あなたを殺したこの手で
三上蓮が刑務所の門を出たのは、春の終わりだった。
雲ひとつない青空だった。
空は十年前と変わらなかった。あの日も、こんなふうによく晴れていた。
蓮は門の前で立ち止まった。背中に背負った黒いボストンバッグは軽い。中には数枚の着替えと、出所時に返された財布、それから使い古した手帳しか入っていなかった。
十年。
人を一人殺した時間としては短いのか、長いのか。
蓮にはわからなかった。
迎えに来る人はいない。
両親は服役中に相次いで亡くなった。弟とは事件以来、一度も連絡を取っていない。
帰る場所はなかった。
「……行くか」
誰に言うでもなく呟き、蓮は歩き出した。
社会は、思ったより普通だった。
駅前では学生が笑いながらアイスを食べ、会社員はスマートフォンを見つめて足早に歩いている。
世界は、自分がいなくても何一つ困らなかったのだ。
それが妙に堪えた。
アパート探しも仕事探しも簡単ではなかった。
履歴書に空白の十年がある。
「前職は?」
「……工場です」
「その後は?」
沈黙。
面接官の目が変わる。
「今回はご縁がなかったということで」
そんな言葉を三回、四回と聞いた。
公園のベンチに腰を下ろした頃には、日が傾いていた。
子どもたちの笑い声が聞こえる。
鬼ごっこをしていた男の子が転び、泣き出した。
「大丈夫?」
母親が駆け寄る。
男の子は涙を流しながら母親に抱きついた。
「痛かったね。でも大丈夫だから」
蓮は目を逸らした。
あの日、あの家にも家族がいた。
金が欲しかった。
借金を返したかった。
酒に酔っていた。
理由はいくらでも並べられる。
だが結局、人を殺した事実は変わらない。
被害者の名前は、今でも忘れられなかった。
高橋健司。
三十八歳。
会社員。
玄関先でもみ合いになった。
突き飛ばされた。
気づけば、持っていたナイフが相手の胸に刺さっていた。
あの時の手の感触を、蓮は今も夢に見る。
「三上さん?」
声をかけられ、顔を上げた。
そこにいたのは保護司の佐伯だった。
「探しましたよ。携帯、持ってないんでしたね」
「……すみません」
「仕事は?」
「駄目でした」
佐伯はため息をついた。
「少し話しませんか」
二人は近くの喫茶店に入った。
コーヒーの香りがした。
蓮は砂糖もミルクも入れず、苦い液体を口に含んだ。
「三上さん」
「はい」
「高橋さんのご家族のことは知っていますか?」
蓮の手が止まった。
「……奥さんは亡くなったと聞きました」
「ええ。五年前に病気で」
「……そうですか」
「息子さんがいます」
蓮は顔を上げた。
「十歳です」
「……」
「生まれつき心臓が弱いそうです」
「それを、なんで俺に?」
佐伯は言葉を選ぶように視線を落とした。
「親族が引き取りを拒否しているそうです。施設へ入る予定でしたが、病気の関係で受け入れ先が限られていて……」
「だから?」
「三上さん。あなたは『償いたい』と言っていましたね」
「……」
「これは償いにはならないかもしれません。でも」
「やめてください」
蓮は遮った。
「俺は人殺しです」
「わかっています」
「父親を殺した男ですよ」
「わかっています」
「そんな人間に子どもを任せるんですか?」
佐伯は静かに言った。
「だからこそ、考えてほしいんです」
蓮は拳を握った。
「無理です」
「どうしてですか」
「俺が……」
喉が詰まった。
「俺が、あの子の父親を殺したからです」
佐伯はしばらく黙っていた。
「会うだけでも駄目ですか」
「……」
「決めるのは、その後でもいい」
窓の外では夕焼けが広がっていた。
蓮はガラス越しに街を見つめた。
誰も彼を知らない。
誰も彼を必要としていない。
刑務所で何度も考えた。
出所したら、真面目に働こう。
静かに生きよう。
できるだけ迷惑をかけないように。
それで十分だと思っていた。
なのに。
どうして今さら。
「……その子」
蓮は絞り出すように尋ねた。
「名前は?」
「高橋透くんです」
「透……」
「会いますか?」
蓮は答えられなかった。
会う資格なんてない。
顔を見る資格もない。
それでも。
「……一度だけ」
気づけば、そう口にしていた。
「一度だけ、会います」
佐伯は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「勘違いしないでください」
蓮は立ち上がった。
「俺は許されたいわけじゃない」
許されるはずがない。
死んだ人は帰ってこない。
奪った命は戻らない。
だから。
「ただ……」
蓮は夕焼け空を見上げた。
「もしあの子が困ってるなら、それを見ないふりをするのは、もう嫌なんです」
春の風が吹いた。
その風は優しくて、残酷だった。
病院独特の匂いがした。
消毒液と薬品の混じった、どこか冷たい匂い。
三上蓮は病室の前で立ち止まっていた。
扉の横には、小さなネームプレート。
――高橋透。
十歳。
たったそれだけの文字なのに、蓮の足は動かなかった。
この扉の向こうにいるのは、自分が殺した男の息子だ。
もし事情を知っていたら。
もし「帰れ」と言われたら。
もし顔を見るなと泣かれたら。
「……入らないんですか?」
隣にいた保護司の佐伯が静かに言った。
「今ならまだ帰れますよ」
「……」
「でも、会わなかったことは、一生忘れられないと思います」
蓮はゆっくりと息を吐いた。
そして、扉をノックした。
「どうぞー!」
思ったより明るい声だった。
佐伯が先に入り、蓮も続く。
窓際のベッド。
そこにいた少年は、想像していたよりずっと小さかった。
細い腕。
白い肌。
少し長めの前髪。
胸元には心電図のコードが伸びている。
けれど、その目は驚くほど生き生きとしていた。
「あっ、佐伯さん!」
「こんにちは、透くん」
「今日は誰か一緒なんだ?」
透の視線が蓮へ向く。
「えっと……」
佐伯が言葉を探した。
しかし、その前に蓮が口を開いた。
「……三上です」
「三上さん?」
「お父さんの……」
喉が詰まる。
「友達だ」
嘘だった。
最低の嘘だと思った。
透はぱちぱちと瞬きをした。
「へえ!」
そして、にこっと笑った。
「父さんの友達、初めて会った!」
蓮は返事ができなかった。
怒られる覚悟をしていた。
恨まれる覚悟もしていた。
なのに。
「父さんって、どんな人だった?」
透は無邪気に聞いた。
「僕、小さい頃のことあんまり覚えてなくて」
「……」
「優しかった?」
蓮は言葉を失った。
覚えているのは、恐怖に歪んだ顔だった。
