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第八話 悲しみを乗り越えて(1)

  第八話 悲しみを乗り越えて


 目を醒ましたアツシは、ニコラが自分の顔を覗き込んでいるのを見た。どうやら自分はどこかに寝かされているらしい。部屋の天井が見える。と、ニコラが口を開いた。


「やあ、起きたかね。あれから数時間が経過した。ここは転移前に集まっていた壁内の一室だ。拘束はしていないが、武装は解除させてもらったよ」


 アツシは目だけを動かしてニコラを見る。


「トロイは?」

「生き残った勇者たちを再編成して魔王を包囲しているよ。魔王は一時、勇者たちの囲みを破って逃げた。だがその際に騎乗していた魔獣を討ち取ったのでどうにか追いつくことができてね、今はエロイーズの張った結界のなかだ」

「エロイーズ……」


 それはオヴェリアの護衛を務める三勇者の一人、暗闇の結界を司るエロイーズのことであろう。アツシも三年前に会っている。


「報告によると、数人の勇者が囮になって、彼女の張った結界のなかに魔王を誘い込むことに成功したそうだ。その囮になった勇者たちは皆殺されたが、その隙にエロイーズが結界の出入り口を封鎖した。そうして魔王は今、彼女のマイティ・ブレイブによって結界のなかに囚われている」

「……さすが。でも同じ結界系とはいえ、エロイーズのマイティ・ブレイブにはオヴェリアほどの力はないんだろう? それで魔王を完全に閉じ込められるのか?」

「残念ながら、答えはノーだ。これは一時しのぎにすぎん。魔王には暗闇の幻覚が効かず、結界の壁を力ずくで破ろうとしており、半日で結界が壊されるだろうと、エロイーズ自身が見解を述べている。オヴェリア殿の壁は二百年にわたって魔王の侵入を阻止したが、エロイーズの結界はわずか半日しかもたないということだ」


 それが二人の力の差ということなのだろう。だがそれはエロイーズが劣っているというより、オヴェリアの力が桁違いなのである。


「それで?」

「トロイ殿は魔王が結界を破って出てくるその時に備えているよ。そして君のことは、ひとまず友人である私が引き受けることにしたというわけさ。ところでエロイーズが結界のなかに魔王を捕えるまでのあいだに、決死隊として囮になった者たちを始め、いったい何人の勇者たちが命を落としたと思う?」


 アツシが答えないでいると、ニコラはしんみりと云った。


「大勢死んだよ」

「……ざまあみやがれ」

「なに?」

「あいつら、魔王を殺すためによってたかってレナを生け贄にしたんだ。当然の報いさ」

「彼らはなにも知らなかったよ。すべてはトロイ殿を始め、一部の勇者によって立てられた作戦だ。末端の者がそんなことを知っているはずがないだろう。私も知らなかった。だが勇者のために従者が犠牲になるのは妥当と云える」

「妥当なもんか!」


 アツシは跳ね起きると、寝台脇の椅子に座っていたニコラを睨みつけた。火の心を持っているアツシに、ニコラは水の心で云う。


「そう思うのは君にとってレナが特別だったからだろう。だがほかの者なら、君のマイティ・ブレイブを使うために君の従者が生け贄になるのは当然と考えただろうな。従者レナ本人が志願してきたのならなおさらだ。誰でも感謝を敬意を持って、レナの提案を受け容れたろうさ」


 そこで言葉を切ったニコラは、目を伏せてため息をついた。


「だが結局、トロイ殿は間違っていた。君という人間を見誤っていたのだ。魔王という二百年の宿敵を前にして、君が怒りに身を任せ、仲間に剣を向けてくるとは思わなかったのだろう。人の心がわかっていなかったと云えば、その通りだ」

「仲間? あいつらは仲間じゃない。レナを殺したんならもう仲間じゃない。俺の敵だ」


 血を吐くようにそう云ったアツシは、自分が怒っているのか悲しんでいるのか、自分でもわからないほどだった。そんなアツシを見ながらニコラが云う。


「魔王はどうしても倒さねばならなかった。自由のために。人類の勝利のために。新しい時代の夜明けのために。怯えて暮らすような時代をいつまで続ければいい? 我々は歳を取らないが、次の世代の子供らに自由で平和な世界を見せてやりたいじゃないか」


