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伸びる腕の向こう側

作者: ニィギンヤ
掲載日:2026/10/21

昼間だった。


空は晴れていて、木々の隙間から差し込む日差しは暖かい。


こんな場所で肝試しなんて、少しも怖くない。


少なくとも、そのときの俺たちはそう思っていた。


「で、これを三回唱えればいいんだろ?」


友人の一人が、スマートフォンに表示された文字を読み上げる。


ふざけた言葉の羅列だった。


ちちんぷいぷい、という言葉を適当に崩して、意味の分からない音をいくつもつなげたようなもの。


誰かが笑った。


俺も笑った。


こんなもので本当に何かが起こるなら、世の中の怪談はもっと簡単に証明できている。


「じゃあ、いくぞ」


友人が詠唱を始めた。


一度目。


二度目。


三度目。


途中で噛んだ。


「……あれ?」


友人が顔を上げる。


その瞬間だった。


そいつの体が、ぐらりと傾いた。


「おい?」


呼びかけても返事がない。


友人はうつむいたまま、しばらく動かなかった。


やがて、ゆっくりと顔を上げる。


笑っていた。


いや、笑顔というより、顔に笑みを貼り付けたような表情だった。


「なんだよ、びっくりさせんなって」


別の友人が肩を叩こうとした。


その手を、そいつは乱暴に振り払った。


次の瞬間、友人の手が俺の頬を打った。


乾いた音が響く。


「痛っ……! 何すんだよ!」


文句を言おうとした俺の目の前で、友人が両手を持ち上げた。


何かを唱えている。


聞き覚えのない言葉だった。


それなのに、なぜか分かった。


あいつは今、何かを呼んでいる。


「おい、やめろ!」


止めようとした。


間に合わなかった。


友人の背後に、それは立っていた。


女だった。


長い黒髪。


異様に細い体。


そして、三メートル近い身長。


立ち上がった貞子、とでも呼べばいいのだろうか。


人間の形をしているのに、人間の大きさではなかった。


長い髪が顔を覆い隠している。


その下から、何本もの腕が垂れていた。


腕の数は分からない。


ただ、一本一本が不自然なほど長かった。


女は動かなかった。


俺たちを見ているのかどうかさえ分からない。


それでも、全員が理解した。


見つかった。


誰かが悲鳴を上げた。


その声を合図にしたかのように、女の腕が伸びた。


逃げようとした友人の体に、黒い腕が巻き付く。


次の瞬間、そいつは地面に倒れた。


いや、倒されたのではない。


自分の意思とは関係なく、体が動かなくなったようだった。


「助け……」


声が聞こえた。


俺は駆け寄ろうとした。


しかし、友人は顔を上げたまま、ぎこちなく笑っていた。


「大丈夫……」


声は、そいつ自身のものだった。


「大丈夫だから」


その口が動く。


けれど、目は何も見ていなかった。


友人は立ち上がった。


関節の動きがおかしい。


まるで、見えない糸で吊られた人形のようだった。


そのまま、そいつは歩き始めた。


どこへ向かっているのか分からない。


呼び止めても、肩を掴んでも、反応がない。


ただ、歩き続ける。


その姿を見て、ようやく理解した。


こいつは死んでいない。


意識も残っている。


それなのに、体を動かすことができないのだ。


「やめろ……」


誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


女の腕が、また伸びた。


そして――。


*


気がつくと、俺は別の場所にいた。


部屋だった。


窓は見当たらない。


壁も床も、何かで汚れていた。


鉄のような臭いがする。


足元に、人が倒れていた。


一人ではない。


何人も。


何十人も。


折り重なるように、床一面に並んでいる。


その顔を確かめることはできなかった。


したくもなかった。


ただ、見覚えのある服があった。


友人が着ていたものと同じだった。


息が止まりそうになった。


そのとき、部屋の奥から音がした。


何かが壁にぶつかる音。


床を削る音。


そして、低い、獣のような唸り声。


俺は顔を上げた。


二つの影が、部屋の中央でぶつかり合っていた。


片方は、あの女だった。


三メートル近い巨体。


長い髪。


何本もの腕。


その姿は、昼間に見たものと同じだった。


しかし、もう片方は違った。


人間ほどの大きさ。


一・五メートルほどだろうか。


全身が爛れている。


どこか、古い埴輪を思わせる形をしていた。