血の色だった。
震える手だった。
「三上さん?」
「……優しかった」
気づけば、そう答えていた。
「きっと」
「そっか」
透は嬉しそうに笑った。
「よかった」
「どうして?」
「だってさ」
透は少し照れくさそうに言った。
「父さんのこと、ちゃんと知らないままだったら寂しいじゃん」
蓮は目を伏せた。
この子は知らない。
父親がどんなふうに死んだのか。
誰に殺されたのか。
その相手が今、目の前にいることを。
「三上さん!」
「……なんだ」
「敬語じゃなくていいよ!」
「無理だ」
「なんで?」
「なんとなくだ」
「変なの」
透は声を上げて笑った。
その笑い声は、病室には似合わないほど明るかった。
「透くん、体調はどうですか?」
佐伯が尋ねる。
「まあまあかな」
「苦しくない?」
「今日は平気」
そう言ったあと、透は窓の外を見た。
「でもね」
「?」
「たまに怖くなるんだ」
「何が?」
「死ぬこと」
病室が静かになった。
透はカーテンの揺れを見つめながら言った。
「僕、心臓悪いから」
「……」
「先生たちは大丈夫って言うし、手術もあるって言うけど」
「……」
「でも、夜になると考えちゃうんだよね」
透は笑った。
困ったような、小さな笑顔だった。
「もし死んだら、どうなるんだろうって」
蓮は答えられなかった。
人を殺した。
死を与えた。
なのに、死について何も知らない。
「三上さんはさ」
「……」
「死ぬのって、怖いと思う?」
透は真っ直ぐに聞いた。
十歳の子どもの目だった。
純粋で、残酷な目だった。
蓮はしばらく黙っていた。
「……わからない」
「そっか」
「でも」
透を見る。
「死ぬのが怖いって思うのは、たぶん」
「?」
「まだ生きたいからじゃないのか」
透はきょとんとした。
「生きたい?」
「ああ」
「……僕、生きたいのかな」
「違うのか?」
「わかんない」
透は笑った。
「だって、生まれた時から病院ばっかりだし」
「……」
「学校も休むし、友達とも遊べないし」
「……」
「だから、生きたいって何なのか、よくわかんないんだ」
その言葉は、蓮の胸に重く沈んだ。
十歳の子どもが口にするには、あまりにも静かな諦めだった。
「でもね」
透は突然言った。
「今はちょっと楽しい」
「何がだ」
「三上さんと話すの」
蓮は目を見開いた。
「父さんのこと知ってる人、初めてだから」
「……」
「また来る?」
病室に沈黙が落ちる。
また来る。
そんな資格はない。
だけど。
「……時間があればな」
「やった!」
透は嬉しそうに笑った。
「約束ね!」
「約束はしてない」
「えー!」
「……善処する」
「それ、来ない大人の言い方じゃん!」
「うるさい」
透は声を上げて笑った。
蓮は窓の外を見た。
春の空は青かった。
人は死ぬ。
それは変わらない。
けれど。
死を知っているからこそ、生きることを考えるのかもしれない。
「三上さん」
「なんだ」
「またね」
またね。
当たり前のように使われるその言葉が、蓮にはひどく眩しかった。
また会えることを信じる言葉。
明日が来ると疑わない言葉。
「……ああ」
蓮は小さく頷いた。
「またな」
病室を出たあと、佐伯が隣で呟いた。
「どうでした?」
蓮は少し考えた。
「……思ってたより」
「?」
「ずっと、生きようとしてる子でした」
そして胸の奥で、誰にも聞こえない声がした。
――俺は、あの父親から何を奪ったんだ。
命だけじゃない。
「またね」と言い合えるはずだった時間も。
成長を見守るはずだった未来も。
全部。
蓮は初めて、自分の罪の重さを「死んだ人」ではなく、「残された人」の姿として見たのだった。
それから三日後。
三上蓮は、また病院の前に立っていた。
来ないつもりだった。
あの場限りにするつもりだった。
けれど、気づけば足は病院へ向かっていた。
「……何やってんだ、俺」
自嘲するように呟く。
父親を殺した男が、その息子に会いに行く。
まともな話じゃない。
けれど、透が最後に言った「またね」という言葉が、どうしても頭から離れなかった。
病室の扉を軽く叩く。
「どうぞー!」
明るい声。
蓮は静かに扉を開けた。
「……よ」
「あっ!」
透はベッドの上で勢いよく身体を起こした。
「三上さん!」
「そんなに動くな」
「来たじゃん!」
「たまたまだ」
「絶対嘘だ!」
「うるさい」
透は嬉しそうに笑った。
「佐伯さん来てないの?」
「今日は一人だ」
「へえー」
透はじっと蓮を見る。
「なんだ」
「三上さんって、本当に父さんの友達?」
心臓が止まりそうになった。
「……なんでそんなこと聞く」
「だって、父さんの話するとき、いつも変な顔するから」
「変な顔?」
「悲しそうな顔」
蓮は視線を逸らした。
「気のせいだ」
「ふーん」
透はそれ以上聞かなかった。
窓の外を見ながら、小さく呟く。
「僕さ、父さんのことあんまり覚えてないんだよね」
「……」
「だから、本当はどんな人だったのかなって思う」
「優しい人だった」
即答だった。
「この前も言ってたね」
「ああ」
「なんでそう思うの?」
「……」
蓮は少し考えた。
最後の記憶しかないはずなのに。
それでも。
「家族のために必死だった」
「え?」
「お前を守ろうとしてた」
あの日。
高橋健司は震えながらも蓮の前に立った。
『やめろ』
『息子がいるんだ』
『金なら渡す』
『だから……』
最後まで、自分より家族のことを口にしていた。
「だから、優しい人だったと思う」
透は黙った。
「そっか」
そして、少しだけ笑った。
「なんか嬉しい」
「……」
「僕、自分の父さんのこと、好きだったのかも」
蓮は何も言えなかった。
「ねえ」
「なんだ」
「外って、どんな感じ?」
「は?」
「病院の外」
透は窓の向こうを見つめた。
「最近、全然出てないから」
「……普通だ」
「普通って?」
「暑かったり寒かったりする」
「雑!」
「人がいて、車が走ってて、うるさい」
「もっといいことないの?」
蓮は少し考える。
「夕方の風は気持ちいい」
「……へえ」
「アイスも食える」
「それ最高じゃん!」
透は笑った。
「いいなあ」
「……」
「僕さ」
透はベッドのシーツを握った。
「今度、病院の外に行ってみたい」
「先生に言えばいいだろ」
「駄目だよ。検査いっぱいあるし」
「……」
「でも、一回くらい行きたいな」
その声は小さかった。
「海とか見てみたい」
「海?」
「うん」
「なんで海なんだ」
「父さんが好きだったらしいから」