 なるほど、それは素晴らしい完璧な文句だった。ニコラは今、大志を掲げて理想を唱えているのだ。だがアツシという一人の人間の心を無視している。いくら気高い理想であっても、そのために自分の心が無視されるのだとしたら、そんなものは受け容れられない。アツシはニコラを火の瞳で睨みつけた。


「そのためにレナが死んだっていうなら、釣り合わないんだよ! 魔王を倒せても! 世界を救えても! これから生まれてくる子供たちに平和な世界を見せてやれたとしても! レナが死んだら釣り合わないんだ! 絶対、釣り合ってたまるか!」


 アツシはそれだけ云うと寝台から足を下ろして立ち上がった。靴は履かされたままだったので、そのまま部屋の出口へ向かって突進していく。ニコラが椅子から腰をあげた。


「アツシ」


 アツシは部屋を出て行く前にニコラを振り返った。


「俺は下りる。もう戦わない。おまえらだけで勝手にしろ」

「どこへ行く?」

「知らねえよ!」


 本当にこれから自分がどこへ向かうのか、アツシは自分でも知らなかった。ただ感情をもてあまして、部屋を飛び出し、壁からも飛び出し、夜明け前の空の下へ飛び出して、自分がどこへ向かっているのかもわからないまま闇雲に息が切れるまで走った。




 東の空が紫色に明るんできたころ、ここまで走り通しだったアツシは精も根も尽き果てて森のなかでひっくり返っていた。ここはどこか、わからない。滅茶滅茶に走ってきたので完全に迷った。人里からも街道からも離れた森のなかだ。もう一生ここから出られず、野垂れ死にするのかもしれなかったが、それでもよかった。


 ――死んでしまえ、俺も、みんなも。


 そう自棄を起こして、どくどくと鳴る自分の心臓が次の瞬間に止まってしまってもいいと思った。

 そのときなにか、ぱたぱたとした跫音あしおとが聞こえてきた。獣の跫音だ。森をねぐらにしている狼かなにかだろうか。途端に生存本能が刺激されたが、全身が疲れきっていて上半身を起こすのがやっとだ。立ち上がることは出来そうもない。


 ――こんなところで、熊だか狼だかに取って食われて死ぬのか。


 諦めと恐怖と、どうでもいいと思う気持ちがない交ぜになったまま、アツシは跫音の主が近づいてくるのを待った。果たして森の暗がりから姿を現わしたのは、一匹の犬だった。白い毛並みのふさふさした大型犬で、赤い目をしており、犬としては非常に美しい。


「あれ、おまえ――」


 アツシはこの犬に見覚えがあった。名前はラッシー。三年前、予言の件でオヴェリアの屋敷に呼ばれたとき、暗闇の迷宮を抜けた先の奥庭でこの犬に飛びかかられたのだ。そのあとアツシはオヴェリアを名乗る老婆に会っている。もっとも、それは影武者グレイスが変身した姿だったのだが。

 ともあれ、アツシは険しい目をして辺りを見回した。


「おまえがここにいるってことは、あいつらが近くにいるな……」


 この期に及んでなにか自分に用でもあるのか。相手をするのも億劫である。アツシがそう思っていると、ラッシーがアツシの傍までやってきてちょこなんと座った。


「やっと追いついたわ」


 アツシは目を剥いた。


 ――犬が喋った! この世界の犬は喋るのか? いや、そんな馬鹿な。


 そこへラッシーは少女の声でなおも云う。


「大丈夫? みんなひどいわよね」


 その言葉で、犬が喋ったことの驚きは、深い悲しみに取って変わられた。初めて自分の心に寄り添われて、アツシはぽろぽろと涙を流すと、相手が犬だということもどうでもよくなって喋り出した。


「そうなんだ、みんなひどいんだよ。なんだよ、馬鹿じゃないのか。急にレナが死んだって云われて、戦えるわけないだろ。俺はロボットじゃないんだぞ。無理だよ……無理だ……」


