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第四話 白き翼の死霊使い(2)

 アツシたちが陣の北側に到着したとき、そこでは既に数人の勇者が厳しい顔をして、五〇〇〇メートル以上の距離を隔てた先にいる巨大な魔物と睨み合っていた。およそ遮るもののない褐色の草原のただなかに、巨大な影がぽつんと佇んでいるのが見える。


「あれが? たしかに大きいけど……」


 アツシは魔物の姿に目を凝らしながら眉をひそめた。ここからでは細部がよく見極められない。

 すると隣にいた勇者の男が、「見てみろ」と云って、アツシに遠眼鏡を投げてくれた。それを受け取ったアツシは、礼を云いながら遠眼鏡で目標を覗き、今度こそ息を呑んだ。それは白い巨大な虎の化け物であった。


「アツシ、寄越せ」


 ジュリアンがそう云うので、アツシは恐怖に竦みあがったままジュリアンに遠眼鏡を渡した。ジュリアンは遠眼鏡を覗き込むなり口笛を吹いた。


「なるほど、でかいな。この距離であの大きさ。目の前に来たらどうなっちまうんだ?」


 ジュリアンの声は不自然な愉悦に満ちていた。まるで不安を紛らわすために、わざとはしゃいでいるかのようだ。自信家のはずのジュリアンが躁的になっていると感づいて、アツシは不安のあまり吐き気を催してきた。


「でかいからと云って、強いってわけじゃないよな?」

「もちろんそうだが、あんなのは見たことがない。それにこっちを見てやがるくせに、動かないのが気に掛かる。どうにも不気味だぜ」


 アツシはそれに相槌を打つと、改めて遠い魔物の影に目をやった。

 モンスターは共通して人間に強い敵意を持っているが、知能については種によって様々だ。犬猫程度しかないものもいれば、相当悪辣なものもいる。では今、彼方からこちらをじっと見ているだけで近づいて来ようとしない、あの魔物の知能はどうなのか。アツシが測りかねていると、馬のいななきが聞こえてきて、蹄の音が近づいてきた。

 振り返ると、騎乗したトロイがやってきたところだった。

 指揮官の登場に勇者たちのあいだに少しほっとした空気が流れた。トロイは彼らの一人を捕まえて問う。


「どこだ」

「あれです」


 ジュリアンがそう云いながらトロイに遠眼鏡を渡す。遠眼鏡でモンスターを目視したトロイは、たちまち短く呻いて険しい顔をした。その反応に全員が固唾を呑んだそのとき、トロイがうっそりと云う。


「作戦は中止だ。従者を含めた全員は速やかに俺の許へ集まれ。荷物は捨てていいが馬は可能な限り集めろ。これより壁内へ撤退する」


 その命令にアツシは血の気が引いた。それはつまり、あの影が勇者が戦いを放棄して即撤退を決断するモンスターということだ。

 勇者の一人がふるえる声で云う。


「トロイさん、やつは……?」

「俺が八十年前に魔王と遭遇した話は知っているだろう」

「トロイさん以外の勇者が全滅したって云う?」

「そうだ。あのとき魔王は単身ではなく、桁違いの魔物を数体従えていた。そのうちの一体がやつだ。名前はアデプトタイガー……Sランクだ」


 Sランク。その言葉に勇者たちは一斉に沈黙した。ほとんど死神と遭遇したのに等しい。だが皆を励まそうと思ったのか、一人の勇者がわざとらしいほど明るい声で云った。


「で、でもSランクと云ったって、そんなの実際の交戦経験がほとんどないわけだし……」

「戦ってみたら勝てる? 無理だな。あれはそういうレベルではなかった」


 トロイは現実逃避の楽観をあっさり否定すると、なおも淡々と語る。


「やつはハンターだ。見た目は巨大な虎に近いが、戦いを楽しみ、逃げるやつを優先的に狙ってくる。五〇〇〇メートル以上離れているようだが、その距離は奴の脚には関係ない。風のようにやってくるぞ」