「誰から聞いた」
「母さん」
透は少し照れくさそうに笑った。
「父さん、海見ると元気になるって言ってたんだって」
蓮は窓の外を見た。
高橋健司にも、そんな時間があったのだろう。
家族と笑い合って。
海を眺めて。
息子の成長を楽しみにして。
そんな普通の人生。
自分が奪った人生。
「三上さん」
「なんだ」
「もし僕が退院できたらさ」
「……」
「海、連れてってくれる?」
蓮は透を見た。
期待に満ちた目だった。
その目を見ていると、自分の手が汚れていることを思い知らされる。
「無理だ」
「えー!」
「俺は忙しい」
「仕事してないじゃん」
「……」
「今、無職じゃん」
「うるさい」
透は吹き出した。
「じゃあ、暇じゃん!」
「ガキのくせに生意気だな」
「ねえ、お願い」
「……」
「一回だけでいいから」
蓮は返事をしなかった。
約束をするのが怖かった。
人は死ぬ。
透も、自分も。
明日が必ず来る保証なんてない。
だからこそ。
「約束」なんて言葉は、簡単に使えなかった。
「……考えとく」
「また善処する?」
「そうだ」
「ずるいなあ」
透は笑った。
笑ってから、少しだけ真面目な顔になる。
「でもさ」
「?」
「約束って、破るためにあるんじゃないと思うんだ」
「……」
「明日も会えるって信じたいからするんじゃないかな」
十歳の子どもの言葉とは思えなかった。
「僕、結構怖いんだ」
「何が」
「急に終わっちゃうこと」
透は胸に手を当てた。
「病気だからかな」
「……」
「だから、約束すると安心するんだ」
「また会えるって思えるから」
蓮は目を閉じた。
刑務所の中で、自分は何度も考えた。
被害者の人生。
遺族の苦しみ。
償い。
許し。
けれど、「残された人が次の日を信じられなくなること」までは考えたことがなかった。
「三上さん?」
「……海くらいなら」
「え?」
「行ける日が来たらな」
透の顔がぱっと明るくなる。
「本当!?」
「だから、行けたらだ」
「約束?」
「……」
蓮はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「ああ」
「約束だ」
「やったー!」
透は子どもらしく喜んだ。
その姿を見て、蓮は思った。
この約束を守りたい。
守らなければならない。
父親を殺した男としてではなく。
一人の大人として。
一人の人間として。
病室を出る頃には、空は夕焼けに染まっていた。
蓮は廊下の窓から赤い空を見上げる。
人は死ぬ。
約束は破られることもある。
それでも、人は約束をする。
また明日を信じるために。
また会いたいと願うために。
そのことが、少しだけわかった気がした。
「……苦っ」
透は顔をしかめた。
「うわ、今日のは特に苦い」
「薬なんだから当たり前だろ」
「三上さん、他人事だと思ってるでしょ」
「他人事だからな」
「ひどっ!」
病室に透の大げさな声が響く。
看護師が「静かにしてくださいね」と苦笑いしながら薬のトレーを置いていった。
透明なコップ。
小さな錠剤。
粉薬。
見ているだけで嫌になりそうな量だった。
「全部飲むのか」
「毎日」
透はうんざりした顔をした。
「朝昼晩。あと調子悪い時は追加」
「……」
「もう飽きた」
「飽きるも何も、飲まなきゃ死ぬんだろ」
言った瞬間、病室の空気が少し止まった。
透は薬を見つめたまま、小さく頷く。
「そうだね」
「……悪い」
「なんで謝るの?」
「……」
「本当のことじゃん」
透は錠剤を一つずつ口に運んだ。
水で流し込む。
慣れた動作だった。
十歳の子どもが身につけるにはあまりにも自然な手つきだった。
「小さい頃はね」
薬を飲みながら透が言った。
「泣いて嫌がってたらしいよ」
「らしい?」
「覚えてない」
粉薬を飲み終える。
「でも、母さんが『生きるためのお守りだよ』って言ってたんだって」
「お守り」
「うん」
「……」
「だから頑張って飲んでた」
透は空になったコップを見つめた。
「でもさ」
「なんだ」
「お守りって、本当に効くのかな」
蓮は答えなかった。
「ちゃんと飲んでるのに悪くなる時もあるし」
「……」
「頑張ってても苦しくなるし」
「……」
「だったら、何のためなんだろうって思う時ある」
病室の窓から、昼の光が差し込んでいた。
子どもの声が中庭から聞こえる。
「逃げたくならないのか」
気づけば蓮は聞いていた。
「薬も病院も全部」
「なるよ」
透はあっさり言った。
「すっごくなる」
「……」
「嫌だなあって思う」
「じゃあなんで」
「死にたくないから」
透は言った。
当たり前みたいに。
「この前、生きたいのかわからないって言ってただろ」
「あれは本当」
「?」
「でもね」
透は少し考えるように天井を見上げた。
「死にたいわけじゃないんだ」
蓮は黙って聞いていた。
「苦しいのは嫌」
「うん」
「痛いのも嫌」
「うん」
「でも、だからって終わりたいわけじゃない」
「……」
「たぶん、生きたいってそういうことなんじゃないかな」
透は笑った。
「よくわかんないけど」
蓮は視線を落とした。
刑務所では、自殺した受刑者の話を聞いたことがあった。
苦しみに耐えきれなくなった人間。
希望を失った人間。
人は簡単に壊れる。
それを何度も見てきた。
だからこそ、目の前の少年が不思議だった。
苦しいはずなのに。
怖いはずなのに。
それでも「終わりたくない」と言う。
「三上さん」
「なんだ」
「三上さんってさ」
「?」
「死にたいって思ったことある?」
蓮は少し黙った。
「……ある」
「へえ」
「出所してすぐ」
「……」
「誰も待ってなかった」
「……」
「仕事も見つからなかった」
「……」
「俺が生きてる意味なんてないと思った」
透は静かに聞いていた。
「でも、しなかった」
「なんで?」
「……」
蓮は窓の外を見た。
「わからない」
「わからない?」
「ああ」
「怖かった?」
「それもある」
「じゃあ?」
「死んだところで、俺がやったことは消えないからだ」
透は首を傾げた。
「消えない?」
「人を殺した事実も」
「……」
「奪った命も」
「……」
「俺が死んでも、なかったことにはならない」
だから。
「生きて背負うしかないと思った」
透はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく呟く。
「大人って大変だね」
「お前もすぐ大人になる」
「嫌だなあ」
「なんでだ」
