第10話 父、食器を洗う
「何故……此処が……」
ランサリオンに来る事は、師匠以外に伝えていない。
しかも、彼女は王都の大神官……離れられる筈など無いというのに。
思わず娘を抱き上げながら、言葉を絞り出したラディオ。
「ふひひっ♡ ラ・ディ・オ・さ・まぁぁぁぁ♡」
すると、固まってしまった中年目掛けて、レミアナが飛び込んで来た。
何かを確認する様に分厚い胸板に顔を埋め、しきりに下半身をクネクネしている。
だが、忘れてはいけない……この胸板には先客が居る事を。
「あぁ〜! ちちのおむねはレナンのなのだぁ〜!」
小さな手でレミアナの肩を押し、必死に抗議するグレナダ。
しかし、ふと何かを感じ取り、すっと大人しくなった瞬間――
「……いいこいいこなのだ」
「ぐすっ……ラディオ、様ぁ……!」
レミアナの頭を優しく撫で始めたのだ。
この時、10年前の記憶が鮮明に蘇ったラディオ。
静かに微笑みを浮かべ、震える背中に手を添えた。
「……心配を掛けたね」
「うぅ……会いたかった、です……ずっと、ずっとぉ!……うわぁぁぁぁん! うわぁぁぁぁぁぁん!」
すると、堰を切った様に泣きじゃくるレミアナ。
この10年ずっと抱いていた、恐怖や後悔。
そして何よりも、どうしようもない寂しさ。
しかし今、再び会えた『幸せ』が、それらを溶かしていく。
言葉にならない想いを、溢れる涙に変えながら。
「大きくなった……立派になった。何より、ずっとあの子の側に居てくれて……本当に有難う」
心からの感謝を込めて、レミアナを抱き締めたラディオ。
その時、何やら髭を引っ張られてしまった。
見ると、娘が『む〜っ』と頬を膨らませているではないか。
「ちちっ! なかせちゃだめなのだっ!」
「……そうだね」
そう、グレナダが感じ取っていたものは、レミアナの『寂しさ』だった。
ラディオは娘の優しさを讃える様に、こちらも強く抱き締める。
直ぐに喜びの声を上げ始めたグレナダが、尻尾をブンブン振っていると――
「どんな顔をしているかと思えば……相変わらずだな、お前は」
街道から響いて来た懐かしい声。
即座に振り向いたラディオの頬が、自然と綻んでいく。
「……あぁ、君もな」
夕陽に照らされ輝く翠色の長髪、端正な顔の横から伸びる長い耳。
手に持った酒瓶を揺らしながら、片方の眉毛を吊り上げて笑うハイエルフ。
そう、エルディンだ。
「さぁ、言い訳を聞かせてもらおうか」
ラディオは観念した様に微笑むと、静かに頷いた。
▽▼▽
突然の再会を経て、2人を家に上げたラディオ。
しかし、いざ対面すると何から喋っていいか分からない。
リビングで遊ぶ娘を見つつ、意味も無く頬をポリポリするだけ。
このままではいけないと、どうにか喋ろうとするが――
「…………」
何も出てこない。
どうすれば良いのか悩んでいると、レミアナが口火を切ってくれた。
「ふぅ……突然お邪魔してしまいまして、申し訳ありませんでした。でも、私はラディオ様がご無事で……本当に本当に幸せですよっ♡」
一頻り泣いて落ち着いたのか、ニコッと朗らかな笑顔を見せる。
そして、会えなかった寂しさよりも、生死不明の恐怖よりも、あの時残った後悔よりも、愛しいラディオに再び会えた『幸せ』を伝えてくれたのだ。
その事が、ラディオの気持ちを軽くしてくれる。
「……そうか」
「はいぃぃ♡ 幸せ過ぎて天にも昇る心地ですぅぅ♡」
申し訳無く笑みを浮かべるラディオ、それを凝視するクリアブルーの瞳。
だが、グリグリと動くその視線には、大変な狂気が宿っている。
