表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

始まりの朝はいつものように

 真田翔太は今日も五時きっかりに目が覚めた。朝日を浴びて自然に起きるのが健康に一番良いと信じ、カーテンが閉められる事はあまりない。実際、その方が体の調子はすこぶるいいものだ。

 空には雲ひとつないクリアブルーがどこまでも広がっている。

「今日もよく眠れたなぁ」

大きく伸びをしてベッドから立ち上がり、翔太は冷蔵庫へと歩き出す。その中はヴォルビックでいっぱいだ。 ぎゅうぎゅうにストックされた中から一本を取り出し、凍るように冷えたのを一気に体に流し込む。ペットボトルはあっという間に空になった。体力がいくらあっても足りない仕事をしているので、朝はいつも喉がからからだ。

「うんまい」

全身を巡る水で満たされて一日のスイッチが入り、ベランダに歩み寄る。ワンルームの決して広くない部屋に住んでいるので、そう呼ぶにはいささかこじんまりした空間ではあるものの、そこで翔太は家庭菜園を楽しんでいるのだ。

 一人で食べるには多いくらいのプチトマトがはち切れる様に実を結んでいる。実に良い出来栄えだ。一つもぎ取りそのまま口に頬張る。引き締まった果皮に歯を当てれば、しっかりとした酸味が後から来る甘味を引き立たせ、瑞々しい旨味が口一杯に広がる。もぎたての朝のトマトは格別だ。

朝日の中、ささやかな幸せの余韻に浸る贅沢な時間。

「事務所に持って行こうっと」

朝食の準備に取り掛かるべく寝癖まみれの頭を気にしながら部屋へと戻る。今朝もいつもと変わらないメニューで、トーストと目玉焼きにしようとぼんやり考えながら。

食後は日課としているストレッチとトレーニングに取り組むつもりだ。

 一方。

柊哲平の朝は遅い。毎日変わらない事だが、けたたましく鳴り響く目覚まし時計を一体何度叩いて静かにさせた事だろう。すべては二日酔いのせいなのだ。この世に「二日酔い」というものさえなければ、俺だってまともに起きれるのだ。

朝が来る度、哲平は本気でそう思っている。

昨晩も遅くまで「クラブ・ピーチパイ」で飲んでいた。あの店はママもほっとする人柄だし、何よりミナちゃんがたまらなく可愛い。お店のナンバーワンでもなく、またその器量もないであろう女の子だが、ダントツで哲平の好みなのだ。先週は給料日前で苦しい中、4日連続で通い詰めた。それほど入れ込んでいるのだ。

ミナちゃんの、あの「何もかもが一流でない感じ」が良い。人懐こく、元気なところも好きだ。昨日は客も少なめだったから、二人でよく話せた。夢のように楽しいひととき。        

そして、元気になったはずなのに。この情けない状況、である。

「うぅ、いててて」

酔いがまだ後頭部に残っている。そしておでこにも。小さい和尚さんが額裏で梵鐘を打ち鳴らしているのかと思うくらい甚だ響く頭を押さえながら、ようやく布団から重たい体を起こした。 

「やべぇ、もうこんな時間かよぉ」

分かり切っている事だが、やはり今日も寝過ごしたようである。

寝癖全開ボサボサ頭を掻きむしり顎がはずれるくらいの大あくびをしながら台所へ直行し、とりあえず買い置きしていた食パンに噛り付く。大きく三口ほど頬張ると、残りをくわえたまま大慌てで着替えに取り掛かる。  パジャマを脱ぎ捨てると、幼い顔立ちには似合わない、引き締まり日焼けした肌が露になった。慣れた素早い動作で黒のTシャツ、続いて赤と緑のタータンチェック柄のパーカーに袖を通し、くわえっ放しのを牛乳で胃に流し込む。間髪入れずに慌ただしく洗面台へ駆け込むと、水しぶきがそこら中に飛び散るのも構わず大急ぎで顔を洗い、歯を磨くのだった。

 

 マウンテンバイクのペダルに体重をかけてどんどん漕ぎ進むと、その重みがふっと軽くなる瞬間がある。翔太にはそれがたまらなく快感だ。

人気のない坂道を一気に上り切る。手のひらや背中がたちまち汗ばむのが分かった。

右に曲がり、線路沿いの細くまっすぐに伸びた道を今度はギアを重く切り替えてゆっくりと進んでゆく。この道は歩行者も多くスピードを上げる訳にはいかないので、彼はこの方法で足腰を鍛えようとしているのだ。