「薬いっぱい飲まなきゃいけないし」
「今も飲んでるだろ」
「あと、難しいこと考えてるし」
透は笑った。
「でも」
「?」
「三上さん、生きててよかったね」
「……は?」
「だって」
透は当然のように言った。
「生きてたから僕と会えたじゃん」
蓮の呼吸が止まった。
「もし三上さんが死んでたら」
「……」
「僕、父さんの話聞けなかったし」
「……」
「海の約束もできなかった」
「……」
「だから、生きててよかったよ」
何も知らない言葉だった。
自分が何者なのか知らないままの。
無邪気で、残酷で、優しい言葉。
「……そうか」
それしか言えなかった。
「うん」
透は笑った。
「だから、ちゃんと生きてよ」
「……」
「僕も頑張るから」
頑張る。
その言葉を、透は簡単に使わない。
毎日薬を飲んで。
検査を受けて。
苦しさに耐えて。
それでも笑っている。
そんな子どもが言う「頑張る」は重かった。
「……わかった」
蓮は小さく答えた。
「俺も、生きる」
「よし!」
透はガッツポーズをした。
「じゃあ、海の約束も絶対ね!」
「調子に乗るな」
「えー!」
「まずは退院だ」
「頑張ります!」
透は敬礼した。
その姿に、蓮はほんの少しだけ笑った。
病室を出る時、看護師が驚いた顔をした。
「珍しいですね」
「何がですか」
「三上さん、笑うんですね」
蓮は何も答えなかった。
ただ、自分の頬に触れた。
本当に、少しだけ口元が緩んでいた。
人はいつか死ぬ。
それは変わらない。
薬も、手術も、祈りも。
死を完全に遠ざけることはできない。
それでも人は薬を飲む。
生きるために。
明日を迎えるために。
誰かと「またね」と言うために。
蓮は初めて思った。
生きる理由は、立派なものでなくていいのかもしれない。
海を見たい。
アイスを食べたい。
誰かと話したい。
また会いたい。
そんな小さな願いを積み重ねることが、「生きたい」ということなのかもしれなかった。
そしてその夜。
蓮は十年ぶりに、高橋健司の夢を見なかった。
「ねえ、三上さん」
「なんだ」
「人って、死んだらどこに行くと思う?」
昼下がりの病室だった。
窓の外では、初夏の風が木々を揺らしている。
透はベッドの上で膝を抱えながら、まるで「今日の給食なにかな」くらいの軽さでそう聞いた。
蓮は持っていた文庫本から顔を上げた。
「急だな」
「気になった」
「なんで」
「昨日、隣の病室のおじいちゃんが亡くなったんだって」
「……」
「看護師さんたちが話してるの聞いちゃった」
透は窓の外を見つめた。
「昨日まで生きてたのにね」
「……ああ」
「僕、そのおじいちゃんと話したことないんだ」
「そうか」
「でも、もう二度と会えないんだよね」
透は自分の手のひらを見つめた。
「なんか不思議」
蓮は本を閉じた。
「人は死んだら終わりだ」
「夢がないなあ」
「事実だろ」
「本当に?」
「……」
「天国とかないの?」
「知らない」
「生まれ変わりは?」
「知らない」
「幽霊は?」
「知らない」
「知らないばっかりじゃん」
「知らないものは知らない」
透は少しむくれた。
「じゃあ、三上さんは死ぬの怖くないの?」
その問いに、蓮はすぐには答えられなかった。
「……怖い」
「えっ」
「意外か?」
「ちょっと」
「なんでだ」
「三上さん、何にも怖くなさそうだから」
「そんなわけあるか」
蓮は視線を落とした。
「死ぬのは怖い」
「どうして?」
「……消えるからだ」
「消える?」
「ああ」
「自分がいたことも」
「……」
「考えてたことも」
「……」
「誰かと話したことも」
「全部終わる」
透は黙って聞いていた。
「それが怖い」
「そっか」
「お前は?」
「僕も怖い」
透は小さく笑った。
「痛そうだし」
「……」
「あと、母さんに会えなかったら嫌だ」
蓮は顔を上げた。
「会いたいのか」
「うん」
「すごく」
透は即答した。
「でもさ」
「?」
「母さんが死ぬ前に言ってたんだ」
『透、生きてね』
『ちゃんと笑ってね』
『お母さんの分まで、なんて言わない』
『透の人生を生きてね』
透は、その言葉を思い出すようにゆっくり話した。
「だからね」
「……」
「母さんに会いたいけど」
「……」
「今すぐは嫌なんだ」
「どうしてだ」
「まだやりたいことあるから」
透は指を折った。
「海に行きたい」
「アイスいっぱい食べたい」
「学校ももっと行きたい」
「友達とも遊びたい」
「あと」
「?」
「三上さんのこと、もっと知りたい」
蓮は眉をひそめた。
「知ってどうする」
「わかんない」
「……」
「でも、人って知ってる人が増えると、死にたくなくなるのかなって」
病室に沈黙が落ちた。
知っている人。
大切な人。
守りたい人。
失いたくない人。
だから人は、生きたいと思うのだろうか。
「三上さん」
「なんだ」
「もし僕が死んだら」
「……」
「忘れないでくれる?」
蓮の表情が固まった。
「なんだよ、それ」
「なんとなく」
「縁起でもない」
「でもさ」
透は少し困ったように笑った。
「人って二回死ぬって聞いたことあるんだ」
「二回?」
「一回目は、本当に死ぬ時」
「……」
「二回目は、誰にも思い出してもらえなくなった時」
「誰が言ってた」
「本で読んだ」
透はベッドの上で寝転がった。
「だから」
「?」
「僕のこと覚えててね」
「……」
「海、行けなかったとしても」
「……」
「忘れないで」
蓮はしばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で言った。
「馬鹿か」
「え?」
「海には行く」
「……」
「勝手に終わらせるな」
「三上さん」
「約束しただろ」
「うん」
「だから」
蓮は透を見た。
「お前は生きろ」
「……」
「忘れるかどうかなんて、その後だ」
透の目が少し赤くなった。
「うん」
「泣くな」
「泣いてないし」
「鼻声だぞ」
「違うし」
透は顔を背けた。
「……ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「それでも」
窓の外では、夕日が差し始めていた。
オレンジ色の光が病室を染める。
「三上さん」
「なんだ」
「死ぬのって怖いね」
「ああ」
「でも」
「?」
「生きるのも、ちょっと怖い」
蓮は頷いた。
「そうだな」
「失敗するし」
「傷つくし」
「大事な人もいなくなるし」
「……」
「それでも」
透は小さく笑った。
「明日が来るの、少し楽しみなんだ」
