第97話 娘、抑えきれなくて
タワー1階・ギルド受付――
「レナン、もう帰ろうぜ?」
「…………」
レンカイが心配そうに問い掛けた。
だが、グレナダは無言のまま、首を横に振ってしまう。
ラディオが潜ってから丸一日経った黄昏時、2人は談話スペースのソファーに座っていた。
グレナダを預けるにあたり、ラディオとしても一日中教会に置く訳にはいかないと考えていた。
レミアナは気にしないだろうが、やはり自身の仕事もある。
迷惑を掛けているのは重々承知だが、それでも最小限に抑えたい。
なので、朝と晩の食事と風呂、そして何より大事な着替えを任せ、日中は待機所に預ける事にしていたのだ。
送迎は、レンカイにお願いをしてある。
少年も意気込んで承諾してくれた。
言われた通りの時間に、グレナダを迎えに行ったレンカイ。
しかし、待機所職員に挨拶をしていると、グレナダが一目散に駆けて行ってしまったのだ。
急いで後を追うと、ソファーに座り込み、迷宮の入り口を、じっと見つめていた。
誰か帰って来ると顔を綻ばせては、また眉根を寄せる。
また帰って来れば、顔を……この繰り返しをもう2時間もやっていたのだ。
勿論、ちちの姿を探す為に。
「レナン……」
少年は、言葉に詰まってしまう。
何故なら、大切な人を待つ気持ちが、誰よりも分かるから。
病気なのに無理をして、娼館街に出向いていった母……そして、数日間帰りを待っていたあの時間。
グレナダの姿は、少年に嘗ての記憶を思い起こさせていた。
だが、レンカイはブンブン頭を振って、自分に喝を入れる。
(こんなじゃダメだろ! 俺が側に居るんだから……励ましてやらないと!)
分かるからこそ、支えてあげたい。
レンカイはそっとグレナダの頭に手を置くと、優しく語り掛けた。
「レナン、帰ろう」
「……ん〜!」
しかし、グレナダは首を振る。
それでも、レンカイは根気良くゆっくりと言葉を掛け続けた。
「師匠はさ、『明日の明日』って言ってたろ? 今日はまだ『明日』だから。帰って来るのは、レナンがもう一回寝てからだよ」
「…………」
「それに、いつも師匠は言ってるだろ? 『沢山ご飯を食べなさい』って。でも、ずっとここに居たんじゃお腹空くよな。レナンもお腹空いたろ?」
グレナダは、コクンと小さく頷いた。
「だったら、今日もしっかりご飯食べないと。師匠が帰って来た時、レナンが元気無かったら心配するだろうなぁ。俺が師匠だったら、元気一杯なレナンに会いたいもんなぁ」
「……!」
「沢山ご飯食べて、沢山寝て、元気一杯に『おかえり』って言いたくない?」
「……あい」
グレナダは、再びゆっくりと頷いた。
その小さな手で、レンカイの服の裾をギュッと掴みながら。
少年は優しく微笑むと、幼い『家族』の頭を撫でてやる。
「良し! 今日は帰って、明日師匠を待とう。それなら、俺もずっと一緒に待つからさ」
「……あいっ!」
漸く笑顔を見せたグレナダ。
少年と手を繋ぎ、玄関まで歩いて行く。
すると、此方に走って来る影が1つ。
純白のローブに身を包み、同じく純白の長い耳と髪がとても美しい少女。
「お〜い!」
「リータ? どうしたんだよ、そんなに慌てて」
やって来たのは、リータだ。
レンカイ達の前で止まると、胸に手を当て息を整える。
「どうしたんだよ、じゃないよ〜! 迎えに行くのにどうしてこんなに時間掛かってるの!」
「え、いや……それは――いててっ!」
レンカイが口籠ると、リータが耳を引っ張って来た。
頬をプクッと膨らませ、容赦が無い。
