第16.5話 娘、ギュッと抱き締めて
「ちちっ! ちちっ! ぶーんってしてほしいのだ♡」
夕暮れ時のバザールに、仲睦まじく歩く親子の姿があった。
繋いだ手を引っ張り、グレナダが一生懸命おねだりしている。
「あぁ、しっかり掴まっているんだよ」
「あいっ♡」
ラディオは中腰になると、腕を娘の前に差し出した。
すると、満開に笑顔を咲かせ、嬉しそうに飛び付いてくる。
「良いかな? ほらっ」
娘がしっかりと掴まっているのを確認してから、ラディオは再び立ち上がった。
小さな体がふわりと宙に浮かべば、グレナダはもう幸せ一杯。
ラディオは優しく微笑むと、人の邪魔にならぬ様気を付けながら、少し早歩きに変える。
「きゃははっ♡ ぶーんっなのだぁ♡」
腕を上下させたりして動きを加えてやると、グレナダはとびきりの笑い声を上げるのだ。
道行く人々も、微笑ましい光景に笑顔を見せている。
「たのしいのだ〜♡」
(良い笑顔だ、本当に。何て愛ら……おや?)
暫くぶーんをしながら歩いていると、着ぐるみの異変に気が付いたラディオ。
右側の目が取れ掛かっていたのだ。
「レナン、お家に帰ったらワンちゃんを直してあげようね」
「なおす?……ワンちゃんどうしたのだ!?」
不安気な顔を見せるグレナダ。
娘が安心する様に頭を撫でながら、ゆっくりと目の説明をしてやると、小さな手でフードをわさわさやり始めた。
しかし、問題の部位を見つけると、やはり動揺してしまう。
「あぁー!? ちちぃー! ワンちゃんのおめめおちるのだー!」
「大丈夫だよ。父がちゃんと直すから」
「……おやくそく?」
「あぁ、お約束だ」
「……あいっ♡」
頭に置かれた大きくて温かい手と、約束という言葉にやっと笑顔を見せたグレナダ。
すると、ハッと思い付いた様に、ラディオの左側から右側へと移動を始めた。
「どうした?」
左手でラディオの手を握り締め、右手で犬の目をしっかりと押さえている。
そして、何故か忍び足で歩き始めたのだ。
ラディオが不思議そうに見つめていると、此方を見上げ、真剣な眼差しで訴え掛ける。
「ゆれたらおめめがおちちゃうのだ! ちちもゆっくりあるくのだ!」
成る程、そういう事か。
一生懸命目を押さえて、揺れない様に慎重に歩くその顔の、愛らしさと言ったらない。
何時でも何事にも真っ直ぐな娘は、正しくラディオの太陽だった。
(……裏道を通り過ぎなくて良かった。これからも、恥ずかしくない父親でいなければ)
ふっと頬を緩ませたラディオ。
すると、湧き上がる衝動に珍しく身を任せる事にした。
「レナン、父も協力するよ……ほら」
「ちち?……いやぁ〜♡ きゃははっ♡」
忍び足で歩く娘を、さっと持ち上げてやる。
ふいの抱っこに、驚くやら嬉しいやらのグレナダ。
そのまま、ラディオは娘をギュッと強く抱き締める。
「……いつも感謝しているよ、レナン」
「ちち〜♡……あっ!」
抱き締められたグレナダは、尻尾をフリフリして甘えていたが、とっさに目を押さえ直した。
「さぁ、帰ろう」
「あいっ!」
夕焼けに染まった石畳を、親子は笑顔で歩いて行く。
▽▼▽
「おぉ〜! いっぱいきのこなのだ〜!」
夕食を終え、リビングで今日買って貰った絵本―有名な作家の最新作―を広げていたグレナダ。
まだ文字は読めないが、色彩豊かな絵に、瞳をキラキラと輝かせている。
一方、ラディオは着ぐるみ全体の確認をしていた。
取れかかった目は元より、耳の付け根、襟元、脇下、腹回り、足の付け根、背中、尻尾とそこそこ傷んでいる。
今は着ぐるみの種類も増えているが、これは一番最初に作った物の1つ。
ローテーションしていたとはいえ、消耗が激しいのは仕方ないか。
加えて、待機所に預ける様になってから、傷み具合も格段に上がっている。
しかし、ラディオは気にしない。
寧ろ嬉しく思ってさえいた。