蓮は窓の外を見た。
人は死ぬ。
それは変えられない。
誰もが終わりへ向かって生きている。
だからこそ、人は約束をするのかもしれない。
誰かと笑うのかもしれない。
また明日、と言うのかもしれない。
「……透」
「ん?」
「明日も来る」
「え?」
「暇だからな」
一瞬の沈黙のあと。
「やったー!」
透の声が病室いっぱいに響いた。
「三上さん、絶対僕のこと好きじゃん!」
「違う」
「じゃあ何?」
「……」
蓮は少しだけ考えた。
「生きててほしいだけだ」
透は嬉しそうに笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ僕も」
「?」
「三上さんに、生きててほしい」
その言葉に。
三上蓮は、なぜか返事ができなかった。
人を殺した自分に、そんなことを願う資格があるのだろうか。
それでも。
その願いを、少しだけ嬉しいと思ってしまった。
その夜、雨が降っていた。
アパートの薄い窓ガラスを、無数の雨粒が叩いている。
ぽつ、ぽつ、と降り始めた雨は、いつの間にか本降りになっていた。
築三十年を超えた古いアパートは、雨音さえも隠しきれない。
六畳一間。
小さな流し台と、軋む床と、電気の紐。
テレビもつけずに横になっていると、世界に自分しかいないような気がした。
蓮は天井を見つめた。
眠れなかった。
透と話すようになってから、眠れない夜が増えた。
罪を忘れたわけではない。
むしろ逆だった。
透の笑顔を見るたびに、自分が奪ったものの輪郭がはっきりしていく。
「……また来る?」
病室で笑った透の声。
「父さんって優しかった?」
期待するような瞳。
「海、連れてってくれる?」
当たり前のように差し出された未来。
蓮は目を閉じた。
雨音が遠ざかっていく。
代わりに、別の音が耳の奥で鳴り始めた。
――ガタン。
十年前の記憶だった。
玄関の段差につまずいた音。
荒い呼吸。
酒の臭い。
「やめろ……!」
男の声。
高橋健司の声。
「金なら渡す……!」
「うるさい!」
若かった自分の怒鳴り声。
返済期限が迫っていた。
借金取りに追われていた。
酒を飲んでいた。
頭の中は真っ白だった。
「息子がいるんだ……!」
「……!」
「頼む……!」
男の視線の先には、閉じられた扉があった。
あの扉の向こうに、幼い透がいたのだろうか。
眠っていたのだろうか。
父親が死ぬ音も知らずに。
もみ合った。
腕を掴まれた。
押し返した。
何かが手の中で滑った。
そして。
熱かった。
手のひらに伝わった感触。
男の顔から血の気が引いていく様子。
驚いたように見開かれた目。
「……あ」
床に広がる赤。
呼吸が浅くなる音。
震える唇。
『透……』
それが最後だった。
「……っ!」
蓮は飛び起きた。
息が苦しい。
背中に嫌な汗が張りついていた。
窓の外ではまだ雨が降っている。
真夜中だった。
「……くそ」
震える手を握りしめる。
十年経っても消えない。
刑務所の中でも何度も見た夢だった。
出所したら終わると思っていた。
罪を認めて償えば、少しは軽くなると思っていた。
そんなことはなかった。
「……透」
暗い部屋で、その名前を呟く。
高橋透。
高橋健司の息子。
父親を殺した男に向かって、「またね」と笑った少年。
「俺は……」
何をしているのだろう。
会うべきじゃない。
嘘をつくべきじゃない。
あの子が真実を知ったら、きっと傷つく。
それでも。
病室へ向かう足は止まらなかった。
翌日。
雨上がりの空は、洗い流されたように青かった。
病院の中庭には水たまりができている。
木の葉から落ちる雫が、朝日を受けてきらきらと光っていた。
「三上さん!」
病室に入るなり、透が笑った。
「今日、顔色悪いよ?」
「寝不足だ」
「ちゃんと寝ないと駄目じゃん」
「うるさい」
「何してたの?」
「……」
蓮は椅子に腰掛けた。
白いカーテンが風に揺れている。
心電図の音が一定のリズムで響く。
ピッ、ピッ、ピッ。
生きている音。
「夢を見た」
「怖い夢?」
「ああ」
「どんな?」
透は身を乗り出した。
蓮は答えなかった。
答えられなかった。
お前の父親を殺す夢だ。
十年前に本当に起きたことだ。
そんなこと、言えるはずがない。
「三上さん」
「なんだ」
「人に言えないことってある?」
蓮は透を見た。
透は窓の外を見つめたまま続けた。
「僕ね」
「?」
「本当は、死ぬのすごく怖い」
「……」
「でも、みんな心配するから」
「……」
「平気なふりしてる」
透は笑った。
「看護師さんにも、お医者さんにも、『大丈夫!』って言うんだ」
「……」
「母さんにもそうだった」
「……」
「だから、言えないことってあるんだよね」
蓮は拳を握った。
自分にもある。
誰にも言えないこと。
知られてはいけないこと。
墓まで持っていくべきこと。
それでも。
「……透」
「ん?」
「もし」
言葉が喉につかえる。
「もし、お前の近くに」
「……」
「すごく悪いことをした人間がいたら」
「うん」
「どうする」
透は少し考えた。
窓の外では、雲の切れ間から光が差している。
「わかんない」
「……」
「許せないかもしれない」
「そうだろうな」
「でも」
「?」
「理由は聞きたい」
透は静かに言った。
「どうしてそうなったのか」
「……」
「後悔してるのか」
「……」
「ちゃんと苦しんでるのか」
「……」
「それは知りたい」
蓮は目を伏せた。
苦しんでいる。
後悔している。
けれど、それで許されるわけじゃない。
「三上さん?」
「なんだ」
「泣いてる?」
「……馬鹿言うな」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの」
蓮は答えなかった。
病室の窓から差し込む光が、透の白い頬を照らしていた。
生きている顔だった。
泣いて、笑って、怖がって、それでも明日を待つ顔。
「ねえ」
「なんだ」
「もし言えないことがあるなら」
「……」
「いつか話したくなった時に聞くよ」
透は笑った。
「今じゃなくてもいいから」
蓮は窓の外を見た。
雨上がりの空は、痛いほど青かった。
罪は消えない。
過去も変わらない。
真実を話せば、この穏やかな時間は壊れるかもしれない。
それでも。
いつか。
いつか必ず。
自分は、この子に本当のことを話さなければならない。
「……ああ」
蓮は小さく頷いた。
「その時が来たら」
「うん」
「ちゃんと話す」
透は満足そうに笑った。
