第22話 父、頼み事をする
帰還してから数日後、リビングのソファーに座って寛ぐ親子。
ラディオは縫い物を、グレナダはちちの膝の上に座りながら一生懸命お絵描きを。
その横では、ニャルコフが丸くなって寝息を立てている。
この数日、迷宮には潜らず、ラディオは家で過ごしていた。
何故なら、グレナダの甘え方が凄まじかったから。
あの日の朝から片時も離れず、ベッタリとくっつき、何をするにもどこに行くにも、ラディオのズボンを掴んで離さない。
特に凄かったのは、帰って来た翌日。
因みに、その日は2回泣いていて、1回目は朝起きた時。
朝食を作っていたら、寝室から泣き声が聞こえて来たのだ。
ラディオのベッドならば、1人でもニヤけて寝ている筈なのに。
目が覚めた時、昨日の事を思い出して、言い様のない寂しさに襲われてしまったのだろう。
飛んで来たラディオに抱かれると、すぐに涙は止まり、笑顔を見せていたが。
そして、2回目はラディオがトイレに行った時である。
『ちょっと待っててくれるかい?』
『…………』
ズボンを掴む手をどうにか解いて、扉を閉めたラディオ。
しかし、無表情で此方をじっと見つめていた娘が気に掛かる。
とは言っても、生理現象には抗えない――
『…………ちぃちぃぃ! あけてぇぇ! あけてぇぇ! ちぃちぃぃぃぃ!!』
『…………』
という考えは甘く、時間差攻撃を喰らってしまった。
トイレの外から、悲痛な叫びが絶え間無く聞こえて来る。
しかし、何故間を置いたのだろう。
一度は我慢してみたけど、やはり無理だと判断したのだろうか――
『ちぃちぃぃぃぃ! ちぃちぃぃぃぃ! うわぁぁぁぁ――』
『……おいで』
もう根負けして開けた。
すると、途端に泣き止んだグレナダは、『……へへっ♡』と笑みを浮かべる。
涙と鼻水でグショグショになった、満面の笑みを。
だが、この甘え方について、ラディオは決して怒らなかった。
寧ろ、『それだけ辛い思いをさせてしまったのだ』と、深く反省していた。
「ちちっ! みてっ! できたのだ♡」
そんな事をぼんやり考えていると、グレナダが此方を見上げて来た。
「どれどれ。これは……た、雨雲さんかな?」
描かれていたのは、黒のクレヨンでグルグルしただけの円。
お世辞にも上手いとは言えない。
実際、ラディオには『たわし』に見えたが、それではあんまりだと思い、とっさに雨雲に言い換えた。
しかし、グレナダは頬を膨らませてしまう。
「ちがうのだっ!」
「違うんだね」
「ちちなのだぁ!」
「そうなんだね……?」
芸術とは、難解な代物である。
しかし、グレナダはそんな事何処吹く風。
ラディオを見ては、絵を見て、またラディオを見てはキラキラと笑顔を咲かせる。
「ちちなのだぁ♡」
「……そうなんだね」
すると、『レナンもかくのだっ!』と言って、ピンクのクレヨンでグルグルし始めた。
グレナダはまだ3歳未満、幼児である。
それぐらいの子が描く絵なんて、大体こんなものだろう。
しかし――
(成る程…………少し、整えるか)
中年には微妙に刺さってしまったらしい。
自分の髪を触りながら、心なしか遠い目になるラディオ。
穏やかな午後の一時、幸せ一杯にお絵描きをする娘を眺めつつ、編み物を再開した父。
その背中から、仄かな哀愁が滲ませて。
▽▼▽
ランサリオンを夕焼けが包む頃、親子はバザールにやって来た。
この後来客の予定があるので、冷蔵箱の中を充実させておかなければ。
「ちちっ! すずしくてきもちいいのだ〜♡」
「そうかい? それは良かった」
おろし立ての着ぐるみを纏い、ニコニコと笑顔を咲かせるグレナダ。
ラディオは嬉しそうに微笑むと、娘を抱き上げ、そのまま肩車した。
今回のモチーフはひよこ。
しかし、拘った部分は其処では無い。
速乾性に優れた薄い生地で仕上げたボディとノースリーブになった袖。
そして、太腿まで裾を上げて、短パンの様にしたズボン部分だ。
実は、ランサリオン近郊には四季が無い。
通年して気候が安定しており、基本的に暖かい土地である。
だが、その中で3ヶ月程、気温がグンと上がる時期がやって来る。
そう、所謂夏だ。
ここ最近、徐々に暑くなって来たので、グレナダはひよこ・夏仕様―例によって不細工な顔はさておき、何故か赤いとさかが付いている―に衣替えをしたという訳だ。
因みに、どうでも良いがラディオも半袖になっている。
「レナン、何か食べたい物はあるかい?」
「ちちのごはんがいいのだっ♡」
「……そうか」
「あいっ♡」
娘の満点回答に、表情筋が崩壊した中年。
しかし、たった一言で此処までデレデレするものなのか。
もう眉尻は下がるわ、頬はゆるっゆるだわ。
いや……よく見ると、ラディオの頭に顎を置き、尻尾をフリフリしているひよこも、全く同じ顔をしているではないか。
流石親子である。
(魚よりは、肉の方が良いのか? ふむ……両方買えば――ん?)
