俯く君にモーニングコーヒーを~猫の記憶~
緩やかに昇る朝の陽に街は静かに朝を迎え、淑やかな空気に次第に包み込まれてゆく。潮の香りをはらんで漂う風は心地よく、まだ眠りの半ばにあるぼんやりとした頭を優しく刺激する。
早朝から稼働するパン屋の焼き立てパンの香り。夜通し鳴き続けたにも関わらず、いまだかすかに聞こえてくる虫の声。空の恵みをいち早く感じ取り、開き始めるのは陽春の花々。爽やか、という表現以外に適当なものが見当たらない。そんな海街の朝である。
とはいえ、それは常人の感性でものを言った場合に限る。
そして、ここに一人。常人とは違った感性--否、寝起きの悪さを持った青年が一人。
パン? 朝からそんなものを食べられるか。僕は朝食は取らない主義でね。
むし? 僕の睡眠を妨げるなんて、虫もいい度胸だよね。夜くらい静かに眠ればいいものを。
はな? ああ。確かに綺麗だけれども、朝から眺めている暇なんて僕にはないよ。
と、いう具合に。
そんな彼が、なぜこんなに朝早くに戸外にいるのか。すべての理由は、彼の手元に集約する。
カサカサと音をたてながら揺れる袋。それは時折地面を掠める鈍い音とあいまって、一種のリズムを生み出す。
ただし、それを持つ彼にはやる気も生気も感じられないのが、良くない。もしも今、日中の彼の爽やかな接客態度を知る者とすれ違ったとしても、その何者も彼が彼であることに気が付くことはないだろう。かつてこの起きたての彼を見た同僚は、震えながらその姿をこう例えた。"朝焼けの死神"と。それほどに、よろしくない。
角のごとく跳ねた金髪。この世の終わりを思わせるうつろな目を携えて、やがて彼が行きついたのは商店街の一角。街の人々によって明るい色調のタイル張りに整えられたそこは、ゴミ捨て場という名前に似つかわしくなく清廉だ。綺麗な海街、と評判だとはいえ、ゴミ捨て場までとはなかなかに行き届いた街人意識である。
そこに、彼は両手にぶら下げた袋を投げ込む。投げ込むとは言っても、マナーを守って丁寧に。そこは寝起きが悪かろうと、彼の本質が出ているといえよう。
「ゴミ出し当番終わり。さて。もう一眠り」
半開きの目をこすり、豪快にあくびを漏らす。どんなに清々しい朝だろうと、彼の眠りを前にしては通用しないようだ。近所の住民がゴミを捨てに来ないことを願うばかりである。
「…………」
あくびの連発をおさめ、帰宅の一歩を踏み出そうとした彼であったが、それはかなわなかった。足元に黒い塊があったからだ。
あくびによって目元に浮かんだ水分で視界がぼやける。眼鏡の隙間からそれをぬぐい取り仕切り直すと、黒い塊が正体をあらわした。
何のことはない。斜向かいの時計屋で飼われている黒猫であった。名前は「みつこ」という。漢字にすれば「美津子」だったか。なんとも渋いチョイスである。
「みーちゃん?」
呼び声にこたえてか、猫のみつこは短くにゃあと鳴いた。みーちゃんとはみつこの愛称である。
「君も早起き?」
みつこの愛らしい反応に彼の目にかすかに光が戻った。動物の存在とは偉大なもので、死神の心すら溶かすようだ。
彼はみつこに合わせ身を低くした。みつこは整った毛並みに沿って優しく撫でられると、今度は心地よさそうに小さく喉を鳴らした。
僕は同じような瞳を知っている。
あれは、いつのことだったか。遠い昔。記憶を探り、僕の目は過去を映した。
「みーちゃん、みーちゃん」
春の陽気にあてられまどろんでいた僕は、ふと気が付いてかすかな声に意識を攫われた。聞こえてきたのは、愛らしさのあふれる女の子の声だった。
「おいでー。こっちだよー。みーちゃーん」
どこにいるのだろうか。しきりに聞こえる呼び声は広い敷地内を駆け巡る清かな音に吸収され、その声の持ち主の居場所をあやふやにしてしまう。
枝葉を空高く伸ばし、周囲を包み込むようにして立つ古木。風に揺れる葉の奏でる音は自然そこに在るものの心を落ち着かせる。そして、それに混じり溶け込んで聞こえてくるのは、静かに流れる清流のせせらぎ。
古木の作り出した木漏れ日が躍るたびに、きらきらと輝きを放つ小川は、夏になれば蛍が飛び交い幻想風景を生み出す。
いったいどこに。
