憂さ晴らし
時刻は深夜と言っていい時間になっている。
バカな奴等はもう寝ているか、大した目的もないくせに町を出歩いて、金だ女だ男だと、無意味な時間を過ごしているだろう。
だが、俺は違う。学校で出された課題は勿論、全国模試の予習も一流の大学へ入るための対策勉強も終えて、今は夏に行われる下らない水泳大会の演目を生徒会予算から出せる運営資金を考慮して作っている。
ただのスポーツ大会では芸がない。なるべく生徒や教師が楽しめる物から、きちんと記録を残せるものまで、幾つもの競技を提案し、そこから時間内で終わる物を選択して予定を組み立てる。
無駄な事だけど、誰からも好かれる優秀な生徒会長として全国でも有数の進学校であるこの学園を卒業する為なら、俺の貴重な時間を裂いてやろう。
一流の大学ともなれば、面接が必需。高校時代の生活を調べるところまである。
成績優秀だけでは足りない。 リーダーシップもある優等生でいる必要があるのだ。
夜中だと言うのに隣のバカ犬が吠え出した。俺のシャープペンを持つ手に力が篭ってしまい芯が折れて何処かへ飛んでいく。
おっといけない。俺とした事がつまらないことで気を荒らげてしまった。人間、平静をなくしたら動物と同じだ。
俺は深く深呼吸をして、冷静を取り戻した。
シャープペンの底をノックして新しい芯を出すと、改めてキャンパスノートに向き直った。
さて、水泳大会の競技だったな……。
俺が頭を回そうとした時だった。遠くで赤ん坊の夜泣きする声が聞こえてコメカミになにかが突き刺さるような痛みにも似た物を感じた。
極めつけは走る救急車のサイレンと、それを追い掛ける犬の遠吠えだ。
ああ……。もう、ダメだ……。
俺はあまりの苛つきに力余ってヘシ折ってしまったシャープペンをゴミ箱に捨てると、クローゼットの奥にしまってある黒のジャージを引っ張り出すと着替えて部屋を後にした。
今は勉強に集中する為に学園の側のマンションに一人で住んでいる為、夜中に部屋を出ても誰にも咎められる事はない。だからこそ出来る狩りだ。
最初は近所の野良猫を石で狙撃した。その次はボウガンで野鳥の狙撃。小学校の飼育小屋でウサギを打ちのめした事もあった。そしてこの間は近所の小学生をモデルガンで射的だ。
どれも一時の楽しい気晴らしになった。
十年も経てばこの国を動かす立場にある俺のストレス解消に役に立てるんだ。栄誉な事だろう?
そう思ったら口の端が弛んでしまった。これはまずい。
近所では、勉強の後でも体を鍛える為にジョギングをする文武両道の高校生通っているんだ。こんな悪役のような顔はいけないな。
俺は顔を引き締めると、マンションの前で形ばかりの準備体操をして、ジョギングに出た。
暫く走り、辺りに人がいないのを確認して裏路地に入りジャージに着いたフードを深く被る。万が一誰かに見られても、一目で俺とは気付かれない為にだ。
誰もいない細い道を歩きながら、今日はこのストレスをなにで発散しようか考えていると、正面から若い男が近付いてきた。なにやら急いでいる様子だ。
俺と同年代くらいの男……。まだ、この年代の者を潰した事はない。何発で動かなくなるか興味が沸いた。
壁際に摘んであった角材を手に取ると、正面で握りしめて中段で構えた。
剣道部で主将も努めている俺に勝てる奴などいない。
「待てっ!!」
正面から向かってくる人影は、俺に必死で制止を掛けてきた。俺がなにをしようとしているのか悟っているらしい。
これは絶対に生かして帰す訳にはいかない。俺は自然と口許に笑みを浮かべると、上段に構え直して得意の片手面を打ち付けた。
片手面とは構えから相手へ攻撃を仕掛けるさえ、片手で竹刀を持って面を取る技法だ。
数多くの試合を制して来た、必殺技でもある。
だが、驚く事に男は片手で頭を守り、俺の片手面を受け止めた。これは予め俺が片手面を打つのが判っていないと出来ない防御だ。
あり得ない事だが、こいつは俺が分かっている。
なぜかは分からないが、そう確証が出来た。
幸い、今の一撃でこいつの両腕を折った手応えがあった。もう防御も出来ないだろう。
俺が角材を振り上げると、男は地面を這いつくばって逃げようとするが、逃がしてやるわけがない。