それはさておき。
今夜の献立を考えながら店を巡っていると、後方から異常に上ずった声が聞こえて来た。
「ラ〜ディ〜オ〜さ〜まぁぁぁぁ♡」
振り返ると、プラチナブロンドの美しい長髪を煌めかせ、何よりも透き通ったクリアブルーの瞳に、溢れんばかりの劣じょ……慈愛を宿したレミアナが居た。
とても人とは思えぬ速度でラディオの前に到着すると、髪を耳に掛け、頬を紅潮させながら、ニコッと微笑みを見せる。
「やぁ、レミアナ。間に合ってくれて良かった」
「あはぁ〜♡ 今夜はお招き頂きまして感激です〜♡」
(晩御飯の前に汗をしたためた柔肌を召し上がれぇぇぇぇ♡)
何と、わざわざ駆けて来たのは策略だった。
ぷるるんと弾けるメロンメロンを両腕で挟み込み、しっとりと濡れた谷間をこれでもかと強調している。
大神官長は、季節でさえも道具にする。
どういう意味かと言うと――
「成る程、それが言っていた夏用のローブなんだね」
「はい〜♡ いかがですかぁぁ♡」
そう、衣替えである。
元々胸元が開いていた―この仕様はレミアナ限定である―以前のモノを踏襲しつつ、完全に肩が出ている今回のローブ。
更に、踝まであった丈は膝下まで上がり、ズボン式からスカート式に変更されていた。
実際、オフショルダーのドレスにしか見えないが、本人は断固として『教会の正式なローブですっ!』と言い張っている。
「涼しげで、とても似合っているよ」
「はぅあっ!? ラ、ラディオしゃま〜……♡」
レミアナの新装―谷間に関しては無反応だが―をさらりと褒めつつ、優しく頭を撫でてやるラディオ。
(あぁ〜幸せ〜ん♡ ラディオ様の手……あったかいなぁ〜♡)
大きな手の温もりが、レミアナの下腹部をキュンキュン刺激する。
大丈夫、ラディオの家に替えの下着は置いてある。
今ならまだ……バレずに済む。
「ふひっ、ふひひひひ……♡ あっ! レナンちゃん可愛い〜♡」
「ちちがつくってくれたのだぁ♡」
いち早く変化に気付く所は、流石女性と言った所か。
褒められたグレナダも、後頭部を摩りながら嬉しそうしている。
そんなこんなで挨拶を終えた一行は、食材選びに戻った。
すると、レミアナが怪訝な顔で問い掛ける。
「……所で、エルディンさんはやっぱり?」
「その様だ。宿に寄ってみたが、朝出てたっきりだそうだよ」
今夜、勿論呼ばれていたハイエルフ。
だが、彼は今迷宮に潜っている。
何と、ラディオが帰還した日から、冒険者になっていたのだ。
ギルドに行った目的はラディオの捜索だったが、それ所では無かった。
しかし、折角準備もして来たし、街にいても特にする事も無い。
どうせならと、その日に申請を出したのだ。
飛び級―(そういうのは好かん!)―はせずに、ラディオと同じEランクから。
結果、中々街に帰って来なくなったしまったエルディン。
(エルは昔から凝り性だったからな。探索が余程楽しいのだろう)
旧友の嬉々とした姿を想像すると、ラディオから思わず笑みが溢れる。
すると、溜息交じりに師への小言を口にするレミアナ。
何故か、ラディオの腕にガッチリ絡み付き、谷間を押し付けながら。
「でも、今日ぐらいエルディンさんだって帰ってくれば良いのに。ラディオ様もそう思いませんか?」
「良いじゃないか。私は、エルのそういう所が好きなんだよ。何かに夢中になると、一直線になる彼がね」
「それってどう言う――あはぁ〜〜♡」
そう言うと、ラディオはまたレミアナの頭を撫でた。
言われた事の真意は分からないが、再びの温もりにレミアナの顔がグニャリと歪む。
(……あのエルが『弟子を取る』という事は、そういう事なんだ……期待されているんだよ、レミアナ)
「幸せ〜♡……あっ! ふふっ、可愛い♡」
「ん?……成る程」
静かになっていた頭の上に気付いた2人。
互いに顔を見合わせ、微笑み合う。
「……良し。行こうか」
「はいっ♡」
娘をそっと横抱きに変え、優しく背中を叩いてやる。
すると、寝息を立てながら、『……へへっ』とニヤける小さな頬。
ラディオの体温と、くっついている安心感が、心地良い夢へと誘ってくれた様だ。
グレナダを起こさぬ様に気を配りながら、2人はゆっくりとバザールを歩いて行く。
▽▼▽
(火加減は……良し。後は、少し煮込んで完成だ)
夕食の準備をあらかた終えたラディオは、ダイニングに座ってこの後の事を考える。
予想通りにいくかどうか……しかし、先ずは話さない事には始まらない。
それに、7日後にはランサリオン最大の催し物の1つである『ギルド生誕祭』が開かれる。