ただし、埴輪のような素朴さはない。


人の形を無理やり残したまま、何か別のものに変わってしまったような姿だった。


そいつにも、腕があった。


一本や二本ではない。


何本もの腕が、体のあちこちから伸びていた。


そして、その腕もまた、あり得ないほど長かった。


二体の怪異がぶつかるたび、部屋全体が揺れた。


女の腕が伸びる。


埴輪の腕がそれを絡め取る。


引き裂くような音がした。


どちらも人間ではない。


どちらも、俺たちが知っている生き物ではない。


なのに、なぜか分かった。


あの二体は、互いを殺そうとしている。


そのとき、埴輪の怪異がこちらを向いた。


顔があったのかどうかは分からない。


ただ、そいつが俺を認識したことだけは理解できた。


逃げなければ。


そう思った。


だが、足が動かなかった。


女の腕が、こちらへ伸びてきたからだ。


何本もの腕が、床を這うように近づいてくる。


一本が足元を掠めた。


もう一本が、頭上を通り過ぎた。


そして、三本目が俺の肩を掴んだ。


「うわっ!」


引き倒される。


体が床を滑った。


逃げようとしたが、腕は離れなかった。


そのまま引きずられ、女の足元へ近づいていく。


終わりだ。


そう思った瞬間。


横から、別の腕が伸びてきた。


埴輪の怪異だった。


そいつの腕が俺の手首を掴んだ。


次の瞬間、視界が大きく揺れた。


体が引っ張られる。


骨が軋んだ。


皮膚が裂けるような痛みが走った。


「――っ!」


手首から先が、引きちぎられるのではないかと思った。


肉がえぐれ、腕が折れた。


そうとしか思えないほどの力だった。


俺は叫んだ。


だが、埴輪の怪異は手を離さなかった。


そのまま、俺の体を自分の背後へ引き寄せる。


床に叩きつけられ、息が詰まった。


何が起きたのか分からなかった。


助けられたのか。


それとも、別の理由があるのか。


そいつは何も説明しなかった。


ただ、俺を背後に置いたまま、女と向き合った。


その背中から、何本もの腕が伸びていく。


女の腕と、埴輪の腕が絡み合った。


部屋の中央で、二体が再び衝突する。


俺は床に伏せたまま、その光景を見ていた。


逃げなければ。


助けを呼ばなければ。


何かしなければ。


けれど、何もできなかった。


埴輪の腕が女を押し返す。


女の腕が、その胴体を貫くように伸びる。


どちらが優勢なのかも分からない。


ただ、二体の力がぶつかるたび、周囲のものが吹き飛んだ。


壁が砕けた。


床に並んでいた死体が、まとめて転がった。


そして。


一本の腕が、俺のほうへ飛んできた。


避ける暇もなかった。


衝撃。


痛み。


息ができない。


何が当たったのかも分からなかった。


ただ、体の中で何かが壊れたことだけは分かった。


視界が暗くなる。


遠くで、何かが唸っている。


まだ戦っているのだろうか。


それとも、俺を見つけたのだろうか。


もう、確かめることはできなかった。


意識が途切れる直前、ふと思った。


あの埴輪は、俺を助けようとしたのだろうか。


それとも――。


*


「じゃあ、いくぞ」


聞き覚えのある声がした。


目を開ける。


空は晴れていた。


木々の隙間から、暖かい日差しが差し込んでいる。


見慣れた友人たちが、目の前に立っていた。


「何ぼーっとしてんだよ」


友人が笑った。


「これ、三回唱えればいいんだろ?」


その手には、スマートフォンが握られている。


画面には、ふざけた呪文が表示されていた。


俺は何も言えなかった。


なぜか、ひどく懐かしい気がした。


何かを忘れている。


とても大切なことを。


思い出そうとした。


けれど、頭の中には何も浮かばなかった。


「おい、聞いてる?」


友人が呪文を読み上げ始める。


一度目。


二度目。


三度目。


途中で、噛んだ。


「……あれ?」


友人が顔を上げる。


俺は、その顔を見つめていた。


まだ、何も起きていない。


まだ、誰も倒れていない。


まだ、あの女も現れていない。


それなのに。


俺は知っていた。


次に何が起こるのかを。


友人の背後で、何かが動いた。


長い髪が、ゆっくりと垂れ下がる。


何本もの腕が、音もなく広がっていく。


俺は逃げようとした。


今度こそ逃げようとした。


けれど、足が動かなかった。


女が、こちらを向いた。


髪の隙間から、顔が見えた。


そして――。


世界が、暗転した。

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