ラディオの顔、首、胸と移動して、最後に着地させたのが下半身なのだからもう何も言えない。
(あはぁ〜♡ いけませぇ〜ん♡ こんな所でぇ……うへへっ♡)
大神官長は、いつ何時でも準備が出来ている。
荒い吐息を隠しもせず、見る見る劣情に歪んでいく可憐な筈の顔……先程のしおらしい気持ちは何処へいったのだろう。
「ふひっ♡ え…… ラディオ様っ!?」
その時、徐に立ち上がったラディオが、どんどん近付いて来るのだ。
あっという間に顔が目前に迫り、レミアナは興奮するやら嬉しいやらで、下腹部がキュンキュンしてしまう。
(ちょちょちょ! これはやばいやばいやばいやばいぃぃぃぃぃぃ♡♡)
ここぞとばかりに目を瞑ったレミアナは、唇を尖らせる。
大丈夫、抜かりなく歯は磨いて来た。
「ん〜♡……ん? あはぁぁ♡ ラディオしゃまぁぁ♡」
だが、一向に唇が重なる気配は無い。
しかも、体温を感じるのはおでこだ。
不思議に思い目を開けると、眼前には納得した様な中年の顔が極至近距離にあった。
「ふむ……熱は無い、な」
そう、顔を近付けたのは熱の有無を確認する為。
ラディオからすれば、至って普通の行為である。
勿論、レミアナの顔が赤い本当の理由―只の発情―には気付いていない。
「ひゃいっ♡ らいじょうぶれすぅ♡」
「ここまでの旅で疲れているんだね。直ぐに風呂の用意をしよう」
そう言うと、ラディオは浴室へ歩いていった。
すると、背もたれに倒れこみ、体中から蒸気を噴き出すレミアナ。
加えて、少しの鼻血も。
因みに、ランサリオンへは転移魔法で来ているので、疲れている訳が無い。
(お、おあずけ、でしゅかぁ♡♡♡)
もうラディオの行動なら何でも嬉しいらしい。
非常に満ち足りた顔で、涎を垂らすレミアナ。
その横には、そんな弟子に冷ややかな眼差しを向ける師の姿。
(はぁ……私はどこで育成を間違えてしまったんだ……)
眉間に皺を寄せて首を振るハイエルフ。
その大きな大きな溜息は、楽しげにお喋りをしているグレナダの声によって搔き消されていった。
▽▼▽
「退席してすまなかった。風呂はもう少し待ってくれるかい?」
「ひゃ〜い……♡」
浴室からラディオが戻って来ても、未だレミアナは夢うつつ状態。
ぼーっと宙を見つめ、アホ毛だけが元気にビンビン動き回っている。
その時、エルディンが口を開いた。
眼差しを真剣なものへと変えて。
「ラディオ……聞きたい事がある」
旧友の表情から話題を察したラディオ。
言葉を発する事無く、席に着く。
すると、グレナダが此方へ駆けて来た。
ラディオの足をよじ登って太腿の上に立つと、空腹を訴える。
「ちちぃ〜、おなかすいたのだぁ!」
「……ごめんよ、直ぐに準備するからね」
娘を抱き上げ、ベビーチェアに座らせようとしたが、鋭い声がそれを制する。
「待て……単刀直入に聞く。その子は何だ?」
一瞬動きが止まったラディオ。
だが、静かに微笑みを浮かべると、娘をギュっと抱き締めた。
そして、しっかりと旧友を見据える。
確かな覚悟を、その瞳に宿して。
「この子は……私の娘だよ」
予期せぬ力強い抱擁に、グレナダはもう幸せ一杯。
尻尾をブンブン振って喜びを表す。
「きゃはははっ♡ ちち――」
「私が聞いているのはそんな事ではない! 分かっているだろ!」
「……ひぐっ……!」
突如声を荒げたエルディン。
すると、怒られたと思ったグレナダが、べそをかき始めてしまった。
「ちょっと、エルディンさん!?」
「そんなつもりは……」
