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か細い糸

 哲平が事務所に戻ったのは夜半過ぎ、一足先に福岡から戻った翔太が報告書の仕上げに勤しんでいる最中だった。熱心にパソコンに向かったまま作業の手も止めず、哲平に声を掛ける。

「おかえりなさい」

「ただいま。で、どうだった?」

「今日の分、今報告書に仕上げてますから。そう急かさないで下さいよ」

 パソコンに顔を向けたまま翔太は横目で哲平を一瞥した。

「服、拭いた方がいいんじゃないですか。風邪引きますよ」

 夕方から降り出した突然の激しい雨もこの頃には小降りとなっていた。哲平の脱いだパーカーから雨粒が激しく床に飛び散る。

「ちょっとちょっと、哲平さん勘弁して下さいよ。僕のタオル使って下さい。床も拭いといて下さいよ、明日また知菜さんに僕まで怒られるの嫌なんで」

「俺の事はいいから、早く仕上げて見せてくれ」

 哲平はタオルを受け取り豪快に頭を拭きながら、口を尖らせた。

「分かってますよ、だから大至急福岡から戻って頑張ってるんですってば。大体僕の方が遥かに遠かったのに、哲平さん帰って来るの遅いですよ。どこ行ってたんですか」

「お前、いつも一言多いよなぁ。っていうか、今、知菜そっくりだったぞ……。気持ち悪ィやつだな」

「思った事を素直にそのまま言ってるだけです」

 その一言までもが知菜に似た口調だったため、哲平はぎょっとして顔を引きつらせている。翔太はそこでやっと哲平を振り返り、大笑いした。

「嫌だなァ、哲平さん。わざと知菜さんの真似してるだけなのに、真に受けちゃって」

 哲平はみるみるうちに仏頂面になり、一言ぼやいた。

「お前って、マジで時々つかめねぇ……」

 窓の外では小雨が路地のアスファルトを打ち続ける音が聞こえる。

 そうこうするうちに翔太の報告書が出来上がった。哲平はすぐさま受け取り食い入る様に没頭している。

「で、哲平さんの方はどうだったんですか?」

「あぁ、なかなか興味深い話だったよ。まぁ、やっぱり出てくるのは絵の話なんだよなぁ」

 そうは答えるものの報告書に集中しているため生返事である。

「そうなんですよ。僕も義久さんの子供の時の絵を見て来ましたけど、びっくり仰天ですよ、上手過ぎて。タッチといい色使いといい、そりゃあもう信じられないくらいの出来栄えなんですから」

 興奮冷めやらぬ様子の翔太は携帯をズボンのポケットから急いで取り出し、撮ってあった義久の子供の頃の絵の画像を哲平に差し出した。

「お祖母ちゃんの絵なんだそうです。ほら、哲平さんも見て下さいよ。いやァ、それにしても本当に上手いですよねェ」

 報告書から渋々視線を上げた哲平が、翔太の携帯を覗き込む。

 あまり気乗りしないような様子でしばらくその画像を眺めていた哲平だったが、いつの間にか引き込まれるような眼差しで凝視している。

「ちょっと、哲平さんッ。返してください」

 集中するあまり哲平はいつの間にか翔太の携帯を奪い上げ、さらに穴が空くほど画面を見つめている。

「返して下さいってば。哲平さんが触るといっつも携帯ベタベタになるんで勘弁して下さいよ」

「……似てるな」

 翔太の言葉を遮り、突然哲平が呟いた。

「え?」

「義久さんちにあった、あの鑑定に出してる絵だよ。あっちの絵とこっちの絵、顔が似てる気がする」

 なんとか携帯を取り返した翔太はハンカチを取り出し画面を大急ぎで拭き、「こっちの絵」を見つめて首を傾げる。

「そう言われてみれば……。ほんとだ、似てますね」

 

 

 小さいながらも駅前とはいえさすがに真夜中、事務所は静けさに包まれている。小雨が降りやまない窓の外からたまに聞こえてくるのは、微かに飛沫を上げながら走り去る車と電車の過ぎゆく音くらいである。

 翔太を先に帰らせた後、彼のやっと書き上げた報告書を丹念に見直しつつ、哲平はこれまでの経緯や佐倉の話を反芻していた。

 来客用ソファで仰向けに寝そべり足を伸ばし、煤けたようにくすむ古い天井の真上を哲平は呆けた表情で見つめている。それは事務所でひとり思案にふける時の哲平の癖のようなものだった。

 事務所に来た時の泰造の様子がふと脳裏に甦る。

 哲平は、妙に引っ掛かっていた。

 泰造は依頼に来ておきながら義久の事をあまり語らなかった。

 あまり語らなかったというよりも、あの時の泰造は語ろうとしなかったように思えてならない。

 おそらくそうしたくなかった意図が泰造にはっきりとあったのではないか、と哲平は思った。

 彼の複雑な生い立ちなど三木製薬としては(少なくとも泰造は)表には出したくないに違いない。例えば、義久がずっと以前からそれを知っていたとしたら。次期社長として約束された輝かしい未来や家族を以てしても拭い切れない様な、重く後ろ暗い心を長年抱えていたのではないだろうか。

 そして、憲子との間に横たわる歪んで冷えた溝。家族や周りの人間に自分をさらけ出すことのない日常はやがて過去のみならず未来までをも足枷に変えて義久を縛り上げてしまったのではないか。

 そして義久のまわりに浮かび上がる絵。

 義久の部屋で見つかった絵と翔太の携帯に保存されていた絵が瞼の裏に浮かんでひとつに重なり合う。

 あの時の憲子の表情、怯えたような瞳。

 哲平は義久の背後に潜む得体の知れない「匂い」のようなものの存在を嗅ぎ取った感覚がどうしても拭えずにいた。  

 一人の男のほの暗い心の底をなにも見えないまま手探りであさり、か細い糸にふと触れる。それを決して離さぬよう神経を研ぎ澄ませ、手繰るように確かめては思い巡らすうち、哲平は酷く気分が沈んだ。



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