第一話 勇者ナンバー867(6)
「……意外に美味しかったですね」
「うむ、食はもっとも重要だからな。これについては先任の勇者たちがかなり頑張って地球人と現地人の双方が美味しいと感じられる料理を編み出したのだ。材料は現地のものを使っているから、地球の料理を完全再現とはいかんがね。そして同じ食事ができることから、地球人とこの世界の人間は生物としてほとんど同種と考えていい。子供もできるし」
「へえ」
と、そんな話をしながら、アツシたちは勇者特区に戻ってきた。そのころには太陽は少し動いて、昼と夕方の中間くらいの時間になっていた。
ニコラの屋敷に着いたとき、門前に男が立っていた。瞭らかにここでニコラの帰りを待っているような様子だった。知り合いだろうか、とアツシがニコラの顔を横目で見ると、彼は目を丸くするほど驚いていた。
「トロイ殿!」
――トロイだって?
それはアツシがこの世界に召喚されたとき、レナと会話をしていた男の名前ではなかったか。アツシがそう心打たれていると、レナが一歩前に出て不思議そうに尋ねた。
「トロイ様、なぜこちらに?」
「無論、そこの新米に用があるからだ」
トロイと呼ばれた男は威厳のある声でそう云うと、アツシを見据えながらこちらに歩を進めてきた。
トロイは見たところ二十歳くらいで、褐色の髪をした長身の美男子である。それが中世のヨーロッパ風の騎士装束をしており、つまり剣と鎧で武装していた。見るからに気位が高そうな面構えで、アツシは彼から威風を感じてちょっと後ずさりしたほどだ。
やがてアツシの目の前に立ったトロイは云った。
「俺はトロイ、勇者の一人だ」
「えっと、トロイ様は勇者様たちのなかでも将に当たるかたです。協力してモンスターから壁を守ったり壁外で活動する以上、同じ勇者様でも将軍、隊長、兵士、後方支援などに役割が分かれますので……トロイ様は勇者全体を統括するリーダーの一人と考えてもらって間違いありません。つまり偉い人です」
そう早口でアツシに教えてくれたレナが、トロイを見ると云った。
「トロイ様、こちらはアツシ様です」
「どうも」
と、ひとまずアツシがそんな挨拶をしたとき、ニコラが傍から云った。
「それでトロイ殿、いったいどういうことですかな? 彼はこのあと私が訓練教官に引き渡す手はずだったはずですが……」
「予定が変わった。予言が下りてな」
「予言?」
鸚鵡返しに呟いたのはニコラだったが、アツシにしたところでなにがなんだかさっぱりわからない。目顔で説明を求めると、トロイは段階を踏んで話してくれた。
「勇者のなかに一人、未来視のマイティ・ブレイブを持つ者がいる。当たることもあれば外れることもあるのだが、そいつが云うのだ。今回の勇者は我々の状況を大きく変える可能性を持っているらしい……とな」
それにはレナが息を呑んだ。
「アツシ様!」
レナはきらきらした目でアツシを見てくるが、アツシとしてはとんでもない話である。
「いや、待ってくださいよ。なんですか、予言って。俺がそんなはずないでしょう」
「自分の可能性を自分で狭めるような発言はよせ」
そうたしなめられ、思わず絶句したアツシに代わって、またニコラが云う。
「仮にその予言が当たっているとして、どうなのです? 彼はまだ素人でマイティ・ブレイブにも覚醒していない。予定通り、訓練するしかないでしょう」
「それはそうなのだが、オヴェリアが会ってみたいと云い出したのだ」
するとレナが驚喜の声をあげた。
「オヴェリア様が!」
レナにとっては心を揺さぶる名前らしいが、アツシにとってはまったく知らない誰かの名前である。アツシはレナの方へ顔を近づけて尋ねた。
「オヴェリア様って誰だい?」
「二百年前に降臨された最初の勇者様であり、人類最大の救世主です!」
アツシは一瞬、なにを云われたのかわからなかった。少しはこの状況に慣れたと思っていたのが、一気にひっくり返された思いがした。
