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プロローグ

  プロローグ


 海があんな顔を見せるとは思ってもみないことだった。


 北大路アツシは十六歳、身長一七二センチで標準的な体格をした、黒髪に黒い目の、典型的な東洋人である。その日は体調不良で学校を早退し、のんびりと自転車を漕いで海に程近い自宅へ向かっていたのだ。その途中で、それは起こった。

 長い地震で、やっと揺れが収まったあと、アツシも周囲の家々から飛び出してきた人たちも寝床を荒らされた鶏のようだった。アツシは「やばいやばい」と独り言を云いながら、体調の悪さも忘れて勢いよく自転車を漕ぎ始めた。この時間、家に一人でいるはずの祖母が心配だったのだ。

 家まであと少しというとき、突然、道が灌水を始めた。アツシは最初どこかで下水管が壊れたのかと思ったが、すぐにそうではないと悟った。


 ――これ、もしかして津波ってやつなんじゃ。


 海沿いの町に育ったアツシである。当然、津波のことは知識として頭にあった。この場合、高いところへ逃げるべきだと云うことも判っていた。しかし家には祖母がいる。


 ――置いていけない。


 アツシはそう判断すると、水に向かって自転車を漕いでいた。それに実のところ、まだそれほど危ないとは思わなかった。十六年も安楽と暮らしてきたせいで、せいぜい床下か床上だかの浸水にしかならないだろうと侮っていた。


 ――避難するなら家の二階でも十分だろう。


 そう、考えていたのだ。

 みるみる水かさが増してきて、途中で自転車を漕ぐのが億劫になったアツシは、そこで自転車を乗り捨てるとやっとの想いで家に帰り着いた。


「ばあちゃん!」


 声を張り上げるが、返事はない。玄関の引き戸をあけたアツシは、この際だからと土足で家に上がってもう一度「ばあちゃん!」と叫んだが、やはり返事はない。

 家のなかは滅茶苦茶だった。箪笥も本棚も全部倒れている。もしや家具のどこかの下敷きになったのかと思ったが、祖母の姿はどこにもない。

 二階の部屋も見て回ったところで、アツシはようやく気づいた。


「あれ……もしかして出かけてる?」


 歳を取れば体にあちこちがたが来るから、祖母も頻繁に眼科やら内科やらに行っていた。今日はどこかの医者に罹る日だったろうか。祖母の予定などいちいち覚えてはいないが、家中これだけ駆けずり回って姿が見えないのだから、元々留守だったか、さもなくば逃げたのだ。近所の人が連れて行ってくれたのかもしれない。


「なんだよ、来る必要なかったじゃん!」


 そう悪態をつくアツシだが、顔は笑っていた。安心したのだ。しかしこのあとはどうするべきか。逃げるなら家の二階でも十分だろうと思っていたが、さっきから水の音がひどく大きく聞こえる。そこで外の様子を見に一階への階段を下りようとしたところで、アツシは立ち尽くした。一階がもう水に浸かっていて、黒い水が階段を駆け上がってくるところだったのだ。


「は?」


 目の前の現実が信じられない。だが、今起きていることを冷静に捉えるなら、この家の一階はもう水に沈んでいる。


「嘘だろ!」


 ――なんで? なんでなんでなんで? なんで急にこんな!


 ほんのつい一、二分前まで、自分は一階を見て回っていたのだ。それが二階の部屋を見ている僅かのあいだに、一階が水に浸かっている。


「おかしいだろこんなの! おいおいおいおい!」


 焦って二階から窓の外を見れば、全部水だった。逃げ場なく水が押し寄せてきている。ここに至って、アツシは絶望的な気持ちになった。


「なにこれ、逃げられないじゃん」


 ――どうする? どうする? どうすればいい?


 家のなか一人、大きくなっていく水の音を聞いていると、早鐘を打つ心臓が握りつぶされそうになる。


 ――もしかして。もしかしてもしかして。


「……俺、今日死ぬのか?」


 アツシがそう呟いたとき、家が軋み始めた。




 それは古い家だったけれど、まさか家ごと流されるなど信じられない。大黒柱にはもうちょっと頑張ってほしかった。だが、もうおしまいだ。全部おしまいだ。

 黒い水に頭まで呑まれたアツシは、目を瞑りながら苦しさに耐えていた。流されてあちこちぶつかって全身が痛い。呼吸もできない。もうすぐ死ぬだろう。やりたいことをやっていないどころか、なにがやりたかったのかさえ解らないまま死ぬだろう。無念だったが、今はただ息が出来なくて苦しいのと、痛いのと冷たいのとしか感じられない。

 そんなときだった。目も開けられない真っ暗な視界のなかで、誰かが手を差し伸べてきたのだ。なぜか見える。そして透明な声が云う。


「生きたいですか? それとも死にたいですか?」


 ――は? そんなの生きたいに決まってる。


「じゃあ、この手を取って下さい。そうすれば生きられます」


 アツシは自分が死に際の夢を見ているのだと思った。それでもいい。その手に縋りたい。そう思い、アツシは目を開けた。

 すると不思議なことに、蜂蜜色の髪を長い三つ編みにした緑の瞳の美少女が自分に手を差し伸べているのが見えた。見たところ白人で、年齢は自分と同じくらいだろうか。緑色を基調とした長袖にスカートの衣服は現代の洋服と似通ったところもあるが完全に同じではなく、少し変わった印象を受ける。顔立ちはとてもよく整っていて綺麗だった。


 ――死に際に見る幻だから、こんなにも綺麗なのか。


 アツシはそう思いながら、少女に吾が手を伸ばしていく。彼女の手を取れば生きられるなど都合のいい幻覚だろうけれど、それでも、自分がこれから死ぬのだとしても、最後まで生きようとする意思を示さんがために手を伸ばし、手が届き、互いの手をぐっと握る。そして少女がアツシを力いっぱい引っ張った。すると焼けるようにも凍えるようにも思える一瞬が訪れ、水のなかにいる感覚が急に失われて、空気の匂いを感じた。硬く冷たい地面に横たわっている感覚があったが、もうアツシにはなにがなんだかわからない。溺死寸前だったせいか、意識が朦朧としていて目も開けられない。いや、あるいは今まさに幻を感じながら死のうとしているのか。

 そんなアツシの耳に、突然男の声がした。


「どうやら今回の召喚も成功したようだな。まだ生きているか?」


 すると誰かの手がアツシの体に触れてなにか確かめたのち、その手の主らしい少女の声が云った。


「はい、大丈夫です」


 それは自分に生きるか死ぬかを問いかけてきた娘の声だった。


「ではあとは頼んだぞ、レナ」

「承知しました、トロイ様」


 それを最後に、アツシの意識は闇に呑まれた。

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