これは、グレナダが友達としっかり遊べているという事。
差別する事なく、される事なく、皆と同じ時間を過ごせているという証なのだ。
(いつも笑顔で話を聞かせてくれる。本当に楽しいんだね、レナン)
元気一杯に遊び回る娘を想像しながら、針に糸を通したラディオ。
そして、いざ縫い合わせようとしたその時――
「ラ・ディ・オ・さ・まぁぁぁぁ♡ レミアナです入れて下さい居ますよね知ってます入れて下さぁぁぁぁい♡♡♡」
玄関をノックする音……と、同時に異常に昂った声が響き渡る。
扉を開けると、大きなリュックを背負った大神官長が、満面の笑みで立っていた。
「いらっしゃい。遅くにどうした?」
「はい! ちょっと近くを通りかかったので、ラディオ様とレナンちゃんの御顔を拝見しに参上しましたぁ♡」
因みに、この家はランサリオンから少し離れた小さな丘の上にある。
そして、レミアナの仕事場兼自室の教会は、ランサリオンの中段だ。
どう考えても、夜にラディオ宅の近くを通る用事など無いのだが。
「……そうか。いつもすまないね」
一歩後ろに下がり、道を空けるラディオ。
すると、レミアナはルンルンで家の中へ入っていく。
「おっ邪魔っしま〜す♡ レナンちゃ〜ん! こんばんは〜」
「レミアナ! こんばんはなのだ!」
リビングに向かい、グレナダの前に座り込んだレミアナ。
「ちちがかってくれたのだぁ♡」
「うわ〜、モワトリムの最新作だね。良かったね〜、レナンちゃん♡」
「あいっ♡」
買ってもらった絵本を、自慢気に見せるグレナダ。
レミアナは柔らかな笑顔を浮かべ、白桃色の頭を優しく撫でてやる。
真紅の角が露わになっている頭を。
グレナダは家の中では着ぐるみを着ない。
尻尾用に腰に穴の開けられた、ワンピース姿が殆どだ。
しかし、こうして見れば普通の子供。
ちちの事が何よりも大好きな、甘えん坊でよく笑う普通の子供だ。
例え、世界の災厄たる真紅の角を携えているとしても……レミアナには関係無い。
(……有難う、レミアナ)
暫しの間、笑い合いながらお喋りしている2人を見つめていたラディオ。
その心を、じんわりと温めながら。
▽▼▽
浴室から響いて来る楽し気な声を聞きながら、ラディオは作業に精を出す。
見ると、その手には真新しい生地で作られた犬の着ぐるみが握られていた。
(もう直ぐだ……朝までには仕上げられるだろう)
2人が入浴する少し前、リュックを広げていたレミアナ。
中からは、どうやって詰め込んだのか分からない程の荷物が出てくるのだ。
歯ブラシやマグカップ、何故かラディオの顔が描かれた枕に毛布、下着10数枚に化粧品等々。
この時、ラディオが気になったのは新品のローブ。
聞けば、この家から帰る時用のものなのだとか。
『寝る時用ではないのか?』と聞けば、それはラディオのカットソーが良いと言う。
不思議だ。
レミアナのローブは、最高級シルクでオーダーメイドされた超極上品。
対して、ラディオの服―(最高のご褒美ですぅ〜♡)―は、安価な布で大量に作られている既製品だと言うのに。
しかしこの時、ラディオは改めて気付かされた。
大神官長という役職の為、レミアナは常に清潔で身だしなみに気を使っている。
新品は勿論の事、今着ているローブにさえ、汚れや傷みは一切見受けられない。
これは、本当に素晴らしい事である。
それなのに、自分が握っているのは傷んだ着ぐるみ。
これでは駄目だ……愛しい娘に、みすぼらしい格好はさせられない。
そう考えたラディオは、新たに作り直す事にしたのだ。
「ちちーっ♡」
作業に没頭していると、グレナダが駆けて来た。
毎度お馴染みの濡れた体だったが、今日は頭からタオルを被っている。
「おかえり。楽しかったかい?」
「あいっ♡ ちちっ、ちちっ、ねるまえにごほんよんでくれるのだ?」
飛び込んで来た娘を抱き締めてから、頭、体と拭いていくラディオ。