「は? に、二百年前? 二百年前だって! そんな長生きなのか?」
するとトロイとニコラが不思議そうに顔を見合わせ、やがてトロイが舌打ちして云った。
「さてはハリーめ、説明を省いたな」
「説明? どういうことなんですか?」
うろたえるアツシに、トロイではなくニコラが噛んで含めるがごとくに語り始めた。
「勇者はこの世界に召喚された時点で三つのものを獲得する」
「それは知ってますよ。一つは言語で、一つはマイティ・ブレイブ。もう一つは――あれれ?」
そういえば三つ目をまだ聞いていない。そこのところに心づいたアツシに、ニコラは恬淡とした口調で云った。
「三つ目は寿命だよ。不老長寿だ。勇者は戦いで死ぬことはあっても老衰で死ぬことはない。成長が老化に変わる瞬間、肉体の時間が止まってしまうのだ」
アツシはなにを云われたのか、すぐにはわからなかった。
そこへ今度は傍からレナが云う。
「勇者様の召喚は三ヶ月に一回しか行われないということは、既にハリー様が口走っておられたと思います。アツシ様はそのあたりをよく考えておられないようでしたが、アツシ様が八六七番目の勇者で、勇者は一年間に四人しか召喚されないということは、最初の勇者であるオヴェリア様が召喚されたのはいつでしょう?」
そのくらいの計算は簡単だった。そして勇者が召喚の際に得る三つ目のものと合わせて考えると、途方もない事実がのしかかってくる。
「……に、二百年以上生きてるってことですか」
「その通り」
そう云ったニコラが、アツシの見ている前でちょっと気取った風に立ち姿を変えた。
「かく云う私も、もう本当は八十歳のお爺さんなのだ」
「あー……」
と、アツシはそんな風に呻いてしまった。捉えようによっては失礼な態度だったのかもしれないが、とにかくそれほど驚いた。
「そうなん、ですか……本当に?」
「本当に」
そう断言されると、アツシの揺れていた心の水面も次第に静まっていった。
「そうか……じゃあオヴェリアさんが救世主っていうのもわかりましたよ。二百年前に降臨した最初の勇者っていうなら、そりゃそうでしょう。きっと多くのモンスターを倒したんでしょうね」
するとこれにはトロイが鋭く切り込むような口調で云った。
「いや、彼女は一匹のモンスターも退治していない」
「えっ?」
「なぜならば彼女のマイティ・ブレイブは結界系だからだ。攻撃には使えない」
「結界系……それってつまり、どこかを守ったりする力のことですよね? それで救世主って云われるほどになれるんですか?」
これにはトロイではなく、レナが熱気に満ちた声で云う。
「今の人間世界があるのはオヴェリア様のおかげなのです。そのため彼女はこの勇者特区で皆に守られて暮らしておられます。もし彼女の身になにかあれば、この世界は崩壊しますから」
「世界が、崩壊……?」
さっぱりわけのわからぬアツシに対し、話し手はふたたびニコラに移った。
「そう、オヴェリア殿は巨大な結界を作り出して、この世界を守っている。と、こう云われてなにか気づくことはないかね?」
「えっ、それは――」
「あれだ」
ニコラはそう云って、空の彼方を指差した。街のどれかの建物を指差しているのではない。街をぐるりと取り囲む市壁を指しているのではない。かといって本当に空を指差しているのでもなかった。
ニコラが指差しているのは、遠い彼方に山影のように霞んで見える壁である。
「ここは壁に囲まれた世界ラストガーデン。半径一〇〇キロメートルの正円をした大地が、巨大な壁にぐるりと取り囲まれている。それが人間世界のすべてであり、人類に残された最後の領地。壁の外は強大で猛悪なモンスターがうろついており、人は生きてはいけない。すべてあの壁が防いでくれている。その総延長は六二八キロメートル、高さは実に三〇〇〇メートルにも達する。壁の内部には無数の部屋と階段と、そして古典的なエレヴェーターがあり、空を飛ぶ魔物は、壁の上にそびえる不可視の障壁によって侵入することができない」
