第一話 勇者ナンバー867(8)
ニコラの云った通り、屋敷に着くなりレナとニコラは家人の案内で別室へ通されることになった。アツシがオヴェリアに会っているあいだ、そちらで寛いでいるのだと云う。
「おまえはこっちだ」
アツシはトロイの案内で、屋敷の奥へと続く廊下を進んでいるところだった。そうして連れて来られたのは、一枚の扉の前だった。
トロイはその扉の前に立つと、アツシをじろりと見て切り出した。
「この先は屋敷の奥庭になっていてな、そこにオヴェリアの住まう小さな館がある」
そこで言葉を切ったトロイは、次の瞬間にアツシを驚かせた。
「ここからはおまえ一人で行け」
「えっ?」
アツシは絶句した。普通に考えて、要人に人が近づくのを自由にさせるはずがない。
「い、いいの? 警備は? 二重三重の警護態勢とか云ってませんでしたっけ?」
「無論、オヴェリアは一人ではない。彼女には常に三人の勇者が護衛についている。そしてそのうちの一人が、この先に結界を張っているのだ」
「結界と云うと……」
「オヴェリアと同じ、結界系の力を持つ勇者のマイティ・ブレイブだ。くどいようだが、マイティ・ブレイブは勇者によって千差万別、同じ結界系統のマイティ・ブレイブでもオヴェリアのようにこの世界を成り立たせる巨大な壁を巡らした者もいれば、単純な身を守るシールドを張る者もいるし、オヴェリアの護衛のように闇の迷宮を作り出して邪な心を持つ者を通さない者もいる」
「闇の迷宮? 邪な心?」
アツシは胡乱な表情を隠さなかったが、トロイはそれを無視して扉に手をかけた。
「まあ、行ってみればわかる。もしもおまえがオヴェリアに会うに値しないような人間であれば、自動的に回れ右してこの扉から出てくるだろう。逆に会わせてもいい人間であれば、オヴェリアの許までたどり着けるはずだ」
「……わからないけど、わかりましたよ」
百聞は一見に如かずと云う言葉もあるし、オヴェリアに会えないなら会えないでそれでもよい。自分から謁見を望んだわけではないのだ。
「じゃあ行ってきます」
そう云ったアツシに頷きを返し、トロイはアツシの前で扉を引いて開け放った。その先にあったのは闇だ。黒一色で、床や壁どころか天地の境目があるのかさえもわからない。それを見るなりアツシは「ええ……」と唸ってしまった。
「なんだこれ、信じられないくらい真っ暗じゃないですか」
「それが結界ということなのだ。だが一つ手がかりを与えてやろう。この闇の迷宮を抜ける鍵は、自らの心に正直であることだ」
「正直?」
それがどういう意味なのか、アツシはもっと詳しい話を聞きたかったが、トロイはそれ以上のことを教えてくれる気配がなく、顎で闇への入り口を示して云う。
「行け。真っ直ぐ進め。この闇をくぐり抜けられるかどうかはおまえ次第だ」
その言葉を拠り所に、アツシは勇気を奮い起こして闇のなかへ踏み込んでいった。
……。
視界が真っ暗に塗りつぶされた、息苦しいほどの闇のなかを、いったいどれくらいのあいださまよっていただろう。行けども行けども出口はなく、光りは見えず、かといって元の扉に帰り着くこともない。ひょっとして自分は騙されたのではないか。このまま永遠に闇のなかをさまようことになるのではないか。
「おおい」
黙っているより声をあげた方が安心だ。そう思って試しに声をあげてみたが、返事はない。それどころか開けた口の中に闇が流れ込んできて窒息するかと思えたほどだ。
「苦しい。なんなんだ、ちくしょう。どうして俺はこんなところに来ているんだろう。意味がわからない。当たり前だ。俺は巻き込まれただけなんだ!」
いつしかアツシは、闇のなかで自分の心を見つめながらそう捲し立てていた。独り言でも喋っていなければ気が狂いそうになる。
「ここは壁に囲まれた世界で、壁の外にはモンスターがいて、そのモンスターと戦ってほしいだって? まあ理屈はわかるよ。でも俺がそれをする理由がない。理由……人助けに理由はいらない? そうかもしれないけど、それが命懸けってことになったらどうだ? 出来るか? そりゃあ津波が迫っているのにばあちゃんを助けに行ったさ。でもあれは勇気があったわけじゃない。ただ無鉄砲だっただけだ。俺はあのとき、あれが命懸けになるなんて思わなかった。どうせ死なないと思ってた。じゃあ自分が死ぬとわかって、また同じ事ができるだろうか? わからない。当たり前だが死にたくない。異世界に来たことや、人のために働くことについては、この際かまわないけど、死ぬのは厭だ。そう……俺なんて、そんなもんだよ。勇者なんて柄じゃないんだ」
あまりに深い闇が、アツシにここまでのことを考えさせた。これほどの闇のなかではあまりに孤独で、自分で自分と話していなければおかしくなってしまうと思ったからだ。それにしてもいい加減、出口が見えてくれないか。そう祈るのだが、肌に貼り付くほどの闇は尽きない。
アツシはだんだん腹が立ってきた。あるいは頭がどうにかなったのかもしれない。
