第一話 勇者ナンバー867(1)
第一話 勇者ナンバー867
夢は見なかった。暗い水底から水面に浮かび上がってくるように、突然、意識は覚醒し、アツシはぱっと目を開けた。知らない天井がそこにある。しばらくぼんやりしているうちに、寝台に寝かされているのだと察しがついた。そして記憶が蘇ってくる。
――夢だったのかな。あんな地震が起きて、津波が来て、綺麗な女の子の幻を見て。
そこまで考えたとき、幻のはずの少女がアツシの視界のなかに顔を出した。
「気がつかれましたか?」
――夢じゃなかった。
アツシはそう悟ると、状況に怯みながらもゆっくりと体を起こした。上からアツシの顔を覗き込んでいた少女は、自然と背筋を伸ばす。アツシはその少女に眼差しを据えると、やはり綺麗だと思いつつぼんやり口を切った。
「君は……」
「はじめまして、私はレナと申します。あなた様の従者です。お名前を伺ってもよろしいですか?」
――従者?
意味がわからなかったが、まだぼんやりとしていたアツシは求められるがままに名乗りをあげた。
「……アツシだ」
「アツシ様……」
そのままレナと見つめ合ってしまったアツシは、ようやく理性が回転を始めるのを感じると勢いをつけて尋ねた。
「あの、俺はたしか津波に呑まれて……」
「そのようですね。でも私が助けました」
「そうなんだ、ありがとう」
「それと服は濡れていたので、私が着替えさせていただきました」
えっ、と驚いて自分の体を確かめれば、着ていた服とは違う緑の服に着替えさせられている。半袖のシャツと長ズボンだが、市販のものに比べると大味な作りをしていた。それはいいとしても、この少女に着替えさせられたというのが問題だ。
――全部見られた?
アツシは顔を赧くしてレナを見たが、レナは眉ひとつ動かさず、淡々と続けた。
「それでアツシ様、まずここがどこなのかの説明ですが……」
「ここ? そういえばここはどこだい? 病院にしてはおかしい……」
そう云いながらアツシは部屋のなかを見回し、軽く驚いた。
「円形の部屋……」
部屋はだいたい四角い形をしているものだが、この部屋は円形だった。むろん病室とはまるで趣が異なり、壁と天井は漆喰塗り、壁の下半分は腰板が巡らしてある。足下は石畳で窓はなく、出入りのための、頑丈そうな木製の扉が一枚ある。
その扉の傍らに男が一人、壁にもたれて立っていた。それは褐色の髪を耳まで伸ばした丸顔の、よく肥った二十歳くらいの青年だ。人種的には白人であろう。目が合うと、その男は笑って手を振ってきた。
アツシは気を失う前に聞いた会話をもとに、当てずっぽうで問う。
「あなたがトロイさん……?」
すると男は驚いたように目を丸くした。
「おっと、会話かなにかを聞いたのかな? でも残念。僕はトロイじゃなくてハリー。アメリカ人だよ。アメリカってわかるかな?」
「え、そりゃアメリカったらアメリカでしょう。わかりますよ」
「オーケー、てことは近代から来たんだね。それだと話が早そうだ。国はどこ? 生まれは何年?」
「えっと、一九九五年一月生まれ、日本人……」
「よし、近い!」
ハリーは大股で寝台に歩み寄ってくると、アツシの手をもぎ取るようにして勢いよく握手をしてきた。アツシはちょっと笑いながら尋ねた。
「あの、ここは米軍基地かなにかですか? レナさんもあなたも白人ですし、俺はアメリカに助けられた? それとその、あなたの格好って……」
ハリーは褐色の髪と瞳をした白人で、目鼻立ち自体は整っているのだが樽のような腹をしており、頬もふっくらとしていてお世辞にもハンサムとは云えなかった。その服装は今のアツシと似たり寄ったりだが、毛皮のマントを羽織り、しかも腰に剣を佩いている。まるで中世ヨーロッパを舞台にしたファンタジー作品の仮装をしているかのようだ。
そのハリーがきっぱりとした口調で云う。
「残念ながらここは米軍とはなんの関係もない場所だよ」
「じゃあ……」