「約束ね」
「また約束か」
「約束、多い方が楽しいじゃん」
「……そうかもな」
心電図の音が、静かな病室に響いていた。
ピッ、ピッ、ピッ。
生きている音。
それは、罪を背負った男にも。
死を恐れる少年にも。
等しく流れていた。
朝の空気は、まだ少しだけ春の名残を残していた。
病院の中庭では、桜の木がすっかり葉桜になっている。柔らかな若葉が風に揺れるたび、木漏れ日がコンクリートの地面を揺らした。
蓮が病室の扉を開けると、いつもより騒がしい気配がした。
「三上さん!」
透はベッドの上で、制服のボタンと格闘していた。
「見て!」
「……なんだ、それ」
「なんだじゃないよ!」
透は頬を膨らませた。
「制服!」
「見ればわかる」
「今日、学校行くんだ!」
その声には、いつもの明るさとは違う高揚が混じっていた。
窓から差し込む朝日を受けて、透の目はきらきらと輝いている。
「外出許可、出たんだよ!」
「そうか」
「反応薄くない?」
「……よかったな」
「もっと喜んでよ」
「別にお前の担任でも親でもない」
「でも知り合いでしょ」
「知り合いだな」
「じゃあ喜んで」
「……」
蓮は少しだけ目を逸らした。
「よかったな」
「二回目!」
透は声を上げて笑った。
その笑い声を聞いていると、病室の白さが少しだけ薄れる気がした。
けれど、制服の下から覗く手首は細かった。
青白い指先。
息を吸うたびにわずかに上下する胸。
「学校へ行く」という当たり前のことに、こんなにも準備が必要な子どもがいる。
それを思うたび、蓮の胸は苦くなった。
「……ちゃんと歩けるのか」
「失礼だなあ」
「聞いただけだ」
「歩けるよ」
透は立ち上がって、一歩踏み出した。
そして。
「……おっと」
ふらりとよろめいた。
「おい」
「大丈夫!」
透は慌てて笑った。
「久しぶりだから!」
「座れ」
「大丈夫だって!」
「座れ」
低い声に、透はしぶしぶベッドへ腰を下ろした。
「過保護」
「違う」
「じゃあ何?」
蓮は答えなかった。
自分でもわからなかった。
ただ、目の前の少年が転ぶ姿を見たくなかった。
痛い思いをする姿を見たくなかった。
「……行くぞ」
「え?」
「送る」
「えっ」
「嫌ならやめる」
「行く!」
透はぱっと笑った。
「絶対行く!」
病院の玄関を出ると、春の終わりの風が頬を撫でた。
透は立ち止まった。
「……外だ」
「病院の外だぞ」
「うん」
透は空を見上げた。
白い雲がゆっくり流れている。
「空って、こんなに広かったっけ」
「……」
「なんか変な感じ」
透は目を細めた。
「風の匂いがする」
「風に匂いなんてあるか?」
「あるよ」
透は嬉しそうに笑った。
「草の匂い」
「車の匂い」
「パン屋さんの匂い」
「病院と全然違う」
蓮は黙ってその横顔を見ていた。
十歳の子どもが、空の広さに感動している。
そんな当たり前ではない現実が、胸に刺さった。
「三上さん」
「なんだ」
「世界って広いね」
「……そうだな」
学校は病院から歩いて十分ほどだった。
校門の前には、ランドセルを背負った子どもたちが行き交っている。
「高橋!」
「久しぶり!」
「あっ!」
透の顔が明るくなった。
「おはよう!」
同級生たちは駆け寄ってきた。
「元気だった?」
「また入院してたの?」
「今日だけ?」
矢継ぎ早の質問。
透は笑いながら答えていく。
「元気!」
「今日も午後には病院戻るよ!」
「そっかー」
その時。
「でもさ」
一人の男子が言った。
「高橋って、ずるいよな」
「……え?」
「授業休んでも仕方ないって言われるし」
「運動会も出なくていいし」
「宿題も少ないじゃん」
「おい」
蓮の声が低くなった。
「やめろよ」
「別に本当のことじゃん」
男子は悪びれなかった。
「病気だからって特別扱いされてさ」
「俺だって休みたいし」
透は笑っていた。
困ったように。
「まあ、そうかもね」
「透」
「大丈夫」
そう言った透の笑顔は、どこかぎこちなかった。
教室へ向かう小さな背中を見送りながら、蓮は拳を握った。
怒りだった。
けれど、誰に向ければいいのかわからなかった。
子どもは残酷だ。
悪意がないからこそ残酷だ。
「ずるい」と言ったあの子も、本当の苦しさを知らないだけなのだろう。
「三上さん」
振り返った透が、小さく手を振った。
「また後でね!」
その笑顔に、蓮は無理やり頷いた。
「ああ」
授業が終わる頃。
透は校門のベンチに座っていた。
頬は少し青白く、息も上がっていた。
「大丈夫か」
「うん」
「嘘つくな」
「……ちょっと疲れた」
透は苦笑した。
「やっぱり、みんなと同じは難しいや」
風が吹いた。
校庭では、体育の授業をしている子どもたちの歓声が響く。
ボールを追いかける声。
笛の音。
笑い声。
透はそれを静かに見つめていた。
「悔しい?」
蓮が聞くと。
「うん」
透は素直に頷いた。
「すごく」
「……」
「僕も走りたいし」
「みんなと遊びたい」
「でも無理なんだ」
透は空を見上げた。
「だからね」
「?」
「生きてるだけでいいって言われると、ちょっと悲しい」
「……」
「僕は、生きてるだけじゃなくて」
「ちゃんと生きたい」
蓮は何も言えなかった。
病気だから。
死ななければいい。
それだけでは足りない。
透は、普通に笑って、走って、悔しがって。
そんな当たり前を望んでいた。
「三上さん」
「なんだ」
「海、絶対行こうね」
「……ああ」
「僕さ」
透は少し笑った。
「ちゃんと生きてるって思えること、いっぱいしたい」
校庭の歓声の向こうで、風が若葉を揺らした。
その音は、波の音にも少し似ていた。
蓮は透の細い肩を見つめた。
父親を奪ったこの手で。
自分は何を返せるのだろう。
許されることはない。
償いきることもできない。
それでも。
せめてこの子の「ちゃんと生きたい」という願いだけは、守りたいと思った。
その感情に名前をつけるなら。
きっと、それは――守りたい、ということだった。
六月の雨は、降ることにも飽きたように空に薄く張りついていた。
病院の窓ガラスには灰色の雲が映り、時折、思い出したように雨粒が筋を描いて落ちていく。
透は窓辺に肘をついて、ぼんやりと外を眺めていた。
「雨だねえ」
「見ればわかる」
「梅雨って嫌い?」
「別に」
「僕は嫌い」
「なんでだ」
「外で遊べないから」
透は曇った窓ガラスに指で丸を描いた。
「あと、病院って雨の日のほうが静かなんだよね」
「そうなのか」
「うん」