「トロイさん、と云うことは……」

「そういうことだ。とにかくおまえたちは俺の声の届かない者に声をかけて、皆をここに集めてくれ。それからジュリアン、おまえはここに従者レナを連れてこい」

「わかりました」


 ジュリアンは素早く返事をすると、呆気に取られるアツシを尻目に駆け出していった。トロイは彼を見送るのもそこそこに、馬上からほかの勇者たちを見回して云う。


「急げ、おまえたちも早くしろ。だが全員で動くな。数人で行け。やつを刺激したくない」


 そのトロイの静かな号令の下、数人の勇者がまだトロイの命令が聞こえていない者たちに声をかけるべく後方へ向かって走り出した。

 それとは逆に、アツシは騎乗しているトロイに食ってかかった。


「おい! 待てよ! あんた、それは!」


 レナをこの場に連れてくる。その意味を悟って、アツシはほとんど恐怖に駆られていた。そんなアツシを冷徹犀利な目で見下ろしてトロイは云う。


「云ったろう、奴は風のようにやってくると。五〇〇〇メートルの距離など奴にとっては一跨ぎなのだ。馬の足では追いつかれるし、壁に向かって走ったところで、逃げようにも逃げ切れない。そもそも逃げようとすればただちに残忍な本性をしたたらせて追ってくる。だから奴がまだ俺たちをどう料理しようか考えているうちに、全員をこの場に集めてレナの心臓を使い、俺のマイティ・ブレイブで壁のなかに転移する。もうそれしかないのだ」

「ううっ……!」


 思わずそんな声がアツシの口から漏れた。

 レナの心臓を使う。彼女の生き血を使って、全員で転移して逃げる。その奥の手を、人一人を生け贄にしてやっと使える切り札を、トロイは初手から切ろうとしている。そのことにアツシは目も眩むような怒りと絶望を覚えて吼えた。


「ふ、ざけるな! なんでいきなり、こんなことになってるんだ!」


 今日の朝まで順調だった。ルートを外れたわけでなし、壁に近いところで勝ち目のあるモンスターとばかり戦ってきた。それが昼飯を食っていたらいきなりこれだ。


「なんでだよ!」


 アツシが二度叫ぶと、トロイは少し目を伏せ、うっそりと云った。


「……運命だな」

「運命? 運命だと? なにが運命だよ!」


 そう憤るアツシに、トロイは目を上げて続ける。


「ここ数年、おまえ以外の勇者はマイティ・ブレイブに覚醒する壁外遠征を無事に終えてきた。失敗はなかった。しかし今回に限って、Sランクモンスターに遭遇した。こんな壁の近くであのランクのモンスターが出てきたことはかつてない。つまりは、運が悪かった。ただそれだけのことだが、この現象に敢えて名前をつけるなら、運命と呼ぶしかあるまい」


 その言葉にアツシも、それを周りで聞いていた勇者たちも、なんの言葉もなかった。

 たまたまだと云うのか。たまたま地雷を踏んだように、運悪く死神に目をつけられたように、事故や病気がある日突然襲ってくるように、今日と云う日に自分たちはあの化け物に遭遇したのか。


「……なぜ、俺のときに限って」


 思わずそんな言葉が口からこぼれた。それを聞き咎めてか、トロイは冷厳と云う。


「勘違いするな。過去、二百人以上の勇者が死んでいる。それに比べれば、おまえはまだ運がいい方だ。まだ死ぬと決まったわけではないのだから」

「トロイさん!」


 突然、一人の勇者が悲鳴すれすれの声をあげた。トロイが馬上からすばやくアデプトタイガーの方を見る。それと同時に別の勇者がまた叫んだ。


「ち、近づいてくる!」


 アツシもまたそれを見た。地平の彼方に佇んでいてこちらの様子を窺っていた巨大な魔物が、今はその逞しい四肢を軽快に動かして、徐々に徐々に加速しながら、こちらへ向かって駆けてくるのだ。トロイの目が細められた。


「こっちは風上か。風のなかにこちらの気配を嗅ぎ取ったな」


 トロイはそう云うと腰に吊るしてあった大きな角笛を手に取った。この笛の音の大きさはアツシも知っており、この陣にいる勇者と従者の全員に聞こえるくらいのものはあった。笛を吹く回数、間隔、長さなどによって進軍、停止、集結などの合図が決められており、それはアツシも出発前に頭に叩き込まれていた。

 トロイは角笛を口元まで持っていき、しかしそこで思いとどまったように手を止める。


「……今ここで総員撤退の合図を出せば全員が混乱したままばらばらに逃げてしまうな」

「そ、その方がいいのでは? あいつ、速いは速いけど風のようってほどのことは――」

「いや、あれはまだ全速ではない。だが逃げれば向こうも速度を上げる。奴が本気を出せば、全員がばらばらに逃げても一人残らず狩り尽くされる! アツシは下がれ! おまえたち、レナが来るまで踏ん張れるか!」


 その声の調子には、否定を許さぬものがあった。怯えていた勇者たちのあいだに電撃が走るのが、アツシにも見えた気がする。


「食い止めろ!」


 そう号令を下したトロイは、角笛を吹いた。短く二回、最後の一回は長く。これは全員集結の合図だ。その笛が鳴りむ前から、アツシはトロイたちに背中を向けて走り出していた。誰かが自分の名前を呼んだが、振り返らなかった。

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