あるとき、突然我慢の限界が来て、アツシは闇に抗って叫び声をあげた。
「ああ、くそ! なんなんだ、馬鹿野郎! この野郎! よくわからないまま異世界に連れて来られて、モンスターなんぞと戦いたいわけねえだろ! 誰が壁の外になんか行くか! 夢なら醒めてくれ!」
アツシが心の底からそう叫んだとき、突然、目の前の闇が晴れた。闇が晴れ、光りが溢れ、アツシはあまりの眩しさに目を閉じた。闇に慣れた目にはすべての光りが強烈すぎたのだ。
やがて瞼の向こうの明るさに目が慣れてきたのを感じたアツシは、恐る恐る目を開けた。
そこは整えられたどこかの庭のようだった。そして目の前に一人の女が立っている。亜麻色の髪を腰まで伸ばした眼鏡の美女だ。彼女は鳶色の目でアツシをじっと見つめていたが、アツシが逆に茫然と見返していると、ため息をついて云った。
「普通ですね。なんかがっかりです。あの予言、外れだったんでしょうか」
「……は?」
アツシはなにが起こっているのかわからない。息苦しいほどの闇が突然晴れたかと思うと、目の前に女がいて、自分を詰ってくる。狐か狸に化かされたような気持ちでいると、女は心持ち胸を張った。大きな乳房だった。
「私はエロイーズ。オヴェリア様を守護する三勇者の一人で、この庭に結界を張った者です。闇の迷宮はいかがでしたか?」
「ああ、いかがって……俺にはなにがなんだか……」
「種明かしをすると、あの迷宮はまず完全な暗闇で対象の時間と空間の認識能力を奪い取ります。そのうえで、私は対象がどういう行動をとるか見極めてるんですよ。息もできないくらいの闇で追い込むとみんなだいたい気が狂いかけて、普段話さないようなことを話し始めますからね。それで対象の人間性を判定し、相応しくなければお引き取り願うわけですが……」
だんだん話が見えてきたアツシは、肩越しに背後を振り返った。わずか一メートルの距離に扉がある。その扉がいきなり開いて、トロイが顔を覗かせた。
「終わったか?」
「まだです」
エロイーズの厳しい声を聞いて、トロイは顔を引っ込めた。アツシは疲れ切った顔を前に戻してエロイーズを見る。
「なるほど、つまり俺はここでずっと足踏みしてたわけね。で、自分がどんな人間なのか白状させられたってわけだ。それって結界って云うより幻術じゃないの?」
「いえ、結界ですよ。たとえ翼があったとしても、私の定めた正規の入り口以外からはこの庭に侵入することはできないのですから。入り口は闇に閉ざされ、私が許可した者だけがその闇を通り抜けられる結界……それが私のマイティ・ブレイブの本質です。暗闇で追い込んで人間の本性を引き出すのは、副次的な効果ですね」
「ほうほう。で、俺は合格なんですか?」
「悪人ではないようですからね。でも私が期待した英雄豪傑ではありませんでした」
「そいつはどうも。お呼びでないなら帰るけど? 俺は今、あんたらの期待をとことん裏切って、勇者なんかじゃなくパン屋にでもなってやろうかって気分なんだ」
「まあまあそうおっしゃらず、せっかくここまで来たのですから、オヴェリア様にも会っていかれて下さいよ」
エロイーズはそれだけ云うと、アツシの返事を待たずに踵を返し、この奥庭を左右に区切る石畳の道を歩き出した。その先に小さな家が建っている。塀に囲まれた屋敷の奥庭に、こぢんまりとした二階建ての家が建っているのがここからでも見えるのだ。
アツシはエロイーズの態度に小石でも蹴っ飛ばしてやりたい気持ちだったが、卓子をひっくり返すほど怒ってはいなかったので、ふんと鼻を鳴らしながらもひとまず彼女に従って歩き出した。
この奥庭はざっと見渡した限り、学校の運動場くらいの広さはありそうだった。陽射しが燦々と降り注いでいて庭木や花はよく手入れされており、遣り水もしてあって居心地は良さそうだ。それらの庭を眺めていたアツシは、エロイーズの背中に視線をやった。
「オヴェリアさんって人は、ずっとここにいるんですか?」
「ええ。オヴェリア様はこの世界の大黒柱であり、要石。外出はなされません。ここで我々に守られて、日々を祈りに費やしておられます」
そう聞くと敬虔な聖女のようだが、トロイによると悪戯好きらしい。どうにも人物像が見えて来ない。悪戯をするのは、ストレスが溜まっているせいだろうか?
「ここ、結構広いから運動はできそうですよね」
「ええ。不自由をさせてしまうことはわかっていましたから、みんなでこういう屋敷を用意したのです。さあ、つきましたよ」
そこでアツシは足を止めた。オヴェリアの住まう館が、もう目の前にある。
「ここにオヴェリア様が住んでいます。ところであなたのお名前は?」
「……アツシ」
「アツシ様。よろしい、ではお呼びしてきますから、ここでお待ちください」
エロイーズはそう云うと、とっつきの短い階段を上り、館のなかへと姿を消した。
――中には入れてもらえないのか。
アツシは心でそうぼやいたが、女性の部屋と考えれば男の自分が立ち入りを許されないのも仕方ないかと考え、その場で立ちん坊になった。