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ポラロイド

作者: 小岩井豊

 美希がバスを降りたとき、僕は車道を挟んだ向かい側の歩道から、海を撮っていた。いつものニコンの一眼レフでなく、フィルムで撮影枚数制限されたポラロイド社製のカメラだった。

 美希は律儀にも横断歩道から車道を渡り、時間をかけて僕のもとへやってきた。松葉杖での移動だから、よけいに時間がかかる。

「今日はインスタントカメラなんだね」

「ポラロイドだよ」僕は訂正した。美希は苦笑いをし、松葉杖で地面をついた。僕は彼女の斜め後ろを陣取って歩いた。

 フィルムの残りを確認すると、あと四枚だった。自宅の冷凍庫に保存してあった分も、もう使いきってしまった。製造終了したフィルムだからこれで最後。もしかしたら、今日で使いきってしまうかもしれない。

 国道は海沿いを延々と続いていた。海猫がみゃあみゃあと鳴いている。美希の病院詰めだった白い肌を、太陽光が突き刺した。美希は無言で歩く。一度もこちらを振り返らない。黒く長い髪が、杖の動きに合わせて上下に揺れた。

 美希はもともと身体の強い方ではなかったが、中学生の中期からそれは顕著になっていった。三日に一度は保健室のお世話になっていたと記憶している。ただの病気がちな少女なのだと思っていたが、僕が考えていたよりずっと、美希の容態は深刻だった。高校三年生のとき余命三年半を宣告され、退学した。僕がその退学の理由を知ったのは、高校を卒業して随分経つ、つい最近のことだった。

「疲れた?」

 美希が荒い息づかいを始めたので、僕はそう尋ねる。

「休憩しようか」

 美希は首を振った。そのとき、髪が風に靡いて薄い色素のうなじが露わになった。そよ風だったそれは次第に暴力性を増し、浜辺の砂を舞いあげ、彼女の足を止めさせた。僕はポラロイドを構える。目に砂が入らないようしかめっ面をしながら、同様にしかめっ面をする美希の横顔を、撮影した。

 風が止むと、僕らはまた前進した。陽は天井を越え、山の方へと傾き始めていた。一軒、また一軒と海辺の民家を通り過ぎていく。道の駅の休憩所があった。そのころになると美希の息づかいはまともじゃなくなってきていた。背中をさすってやり、僕は休憩所を指さした。

 美希をベンチに腰掛けさせ、ジュースを買いに行く。おまけでクレープを買った。美希のそばにジュースを置き、クレープを持たせた。僕は隣でココアを飲んだ。

「いま、付き合ってる子はいるの」と、美希が久しぶりに口を開いた。

「もう結婚したよ。子供も二人いる」

「そう……」美希は口元に微笑みを浮かべた。「幸せなんだね」

 皮肉に聞こえたので僕はむっとした。

「そうでもないよ」

 美希は小さな高笑いを意味もなくあげる。

「そっか。そうでもないよね」

 そしてクレープをかじった。長い時間をかけてバナナとクリームと生地の一部を咀嚼した。僕はむすっとしたままカメラをいじった。そういう自分を演じた。直後に美希は、ひどい手の痙攣を起こし、クレープを地面に落とした。

「ごめんなさい」

 僕はカメラを膝に置き、両手で美希の手を包み、痙攣を抑えた。効果がないことは知っていたが、そうせずにいられなかった。そういう僕に、美希は冷やかすような視線を向けるのだった。

「奥さんいるんでしょ。浮気だ」

「いないよ」

「結婚してるって、いったじゃん」

「結婚はしたけど、もう別れた。今は一人だ」

「それって、嘘?」

 嘘かどうかは、僕にも分からない。



 カメラの前では、人は平気で嘘をつく。どんなに楽しくなくても、物理的に瞬間を切り取るカメラの前では、人は畏まり、最大限に楽しい風を装う。思えば僕は、そういう人を意識して、うそつきな人々ばかりを狙って写真を撮ってきたのではないかと思う。つまらなさそうなグループに目をつけて、わざと撮影許可を取り付けてみるように、カメラを嘘発見機のように使った。それほど世の中は、欺瞞に満ちていた。

 僕が美希を写真に収めたのは、今日が初めてかもしれない。何故なら美希はピースをしない人間だからだ。素の表情でしか写ろうとしない天の邪鬼なのだ。そのせいか学校の卒業アルバムにも美希の写った写真は少ない。写っていたとしても、とてもじゃないが楽しそうな学生生活を送っているようには見えなかった。



 美希は松葉杖を地面に突き立て、両足を振り子のように前へ出す。疲労も限界に近いのか、呼吸はひゅうひゅうと途切れ、髪は汗で艶めいていた。

 美希は、歩けないわけではない。ただ、少し歩いただけで足が震え、すぐに転んでしまうのだ。彼女がどんな病に侵されているのか僕は忘れてしまった。横文字の長ったらしい名前での病気で、百万人に一人発症するほどの珍しいものらしいということだけは、覚えている。