レンカイは訳が分からなかったが、下から聞こえて来た笑い声に、心に安心が広がっていくのを感じた。
「……きゃははっ! にーちゃへんなかおなのだ!」
レンカイに顔を近づけ、耳を離さない少女。
「レナンちゃん、もっと言ってあげて。本当にレンは当てにならないんだから!」
「い、いててっ! 何だよ! そんなに怒んなよ〜!」
「もぅ! レミアナ様が心配してるんだからねっ! レナンちゃん、こーんな変な顔の人は放っといて、帰ろう♡」
「あいっ!」
リータはプイッと顔を背けると、グレナダの手を取り、玄関を出ていった。
やっとの事で解放されたレンカイは、耳を摩っている。
しかし、その顔に怒りは無かった。
(全部お見通しか……流石だな、レミアナさん。リータもありがとな)
2人が帰ってこない理由を、レミアナは看破していた。
しかし、自分はまだ仕事が残っている。
そこで、側仕えであるリータに代役を頼んだという訳だ。
『恐らく受付で動かなくなっている筈だから』と、言伝をして。
ギルドにやって来たリータも、グレナダの顔を見ると、言伝の意味を瞬時に理解する。
そこで、グレナダを何とか笑顔にする為に、レンカイに一芝居打ったのだ。
顔を近付けた時に、耳元で一連の事をレンカイに伝えながら。
だからこそ、少年は怒りを感じ無かった。
迷宮の入り口を振り向き、師匠の身を案じるレンカイ。
どうか、無事で……そう願いながら、少年もギルドを後にした。
▽▼▽
「…………」
備え付けられた大きな窓から、タワーを見つめる紅色の瞳。
柔らかな夜風が頬を撫でるが、絵本を抱き締める小さな手が緩む事は無い。
朧げな月明かりに照らされたその体からは、例えようの無い寂しさが滲み出ていた。
すると、背後にある扉が開く音が聞こえた。
入って来たのは、レミアナだ。
ジュースとフルーツを盆に乗せ、そっとベッドに座る。
「レナンちゃん、フルーツいる?」
「…………」
タワーから視線を外す事無く、グレナダは首を横に振る。
夕方はレンカイとリータのお陰で、少し元気が出ていた。
晩御飯もしっかりと食べ、お風呂も済ませている。
だが、夜の帳が下りると、また寂しさに襲われてしまったのだろう。
此処は、教会の最上階に設けられた『最高責任者用の部屋』である。
ワンフロア全てを使い、広々とした室内には、大きなベッドに家具一式。
更には、専用の大浴場まで付いている。
しかし、レミアナはこの部屋を使ってはいない。
他の神官達と同じ階に自室を設け、普段は其処で過ごしている。
これは、『皆平等に、苦楽を分け合うべし』という祖父の教えを尊守しているからだ。
だが、今回ばかりはグレナダの事もあり、この部屋を有難く使用している。
レミアナの自室にはラディオ関連の物が多過ぎて狂気が過ぎ……もとい、幼女には色々と刺激が強過ぎると判断した為だ。
「ごめんね、レナンちゃん。一緒に居てあげられなくて」
「…………」
レミアナが悩ましげにそう告げたが、グレナダは首を振ってくれた。
そう、グレナダはしっかりと理解している。
レミアナが仕事だという事も、ラディオに大事な用事があるという事も。
だからこそ、何とか我慢しているのだ。
その健気な姿が、レミアナの心を一層締めつける。
「……そうだ! レナンちゃん、私がその絵本読んであげ――」
「だめなのだぁ!」
レミアナの提案を遮り、グレナダが大きな声を出す。
だが、直ぐに後悔を滲ませ、美しい紅玉の瞳に涙を溜めてしまった。
「う……ひぐっ……おやく、そく……なのだ……」
「……そうだよね、私が悪かったよ。ごめんね、レナンちゃん」