 そのままアツシが泣きじゃくると、ラッシーは鼻を鳴らしてアツシの顔に顔を接し、その涙を優しく舌で舐め取ってくれた。アツシはくすぐったさに笑い、それからラッシーの優しさに微笑んで、その首に腕を回して抱きしめるとなおも云う。


「でも、一番ひどいのはレナだ。俺が悲しむってわかっていたはずなのに、使命だか夢だかのために、平然と自分を犠牲にしやがった。それで俺が奮い立って英雄になると思ったら大間違いだ。俺が今までがんばれたのは、レナがいたからさ……レナがいないなら、知らんよ、もう。世界がどうなろうと、魔王がどうなろうと、俺にはどうでもいい」

「ごめんね。私、なにも知らなかったの。レナのこと、私が知ったときには、もう終わっていたわ。止められなくて、本当にごめんなさい。でもすべてがどうでもいいなんて云わないで。みんなを助けてあげてほしい。あなたにはその力があるんでしょう?」

「どうして助けなきゃいけないんだ? こんな思いしてまで、なんで他人のために戦わなくちゃならない? 知らないよ。みんなそれぞれ自分で戦えばいい。俺は助けない」


 するとアツシに抱きしめられていたラッシーは、頭を起こしてアツシの腕から逃れると、アツシを間近から覗き込んで云った。


「弱虫!」


 そしてラッシーの右前足が、アツシの頬を打った。なっ、と呆気にとられたのも束の間、


「いじけ虫!」


 返す右前足が、アツシの逆の頬まで打つ。


「いくら悲しいことがあっても、人には優しくできるのが本当の男と云うものよ! たとえ損ばかりして、あなたの涙を見る人が誰もいなくたって、正しいことはきちんとやり遂げるのが豪傑よ! それが出来ないのなら、あなたは一生、弱虫だわ!」


 アツシはもはや唖然茫然、犬に平手打ちを喰らい、あまつさえ説教までされた男がほかにいるだろうか?


 ――犬だぜ?


 その驚愕が通り過ぎると、アツシは自分の胸に負けん気が熾り出すのを感じた。


「俺が弱虫? いじけ虫?」

「そうよ。トロイに怒るのはわかるわ。でも今はそれとは関係のない大勢の人が危殆に瀕しているのに、あなたはそれを助けられるはずなのに、臍をげているじゃない」

「……ふざけるな。俺は弱虫なんかじゃない」

「なら、行動で示してみせて」


 そう云われて、アツシは森の底からすっくりと立ち上がった。立ち上がって、しかし胸が張り裂けそうになる。


 ――誰も俺に優しくしてくれないのに、俺はみんなを助けなきゃいけないのか。


 だが、これがいじけていると云うことなのだろう。報われぬことを承知で、その先になにもないことを承知で、行かねばならない。


「くそっ……ああっ、くそっ。たとえ損ばかりして、俺の涙を見る人が誰もいなくとも、正しいことはきちんとやり遂げる。そんなのは、正しいのかもしれないがぶっ壊れてるぜ。だが、いいだろう。ぶっ壊れてやる」

「いいえ、壊れちゃ駄目よ」

「なに?」

「それであなたが壊れたら、みんなへの当てつけみたいじゃない。心のどこかで報われない運命に不満があるから壊れるんでしょう。でも、それは本当の強さじゃない。本当に強くて優しい人は、私たちに引け目やすまなさなんか感じさせないわ。あなたの姿を見て痛々しいなんて思わせない。あなたの涙は誰も見ない。いつも笑顔。そこまでやって百点よ」


 そう云われて、アツシの心に稲妻とも地震ともつかぬ衝撃が走った。


「そ、それは、人間なのか……?」


 その問いにラッシーはなにも答えない。ただ赤い瞳で、アツシをじっと見上げている。答えは自分で掴めと云うことか。アツシは手のひらを握って開いてを繰り返しながら云う。


「俺は、俺はなあ……そもそも戦いたくなんてなかったんだよ。でもレナが、まるで俺を英雄のように見つめるから、訓練を三年も頑張ってしまって、壁の外にも行って、そこまでしたのにレナに死なれて、馬鹿みたいだ。でもレナはきっと俺が英雄になると思って、自分を召喚するだろうと信じたから、自分の命を捨てたんだろうな。結局俺は、レナのために、また立ち上がろうとしている。くそがあああっ!」