すると、グレナダがキラキラした瞳でおねだりしてきた。
「勿論、良いとも。さぁ、うーんして」
「きゃはははっ♡ うーーん♡」
ラディオが優しくそう告げると、満開に笑顔を咲かせながら、上を向くグレナダ。
拭き残しが無いかしっかり確認した後は、着替えだ。
ちちの肩に手を置きながら、片足ずつ上げて下着を履かせて貰う。
だがその時、紅玉の瞳が部屋の隅を捉えてしまった。
「ちち……ワンちゃんは?」
「朝までには出来上がるから、待っててね。さぁ、今度はバンザイして」
しかし、肩から離れた小さな手。
此方をじっと見つめ、笑顔を消して。
「……ワンちゃんは?」
「ごめんよ、今日は間に合わないんだ。でも、明日には――」
「ちがうのだっ! レナンのワンちゃんはっ!?」
堪らず大きな声を出したグレナダ。
その瞳に、涙を一杯に溜めて。
一体どうしたというのか。
ラディオには、娘が怒っている理由が分からない。
「レナン……? まだ出来ていないよ? ほら、もう直ぐだから、待っててくれるかい?」
ラディオは作りかけの着ぐるみを手に取り、娘に分かる様に見せた。
しかし、グレナダは余計に瞳を濡らすと、部屋の隅へ走っていく。
そして――
「それは……」
戻って来た娘を見ると、ラディオは言葉に詰まってしまった。
何故なら、グレナダがある物をギュッと抱き締めているから。
先程ゴミ箱に捨ててしまった、傷んだ犬の着ぐるみを。
「ちちは……おやくそくしたのだ……なおしてくれるって……おやくそくしたのだぁ……!」
「……ごめんよ。ボロボロだったから、新しく作ろうと思ってね。レナンもこっちの方が良――」
「いやなのだっ!! ちちはおやくそくしたのだ!! レナンのワンちゃんじゃなきゃいやなのだぁぁ!! うぅ……うわぁぁぁぁぁん!!」
遂に、大きな声で泣き始めてしまったグレナダ。
どうすれば良いか分からないラディオは、一旦娘を落ち着かせようと、頭に手を伸ばす。
しかし、その手も跳ね除けられてしまった。
「いやなのだぁ!……ちちは、ひぐっ……ちちは……ぐすっ……ちちはうそつきなのだぁ! うわぁぁぁぁん!!」
犬の着ぐるみをラディオに投げ付けたグレナダは、そのまま寝室へ走って行く。
バタン! と閉められた扉を見つめ、ラディオは時が止まった様に固まってしまった。
絶えず聞こえて来る娘の泣き声に、心を締め付けられながら。
▽▼▽
「……今、お茶を淹れますね」
風呂から上がって来たレミアナが、優しく声を掛ける。
しかし、呆然と固まり椅子に座るラディオは、何も言葉を返せない。
レミアナは穏やかに微笑むと、それ以上何も言わなかった。
程なくして、熱い紅茶がラディオの前に置かれる。
「…………有難う」
少しの間を置いて、やっと言葉を発したラディオ。
少しの笑顔を浮かべるが、無理をしている事は明らかだった。
レミアナは、足元に落ちていた2着の着ぐるみを拾い上げ、ゆっくりと口を開く。
「ラディオ様、少しお話をしても宜しいですか?」
ラディオは黙って頷いた。
「お風呂で、レナンちゃんが教えてくれたんです。今日、ワンちゃんをラディオ様が直してくれるんだって。本当に……嬉しそうな顔で」
グレナダは、自分の正体を自覚していない。
もう少し大きくなった時にしっかり話さそうと思い、ラディオが意図的に隠している。
『魔王』ではなく、只の『グレナダ』として、幸せに暮らせる様に。
しかし、角の存在を意識はしている。
人前で見せるのが好ましくないという事も。
だが、自分では隠す事も出来ない。
そんな時、登場したのが『犬の着ぐるみ』だった。
ご飯を作ってくれて、掃除をしてくれて、洗濯をしてくれて、いつでも遊んでくれる。
一緒にお風呂に入ってくれて、甘えても我儘を言っても全て応えてくれて、夜は一緒に寝てくれる。
そんなちちが、自分の為に一生懸命作ってくれた。
