだ。
その反応に竜は寂しさを覚えてしまう。
「駄目か。そうか、分かった…………本当に駄目か?」
理解を示そうとするが、諦め切れない竜。
側に寄り添い、ドレスを握り締めて来た小さな手。
震える体で、『服従』を差し出して来た健気さ。
拷問を耐え抜き、女の為に命を燃やす事を決めた強い意志。
そして、再び垣間見る事が出来た『ダンテ』の面影。
既に、竜は少年に対し止めど無い愛を感じていたのだ。
しかし、少年は答えない。
竜はがっくりと肩を落とし、『それならばせめても……』と少年を精一杯抱き締める。
共に暮らせなくとも、村では生活してくれるだろう。
ちょくちょく顔を出せば良いだけの事。
そんな事を考えていると、少年の手が竜の首に回されていく。
そして――
「い、しょ……いた、い……です」
「……なぬっ!? 其方、それは真なのじゃな! 嘘偽りは無いな!?」
「いた、い……です」
「お、おぉ! こんなに嬉しい事は久しく無かったのじゃ〜♡」
少年は嫌がっていたのではない。
本当に自分なんかが、『幸せ』を求めても良いのか迷っていただけ。
しかし、竜から発せられる安心感によって、自分の想いを伝えようと思う事が出来たのだ。
これには、竜も喜びを表さずには居られない。
「そうかそうか〜♡ そうじゃ! 其方に名前が必要じゃな。妾が付けても良いか?」
「あ、い!」
「そうじゃな〜、妾の子じゃから……そう、『ラディオ』はどうじゃ? 『竜の子』という意味じゃ!」
「ら……じお?」
「ラ・ディ・オじゃ。ゆっくりで良い、落ち着いて言ってみるのじゃ」
「ラ、ディ……オ……ラディ、オ!」
「そうじゃそうじゃ♡ 其方はラディオ、妾の息子じゃ♡」
「あ、い!」
「妾はな、ナサーニンア・ファラティオン……これでは長すぎるか。サニアじゃ、サ・ニ・ア」
「さ、に……あ……さに、あ」
「偉いのじゃ〜♡ そ、それか……其方が良ければじゃが……『母』、と呼んでくれても……よ、良いのじゃぞ?」
「は、は……はは……!」
その瞬間、初めて笑顔を見せた少年。
キラキラと瞳に光を灯し、幸せに満ち満ちて。
少し遠慮がちだが、しっかりと竜の首元に抱き付いて頭を預けると、もう竜は嬉しくて堪らない。
「ぐはぁぁぁぁ♡ な、何て愛いのじゃ……ラディオ〜♡♡」
そう、少年改め『ラディオ』を助けたのは、誰あろう『竜王サニア』だったのだ。
幼い息子をしっかり抱き上げた竜王は、アルラン村目指してルンルンで飛び去って行く。




