第110話 父、許して欲しい
全力を出し切ったボロボロの体に響く、歪な高笑い。
悔恨の雫が頬を濡らす中、少年は自分の弱さを呪った。
全霊を懸けて誓ったのに。
託された想いを、小さな家族を、必ず護ると。
(ク……ソォ……ごめん、な……レ、ナ……)
最後の時まで、敵から目線を離さずに。
最後の時まで、幼い家族を背中で庇いながら。
だが、もう指一本たりとも動かない。
心とは裏腹に、膝から崩れ落ちてゆく少年。
その時、体が何かに支えられた。
冷たく固い床では無く、強靭で温かで……優しい何かに。
これは一体……いや、少年には分かっていた。
何故なら、心から安心出来る大好きな匂いがしたから。
出逢った時から憧れを抱く、高い高い頂の匂いが。
やっぱり、来てくれたんだ。
両親と同じ様に、自分達の元まで。
昨日の事、弁当の事、手紙の事、刀の事、両親の事、そして……負けてしまった事。
伝えたい事が沢山あるのに、最早瞼を開けている事すらままなら無い。
頬から落ちゆく涙の様に、少年の意識もまた、彼方へと落ちていった――
「…………う、ん……?」
目が覚めると、柔らかなベッドの上に居た。
全てを出し切った後とは思えぬ程、活力が漲る体。
まだ少し夢見心地だが、どこにも痛みは無く、完全に回復している様だった。
「…………えっと」
しかし、言葉を詰まらせたレンカイ。
何故なら、視界に飛び込んで来たのは、部屋の天井では無かった。
それは、宝石と見紛う紅の瞳。
不安げな表情を浮かべ、鼻先数センチまで近づけられた顔。
瞼を開けた少年を見るや、累々と涙を溜めていく『家族』の姿だった。
「レナン……」
いつから覗き込んでいたのだろう……そんな事が頭を過る。
しかし同時に、コルティスに勝てなかった悔恨が、少年の心を埋めるのだ。
「ごめんな……護るって言ったの――」
「ちちぃぃーーーー! にーちゃおきたのだーーーー!」
すると突然、グレナダがぐるりと扉の方を向くや、大きな声を上げた。
それから間も無く、廊下から明らかに急いだ足音が響いて来るではないか。
バタついた音が急停止を掛けると、一拍置いてゆっくりと扉が開いていく。
「……良かった」
其処には、両手に盆を持ち、安堵の溜息を漏らすラディオが居た。
軽く呼吸を整えてから、静かに部屋へと入る。
「レン、その……うむ……」
だが、ベッド脇にやって来ると、レンカイを見つめて黙ってしまった。
少年に対する感謝と謝意が混在してしまい、何も言い出せないのだろう。
そんな時、口を開いてくれたのはレンカイだった。
「あの、師匠……それ、どうしたんですか?」
「ん?……しまった」
少年が指差したのは、大部分が濡れているラディオの服。
更に、手に持つ盆には空になった水差し。
娘の声に反応した時、廊下に撒き散らして来てしまった様だ。
どれだけ急いでくれたのか……それを想像した少年は、少し笑みを零す。
「すまない、直ぐに新しい物を用意するから」
「あっ、いえ!……大丈夫、です」
少年に引き止められ、少し迷いながらもゆっくりと頷いたラディオ。
盆を机に置き、ベッド脇の椅子に腰掛ける。
すると、グレナダが膝の上にピョンっと飛び乗って来た。
「ちち……にーちゃ、おきたのだぁ……!」
「あぁ、良かったね。本当に……良かった」
震える声でそう告げる娘を、ラディオはギュッと抱き締める。
分厚い胸板に顔を埋め、精一杯甘えるグレナダ。
そんな2人を、優しい眼差しで見つめるレンカイ。
そうしていると、段々と瞳が潤んで来た。
2人にそれを悟られぬ様、レンカイはそっと反対側を向く。
だが、枕元に置かれた物を見るや、我慢出来ずにくしゃりと眉根を寄せた。
(母ちゃん、父ちゃん……ありがとう。『家族』は……無事だったよ……!)