もうすぐ事務所のビルが踏切越しに見える頃だ。

ハンドルにぶら下げられた半透明のビニール袋の中では、もぎたてのプチトマト達がこぼれんばかりの実を弾ませて小刻みにスイングしている。


 マウンテンバイクを事務所駐輪場へ停めると、翔太は軽い足取りで細い階段を駆け上がってゆく。このビルは五階建ての至って古い建物で、コンクリートの壁にはところどころ亀裂が入り、あちこちにセメントの補修跡がある。エレベーターすら設置されていないため、最上階の使用者はきっと辟易しているにちがいない。

 三階に辿り着くと、翔太は勢いよくドアを開けた。

「おはようございます!」

「おはよう翔太くん。今朝も早いわねえ」

 甲高く、威勢の良い声で花村知菜が答える。

 彼女はこの相談所の事務員である。パソコンワークをてきぱきとこなし、あらゆる雑用から電話応対、皆のスケジュール管理などオールマイティに仕事をこなすこの若い「所の女房役」に翔太は一目置いている。

「今コーヒー淹れるとこなんだけど、翔太くんも飲む?」

「いただきます。あぁ、それと。プチトマトがちょうどいい具合に育ったんで持ってきました」

 翔太はそう言うと袋を開けて自慢気にいくつかを取り出した。

「わぁ、すごい。たくさんあるのね。この前のきゅうりも美味しかったし。せっかくだし、いただきますか」

 知菜の大きな瞳が鮮やかな果実に釘付けになる。さっと洗ってくるねー、と背中越しに言い残して彼女は給湯室へと消えて行った。

 収穫した喜びもさることながら、おすそ分けするのはなお楽しい。そんな事を思って静かな満足感に浸っていると、やがて知菜が戻って来た。

 ジーンズのショートパンツからはまっすぐな白い足がすらりと伸びている。

 彼女の華奢な両手に抱えられた皿の中の赤い実たちは、まるで水浴びした子供の肌のようにきらきらと光っているのだった。


 その頃。

 水色のクーパーに飛び乗った哲平は手荒くドアを閉めてエンジンを掛けていた。

 エアコンさえ付いておらず何かと不具合が多いこのポンコツを、それでも彼はこよなく愛している。いらいら切羽詰りながらキーを何度も回したのち、やっとのことで車を走らせ始めた。  

 哲平の茶目っ気に溢れ気の強そうな瞳の奥には得も言われぬ深い光が佇んでいて、それは少なからず人を惹きつけるようなところがあった。

 窓から差し込む日差しが日焼けした丸い頬を照らしている。

 彩づくにはまだ早い銀杏並木沿いの道を加速して走り抜けながら、哲平は運転席の窓を開けた。ひんやりとした風が車内を満たしてゆく。 

 透き通った空気を胸いっぱいに、哲平は幾度か深呼吸をした。

「いい天気だなあ」

 ほんのり笑みを浮かべた口元から、白い歯がちらりとのぞく。

 そしてもうほんの少しだけ、アクセルを踏んだ。


 事務所の駐車場に急いで車を停めると、哲平は猛烈に走り出す。ビルの階段を三段飛ばしで一気に駆け上がると、息もつかずに思い切りドアを開ける。

「十四分と三十七秒です、哲平さん」

「いやァ、参った。今日こそ絶対に遅刻しないって決めてたんだけどなぁ」

 翔太が腕時計を見つつ、正確な遅刻タイムを冷ややかに告げた。そんな翔太を軽く睨んでから隣のデスクへ飛び込むように腰かけ、毎度お馴染みの思ってもいない言い訳を宣う。

「ホントに哲平さんはいつまで経っても進歩しないですねッ」

知菜が呆れた、とさらに付け足して哲平のお茶を運んでゆく。厚ぼったい青釉の湯呑から湯気が立ち上り、注がれた煎茶がたぷたぷと波打っている。

「あっ、そうそう、昨日あれからどうしちゃったんですか? 私、哲平さんが外回りの後ここへ戻るって言うから、鍵開けて遅くまで待ってたんですよ。携帯は繋がらないし、本当にどうしようか困ったんですから」

 畳み掛ける様に知菜が問い詰める手元でお茶がますます波打っている。

 こちん、と響く音を立てて湯呑が目の前に置かれると、哲平は背中を丸め気弱な笑みを知菜によこした。   ゆうべの記憶を酔いの醒めやらない頭であたふたと呼び戻す。そうだ思い出した。午後からの外回りを済ませた頃、ミナちゃんからの電話に舞い上がりそのまま飲みに行ってしまったのだった。事務所に戻ると伝えていたことをすっかり忘れたままで。

「どこ行ってたんですかッ!」

 まったく、とか、どうしようもない、などと知菜は殺気立った小声で念じている。

「いやぁ……ごめんごめん、すっかり忘れてたよ。外回りしてたらさ、横田商店街でヨネさんに会っちゃって。近いうちに調査報告に行くって言ってたのに引きとめられちゃって、そんで参っちゃってさぁ」