その準備も滞りなくやりたいラディオは、不安要素を出来るだけ排除しておきたかったのだ。
(ギルドを通して連絡は入れたが……来てくれるだろうか)
その時、玄関をノックする音が聞こえて来た。
約束した時間通り。
どうやら、最初の課題はクリアした様だ――
「いらっしゃい。呼び出してすまなかったね。さぁ、どうぞ」
「は、い……お、邪魔……する、ます」
今日呼んでいた客人は3人、その最後の1人はカリシャだった。
ラディオに挨拶を返すも、オドオドしながら目を泳がせている。
ゆるくウェーブさせた、見事に塗り分けられた金と黒の髪。
光沢のあるグレーのリボンを左耳に付ける事で、程良いアクセントを演出して。
黒のホットパンツに、リボンと同色のノースリーブシャツをきっちり上までボタンを閉めている。
しかし、サイズが少し合っていない為、実りに実ったばいんばいんが、今にもはち切れそうだった。
「レナン、レミアナ、お客さんが来てくれたよ。ご飯にしよう」
「あいっ♡ ごっはっん♪ ごっはっん♪」
仮眠を取ったお陰で元気一杯のグレナダは、ヒヨコの着ぐるみ姿のまま、リビングからダイニングへ駆けて行く。
「は〜い! 因みにどちらさ――かはっ!?」
その後を追って、ダイニングに行こうとしたレミアナ。
しかし、ちらと玄関を見た瞬間、致命傷―架空の吐血が見える程の―を負ってしまう。
女だ……ラディオが自ら招き、わざわざ夜の献立を考えた相手は、女だったのだ。
「…………ぐふぁ……!」
余りの驚きに、2発目の吐血を零すレミアナ。
すると、不思議そうに此方を見つめるラディオに気が付いた。
「どうした?」
「……い、いえ! 何でも……ありません……」
(え、何……どーいう事ぉぉぉぉ!?)
必死に平然を装い―手と足が同時に出ているが―ダイニングに引っ込むレミアナ。
ラディオは首を傾げるが、カリシャに向き直ると、中へ入る様に促す。
「立ち話も何だから、先ずは中へ」
「は、い……あり、がと……ます」
ダイニングに集まった一同。
ラディオの向かって右隣には、ベビーチェアに座ったグレナダ。
左隣には、ぶつぶつと何かを呟き、食い殺す様な目で見て来るレミアナ。
そして、その対面に立ち尽くすカリシャ。
(そうか……その自由さえ与えられていないのか)
席に着く様、手振りで示すラディオ。
すると、ペコリと頭を下げてから、カリシャは恐る恐る対面の椅子に腰掛けた。
いつも通り、手を膝の上に置き、目を伏せて。
「……自己紹介の前に、君に頼みたい事があるんだ」
「………は、い……」
俯いたまま頷くカリシャ。
(何をっ!? 何をお願いするんですかっ!? ラディオ様ぁぁぁぁ!!)
必死に作った笑顔を貼り付けながら、2人の関係に全神経を集中させる大神官長。
一体頼み事は何なのか……そもそも、この獣人は誰なのか。
しかしこの時、レミアナに電流が走った。
(はっ……!? まさか……ラディオ様って……『けもみみ』趣味の持ち主では!?)
エルディンに課せられた修行の中で、山の様な本を読んでいたレミアナ。
その中の一冊に、遥か昔に綴られた、異界の英雄の冒険譚があった事を思い出す。
異界より現れしその英雄には、三つ子の獣人族の仲間が居た。
異界の英雄は、その三つ子の事を『けもみみ』と呼び、大層可愛がっていた、との事だった。
この世界において、獣人族は何ら珍しい存在ではない。
しかし、敢えて『けもみみ』と呼び愛でる文化も存在したのだと、本のお陰でレミアナは知っている。
迂闊だった、盲点だった。
ラディオの趣味趣向を考えていなかった。
この見事な肢体に興味を示さない訳はこれか。
(くっそぉぉぉぉ!! 私だっていくらでも耳付けますよ!? ラディオ様ぁぁぁぁ!!)
次第に鼻息が荒くなっていくレミアナ。
折角貼り付けた笑顔などとうに消え失せ、今は眼球が飛び出そうな顔をしている。
一方、勝手に自分の性癖を決め付けらているとは夢にも思っていない中年は、ゆっくりと口を開く。
「君に取って、苦しい事は分かっている。だが、差し支えなければ……胸を見せてくれ――」
「えーーーー!? ラディオ様えーーーー!!」
信じられない言葉に、思わず立ち上がってしまったレミアナ。
しかし、ラディオの顔は真剣そのもの。
更に、一瞬ビクッと体を震わせたが、カリシャも意を決した様に頷いたではないか。
「ちょっとちょっとちょっと!? 貴女もちょっとぉ!!」
レミアナの制止も虚しく、ボタンが外されていく。