毎日時間に追われとても忙しいのに、文句一つ言わずに自分の為に。
だからこそ、ラディオの愛情が詰まった着ぐるみが、グレナダは大好きなのだ。
今は種類も増えたが、犬の着ぐるみは一番最初に作ってくれた物。
それは、グレナダにとって、何にも代えがたい特別な物だった。
「ラディオ様は、本当にレナンちゃんを愛していますし、レナンちゃんも同じです。でも、だからこそ……レナンちゃんは悲しくなってしまったんだと思います」
黙って聞いていたラディオは、思わず目を瞑る。
何て愚かなんだ。
娘に恥ずかしくない父親でいなければと、決めたばかりなのに。
娘の気持ちも考えられずに、何が恥ずかしくない父親か。
でも――
「…………有難う、レミアナ。君のお陰で目が覚めたよ」
心からの感謝を述べるラディオ。
その顔に、晴れやかな微笑みを携えて。
それを見たレミアナも、ニコッと笑顔を浮かべ、しっかりと頷いた。
「すまないが、今夜はレナンの側に居てやってくれないか? 私は……朝までにやらなければならない事があるんだ」
「はい、喜んで♡」
レミアナは『任せてください!』と、胸をドンと叩き、寝室へ向かう。
(明日までに仕上げて……そして、レナンに謝ろう)
ラディオは再び作業に入った。
取れかかった目を、しっかり繋ぎ合わせる為に。
▽▼▽
翌朝――
香ばしい匂いにつられ、レミアナが起きて来た。
ラディオが2人の朝食用に、卵とベーコンを焼いたのだ。
「お早うございますぅ〜……お出かけですか?」
「お早う、レミアナ」
眠そうに目を擦るレミアナは、既に出掛ける準備を終えているラディオを見て、ふにゃふにゃしながら玄関まで見送る。
「今日は仕事に行かなければ。本当に申し訳ないが、夕方までレナンを頼まれてくれないか? この埋め合わせは、必ずするから」
「承りました。気を付けて行ってきて下さいね♡」
「あぁ。夕方には帰るから、今夜は外に食べに行こう。エルも誘って」
「はい! 楽しみです♡」
玄関先で、今夜の約束を交わす2人。
すると、レミアナの頬を、ふいに大きな手が包み込む。
「ひゃいっ!? ラディオ様っ!?」
「あの日泣いていた子が……本当に大きくなった。君には、感謝してもしきれないよ」
優しく微笑んだラディオは、頬を撫でてから家を出て行った。
残されたレミアナは、1人呆然と玄関に佇む。
ぐにゃりと劣情に頬を歪め、下腹部をキュンキュンさせながら。
「うへ……新妻って、毎日これ味わえるの……やっべぇ……うへへへっ♡」
ふらふらと夢見心地のまま、寝室へ戻るレミアナ。
リビングのソファーには、綺麗に折り畳まれた犬の着ぐるみが2つ。
窓から差し込む陽の光を浴びて、袖を通す人を待ちわびている。
▽▼▽
ドンドンッ!
ドンドンッ!
「何だ…… 騒がしいぞ!」
突然の騒音に、男の不機嫌な声が室内に響き渡る。
既に寝ていた所を起こされ、眉間に皺を寄せながら、寝返りを打った。
ドンドンッ!
ドンドンッ!
「……分かった分かった! 今出るから静かにしろ!」
鳴り止まないノックに根負けして、ベッドから体を起こす男。
翠色の長髪を掻き上げ、同色の瞳に苛立ちを募らせている。
そう、エルディンだ。
「何の用だ! お前、少しは時間を考え――何だ?」
扉の前には、レミアナが立っていた。
犬の着ぐるみ姿のグレナダを抱き締め、魂が抜けた様な顔をして。
更に、グレナダも瞳を真っ赤に泣き腫らし、指を咥えながら遠くを見つめている。
「……何があった?」
「…………ラディオ様が……帰って来ないんです……!」
やっと言葉を絞り出したレミアナは、その場に崩れ落ちてしまった。
「何だと! そんな筈は……」
にわかには信じられず、エルディンは窓を見た。
ラディオは必ず夕方には帰ってくる……しかし、其処に太陽の姿はもう無い。
夜の帳が下りたランサリオンを、優しく照らす月明かりだけだったのだ。