 知菜の横顔を直視する勇気など哲平にはもうなかった。

 冷たい知菜の視線が容赦なく哲平に突き刺さる。

 落ち着きを無くした哲平は手のひらで湯呑をくるくる回しながら、無性に祈りたい気持ちになった。

「そうですか。そのヨネさんから朝イチで電話あったんですけど。『最近お会いしてませんけど、また経過報告お願いします』って仰ってました」 

 知菜は、おっしゃってました、のところに嫌味すぎるくらいのアクセントをつけてそう言うと、ばからしい、と最後に鋭く言い放ち席へと戻って行った。かと思うと振り向き様に「そうやって嘘ばっかりついてるといい加減本気で殴りますからね!」と喚き手にしていた肩たたき(彼女は肩こりがひどいためこれが手放せない。そして時として武器である)を頭上でぶんぶん振り回した。

 知菜のおっかなさに哲平は声も出ず、口をぱくぱくさせながら何とも情けない表情を浮かべ、隣で携帯をいじっている翔太に手を合わせる。哲平は知菜に弱い。 


 やれやれ、いつものパターンである。翔太はため息をついた。  

 仕事においての哲平は尊敬している。しかしそれ以外ではめっぽうだらしのない男、それが翔太の彼に対する評であった。こうやって少しでも窮地に陥るとすぐにすがり付いてくるのだ。

 飲んでいて知り合った女の子と「軽く勢いでそうなって」しまい、彼女からの執拗な誘いの電話にさっぱりその気がないなどと代わりに翔太が会いに行かされた件、財布を忘れたと言い張り昼飯を奢らされること数回(どれも給料日前日である)、そして知菜の怒りに怖気づきバトンタッチされること本日を入れて数知れず、その他にもまだ挙げればきりがない。翔太もいいかげん慣れっこになってしまっている。

 そうやって今回も百歩譲って先輩のためにと、翔太は気を取り直し知菜に宣った。

「今、哲平さんこう言いたいはずですよ。美味しいメロンパン買って来るから勘弁してほしいって。そうだ、フルニエの」

「えっ? フルニエのメロンパン!」

 眉間に皺を寄せて椅子にもたれ掛り、踏ん反り返って肩たたきで凝りをほぐしていた知菜がとびきり嬉しそうに声を弾ませた。

「キャアーッ! やったァ、あそこのパン、どれ食べても本当に美味しいのよねぇ」

 夢心地の表情で知菜はうっとり天井を見つめている。

「じゃあ……二十個。絶対買ってきて下さいね! 忘れちゃイヤですよッ」

 首を左右に振り振り、先ほどまでとは打って変わって上機嫌のご様子である。

「ええーっ? お前、そんなに食うのかよ……」

 まるで罰ゲームにでも当たったかのように哲平は落胆している。

「この前の訳分かんないビラ作りの残業分も合わせてです。食べます、二十個。絶対に」

 気迫を込めて言い終えた知菜は、哲平に向かってもう一度肩たたきを振りかざす。

 そこそこの美人であるはずなのに、威嚇するかのようなそのポーズと表情は誰が見てもさながらメスのチンパンジーであった。

 ここに居るはずもない獣と化した知菜を目の当たりにした哲平は思わず茶を口からこぼして小さく「ひぃ」と呻き、つられて妙な緊張感に陥ってしまった翔太はとんでもないものを見てしまった後味の悪さに少々萎えた。

「もう、分かりましたぁー!」

 哲平は降参の白旗を掲げるように万歳をし、ふてくされてデスクにそのまま伏せてしまった。かと思えばすぐに顔を上げて「なんでこんな展開になるんだよ」と小声で翔太に文句をつけている。呆れた男である。


「おい、お前たち」

 それまでの騒々しさをものともせず、一人新聞に耽っていた男が皆に呼びかけた。

 大杉英夫、彼こそがここナンデモ・アール相談所の所長である。

 歳は還暦を過ぎた頃、風貌にはますますの重みと渋さに磨きがかかり、彼の穏やかな人柄が佇まいに滲み出ている。ワイシャツは日ごとに柄を変えて今日は薄いブルーのストライプ、羽織るジャケットはいつもの上質なグレーだ。鼻の下に蓄えられた髭は彼の性格を物語る様にいつも丁寧に整えられている。シンプルかつハイクオリティ、そして何より清潔感を大切にしたその身だしなみからはさすがボスの風格が漂っている。

 ゆっくりと新聞を折り畳み、黒革の椅子に座ったまま彼は続けた。

「そろそろご依頼人が来る時間だぞ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