過去を辿る
佐代子と別れたその足で翔太は義久の中学時代のクラスメートを訪ねた。
中学三年生だった時の同級で彼女の名は岸本綾子。ショートカットが似合う、小柄ながらはつらつとした笑顔が印象的な女性である。
当時学級委員長を務めていた綾子は地元の割烹料理屋に嫁ぎ、今ではその店の看板女将となっていた。
「奥本義久君ですよね。今でも私、覚えています。学校ではまったく誰とも話さず、いつも一人でいたから余計印象に残ってて」
前掛けで手を拭きながら、綾子は翔太の座るカウンターの隣に足早に近づき腰掛ける。
「私、当時生徒会で学校新聞係だったんですけど、美術部だった奥本君の絵があるコンクールで大きな賞に選ばれて、記事に載せようとインタビューしたことがあったんです」
「義久さん、いえ、奥本さんはやはり絵がお上手だったんですね。そのコンクールで受賞した絵はどんな作品だったんですか」
「題はたしか『思い出』といって、ピアノを弾いている女の人と小さい男の子の絵でした」
「なるほど、見てみたいな。それでインタビューの時、奥本さんはどんな様子だったんですか? やっぱり嬉しそうだったんでしょうね」
「ええ、ところがその時の彼、別に嬉しそうでもなく淡々と質問に答えてくれて。こんな言い方失礼だけどやっぱり暗い子だななんて、あの時は思ったりして。それで余計に彼の言葉、ものすごくインパクトがあって記事に載せたんです」
「一体、それってどんな言葉だったんですか?」
「私が担当した当時の新聞、全部ファイルにしてあるんです。ご覧になりますか?」
「とても興味深い話なんで、ぜひお願いします」
軽く頷き席を立った綾子がやがて調理場の奥から姿を現した。両腕に大判のファイルを抱えている。綾子は変色した新聞の中のあるページを翔太に差し出し、もう一度カウンターに腰掛けた。
そこには年配の女性と小さな男の子が睦まじく並びピアノを弾いている絵の褪せた写真記事と共にそのインタビュー内容が記載されていた。翔太は身を乗り出してファイルの中の古い文字を追う。
――賞を貰って、どんなお気持ちですか。――
別に、やったぁとか、そんなんじゃなかったです。
――やっぱり嬉しかったんじゃないですか。――
嬉しいと言えば嬉しいけど。
――とっても冷静なんですね。――
だって、どんなに頑張ったってどうせ願いは叶わないから。
――奥本君の願いってなんですか?――
それは……。秘密です。
――奥本君の将来の夢はなんですか?
画家になりたいです。僕は絵を描くことしかできないし、他に好きなこともないから。いつかものすごい絵を描いて、世界中の人をあっと驚かせたい。みんなの心の中にずっと住み続けるような、百年後の人にも見てもらえるような、そんな絵を僕は描きます。
「義久さんは画家になるのが夢だったんだ」
記事に目を通していた翔太がため息交じりに呟いた。
「これだけ上手ですから、本気で画家になりたかったんじゃないでしょうか。ただ当時とても心に残ったのは、あの時の奥本君は将来画家になって当たり前というか、特に最後の言葉なんかは決意表明みたいに話してたんです。淡々として無表情のままスケールの大きな事を当然のように語ったものだから驚いてしまって。私もまだ子供だったし絵のことよく知らないままインタビューしたんですけど、奥本君はそんなこと考えてたんだって本当にびっくりしたんです。私、それで大きく記事にしたんです」
古びた新聞記事の写真の中、やはり笑わない中学生の義久がじっとこちらを見ている。そこにあるのは光を帯びない、見ているこちらを鋭く射抜くような強い眼差しだった。
忙しく手帳にメモを取る翔太にすっと身を寄せた綾子は、萩柄鮮やかな着物の襟を正して翔太の様子を伺い、声を落としてさらに言葉を続けた。
「これ見てさっき思い出したんですけど、中学に入学したての頃に奥本君のことで噂が広まったことがあったんです」
「噂、ですか」
「ええ。こんな小さい田舎町だと、ちょっとしたことでもたちまち皆の耳に入ってしまうものですから。奥本君は中学に入るまでここにいなかったでしょう? だから皆、知らない子がいるって言って、自然と関心を寄せてましたし」
「どんな噂だったんですか?」
「それが……。奥本君は養子でここに来たっていう噂なんです。本当のお母さんもお父さんもいないだなんて話が、あっという間に広がったんです」
哲平は義久の大学時代の友人、佐倉俊明という人物に話を聞くことができた。 佐倉と義久は就職を機におなじ頃上京しており、ずっと交友関係が続いていた間柄である。
義久と大学では同学年だったが、佐倉の方が一つ年上だった。都内の広告代理店に勤める会社員で、妻と3人の子供がいる。
翔太から義久についての話を聞かされた佐倉は動揺のあまり絶句した。長い沈黙の後、ひとつひとつ言葉を確かめる様に佐倉は語り始めた。