其処にあったのは、鞘に収められた雄起。
懸命な想いに呼応してくれた、掛け替えのない両親の形見。
一時でも逢えた事が、どれだけ少年の力になった事だろう。
(皆が居てくれなかったら……皆……? あっ!?)
だが、ハッとした様に別の事も思い出した。
掛けられた毛布を剥ぐ様に起き上がり、ラディオに問い掛ける。
「し、師匠! リータは! リータは無事ですか!?」
「大丈夫、心配無い。レミアナが治癒を施してくれた。今は、御両親と共に自宅へ戻っているよ」
「そう、ですか……はぁ〜、良かったぁ……!」
安否の確認が取れると、少年は大きく溜息を吐き、ベッドに座り込む。
それを見たラディオは、優しく微笑みを浮かべた。
そして、まだ寝ている様に諭しながら、少年の目元を拭う。
「君の事も、全てレミアナが治してくれたんだ」
「レミアナさんが……そっか、だから教会に居るんですね」
綺麗になっている首元を摩りながら、レンカイは部屋を見渡す。
月明かりが差し込むステンドグラスや、壁際に鎮座する女神像から、教会に居ると容易に判断出来たのだ。
「そうだ。私では、傷を塞ぐ事しか出来なくてね。君が元来持つ治癒力に賭けるしか無かった……本当にすまない」
「そんな、謝らないでください! 師匠はまた俺の命を救ってくれたじゃないですか! 俺、本当に感謝してます! それに、そもそも俺が負けなければ良かったんです……俺が、アイツより弱かったから……!」
ギュッと唇を噛み締め、目を伏せたレンカイ。
その体は悔しさに震え、形見を握る手は固く結ばれている。
だが――
「それは断じて違うぞ、レン」
その時、肩に置かれた大きな手の感触。
顔を上げると、真摯な眼差しを向ける師の顔が、其処にはあった。
「……どういう事ですか?」
「君が奴より弱い等有り得ない。何故なら、君の直向きな『強さ』によって、私の命は救われたのだから」
「師匠の命を……俺が?」
「そうだ。私の命とは、家族に他ならない。心から愛する子供達を護る機会を、君がくれたんだ」
「でも! 俺は負けて……あれ……達?」
不甲斐なさに眉間を寄せ、俯いてしまうレンカイ。
だが、ラディオが言った事が引っかかった。
再び師の方を向くと、本当に嬉しそうに眉尻を下げた微笑みが目に入って来る。
「君が命を賭して護ってくれたからこそ、この子は今生きている。君が最後まで諦めなかったからこそ、私は君を助けに行く事が出来た。他者に愛を捧げるという事は、簡単な様で、誰にでも出来る事では無い。愛とは、温かく素晴らしいものだが……同時に、それを背負う覚悟も必要だからね」
この時、少年はハッとした。
最後の時まで、自分達を護り抜いてくれた両親。
その姿は正しく、誰にも負けない『強さ』を纏っていたのだから。
「君が真の愛を示してくれた事は、この子にも私にも……御両親にも伝わっている。だからこそ、その刀は真の姿に戻ったんだ。その力を持つに足る『強さ』を、息子が備えていると確信したが故にね。邪な気持ちであれば、呼応する事は無かっただろう。君の御両親……私の誇りである永劫の友、ホウレン殿とモモ姫なら尚更ね」
「はいっ……俺も、そう思います……!」
形見を握り締めた少年の頬を、幾つもの雫が伝っていく。
再び逢えた母、初めて会話をした父。
刹那の時の中で、溢れる愛を伝えてくれた。
最愛の笑顔を浮かべながら、強く強く抱き締めてくれた。
「私達が最初に出逢った日の事を、憶えているかな?」
「ぐすっ……勿論、です。あの時は、本当に……ありがとうございました」
少年はグッと眉根を寄せ、御礼を述べる。
こうしていないと、溢れる涙を止める事が出来なかったのだ。
