伸びる腕の向こう側
昼間だった。
空は晴れていて、木々の隙間から差し込む日差しは暖かい。
こんな場所で肝試しなんて、少しも怖くない。
少なくとも、そのときの俺たちはそう思っていた。
「で、これを三回唱えればいいんだろ?」
友人の一人が、スマートフォンに表示された文字を読み上げる。
ふざけた言葉の羅列だった。
ちちんぷいぷい、という言葉を適当に崩して、意味の分からない音をいくつもつなげたようなもの。
誰かが笑った。
俺も笑った。
こんなもので本当に何かが起こるなら、世の中の怪談はもっと簡単に証明できている。
「じゃあ、いくぞ」
友人が詠唱を始めた。
一度目。
二度目。
三度目。
途中で噛んだ。
「……あれ?」
友人が顔を上げる。
その瞬間だった。
そいつの体が、ぐらりと傾いた。
「おい?」
呼びかけても返事がない。
友人はうつむいたまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
笑っていた。
いや、笑顔というより、顔に笑みを貼り付けたような表情だった。
「なんだよ、びっくりさせんなって」
別の友人が肩を叩こうとした。
その手を、そいつは乱暴に振り払った。
次の瞬間、友人の手が俺の頬を打った。
乾いた音が響く。
「痛っ……! 何すんだよ!」
文句を言おうとした俺の目の前で、友人が両手を持ち上げた。
何かを唱えている。
聞き覚えのない言葉だった。
それなのに、なぜか分かった。
あいつは今、何かを呼んでいる。
「おい、やめろ!」
止めようとした。
間に合わなかった。
友人の背後に、それは立っていた。
女だった。
長い黒髪。
異様に細い体。
そして、三メートル近い身長。
立ち上がった貞子、とでも呼べばいいのだろうか。
人間の形をしているのに、人間の大きさではなかった。
長い髪が顔を覆い隠している。
その下から、何本もの腕が垂れていた。
腕の数は分からない。
ただ、一本一本が不自然なほど長かった。
女は動かなかった。
俺たちを見ているのかどうかさえ分からない。
それでも、全員が理解した。
見つかった。
誰かが悲鳴を上げた。
その声を合図にしたかのように、女の腕が伸びた。
逃げようとした友人の体に、黒い腕が巻き付く。
次の瞬間、そいつは地面に倒れた。
いや、倒されたのではない。
自分の意思とは関係なく、体が動かなくなったようだった。
「助け……」
声が聞こえた。
俺は駆け寄ろうとした。
しかし、友人は顔を上げたまま、ぎこちなく笑っていた。
「大丈夫……」
声は、そいつ自身のものだった。
「大丈夫だから」
その口が動く。
けれど、目は何も見ていなかった。
友人は立ち上がった。
関節の動きがおかしい。
まるで、見えない糸で吊られた人形のようだった。
そのまま、そいつは歩き始めた。
どこへ向かっているのか分からない。
呼び止めても、肩を掴んでも、反応がない。
ただ、歩き続ける。
その姿を見て、ようやく理解した。
こいつは死んでいない。
意識も残っている。
それなのに、体を動かすことができないのだ。
「やめろ……」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。
女の腕が、また伸びた。
そして――。
*
気がつくと、俺は別の場所にいた。
部屋だった。
窓は見当たらない。
壁も床も、何かで汚れていた。
鉄のような臭いがする。
足元に、人が倒れていた。
一人ではない。
何人も。
何十人も。
折り重なるように、床一面に並んでいる。
その顔を確かめることはできなかった。
したくもなかった。
ただ、見覚えのある服があった。
友人が着ていたものと同じだった。
息が止まりそうになった。
そのとき、部屋の奥から音がした。
何かが壁にぶつかる音。
床を削る音。
そして、低い、獣のような唸り声。
俺は顔を上げた。
二つの影が、部屋の中央でぶつかり合っていた。
片方は、あの女だった。
三メートル近い巨体。
長い髪。
何本もの腕。
その姿は、昼間に見たものと同じだった。
しかし、もう片方は違った。
人間ほどの大きさ。
一・五メートルほどだろうか。
全身が爛れている。
どこか、古い埴輪を思わせる形をしていた。