「最後に奥本と会ったのはたしか半年ほど前ですが、その時はいつもと変わらない様子でした。酒を二人で飲みながらくだらない話で笑い合ったりして。俺達昔っからそうなんです。いや、何と言っていいか……。ただ、信じられません」
駅地下繁華街にある小さな喫茶店で、周りの騒がしさも耳に入らぬ様子の佐倉は呆然と肩を落とした。佐倉は言葉少なに重い溜息を吐く。
「大学時代の義久さんって、どんな人だったの?」
「絵を描くのがとにかく好きなやつで、美術部に入ってました。まぁ、俺も美術部で一緒に絵を描いてた仲だけど、あいつの描く絵はとにかく凄いの一言で。他の部員より明らかに群を抜いていました。俺が知ってる限りでも、あいつは中学の頃からコンクールで度々賞を獲って当時の新聞や雑誌に取り上げられたりしてましたし。地元ではちょっとした有名人でしたよ。当然プロになるんだろうなって思ってたくらいです。知り合った頃からあいつはずっと変わらなくて、穏やかでいい奴です。気遣いもできる優しい男ですよ」
「大学を卒業してからの義久さんとも、佐倉さんはずっと付き合いがあったんだよね?」
「ええ。就職がお互いとも地元の福岡を出てこっちに決まったんで、たまに会ってましたよ。お互い仕事で忙しいけれど、連絡を取り合ってたまに一緒に飲んだりしてました。こっちにはお互い知り合いらしい知り合いも初めはいなかったですから」
「プロの画家を目指してもいいくらいの義久さんがなんで三木製薬に入社したのか疑問なんだけど、なにか知ってる?」
「さぁ……。そう言えば俺も意外に思って聞きましたよ、なんで製薬会社に決めたんだって。他の奴らと同じように就職活動を始めた事すら驚きでしたからね」
佐倉は当時を思い出したかのようにぼんやり遠くに視線を移し、首を傾げた。
「そしたら義久さん、なんて?」
「どうせ絵じゃ食っていけないだろう、とかなんとか、そんな答えでしたよ。お前だったら十分食っていけそうだって言ってやったら、奥本は笑ってました」
「ふうん……。それだけ?」
「ええ、それだけでした。こんな凄い絵を描くやつでも現実をちゃんと見てるんだって、変に感心した覚えがありますよ」
哲平は訝しげに顔を曇らせた。
「ところで義久さんの奥さん、知ってる?」
「ええ、知ってますよ。といっても随分会ってないな……。ほのかちゃんが産まれた頃なんかは時々お互いの家族を連れて会ったりもしてたんですけどね」
「義久さんと憲子さんのことで、知ってることなんでもいいんだ、なにか教えてくれないかな」
佐倉は思い出を反芻しているのか、しばらく腕組みをして物思いに耽っていた。
「初めて憲子さんを紹介された時、すでに憲子さんのお腹にはほのかちゃんがいたんです。とても幸せそうでしたよ。あいつが憲子さんは三木製薬の御嬢さんだって言うもんだから驚きました。おめでとう、いつの間にそんなことになってたんだ、水臭いなとか、お前逆玉じゃないか、とか言って囃し立てながらその場で簡単にお祝いの食事をしたんです」
「他には?」
「そうそう、憲子さんも絵が好きで、それで仲良くなったって言ってました。憲子さんは俺のいい理解者なんだって言ってましたよ。奥本は働き出してからも趣味として絵はずっと続けてましたからね。そりゃあ嬉しそうでしたよ。まぁ、俺としては見ていてなんだか物足りないというか歯痒いなって思ってたんで、これでますます残念だな、なんて」
「……どういうこと? ごめん、もう一度詳しく聞かせてくれないかな」
佐倉は他愛無いといった風に少し笑って答えた。
「美術部の同期で友達だったけど、俺はあいつの絵の根っからのファンだったんですよ。他の部員なんかとは比べ物にならないようなすごい絵をたくさん描いていた。才能ってこういうことかと、教えられた気がしたもんです。卒業生の画家に見込まれて制作の手伝いもしてたし、てっきりプロを目指してるんだと思ってました。ずっと応援してたのに普通に就職したと思ったらそこの社長の一人娘さんと結婚して。詳しく聞けば婿養子に入って跡を継ぐなんて話じゃないですか、これでもう否応なしに絵から遠ざかるんだろうなって、あいつの話ぶりではそんな感じだったんです。正直がっかりしましたよ」
「卒業生の画家の手伝いか、初耳だな。その人からも義久さんの話聞きたいんだけど、佐倉さん、そいつのこと知ってる?」
頬杖をついたままの哲平が急に身を乗り出したため、小さいテーブルが不安定に揺れた。
「えぇ、でもあんまり詳しくは……」
「いいから。知ってることならなんでもいいんだ。名前は?」
「たしか、木之本雅人という人物です。昔の話ですが東京にアトリエがあると聞いたことがあります。中堅のなかなか腕のある画家で、今はおそらく数年に一度くらいのペースで個展やってるはずですよ。絵画教室も開いていると聞いた事があります。僕が知ってるのはそれくらいですかね」