俺は男を追い掛けると、角材で何度も打ちのめした。
血が飛び散り地面や壁を赤く染め上げ、大量の返り血が俺に振り掛かってくる。
返り血を浴びるとやたらと精神が昂り、理性が消えていく。
俺は狂ったように男を殴り続けた。
気が付くと、男は動かなくなっていた。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
血みどろでビクビクと体を震わせて倒れる男を見下ろし、俺は言い様のない込み上げてくる達成感に浸ったが、いつまでもここにいるのはさすがにまずい。
何時、誰に見られるのかも知れないのだ。
俺は大声で笑いたいのを耐えて、路地裏を進んで河原にでた。
そこには一日中絶やすことのないドラム缶の焚き火があり、回りにはホームレスの段ボールハウスが並んでいる。俺はジャージを脱ぎ捨てるとドラム缶の中に放り込み、ホームレスの一人に千円を手渡す。
ちなみに言えば、黒のナイロン制のジャージの下にちゃんと普通の服を着ているから、みっともない姿にはならない。
口止め料と、ジャージを完全に焼き付くしてもらう手間賃だ。まだ、其程年の行ってない無愛想な髭面のホームレスは、金を受けとると無言でドラム缶に灯油を注いで木っ端をくべる。
この男はなにも聞かない。金さえ渡せば俺の行動などどうでもいいのだろう。
俺も男をブチ殺した血まみれの角材と革の手袋をドラム缶に放り込むと、河原で顔に着いた返り血を洗い流した。
川の水は夜だとまだ少し冷たいが、それほどは気にはならないくらいに俺の気持ちは昂っていた。
ホームレスが黒い煙と鼻に付く異臭を放ちながら、俺のジャージを燃やしているのを尻目に、俺は人目に付かないようにその場を離れて帰路を辿る。
部屋に着くと改めてシャワーを浴びて寝室に戻る。
ベッドを見ると、途端に充実した疲労感に睡魔が押し寄せてきた。
まだ、水泳大会の演目は仕上がってないがまだ日はある。急がなくてもいいだろう。
俺は睡魔に抗うことなくベッドに横になると目を閉じた。
今日は、良く眠れそうだ。
「ひっ……、博也!?」
翌朝、目覚ましがなるより早く、女の悲鳴で起こされた。博也とは俺の名で、悲鳴を上げているのは母親だ。
朝早く来ることは珍しいが、全くなかったわけではない。今日も朝食でも作りに来たのだろう。
「どうしたの? 母さん。変な声出して」
どうせまた下らない事だろうが、機嫌を損ねるのは後々面倒臭い。俺は眠いのを我慢して体を起こした。
時計を見るとまだ五時前だ。いくらなんでも早すぎだろう。
「博也……なの……?」
母親の様子がどこかおかしい。信じられないものを見つめているようだ。
まるで俺だと確認するように、足や腕、顔をペタペタと触ってくる。
「なに言ってんの。どこからどう見ても俺でしょう?」
母親の視線に、もしかしたら何処かに返り血でも残してしまったのかもと思い、クローゼットに備え付けになっている姿見で自分の姿を確認するが、どこも変わったところはない。
一体どうしたんだ? この人は……。
俺が怪訝に思って見つめていると、母親は恐る恐ると言った感じで俺を見上げて、眉根を寄せた。
「そうみたい……。だけど変ね。
今、警察に呼ばれてあんたの遺体を確認してきたけど、間違いなくあんただった。
私があんたを見間違うはずがないし、あんたも本物のあんたっぽい。
なんで二人いるの? 双子だったっけ?」
全く、この人はどこまで本気なんだか……。俺が一人っ子なのは判っているだろうに……。
「そんな訳ないだろう?
俺の死体? ばかばかしい。だったらここにいる俺は誰なんだよ?」
俺が軽く鼻で笑い飛ばすが、母親は不思議そうに俺を見つめている。
「だけど確かにあんただったんだよ? 私ちゃんと確認したし……。」
母親は釈然としない表情で俺を見つめたままで、不満そうに唇を尖らせた。全く。子供かよ。
「警察に俺だって言われて思い込んだだけだよ。
それじゃあ、ここにいる俺は誰?」
俺が母親に向けて優しく言うと、母親は小首を傾げて見返してきた。
「誰?」
自分の間違いを認められないのか、母親は俺に訪ねてくる。こんな頑固な人だったか?