ここはどこなのか。そう訊ねようとしたアツシに先んじて、ハリーが問うてきた。
「ところで君は英語は出来るかな?」
「……いや、特には。普通の高校生ですし」
「では、なぜ僕たちのあいだで会話が成立しているのだろう?」
そう踏み込むように問われて、アツシはぞわっと鳥肌が立つのを感じた。
――云われてみれば、そうだ。
先ほどからごく自然に話していたため自覚がなかったが、たしかに自分はレナやハリーと当たり前のように会話が出来てしまっている。しかしそうなると、ハンマーで殴られたような衝撃とともにある一つの現実に直面せざるをえない。
「俺は今、何語を喋ってるんだ……?」
その独り言は日本語ではなかった。そして英語でもなかった。まったく別の言語を、生まれ故郷の言葉のように喋っている。その事実にアツシは冷たい恐怖を感じた。
そこへハリーが一つ大きく頷いて云う。
「僕ら地球人はこの世界に召喚された時点で三つのものを得る。その一つがこの世界の言語だ。どうも転移した時点でこの世界の言語が第一言語として頭にすり込まれてしまうみたいなんだよ。そして母国語は第二言語として押しやられてしまうようだ」
「……は?」
アツシは待ってほしかった。もっとゆっくり説明してほしかった。
――地球人? 召喚? 言語?
ハリーはなにか途方もないことを当然のような顔で話している。茫然絶句の体にあるアツシを、ハリーは少し気の毒そうな目で見た。
「……まともな思考力があればそろそろ察してくれていると思うんだけどさ」
そこで言葉を切ったハリーは、アツシを試すかのように沈黙した。
アツシは恐るべき事実を直視しながら云った。
「ハリーさんと、云いましたね……実際、どういうわけか、俺たちは未知の言語で会話しています。英語でも日本語でもない別の言葉で喋ってる! 俺はこんな言葉、知らなかったはずなのに!」
「そう、僕らが今話している言葉はこの世界の言葉だ。ここは地球じゃない。僕らの知っている星座がある宇宙のどこかですらない。まったく別の次元の異世界なんだ! 君も僕もワープしてきた。僕は七〇二番目の、君は八六七番目の、勇者なんだ!」
心に落雷があり、アツシは頭を抱えてしまった。たっぷり三十秒ほどしてから顔を上げ、同情的な目でこちらを見下ろしているレナとハリーを順に見つめて云う。
「どっかでカメラが回ってるとかいうオチじゃないんですね?」
「だとしたら、君が話している言葉はなんだい? これって二十一世紀の地球の科学じゃ説明がつかないでしょ」
そうなのだ、その通りだった。他ならぬ自分自身が全然未知の言語を自在に話している時点で、これは常識では説明のつかない大異変が起きているのである。
アツシは寝台から両脚を下ろすと、ふらつきながら立ち上がった。傍からレナが支えてくれようとしたが、それを手振りで断ると、ハリーに辛そうな眼差しを据えた。
「別の世界って云いますけど、勇者ってなんですか? 俺が八六七番目……?」
「ざっと説明するとね、現在、この世界の人々は滅亡の危機にある。魔王に率いられた怪物……モンスターの軍勢に襲われているんだ。窮地に立たされた人類は最後の手段として異世界に救いを求めた。異世界……我らが母なる星、地球だ。そして彼らによってこの世界に召喚された地球人は勇者と呼ばれ、この世界で魔物たちから人類を守るために戦うことになる……というのが基本的な設定。オーケー?」
「いや、全然オーケーじゃないですよ。なんすか、モンスターって」
「怪物だよ」
「言葉の意味はわかりますよ。でもそれが文字通りのモンスターなら、俺たちだってどうにもならんでしょう」
「ところがそうでもないんだ。さっきも云ったけど、地球からこの世界に召喚された人間は、その時点で三つのものを得る。一つは言語、もう一つが、特殊能力だ。僕らはみんなマイティ・ブレイブって呼んでる」
「マイティ・ブレイブ?」