穏やかな微笑みを浮かべ、小さな体をギュッと抱き締めたレミアナ。
温かさに包まれて、グレナダはそっと頭を預ける。
震える幼女が安心できる様に、滑らかな髪を何度も何度も撫でながら。
「レナンちゃん、今は私と2人きり。だから……我慢しなくて良いんだよ?」
語り掛けられた言葉が、グレナダの心に沁み込んでいく。
もう、抑えきれない。
頬を涙で濡らしながら、グレナダは一生懸命に伝えた。
「レナン、は……ふぇぇ……ちちも、にーちゃも、だいすきなのだぁ……ひぐっ……でも、ちちは……にーちゃ……ばっかり……うえ〜〜ん!」
「そっか……頑張ったね、レナンちゃん」
純白のローブにしがみ付き、大きな声で泣きじゃくるグレナダ。
この時、レミアナはやっと理解出来た。
グレナダが絵本を離さない理由が。
普段から、絵本を読んで貰っている事は知っている。
だが、一冊に対してここまで執着を見せる事は無かった。
ラディオが家事をしている間は、自分でパラパラと捲っていたり、他の大人が居れば朗読を頼んだりもしていた。
だが、今回は違う。
どうしても、ラディオに読んで欲しかったのだ。
それは、レンカイに対する『嫉妬』である。
ラディオの事は勿論大好きだし、レンカイの事も大好きだ。
だが、生まれて初めて経験した『嫉妬』という感情。
そして、2人に対する『愛情』。
その狭間で、どうして良いか分からなくなってしまったのだろう。
ここ2週間は、ラディオはレンカイに付きっきりだった。
そんな時、やっと手に入れたちちとの『お約束』。
しかし、それが守られる事は無かった。
その事が、大きな寂しさとなって、グレナダの心に棘を刺してしまったのだ。
「ちち、は……にーちゃが、すきで……ふぇ……レナンのこと……ぐすっ……きら――」
「そんな事ない……絶対に、それだけは有り得ない」
今度はレミアナが遮った。
グレナダの想いを全て理解した上で、その言葉を言わせたく無かったから。
レミアナは、強く強くグレナダを抱き締めると、言葉を掛ける。
少し、声を震わせながら。
「ラディオ様がレナンちゃんを……絶対に無いよ。ラディオ様は、誰もよりも、何よりも、レナンちゃんの事愛してるよ。大好きだよ」
「ひぐっ……ほん、と……?」
「うん、絶対の絶対。私達みーんなレナンちゃんの事大好きだけど、ラディオ様1人の気持ちに勝てないもん。それがちょっと悔しいかな、私は。レナンちゃんが今感じてる気持ちと、同じだよ?」
「……おん、なじ?」
「そうだよ〜。やっぱり、大好きな人には沢山私の事を見て欲しいし、一杯一杯構って欲しいもん。でもね、ラディオ様は……いや、世の男の人達は、そうじゃない事もあるの。何か熱中するものがあると、そこに向かって真っしぐら。でもね、私は其処でキラキラ輝いてるラディオ様も、大好きだよ。レナンちゃんも、キラキラしてるラディオ様好きでしょ?」
「……あい」
グレナダのおでこに額を当てたレミアナは、柔らかな光を灯した瞳で、じっとグレナダを見つめる。
「だからぁ……ラディオ様が帰って来たら、『寂しくさせないでっ!』って言わなきゃね」
「……あいっ!」
再び笑顔を浮かべたグレナダ。
それを見て、レミアナも満開に笑顔を咲かせた。
そのまま、寄り添ってベッドに横になる2人。
レミアナはしっかりと理解をしている。
グレナダの想いも、ラディオの想いも。
だが、今回ばかりは……同性の味方に付いても良いだろう。
だからこそ、『泣かないで』と言わず、『我慢しなくて良い』と言ったのだから。