「藤井博也です。あんたの息子です」
俺は呆れて、棒読みで応えてやった。
「取り敢えず、警察行こ。」
母親が俺の袖を掴んで軽く引いた。
警察。その言葉に俺の心臓が激しく脈打った。
証拠など残していない。大丈夫だ。行ったところで捕まりはしない。だが、俺の精神が警察を拒絶した。
犯罪者心理と言う奴だろう。
動揺しているのを悟られないように、俺は母親に気付かれないよう軽く深呼吸をして気を落ち着かせる。
「今日はどうしても学校に行かなきゃならないんだ。
誤解なんてすぐに解けるよ。俺はこうしてここにいるんだから。放っといて大丈夫だよ」
俺は優しく母親の手を袖から離させて、微笑み掛けた。
「博也!!」
拒む俺を母親は許さなかった。誤解ならその誤解を解かなければ気が済まない。そう言う人だ。
「分かったよ。着替えるから待ってて」
俺が寝巻きの裾を引いて言うと、その辺は納得したのか、小さく頷くと部屋を出ていった。
俺の死体が警察にあるらしいが、そんなのはすぐに人違いだと分かるだろう。わざわざ否定をしに行く必要はない。
それに相手は犯人を捕まえるプロだ。些細な事で昨日の事がバレてしまうかも知れない。
触らぬ神に祟りなしだ。無駄に関わらない事が得策だ。
母さんには悪いが、警察は遠慮させて貰うとしよう。
俺は着替えを終えると扉を微かに開けて廊下の様子を伺う。リビングで待っていればいいものを、母親が廊下で正座をして待っていた。
俺は小さく舌打ちをすると、意を決して扉を開けると同時に駆け出し、母親の傍らを通り抜けて外に飛び出した。
今まで親の言うことを大人しく聞いていた俺がそんな強行に出るとは思っていなかったのだろう。母親は俺を引き止める事さえしてこなかった。
俺は靴の爪先を引っ掛けただけで、踵を踏み潰して外へ出た。部屋の前にはマンションの人たちが大勢いて、俺を見ると誰もが悲鳴を上げて、驚愕している。
本当に俺は死んだ事になっているようだ。
なにがなんだか分からないが、状況を聞ける相手も見つけられず、俺は舌打ちをすると全速力で疾走してその場から離れた。
マンションの前に警察が待機している。俺はなに食わね顔で傍らを通り抜けようとした。
「き……君……!?」
初老の警察官に声を掛けられ、俺は鼓動の激しい高鳴りを感じて思わず走り出した。
警察が追って来なかったが、念の為に俺は蜘蛛の巣のように入り込んだ路地裏を掻い潜るように駆け抜けた。
この辺は熟知していると思っていたが、見たこともない場所に出た。普段暮らしている場所から幾らも離れていない場所にこんたところがあったなんて驚きだ。
俺は周囲を観察しながら奥へ進んだ。
狭い道を挟んで、左右に百年は経っていそうな古臭い建物が並んでいて、どの店も店頭には怪し気な店員らしき者が椅子に腰掛けている。
通行人に無関心で、呼び込みなどもせずに、訪れた客だけを相手にする形式の商店街らしい。
大昔か、どこか外国に迷い込んだ気分になって、所在もなくぼんやりと道を進んだ。
「そこ行く人、なんかお困りのようだねぇ?」
道端に机を置いただけの簡潔の店で、裸電球の明かりに顔を半分だけ照らされた、頭から全身を黒いマントで覆った、怪しい老婆がにたりと笑って話しかけてきた。
「俺か?」
辺りには他に人はいない。分かり切っていたことだが、敢えて訪ねてみる。
「ああ。そうさ。なにやら迷っているように見えてねぇ。余計な事かも知れないが声を掛けてやったって訳さね」
「ああ。道には迷っているな。
町にはどういけばいい?」
町に戻ってもほとぼりが冷めるまでは隠れているようだが、こんな訳の分からない所にいるよりは幾分かマシだ。
せっかくなので、俺は老婆に道を聞いた。
「道かい? まぁ、それを教えてやってもいいが、このままただ戻って迷いが晴れるのかい?
あんたが迷っているのは道だけじゃなくて、人生にも迷って居るように見えるけどねぇ」
人生に迷ってる? この俺が?
国内でも有数の進学校で生徒会長を努め、剣道の全国大会にも全国模試でも名を残しているこの俺が?
「生憎だが人生には迷ってねぇよ。
エリートコースまっしぐらだ」
俺はわざとらしく肩を竦めると、鼻を鳴らして言ってやった。物を知らないとは、まさにこの事だ。
「ならば、なんでこんな所に迷い込んで来たのじゃ?