確かに、今日は廊下を走る子どもの足音も少ない。
看護師たちの靴音だけが一定の間隔で響いていた。
遠くでストレッチャーの車輪が鳴る。
どこかの病室では、テレビのワイドショーの笑い声が漏れていた。
生と死が同じ建物の中にあることを、この場所はあまりにも自然に受け入れている。
「ねえ、三上さん」
「なんだ」
「この前のこと、怒ってる?」
「……何がだ」
「学校」
透は窓から視線を外さないまま言った。
「ずるいって言われたこと」
蓮は答えなかった。
代わりに、手の甲に浮かんだ血管をじっと見つめた。
「別に気にしてないよ」
透は笑った。
「慣れてるし」
「……慣れるな」
「え?」
「そういうことに慣れるな」
自分でも驚くほど強い声だった。
透は目を丸くする。
「でも、本当のことだし」
「本当じゃない」
「え?」
「病気になりたくてなったわけじゃないだろ」
「うん」
「好きで入院してるわけでもない」
「……うん」
「だったら、ずるくない」
病室の空気が静まった。
心電図の電子音だけが、規則正しく鳴っている。
ピッ、ピッ、ピッ。
透は少し俯いた。
「ありがとう」
「礼を言うな」
「でも、嬉しい」
そう言って笑った顔は、どこか泣きそうにも見えた。
その日の午後。
蓮は病院の売店へ向かっていた。
透に頼まれた雑誌を買うためだった。
エレベーター前を通った時だった。
「この前さー」
聞き覚えのある声がした。
「高橋って、また学校来るのかな」
「知らない」
「でも、ずるくね?」
「いいなあ、俺も病気なら宿題減るのに」
蓮の足が止まった。
先日の男子生徒たちだった。
「お前ら」
低い声が漏れた。
少年たちは驚いた顔で振り返る。
「な、何?」
「今の話」
「え?」
「もう一回言ってみろ」
自分でもわかる。
怒っていた。
心臓の鼓動が速い。
拳を握りしめている。
「べ、別に」
「病気って、そんなにいいものか?」
「……」
「好きな時に走れなくて」
「……」
「好きなものも食べられなくて」
「……」
「死ぬかもしれないって毎日考えて」
「……」
「それでも『ずるい』のか」
少年たちは青ざめていた。
「ご、ごめんなさい」
「……」
「そんなつもりじゃ」
「じゃあ、どんなつもりだ」
沈黙。
やがて、一人が小さな声で言った。
「……わからなかった」
蓮は何も言えなかった。
わからないのだ。
子どもだから。
病気を知らないから。
死を知らないから。
「……帰れ」
少年たちは頭を下げて走り去った。
廊下には再び静けさが戻る。
消毒液の匂い。
窓を叩く雨音。
「三上さん」
振り返ると、透が立っていた。
「聞いてたのか」
「うん」
「……悪い」
「なんで?」
「大人げなかった」
「そんなことないよ」
透は少し笑った。
「嬉しかった」
「……」
「でもね」
「?」
「三上さん、怒るんだね」
「俺だって人間だ」
「そっか」
透はしばらく黙っていた。
「ねえ」
「なんだ」
「誰かを怒るのって、難しいね」
「……」
「だって、その人が全部悪いわけじゃないこともあるでしょ?」
蓮は息を飲んだ。
「知らなかっただけかもしれないし」
「……」
「傷つけるつもりじゃなかったかもしれない」
「……」
「でも、傷つくことはある」
透は雨の向こうを見た。
「だから、怒るのって疲れる」
「……そうだな」
蓮は静かに答えた。
本当は、別のことを考えていた。
自分には誰かを叱る資格があるのか。
人を殺した自分が。
取り返しのつかないことをした自分が。
誰かの間違いを責めていいのか。
「三上さん?」
「なんだ」
「さっき、ありがとう」
「……」
「僕の代わりに怒ってくれて」
透は笑った。
「僕、自分のことで怒るの苦手だから」
「なんでだ」
「迷惑かけてるって思っちゃうから」
「……」
「でも、三上さんが怒ってくれて」
「……」
「なんか、『嫌だ』って思ってよかったんだなって思えた」
病室の窓を雨粒が滑り落ちていく。
その軌跡は、まるで涙のようだった。
「……透」
「ん?」
「嫌なことは嫌って言え」
「うん」
「痛い時は痛いって言え」
「うん」
「苦しい時は苦しいって言え」
「……うん」
「我慢するな」
透は目を瞬かせた。
「三上さん」
「なんだ」
「それ、自分にも言ってる?」
蓮は言葉を失った。
透は困ったように笑った。
「三上さん、全然『苦しい』って言わないから」
「……」
「大人って、みんなそうなのかな」
雨はまだ降り続いていた。
けれど、その向こうには必ず晴れた空がある。
透はそう信じているように見えた。
一方で蓮は、自分の中の雨がいつ止むのか知らなかった。
「……売店、行くんじゃなかったの?」
「あ」
「雑誌」
「……忘れてた」
「ひどい!」
透は頬を膨らませた。
「怒る資格ないじゃん!」
「うるさい」
「ちゃんと買ってきて!」
「わかった」
病室に笑い声が響く。
その声を聞きながら、蓮は思った。
自分には怒る資格なんてないのかもしれない。
許される資格もないのかもしれない。
それでも。
目の前の少年が傷つくことを、見過ごしたくなかった。
それは罪人の感情ではなく。
ただ、一人の人間としての願いだった。
梅雨の終わりは、いつも曖昧だった。
昨日まで空を覆っていた灰色の雲が、ある日突然いなくなる。
その代わりに現れるのは、肌を焼くような陽射しと、耳鳴りのように響く蝉の声だ。
病院の中庭でも、蝉が鳴いていた。
アスファルトから立ち上る熱気が、景色をゆらゆらと揺らしている。
「夏だねえ」
透は病室の窓を少し開けた。
網戸越しに入ってくる風はぬるく、消毒液の匂いを薄めていく。
「蝉って、なんであんなにうるさいんだろ」
「相手探しだろ」
「ロマンチックな言い方できないの?」
「知らん」
「三上さんって、たまにおじいちゃんみたいだよね」
「十歳に言われたくない」
透はくすくす笑った。
「でも、夏って好き」
「なんでだ」
「生きてる感じするから」
窓の外を見つめながら、透は呟いた。
「暑いし、うるさいし、汗かくし」
「最悪じゃないか」
「でも、夏って『今』って感じしない?」
「……」
「冬って静かで、春は始まりで、秋は終わる感じだけど」
「……」
「夏って、ただ生きてる感じ」
蓮は返事をしなかった。
ただ、透の横顔を見ていた。
夏の日差しを受けた頬は少し青白く、それでも瞳だけはまっすぐに光を見つめていた。
「三上さん」
「なんだ」
「海、いつ行けるかな」
「医者に聞け」
「夢がない」
「現実だ」
「でも、もう夏だよ」