しかし、ラディオは穏やかに首を振る。
そして、少年の頬に優しく手を当てた。
「礼を言うのは私の方だよ。今日を持って確信した……君と出逢えた事は、偶然では無く必然だったのだと。君が御両親を喪ってしまった事は、例え様も無く哀切な事だ。でもね、2人が遺した最愛の宝は、私が必ず護って行く。その役目を担えて、君を愛する事が出来て……私は、本当に幸せだ」
「うっ……ひぐっ……! 師匠ぉ……師匠ぉぉ! うわぁぁぁぁん! うわぁぁぁぁん!」
亡き友を想い、心からの愛を瞳に宿し、少年に微笑み掛けたラディオ。
それを見てしまったレンカイは、もう我慢が出来なかった。
分厚い胸板にしがみ付き、声を上げて泣き噦る。
今迄、何度も涙を流して来た。
母を喪った時、奪われた時、寂しさと不甲斐なさの中で。
『枷者』として蔑まれ、無慈悲な暴力と差別に晒された時、怒りと憎しみの中で。
仲間を護れなかった時、ラディオ達の元を去って行った時、悔恨と後悔の中で。
そして、路地裏で1人夜を過ごした時……どうしようもない孤独の中で。
でも、今は違う。
両親は、ラディオ達は、真の愛を捧げてくれていた。
あの時、グレナダを護る為に決意した自分の様に。
「うわぁぁぁぁん! うわぁぁぁぁん!」
ラディオに力強く抱き締められ、少年は更に声を大きくしていく。
喉を枯らす様に、涙を絞り尽くす様に、全てを出し切って。
すると、小さく温かい何かが頬に触れた。
見ると、グレナダが手を当てていたのだ。
しかし、レンカイと同じ様に涙を零しながら、ギュッと眉根を寄せている。
少年はしゃくり上げながらも、何とか息を整えた。
「ひぐっ……レ、ナン?」
「……なのだぁ」
震える声で、小さく呟いたグレナダ。
良く聞こえなかった少年は、そっと顔を近付ける。
しかし、グレナダは更に眉根を寄せてしまい――
「……いやなのだぁ!」
今度は、ハッキリと聞こえた言葉。
「ぐすっ……ごめ、んな……俺、謝ろうと……思って……でも……」
それ以上何も言えなかった。
やはり、共に居てはいけないのかも知れない。
2人を愛しているからこそ、そう決断した覚悟に嘘は無かったのだから。
グレナダに辛い想いをさせまいと、ラディオから離れようとする少年。
だが、肩を抱く太い腕は力が緩まない所か、より強く包み込んでくる。
不思議に思い顔を上げると、ラディオは穏やかに微笑んでいたのだ。
「最後まで、聞いてあげてくれないか?」
「えっ……?」
そう言うと、グレナダの方へ視線を送る。
レンカイもつられて見やるが、相変わらず眉根を寄せたままだ。
どうして良いか分からず戸惑っていると、小さな手にいきなり両頬を押さえられてしまった。
そして――
「にーちゃぁ……! きのうどこにいってたのだぁ……! なんでおうちにかえってこないのだぁ……!」
そう、グレナダは怒っている。
サニアも、レミアナも、他の者達も全て、自分の家を持っていると理解しているが、レンカイは別だ。
グレナダにとって、『ちち』と『にーちゃ』の家は自分と同じ場所以外に有り得ない。
だからこそ、帰って来なかった事が本当に寂しかったのだ。
「いやなのだぁ……にーちゃといっしょじゃなきゃいやなのだぁぁぁぁ! うわぁぁぁぁん!!」
「うっ……レナン……! ごめん、な……!」
少年にしがみ付き、大きな声を上げて泣き始めた。
一緒に居たいと訴える涙を、レンカイの心に染み込ませる様に。
「レン、君は……何も言わないんだね」
その時、両腕に子供達を抱えていたラディオは、ふと少年に語り掛けた。
その視線は、娘の頭に向けられている。