ここは普通に生活をしている者が迷い込んで来る場所ではない」
この街に住んでニ年余り、確かにこんな場所があるとは知らなかった。地図にも載っていない場所だ。
だが、知らない場所に知らず知らずに来てしまったから迷うのであり、道に迷ったからと言って人生に迷っている事にはならない。
まぁ、可笑しな事態に直面しているのは確かだが……。
「ああ。人生に迷っているかはともかく、俺は今、面妖な状況に直面している。
だったらどうだ? あんたが道を示してくれるのか?」
俺は老婆に詰めより、力強く机に手を着いて老婆の顔を覗き込むように見つめて問い掛けた。
「生憎だがそんな博愛精神は持ち合わせておらんよ。
だが、そうだな。これも何かの縁だ。打開する機会を与えてやろう」
老婆はにんまりと不気味な笑みを浮かべて俺を見返して来ると、喉で高い声を上げて笑った。
「打開の機会だと!?」
「ああ。そうだよ。
私の後ろに二つの扉があるのが見えるかい?」
老婆の言葉で俺が顔を上げて老婆の背後を見ると、後ろの建物に赤い扉と青い扉があるのに気がついた。
年代の入った扉で、塗料も所々が剥げており、今まで気付かなかったと言うよりは、視界には入っていたが意識していなかったと言うのが正解だ。
「ああ。それがどうかしたのか?」
「赤い扉は未来へ、青い扉は過去へと繋がっておる。
どちらでも好きな方へ行くといい」
なにをバカな事を言っているんだ? この婆さんは……。
そんな便利な扉があるなら、誰も苦労はしない。
だが、行くとしたら過去だな。昨日の、男を殺す前に戻れば警察に恐れる事なく間違いを正しに行ける。
俺が死んだなんて、馬鹿げた現実を変える事が出来るのだ。
「いいだろう。その馬鹿げた話に乗ってやる」
どうせどちらの扉に入ったとしても、ただ建物の中に入るだけで、『昨日に戻ったつもりでやり残した事を今日やればきっとうまく行く』程度の事を言われるだけだろう。
それからそれでもいい。こんな婆さんにつきあってはいられない。
そう思い、俺は青い扉の前に立つと扉を開いた。
「そうかい。過去へ行くのかい。
後悔を消せるといいねぇ」
青い扉を開いた俺に老婆がにたりと笑って言った。
下らない。俺は老婆を尻目に扉を潜った。
そして、驚愕に瞳を見開いた。
そこはいつも使っている電車扉に繋がっていたらしく、俺は駅のホームに下り立ったのだ。
狐に摘ままれたような気分で、改札にSuicaを翳して俺は駅を後にした。
また、なにがなんだか分からない状況だ。
取り敢えず、帰るか……。
俺は帰路を辿りながら、途中にあるコンビニに寄った。
時間は午前二時を少し回った所だった。
そこで俺はふと疑問を抱いた。午後二時ならまだ分かるが、午前二時と言うのは幾らなんでも可笑しい。
新聞を取って日付を確認すると、まだ今日だった。
今日の午前二時。
俺の体感からすると、昨日の夜、狩りに出掛けた時間帯だ。
ほんの半日とは言え、俺は本当に過去に戻ったのだ。
一応確認の為に他の新聞を見てみるが、やはりどれも今日の朝刊だ。
信じられない。だが、これで俺は元に戻れる。
今日、狩りに行かずこのまま帰って眠ればいい。
それだけで、将来を約束されたエリートに返り咲ける。
俺はコンビニでブラックコーヒーを買って店を出ると、一気に飲み干して缶を捨て、家に向かって走り出した。
そう。俺は戻るのだ。
死んだはずの人間などではなく、誰もが羨む天才と呼ばれたあの時に……。
通り慣れた道を早足で進み、いつも近道に使っている路地裏に入った。
正面から男が近付いてくる。
俺とそれほど変わらぬ年代のようだが、荒い息遣いをしついて変質者のようだ。
関わらぬように端に避けて道を開けて、脇を通り抜けようとした時、男が歩みを止めた。
なんだ?
俺が不審に思い男を見ると、男は角材を振り上げている。
この男、なにを考えている!!
俺がそう内心で思った時、遠くを走る車のライトが一瞬男の顔を照らした。
その男は血走った瞳を見開き、裂ける程に口の端を吊り上げて鬼のような顔をした……、俺だった……