「勇気によって発動する神の力、奇跡の力さ。科学では実現不可能、物理法則さえ無視する異能……超常的な現象を引き起こす力を、僕らは持っているんだ。その力でモンスターと戦えるってわけ」
アツシは眉をひそめて考え込んだ。
「魔法みたいなものですか?」
「地球人的には、そんな感じ。でもこの世界には独自の魔法体系が別にある。僕らの召喚がそうだ。あれはこの世界の魔法によって行われた。こっちじゃ現地人が使う魔法と勇者が使うマイティ・ブレイブは厳密に区別されるから、一緒にするとあとで混乱するよ」
ふむ、とアツシは相槌を打ちながらなおも考える。
「……魔法じゃ、モンスターには勝てないんですか?」
するとハリーが微笑んでアツシを指差してきた。
「クールな質問だ。そして結論から云うとイエスだ。この世界の魔法は戦闘に向いてない。君はファンタジー映画を見たことあるかな? ああいうのじゃ炎や稲妻を巻き起こす魔法使いが出てくるけど、この世界の魔法はそういうのとは違うんだ。もっと古い御伽噺に出てくるような……魔法というよりは呪術に近いものなんだよね。だからああいう炎とか氷とか雷とかないの」
「そう、なんですか……」
「むしろそういうゲームの攻撃魔法みたいなのは、勇者のマイティ・ブレイブにありがちだね」
その言葉でアツシは気づいた。
「あ、じゃあこの世界の人が俺たちを召喚するのって……」
「イエス。理屈はよくわからないけど、地球人はこっちの世界に召喚された時点でこちらの言語とともにマイティ・ブレイブを獲得する。そのマイティ・ブレイブがモンスターをぶち殺すのに有効だから、こっちの人間は地球人の召喚をやめないってわけ。そして召喚された地球人は勇者と崇められ、モンスターと戦ってくれと頼まれる」
ハリーの声には少しばかりの皮肉があった。
いったいどうして、自分たちがそんな要求に応じて求められるままモンスターと戦わねばならないのか? アツシはそう思ったし、ハリーもそんなアツシの気持ちがわかったのだろう。
だがそれよりなによりアツシが気になるのは、自分のマイティ・ブレイブのことだった。
「それじゃあ俺にも、マイティ・ブレイブってのがあるんですか?」
「もちろんだ。勇者なら必ずある。ただしマイティ・ブレイブの力は千差万別だ。攻撃、防御、補助、回復、戦闘向き、非戦闘向き、汎用性のあるもの、ごく限られた状況でしか真価を発揮しないものなど、さまざまだ。こう云っちゃなんだけど、まるで役に立たないようなマイティ・ブレイブもあるよ? そしてマイティ・ブレイブは誰とも重複しない。皆が皆、オンリーワンの能力なのさ。だから君にも、君だけのマイティ・ブレイブが眠っている……はずだ。たぶん、きっとね」
そう云って片目を瞑ったハリーは、しかしアツシの表情を見てのことだろう、器用に片眉を上げて苦笑いをした。
「信じていないね?」
「だって……」
アツシは自然とハリーを胡乱な目で見ていた。実際のところ、マイティ・ブレイブなどと云われても容易には信じられない。
だがハリーは気を悪くした様子もなく、さもあらんといったように笑っている。
「まあ無理もないさ。僕も召喚された当初は『ふざけんじゃねえぞ馬鹿、コーラ飲ませろ』って思ったし。でも信じてもらわなきゃ始まらないから、とりあえず君に僕のマイティ・ブレイブを見せるところから始めようと思う。それにはここじゃあ狭いから、ちょっとついてきてほしいんだけど」
ハリーはそう云うと踵を返し、部屋の扉へ向かった。アツシは咄嗟に足が動かなかったが、百聞は一見に如かずである。さらにレナもこう云った。
「アツシ様、行きましょう」
「レナ、さん……」
アツシは思いがけず様付けされたことに動揺しながら、先ほどから口を挟まずに黙って立っていたレナにもまた物問いたげな視線をあてた。
「あの、ところで君はさっき俺の従者とかなんとか云ったような……?」
「それもあとからお話しします。それとどうぞ私のことはレナとお呼び捨て下さい」
レナはそう云うと、ハリーのあとについて歩き出した。