ただし、埴輪のような素朴さはない。
人の形を無理やり残したまま、何か別のものに変わってしまったような姿だった。
そいつにも、腕があった。
一本や二本ではない。
何本もの腕が、体のあちこちから伸びていた。
そして、その腕もまた、あり得ないほど長かった。
二体の怪異がぶつかるたび、部屋全体が揺れた。
女の腕が伸びる。
埴輪の腕がそれを絡め取る。
引き裂くような音がした。
どちらも人間ではない。
どちらも、俺たちが知っている生き物ではない。
なのに、なぜか分かった。
あの二体は、互いを殺そうとしている。
そのとき、埴輪の怪異がこちらを向いた。
顔があったのかどうかは分からない。
ただ、そいつが俺を認識したことだけは理解できた。
逃げなければ。
そう思った。
だが、足が動かなかった。
女の腕が、こちらへ伸びてきたからだ。
何本もの腕が、床を這うように近づいてくる。
一本が足元を掠めた。
もう一本が、頭上を通り過ぎた。
そして、三本目が俺の肩を掴んだ。
「うわっ!」
引き倒される。
体が床を滑った。
逃げようとしたが、腕は離れなかった。
そのまま引きずられ、女の足元へ近づいていく。
終わりだ。
そう思った瞬間。
横から、別の腕が伸びてきた。
埴輪の怪異だった。
そいつの腕が俺の手首を掴んだ。
次の瞬間、視界が大きく揺れた。
体が引っ張られる。
骨が軋んだ。
皮膚が裂けるような痛みが走った。
「――っ!」
手首から先が、引きちぎられるのではないかと思った。
肉がえぐれ、腕が折れた。
そうとしか思えないほどの力だった。
俺は叫んだ。
だが、埴輪の怪異は手を離さなかった。
そのまま、俺の体を自分の背後へ引き寄せる。
床に叩きつけられ、息が詰まった。
何が起きたのか分からなかった。
助けられたのか。
それとも、別の理由があるのか。
そいつは何も説明しなかった。
ただ、俺を背後に置いたまま、女と向き合った。
その背中から、何本もの腕が伸びていく。
女の腕と、埴輪の腕が絡み合った。
部屋の中央で、二体が再び衝突する。
俺は床に伏せたまま、その光景を見ていた。
逃げなければ。
助けを呼ばなければ。
何かしなければ。
けれど、何もできなかった。
埴輪の腕が女を押し返す。
女の腕が、その胴体を貫くように伸びる。
どちらが優勢なのかも分からない。
ただ、二体の力がぶつかるたび、周囲のものが吹き飛んだ。
壁が砕けた。
床に並んでいた死体が、まとめて転がった。
そして。
一本の腕が、俺のほうへ飛んできた。
避ける暇もなかった。
衝撃。
痛み。
息ができない。
何が当たったのかも分からなかった。
ただ、体の中で何かが壊れたことだけは分かった。
視界が暗くなる。
遠くで、何かが唸っている。
まだ戦っているのだろうか。
それとも、俺を見つけたのだろうか。
もう、確かめることはできなかった。
意識が途切れる直前、ふと思った。
あの埴輪は、俺を助けようとしたのだろうか。
それとも――。
*
「じゃあ、いくぞ」
聞き覚えのある声がした。
目を開ける。
空は晴れていた。
木々の隙間から、暖かい日差しが差し込んでいる。
見慣れた友人たちが、目の前に立っていた。
「何ぼーっとしてんだよ」
友人が笑った。
「これ、三回唱えればいいんだろ?」
その手には、スマートフォンが握られている。
画面には、ふざけた呪文が表示されていた。
俺は何も言えなかった。
なぜか、ひどく懐かしい気がした。
何かを忘れている。
とても大切なことを。
思い出そうとした。
けれど、頭の中には何も浮かばなかった。
「おい、聞いてる?」
友人が呪文を読み上げ始める。
一度目。
二度目。
三度目。
途中で、噛んだ。
「……あれ?」
友人が顔を上げる。
俺は、その顔を見つめていた。
まだ、何も起きていない。
まだ、誰も倒れていない。
まだ、あの女も現れていない。
それなのに。
俺は知っていた。
次に何が起こるのかを。
友人の背後で、何かが動いた。
長い髪が、ゆっくりと垂れ下がる。
何本もの腕が、音もなく広がっていく。
俺は逃げようとした。
今度こそ逃げようとした。
けれど、足が動かなかった。
女が、こちらを向いた。
髪の隙間から、顔が見えた。
そして――。
世界が、暗転した。