 彼女の足を止めさせ、息が整うのを待って、一枚撮影した。ポラロイドが、にぃん、という音を立てる。フレームの隙間からスナップが吐き出される。十分な遮光を待ち写真を表にする。僕も少しは疲れているのか、ブレていた。

 フィルムの残数は、ゼロを示していた。

 見下ろすと、浜辺へと降りる階段があった。老婆が階段を上がりながら皺だらけの笑みを見せる。後ろで車が通りすぎ、微風を作った。日は暮れており、汗が月光に光って落ちる。眼を細め、その光の軌跡を追った。

 美希は器用に階段を降りてみせ、僕を振り返った。一番下の段に腰を降ろし、サンダルを放って痩せ細った素足を砂浜に乗せた。僕は松葉杖を預かり、彼女の隣に座った。

 遠くから若者のはしゃぐ声が聞こえる。見れば浜の彼方で七色の閃光がほとばしっていた。

「あれって、楽しいのかな」

「花火、やったことあるだろ。昔、いっしょにやった」

「そうだっけ」

 ぴゅうん、ぴゅうん。

 ロケット花火が夜空を翔けた。

 僕は松葉杖を段に立てかけて立ち上がった。騒ぐ若者たちに駆け寄り、「二、三本、ゆずってください」と頼んでみる。若者の一人が、僕と、遠くで座り込む美希とを見比べて、にっこりと笑った。彼はある箇所にまとめて置かれた花火の束を鷲掴み、手渡してきた。

「ありがとう」

 礼を言って美希のもとに戻る。気のせいか、背後の笑い声が強まった感じがした。

 彼女に花火を一本持たせ、ライターで先端に火を灯した。だけど、なかなか着火しなかった。

「しけってるのね」

 彼女の発した言葉に納得出来ず、僕は顔を真っ赤にして、握りつぶすみたいにしてライターを点けた。どの花火も試したが、しけっていたり、着火し損ねた跡があったりした。そのうち耳まで火照ってきて、それが怒りと悔しさからくるものだと悟った。僕は花火を集めて地面に放り捨て、頬の裏側を噛んだ。若者の笑いがまた騒がしくなった。

「くそ、あいつら」

「偶然だよ」

「でも」

「私、昔花火やったの、ちゃんと思い出したから。もう平気だよ」

 そう言って美希は両膝を掴み、膝を伸ばした。負担に負けて転びかける。間一髪で背中を支えてやると、彼女は手でそれを制した。裸足を前に出すと、震えが美希の膝を襲った。彼女は唇を噛んで足元を堪えている。僕は目を逸らせなかった。

 気付けば彼女の足跡には血液が混じっていた。見ると、窪んだ砂浜の一部にガラスの破片があった。美希の前で、砂を這う黒々としたさざ波が揺れる。ときおり、その右足に触れ、血に染まってやがて薄れる。

 僕は、残数ゼロのポラロイドカメラを構える。背面におでことあごをくっつけ、ファイダーを覗いた。

「すごく、気持ちがいい」

 美希の足の震えは、もう止まっていた。若者の騒ぎも、波の音も、風も、そして僕自身も、この瞬間だけ息を止める。絶対に嘘じゃないと言い切れるものを、僕は初めて撮る。

「痛いのも、悲しいのも、悔しいのも、怖いのも、ぜんぶ気持ちがいい。生きてる、って感じがする」

 シャッターを切った。

 ポラロイドは、沈黙を破らなかった。



 それから一週間して美希は息を引き取った。その一週間を彼女がどう過ごしたのか僕は知らない。彼女が瞼を閉じたその時、僕は恐らく営業先で頭を下げていたか、あるいは喫茶店で時間を潰すなどしていたのだろうが、後悔は感じていない。

 久しぶりに子供と面会し、ピューロランドで一日を過ごしたあと、ポラロイドカメラを手にカメラ専門店へ行った。顔見知りの店主は僕の来店に気付かず、たぶん気付いていない振りで棚の中古品を眺めることに没頭していた。カウンターにポラロイドを置くと、彼は「寂しいね」と呟いて僕に向き直った。その場でポラロイドの解体をし、状態の点検を始めた。

「しょせん安物だから、適当でいいよ」

「そういうわけにもね」

 僕はソファに深く背を預けつつ、査定を待った。店主の作業音が静かに響く。さながら波音のようだったから僕は自動的にあの日のことを思い出していた。あのあと、一本だけ使えそうな花火を見つけたので、彼女に持たせてあげた。それは運よく火を灯し、彼女の手もとで閃光を咲かせた。あの灯火の渦は、仄暗い海を鮮烈に染め上げ、彼女の笑みを印象的に映していた。その頬には涙が伝っていたんだと、今さらながらに胸を詰まらせる。

「なあ」

 店主の声に目を開ける。彼の手の中で、一枚の写真が揺れていた。

「中でひっかかってたぜ」

 自然に、あの瞬間のように息を止めている。僕はソファから立ってそれを受け取った。

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― 新着の感想 ―
[一言] これは切ないですね…。主人公が既に結婚してるのが、また切ない感じを強めてますね。
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