そこで言葉を切ったニコラは、腕を下ろすとアツシに眼差しを据えた。
「そんな途方もない壁が、尋常な工事で作り出せると思うかね?」
そう云われて、アツシは全身に鳥肌が立つ思いだった。
「では、あの壁は……」
「そう、あれはただの壁ではない。勇者オヴェリアのマイティ・ブレイブによって作り出された巨大な結界なのだ。つまりこの壁に囲まれた箱庭世界、ラストガーデンを創造したのは彼女なのだよ」
「じゃあ、街の人が勇者特区に向かって祈っていたのは……」
「オヴェリアに祈りを捧げているのだ。彼女は人類が生きられる箱庭の主なのだからな。もし彼女になにかあれば壁は崩れ、魔王に率いられたモンスターが一気に押し寄せてきて人類は滅ぶ。ゆえに彼女には王と謂えども頭が上がらない」
アツシは言葉もなく、遙か彼方の壁を見て大いに驚いていた。
最初にあの壁の話を聞いたとき、きっと先人が頑張って建てたのだろうなあ、としか思わなかった。だがよくよく考えてみれば、近畿地方とほぼ同じくらいの大地を丸ごと囲んでいるあの壁は、ほとんど山脈のようなものである。人間にそんなものを築くのは不可能だ。だがそれもマイティ・ブレイブによるものだとしたら、かろうじて得心がいく。そしてそのマイティ・ブレイブは、なんと強大な力であろう。
アツシは霞んで見える壁をその目に映じて、ほとんど独り言のように云う。
「あれが結界系のマイティ・ブレイブ……マイティ・ブレイブって、そんなこともできるのか……」
「まさに神の力、奇跡の力だ。とはいえ、勇者のマイティ・ブレイブは千差万別、一人として同じマイティ・ブレイブは存在しない。その能力の方向性も力の大小も様々だ。君のなかに眠る召喚系のマイティ・ブレイブがいったいなにを呼ぶのかは……覚醒してみないことには、わかるまい」
「そう、ですか……」
アツシの胸には自分の裡に眠る力への期待と不安があった。
そこへトロイが云う。
「さて、オヴェリアはこの世界の要。勇者特区の中央にある彼女の屋敷で、複数の勇者たちに守られて暮らしている。今からそこへ、おまえを案内しようと思う」
そんな最重要人物のところへ連れて行かれると理解して、アツシはたちまち気後れした。
「俺に会って、どうしようって云うんです?」
「おまえの人物を見極めたいのだそうだ。おまえがなにか特別な力を秘めているとして、その力をどう使う人間なのか……それは俺としても興味がある。ひょっとしたら、我々を悪い意味で変える人間なのかもしれん」
「なっ……」
その言葉にアツシは、出会い頭に一撃喰らったような気分だった。そんなアツシを鼻で哂ってトロイはなおも云う。
「……召喚されてくる勇者はすべてが善人というわけではない。極端な悪人も滅多にいないが、誘惑や欲望に負ける小物は大勢いる。おまえもその一人ではないか?」
そう疑われて、アツシもまたトロイをせせら笑ってやりたくなった。いきなり異世界に召喚されてわけのわからない、自分ではなにも納得していないことをやらされようとしているうえ、そんな風に試されるとあっては、腹も立つと云うものだ。
「いいんですか? オヴェリアって人は重要人物なんでしょう。そんな彼女にどこの馬の骨とも知らない俺を近づけて?」
「なに、彼女のことは二重三重の構えで守っている。心配いらんさ」
「そうですか……」
――俺がどんな人間か知りたいだって? いいだろう、教えてやる。
レナは命の恩人だが、オヴェリアは他人である。ひょっとしたらこの世界で初めて、云いたいことをはっきり云ってやれる相手かもしれない。
「いいですよ、行きましょう。そのオヴェリアって人に会いましょう」
――そしてはっきり云ってやる。俺はただの単なる十六歳で、おまえらの理屈に巻き込まれてモンスターなんぞと戦うのはまっぴら御免だって!
アツシは涼しげな顔の下でそうした怒りの炎を高くあげていた。