グレナダが寝息を立てるまで、部屋には美しい歌声の子守唄が奏でられていた。
▽▼▽
47階層――
「前衛! 姿を見失うな! 私について来い!」
「「「応ッッッ!!」」」
吹き荒ぶ雪風の中、調査部隊は1体のモンスターを追っていた。
真っ白な景観にそぐわぬ、漆黒の鱗を生やした、10m程の体躯。
刺々しい輪郭を持ち、冬の寒空の様な青い眼がギラリと光る。
その体色から、別名『スノードラゴン』と呼ばれるジェムドラゴン種。
追っていたのは、その『変異種』だったのだ。
地面を滑る様に駆けていく漆黒のドラゴン。
だが、追い付けない速度では無い。
モルガは周囲を警戒しながらも、着実に追跡していた。
「変異種ともあって、やはりデカいですね。しかも、並みの魔法を弾くときてる。確かに、冒険者単体じゃあ手に余るかも知れません」
「……あぁ、そうだな」
陣形を展開しつつ、隊員がモルガに声を掛ける。
あの変異種の討伐ランクは、推定A+程度。
調査部隊の連携技の前では、大した敵では無い。
一応、万が一に備えて前衛には熟練隊員のみを配置し、それ以外は後衛の補助に回してはいるが。
しかし、モルガの顔は険しいまま。
「一気に畳み掛けて、制圧しましょう。生け捕りに……隊長?」
「…………ん? あぁ、待て。少し考える」
歯切れの悪いモルガに、隊員は首を傾げる。
しかし、動きそのものはいつもと同じだ。
寧ろ、普段よりもっと機敏で的確な指示を出している。
只の杞憂だな……隊員はそう思い、陣の展開に集中する事にした。
すると、先頭を駆けるモルガの横に、1頭の大蛇が並走して来た。
ベルズだ。
じっと漆黒の影を見つめながら、モルガに問い掛ける。
「お前も感じてるよな?」
「あぁ……何かおかしい。変異種である事は間違いないが、あの咆哮が奴のものとは考えられん」
「だよな……あの程度なら、ムバが負ける筈ねぇし。気ぃ抜くなよ」
「ふっ……お前もな」
お互いに頷き合うと、大蛇は雪の中へ潜って行った。
尚も駆けるモルガだが、奇妙な違和感が拭えない。
その時、漆黒のドラゴンが動きを止める。
其処は開けた円形の場所だったが、雪原地帯にしても、異常な積雪量だった。
「全体、止まれぇぇ! 陣を展開し、私の指示を待て!」
共に駆けていた隊員達が、瞬く間に扇型の陣を作り出した。
モルガを最前線に起き、ドラゴンと適度に距離を取る。
少しの間を置いて、追い付いた後衛達も各自の持ち場についた。
ドラゴンは天を見上げ、ピクリとも動かない。
その異様な光景に、身を切る様な緊張が周囲に漂う。
すると、ドラゴンの身体中に血管が浮かび上がったでは無いか。
徐々に早くなる鼓動、そして目も眩む閃光が迸ったその時――
「なっ!? 全員下がれぇぇぇぇ!!」
モルガの怒号が木霊した。
しかし、閃光と同時に襲ったキーンという甲高い耳鳴りのせいで、隊員達には聞こえない。
すると、ドラゴンの爆発地点から、凄まじい勢いで大穴が姿を現したのだ。
渦の様に広がっていく穴は、瞬く間にモルガ達に迫っていく。
「隊長……これは、一体……うわぁぁぁぁぁ!」
脳を揺らす音に、堪らず膝をついてしまう隊員達。
その時、体を襲った強烈な風。
前衛はおろか、後衛共々吹き飛ばされてしまったのだ。
「お前達は逃げるんだ……許せ」
姿が見えなくなった隊員達を見つめるモルガ。
ふっと微笑みを零した瞬間、開かれた大穴に吸い込まれて行く。
しかし、気掛かりなのはあのドラゴン。
モルガは確かに見たのだ。
爆発する直前、ドラゴンの頬がニヤリと吊り上っていた事を。