涙を一杯に溜めた紅玉の瞳に見つめられ、悔やむ様に眉根を寄せるエルディン。
だが、それでも聞かなければならなかったのだ。
「大丈夫、エルはレナンの事を怒ったんじゃないよ。父に向かって言ったんだ」
旧友の想いを理解しているラディオが、娘に優しく声を掛ける。
「ぐすっ……ほんと?」
「あぁ。だから……2人にも見てもらおうね」
椅子に腰掛けたラディオは、エルディンに向けて娘を膝の上に座らせる。
そして、一度深呼吸してから、着ぐるみのフードに手を伸ばしたのだ。
「あぁ! おやくそくなのだ! ちち……?」
「大丈夫、どんな結果になっても……父はレナンの味方だよ」
「……あい」
突然の行動に驚きながら、小さく頷くグレナダ。
そして、フードの中から『真紅の両角』が露わとなる。
「ラディオ、様……!?」
レミアナは驚愕を禁じ得なかった。
疑問だった着ぐるみの理由は、想像を遥かに超えていた……まさか、『魔王の証』を携えているなんて。
「……もう一度聞くぞ。その子は何だ?」
刺す様な眼差しを向けるエルディン。
しかし、ラディオは微笑みを崩す事無く、娘をしっかりと抱き締めた。
「何度でも言おう。この子は……レナンは私の娘だ。何よりも愛する自慢の、な」
「……ちちっ♡」
グレナダは嬉しかった。
のし掛かる不安も、その一言で吹き飛んでしまう。
居ても立っても居られず、ラディオの胸に顔を埋め、目一杯甘え始めた。
「……ふっ、それで良い」
すると、漸く笑顔を見せたエルディンが、グレナダの前にしゃがみ込む。
先程の事もあり、グレナダは目を伏せてしまうが……聞こえて来たのはちちの様な優しい声だった。
「声を荒げてすまなかった、小さき王よ。私と、其処に居る馬鹿弟子は君の味方だ」
「エル……」
この時、ラディオは感謝で一杯だった。
永きを生きたハイエルフが、世界の災厄を見逃してくれる訳は無い。
最悪の場合、友と拳を交える事になるかも知れない。
そう覚悟していたのに、エルディンは娘を認めてくれたのだ。
「大丈夫ですよ、ラディオ様」
振り向くと、レミアナも優しい笑顔―鼻血の跡を残してはいるが―を浮かべていた。
再びの溜息を吐いたハイエルフは、グレナダに向き直ると、そっと頭を撫でる。
「……おこらない?」
恐る恐る聞くグレナダに、エルディンはおどけて見せた。
「勿論だとも。またそんな事をしたら、私が君の父に叱られてしまうよ」
それを聞いて、グレナダは花を咲かせる様に明るい表情となる。
嬉しくてちちを見上げると、此方も安堵した笑顔を見せていた。
「あいっ!」
「ふっ、良い子だな」
満足気に頷いたエルディンは、グレナダの頭をわしゃわしゃしてから、自分の席に戻った。
「さぁ、この話はこれで終わりだ! だがな、お前にはまだ聞かなければならない事がある。今夜は寝かさないからな!」
持参した酒瓶を開けながら、ハイエルフはニッと笑う。
すると、緊張の糸が切れたのか、グレナダがぐ〜っとお腹を鳴らした。
「ちちぃ〜! おなかすいたのだぁ!!」
「直ぐに準備するからね。2人の分も用意するから、少し待っててくれ」
「私もお手伝いしまーす♡」
「では、私は小さき王と世間話でもしようか」
キッチンとリビングに分かれた4人。
この時、グレナダとニャルコフの掛け合いを聞きながら、エルディンは記憶を呼び起こしていた。
(20年前から……いや、出会った時から変わらないな、お前は。本当に……)
キッチンに立つ背中を見つめる翠色の瞳。
その中に、溢れる優しさと少しの哀愁を落とし込んで。
▽▼▽