フードを被らず、真紅の両角が露わになっている頭に。
そう、レンカイが目覚めてからずっと、グレナダは角を見せている状態だった。
恐らく、少年は屋敷で真実を知ったであろう。
しかし、これは良い機会かも知れない。
『家族』になら、話すべき事柄なのだから。
ラディオはそう考え、フードを被らせなかったのだ。
「君も、魔王の話を聞いた事があるだろう。この子の持つ角は、紛れも無くその証だ。今迄隠して来た事は、本当に申し訳な――」
「関係ありません」
心苦しい顔を見せながら語るラディオを、レンカイがピシャリと遮った。
ラディオが少し驚いていると、軽く咳払いをして、再び呼吸を整える。
しゃくり上げない様に注意を払いながら、大きく息を吸い込み――
「ごほんっ……そんな事は関係ありません。だって……レナンは、レナンですからっ! 俺の大好きな、大切な『家族』ですからっ!」
頬を濡らしたまま、飛び切りの笑顔をくれた少年。
軽く吐息を漏らし、小さく呟いたラディオ。
「……そうか」
そのまま、子供達を羽交い締めにすると、強く強く抱き締めた。
少し痛いぐらいに、想いを込めて。
すると、グレナダの泣き声も自然と止んで行く。
この時、少年は感じ取っていた。
頭に落ちた一滴の雫の存在を。
黒曜石の瞳から流るる、温かな愛の証を。
気丈に振る舞い、必死に生きて来た少年の心から孤独が今、完全に消え去って行く。
「にーちゃ……おうち、かえるのだ?」
ゴシゴシと涙を拭ったグレナダが、レンカイに問い掛ける。
ニコッと微笑んだ少年は、しっかり頷いた。
これには、グレナダも嬉しくて堪らない。
少し不安気だった瞳に喜びが広がり、蕾が花開く様に笑顔を咲かせていく。
「にーちゃ! だいすきなのだっ♡」
「うん! 俺も大好きだよ!」
お互いに笑い合う子供達。
すると、ふわりと体が持ち上げられたでは無いか。
突然の事に驚く間も無いまま、何とラディオは子供達を抱え、窓から外へ飛び立ったのである。
「きゃははっ! たかいのだぁ♡」
「師匠っ!?」
しかし、反応はそれぞれ。
グレナダは慣れているので尻尾を振って喜んでいるが、レンカイに空を飛んだ経験は無い。
そうこうしている間に、ラディオはどんどん高度を上げていくのだ。
あっという間に雲を抜けると、満点の星空が視界を占領していく。
「おほしさまきれいなのだ〜♡」
「うわぁ……! スッゲェ……!」
優しい月明かりの中、雲海の上を飛んで行くラディオ達。
見上げれば広がる星々の輝きが、子供達の目を奪うのだ。
2人を強く抱き締めながら、ラディオは想う。
後で、レミアナには連絡を入れなければならないと。
だが、この我儘だけは我慢出来る訳も無い。
「何も言わずにすまなかった。まだ休んで居なければならないとは、重々承知している。しかし、許して欲しい。どうしても……家に連れて帰りたくなってしまってね」
申し訳無く眉尻を下げながら、ラディオは想いを伝える。
すると、子供達は同時に頷き、胸に顔を埋めるのだ。
「おうちかえるのだっ♡」
「俺も……家に帰りたいです!」
それを聞いたラディオは、本当に嬉しそうに微笑みを浮かべた。
「これから先、1人では出来ない事もあるだろう。だが、私達なら……『家族』となら乗り越えて行ける。楽しい事は伝え合って、苦しい事は助け合って……家族皆で、生きて行こう」
「あいっ♡」
「はいっ!」
ランサリオンの遥か上空、煌々と輝く星海を飛ぶ竜のオーラを纏った1つの影。
その腕の中には、無邪気に笑い声を上げる最愛の宝が2人。
頬を撫でる心地良い風を受けながら、竜とその子供達は、暫しの間夜空を泳いでいた。