 アツシはそう吠えると、なにか覚悟を決めるように両手を固く握りしめた。


「いつも笑顔、か。そこまでの大物になれるかどうかはわからないけど、弱虫にはなりたくない……し、たぶんレナは俺に呼ばれるのを待ってるだろうから……」


 そのときアツシのなかで、撃鉄が起こされるような感覚があった。なにかが嵌まった。


「……今から魔王を倒しに行く」


 するとラッシーが、犬のくせに微笑んだようだった。


「やっとその気になったわね。なら安心なさい。あなたがいつも笑顔の英雄豪傑になれるかどうか、今はまだわからないけど、もし心が耐えきれなくなって壊れてしまいそうになったら、そのときは私が助けてあげるから」

「なに?」

「筋違いな怒りや、やりきれない悲しみがあるなら、全部私にぶつけなさい。殴ってもいい。叩いてもいい。私をいくらでも苦しめればいい。私は逃げない。一生あなたの傍にいて、あなたの気が済むまで、あなたの云うことをなんでも聞いてあげる。でも私以外の人には、優しく公平でいて。トロイもジュリアンも、みんな許してあげて」


 その言葉はすべて優しさの音色だった。そうだ、思えばさっきから、この犬は自分を慰め、励まし、尻を叩いてくれている。なぜなのか。


「あなたの涙は誰も見ない。この私を除いては」


 ラッシーは赤い瞳でアツシを真っ直ぐに見据えてそう云った。そのあまりの優しさにアツシは怯みさえした。


「そんなこと云って、だいたいおまえは何者なんだ。犬のくせにべらべら喋って……そうだよ、すっかり話し込んじまったけど、最初からおかしいんだ。なぜ犬が喋る? おまえはいったい、なんなんだ?」

「あら、わからない?」


 ラッシーは犬のくせに笑いを含んだ声で云うと、あらぬ方を振り仰いだ。


「エロイーズ、グレイス、シーリーン、出てきなさい!」


 それに応じて樹の陰から、森の暗がりから現れたのは、見覚えのある三人の女だった。オヴェリアの影武者を務める老婆のグレイス、暗闇の結界を作るエロイーズ、そして護衛の騎士シーリーンだ。

 他の二人はともかく、アツシはエロイーズの姿がここにあることに目を剥いた。


「エロイーズ! どうしてあんたが……トロイと一緒に魔王を包囲してるんじゃないのか?」

「私のマイティ・ブレイブによる結界は、一度張ってしまえば私がその場を離れても機能します。それでいて私の精神とリンクしており、結界の状態はここにいてもわかります。魔王はまだ結界のなかですよ。もうあと一時間もしないうちに破られそうですが……」


 そう話すエロイーズの顔はどことなく青ざめている。結界への攻撃が、本人の精神的負担になっているのであろうか。


「それに魔王が結界を破って出てきたら、一時的とはいえ自分を封印したエロイーズを真っ先に狙うだろうから、今のうちに退避しておけというトロイの勧めがあったのだ」


 シーリーンの補足にアツシが納得していると、ラッシーはグレイスを見つめて云う。


「そんなことより、グレイス」

「仕方ありませんわね」


 グレイスはため息をつくと、さっと右手を振った。すると犬のラッシーの体が光りに包まれ、その光りが収まったとき、そこには身長一四〇センチくらいの、癖の強い黒髪を腰まで伸ばした、金の瞳の美少女が、白いドレスを纏って立っていた。

 そしてシーリーンとエロイーズが、その少女の両脇を固めて立つ。その姿はまるで少女を守るかのようだ。それでアツシにもやっとわかった。


「そうか、おまえが……」

「私はオヴェリア。この世界に壁を巡らした最初の勇者よ」


 オヴェリアはそう云ってにんまりと笑った。

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