「ごちそうさまでしたっ♡」
「ご馳走様でした〜♡」
「ひっく……馳走に、なった」
「お粗末様でした」
賑やかに食事を終えたのも束の間、これからが本番とばかりに、エルディンがもう1本の酒瓶を開け始める。
とは言っても、グレナダはお風呂の時間。
ラディオが娘を連れて行こうとすると、エルディンが待ったをかける。
「これからが良い所なんだ! 席を立つんじゃなーい!」
「いや、しかし……」
顔を赤くしながら、ラディオに絡み始めてしまったハイエルフ。
「はぁ〜、全く。ラディオ様、私がレナンちゃんと入ってきても良いでしょうか?」
見兼ねたレミアナが、助け舟を出す。
『迷惑ではないか』と、少し迷いながらも娘に問い掛けたラディオ。
「レナン、今日はレミアナと入って来てくれるかい?」
グレナダは『う〜ん』と考えると、首を縦に振った。
「あいっ! でもあしたはちちとはいるのだっ♡ いい?」
「勿論だとも。レミアナ、すまないが宜しく頼むよ」
「はいっ! お任せ下さい♡」
(くっそーー! 羨ましいぃぃぃぃ!!)
グレナダはその場で裸になると、満面の笑み―若干頬が引きつっていなくもないが―を見せるレミアナの手を引っ張り、浴室まで駆けて行く。
だが、2人が廊下を曲がると、ラディオは椅子に座り直し、真剣な表情を見せた。
「エル、気を遣わせてすまなかったね」
「……馬鹿弟子には早過ぎるからな」
テーブルに突っ伏していたエルディンが、いつのまにか顔を上げている。
それ所か、同じく真剣な表情になっているのだ。
「この街に来た時、最初はお前だと気付かなかった。魔力の質がまるで変わっているからな……何をした?」
「……分かっているだろう?」
「くっ……! 後、どれぐらいだ……!」
「……さぁ、な。私にも分からんよ」
瞬間、エルディンの顔が怒りに歪んだ。
テーブルをドンっと叩き、乱暴に酒を煽り始める。
「お前は……! いつもそうだ……勝手に決めて勝手に抱え込む! 私達には何の相談もしない! 何故その時私を呼ばなかった……!」
「……呼んでも意味が無――」
「いや、ある! 私達に背負えなくとも……少なくとも、お前の側には居てやれたんだ!!」
エルディンは酒瓶をラッパ飲みして、口元を拭いながら怒りをぶつける。
しかし、ラディオは静かに微笑み返すだけだ。
「本当にすまないと思っている。折を見て、君には連絡を入れようと思っていた。今後について相談をしようと……」
「……勝手な事を言うな。大事な時には何の連絡もよこさず、自分の都合の良い時だけ……!」
「……すまない」
1人で酒瓶を空けたエルディンは、今や酩酊状態だ。
再度テーブルに突っ伏すと、『はぁ』と大きな溜息を吐く。
「私は、何もしない……お前が選んだ道だ。私は……私達は、それを見届けるだけ……」
空き瓶に映る自身の顔に言い聞かせる様に、そう小さく呟いた。
実は、エルディンはラディオに気付かなかった訳では無い……信じたくなかったのだ。
だからこそ、グレナダの存在意義を問い掛けたのだから。
「……最後まで、な……」
(有難う、エル。君達が居てくれれば……私は安心だよ)
ゆっくりと瞼を閉じていくハイエルフ。
毛布をエルディンの肩にそっと掛けたラディオは、静かにキッチンへ向かい無言で食器を洗うのだ。
その背中から、溢れる感謝と安堵を滲ませて。
ハイエルフのいびきと、食器の擦れ合う音で満たされたリビング。
其処へ、浴室から楽しげな声が響いて来た。
まるで、2人の想いを包みこむかの様に、キラキラした笑い声が。