僕がそうしている間にも、甘く響くその声は「みーちゃん」を捜し求める。そして僕はその声を追う。
たしか「みーちゃん」とは、ここで飼われている子猫の名前だ。以前怪我をして敷地内に迷い込んで来たのを、家主が保護したのだった。
そのまま敷地内にいつき、いつの間にか住人と化したみーちゃんは、すっかり人間たちのアイドルだ。好奇心いっぱいにちょろちょろと敷地内を動き回っては愛嬌を振りまき、居心地の良い場所を見つけてはどこであろうと我が物顔で昼寝をする。
可愛いのは良いが、こちらとしては――ああ、そうしている間にも。
ふと目を向けると、ふわふわとした白い毛玉が無邪気に地面を跳ねていた。噂のみーちゃんだ。
何にでも興味を持つ年頃――猫にそんなものがあるのか?――の彼女は、どこかから聞こえる女の子の声をその大きな耳に入れている様子もなく、目の前を舞う蝶を追いかけている。よたよたと覚束ない足取り。けれどしっかりと目だけは獲物を見つけた獣の真剣さを帯びて。
たたずむ僕から離れて行くみーちゃんを見送りながら、ああ今日も元気だな、などと思う。
しかし、みーちゃんの進行方向にあるもの、それを認識した瞬間、僕は少し嫌な予感に囚われる。
小川だ。
一心不乱に蝶を追う彼女には、きっと行く先に目を向ける暇などありはしない。これはまずいのではないだろうか。
幼年の人の子が入ってせいぜいひざが浸るほどの嵩であるとはいえ、みーちゃんのような小動物にとっては深いだろう。
いや、まさかこのまま蝶を追って水に落ちてしまうことなんて……ないだろうとは思うものの、相手は子猫だ。猫の生態など知りはしないが、野生の勘だ、危機管理能力だ、などというものがみーちゃんに備わっているとは到底思えない。もし落ちてしまったとして、あんなに小さな生物が水の中を自由自在に泳ぐことが可能なのだろうか。
僕が考えている間にも、みーちゃんの小さな体はまるで引き寄せられるかのように小川へと近づいて行く。
誰かを呼ばなければならない、そう思ったが、僕の足は、声は――。
「おい、御堂。そんなとこで何やってんだよ」
背後から声をかけられ、彼――御堂の意識は記憶の底から浮上した。
重たい瞼を開けると、先程と変わらず手の中に身を預けるみつこの姿があった。が、大きく澄んだ瞳だけは、彼を、御堂の内側を見定めるかように光って見えた。
「そうか……君は」
みつこは御堂の言葉に呼応するかのように瞬きを一つして体をしなやかにくねらせた。するりと彼の手から抜け出すと、背を向けて歩きだす。
「お。みーちゃんじゃん。って行っちまったし」
そう言って、屈んだまま振り返りもしない御堂の隣までやって来た青年は、早朝のランニングで汗ばんだ額を拭い、もうじき角を曲がり見えなくなるみつこの背中に口をすぼめた。
「なあ、紬」
「ん?」
名を呼ばれ何の気なしにそちらを見返した青年――紬は、見に纏う雰囲気を変えた。焦燥とも悲哀ともいえる何か不思議な色を浮かべた瞳がそこにあったからだ。
「……いや。なんでもない」
「なんだよ。言えよ」
「いい」
「良くねぇよ。言え」
「…………」
「…………」
ふわりと朝の風が沈黙の中見つめ合う二人の頬を撫で、過ぎていった。
「……帰る」
先に目を逸らしたのはどちらだったか。
踵を返し先にその場を離れたのは紬の方だ。
取り残された御堂は、黒猫が見えなくなった方向を見つめ、ため息を落とした。
あいつが何を言おうとしているのかを、俺は知っているような気がした。
いつものように悪態をついてみせれば良かっただろうか。何湿気た面してんだ、と背中でも叩いてやれば良かったか。
「あほ御堂」
呟いてみた精一杯のあいつへの悪口は、目覚めたばかりの静かな街中に吸収されてどこかへ消えた。
どこかから漂ってきたコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐった。
数年ぶりに投稿しました。
久しぶりの御堂と紬に懐かしさを覚えつつ、過去書いたものを読み返しながら自分の作品を自分で復習しました。忘れていることがたくさんありすぎて、でも読めば彼らが帰ってきたような感覚が。
また細々と書いていきたいと思います。