透は少し寂しそうに笑った。
「夏、終わっちゃうかな」
その言葉に、蓮の胸がざわついた。
夏が終わる。
季節は過ぎる。
時間は待ってくれない。
当たり前のことなのに、それが透の口から出ると妙に重かった。
「終わらせない」
「え?」
「海には行く」
「……」
「約束した」
透は目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑った。
「うん」
「楽しみにしてる」
病室を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
透に頼まれたアイスを買うために、一階の売店へ向かう。
病院の廊下は冷房が効いているはずなのに、どこか息苦しかった。
エレベーターの扉が開く。
中から、一人の女性が降りてきた。
黒いワンピース。
肩まで伸びた髪。
痩せた横顔。
そして。
「……三上、蓮?」
蓮の身体が凍りついた。
女性の目が見開かれる。
「……高橋」
口にした瞬間、後悔した。
「……高橋美咲さん」
高橋健司の妹だった。
十年前、法廷で何度も見た顔。
兄を殺した男を、憎しみと涙で見つめていた人。
「なんで」
美咲の声は震えていた。
「なんで、ここにいるの?」
「……」
「どうして……」
白い廊下に、蝉の声だけが遠く響いていた。
「どうして、あなただけ生きてるの?」
蓮は何も言えなかった。
「兄は死んだのに」
「……」
「義姉さんも死んだのに」
「……」
「どうして、あなただけ普通に歩いてるの?」
通り過ぎる看護師たちが心配そうに視線を向ける。
けれど、誰も止めなかった。
「私は」
美咲は唇を噛んだ。
「兄のお葬式の日も覚えてる」
「……」
「透くんが『パパは?』って聞いてたのも覚えてる」
「……」
「義姉さんが泣きながら謝ってたのも覚えてる」
「……」
「なんで、あなただけ」
涙が頬を伝っていた。
「生きてるの?」
蓮は俯いた。
答えなんてない。
自分でも何度も考えた。
死んだほうがよかったんじゃないか。
あの日、死ぬべきだったのは自分だったんじゃないか。
でも。
それでも生きている。
「……すみません」
絞り出した声だった。
「謝らないで」
美咲は言った。
「謝らないでよ」
「……」
「そんな言葉で終わるなら」
「……」
「私は十年も苦しまなかった」
その声には怒りだけじゃなく、疲れが滲んでいた。
泣き続けて枯れた人の声だった。
「……透くんに会いに来てるの?」
蓮は顔を上げた。
「……」
「答えて」
「……はい」
「どうして?」
「……」
「償い?」
「違います」
「じゃあ何?」
蓮は言葉に詰まった。
わからなかった。
最初は償いだったのかもしれない。
けれど、今は。
「……放っておけなかった」
「……」
「それだけです」
美咲は目を閉じた。
「透くんは」
「……」
「知ってるの?」
「知りません」
「……そう」
沈黙。
病院の自動ドアが開き、熱い風が吹き込んだ。
夏の匂いだった。
「……最低」
美咲は呟いた。
「兄を殺した人が」
「……」
「透くんに優しくしてるなんて」
「……」
「最低だよ」
蓮は何も言えなかった。
否定できなかった。
最低だ。
人を殺した男が、その息子と笑っている。
そんなことが許されるはずがない。
「でも」
美咲は震える声で続けた。
「透くん、一人なんだよ」
「……」
「私、結婚してるし」
「……」
「子どももいる」
「……」
「引き取りたかった」
涙を拭う。
「でも、できなかった」
「……」
「だから」
美咲は蓮を見た。
「お願いだから」
「……」
「もう、これ以上傷つけないで」
そう言って、背を向けた。
黒いワンピースが廊下の向こうへ消えていく。
蝉の声だけが、やけに大きく聞こえた。
蓮はしばらく動けなかった。
アイスを持つ手が震えている。
「……三上さん?」
病室に戻ると、透が不思議そうな顔をした。
「遅かったね」
「……」
「アイス溶けちゃうよ?」
蓮は透を見た。
何も知らない顔。
自分に向かって笑う顔。
「……なんでもない」
「本当?」
「ああ」
「変なの」
透はアイスを受け取った。
「ありがとう」
嬉しそうに笑う。
「三上さんってさ」
「なんだ」
「たまに、すごく悲しそうな顔するよね」
蓮は窓の外を見た。
夏空は青かった。
蝉は今日も鳴いていた。
世界は何事もなかったように続いていく。
けれど。
自分が奪った人生は、今も誰かの中で終わっていない。
被害者遺族の時間は、あの日で止まったままだ。
「……透」
「ん?」
「アイス、溶けるぞ」
「あっ!」
透は慌てて食べ始めた。
「冷たっ!」
「当たり前だ」
「頭痛い!」
それでも笑っていた。
その笑顔を見ながら。
蓮は初めて思った。
償いとは何なのだろう。
謝り続けることか。
苦しみ続けることか。
それとも。
許されないまま、それでも誰かの明日を守ろうとすることなのか。
答えはまだ、見つからなかった。
夏の午後の病院には、独特の静けさがあった。
外では蝉が鳴いている。
窓の向こうの中庭では、日差しに焼かれたアスファルトが白く光っていた。葉桜だった木々は濃い緑をまとい、その下を白衣の看護師が足早に通り過ぎていく。
病室のカーテンは半分だけ閉められていた。
冷房の風に揺れる薄い布の向こうで、心電図の電子音が一定の間隔を刻んでいる。
ピッ、ピッ、ピッ。
それは透の心臓の音ではない。
けれど、蓮にはいつも、生きている時間そのものの音のように思えた。
「暇だなあ」
透はベッドの上に寝転がったまま呟いた。
「雑誌、もう全部読んじゃった」
「三回くらい読んでただろ」
「だから飽きたの」
「贅沢だな」
「病院って暇なんだよ」
透は天井を見上げた。
「みんな『ゆっくり休んでね』って言うけど、そんなに休むことないし」
「そういうもんか」
「そういうもん」
しばらく沈黙が落ちた。
窓の外から蝉の声が聞こえる。
夏の音だった。
透はふと、ベッド脇の棚の下を覗き込んだ。
「あれ?」
「どうした」
「なんだこれ」
引っ張り出したのは、少し色褪せた段ボール箱だった。
角が擦り切れ、蓋には油性ペンで小さく名前が書かれている。
――高橋透。
「こんなのあったっけ」
「病院の人が持ってきたんじゃないのか」
「入院の時かなあ」
蓮は椅子に座ったまま箱を見た。
透は興味津々といった様子で蓋を開ける。
「うわ」
「なんだ」
「アルバム」
透の声が少し弾んだ。
「写真?」
「うん」
透明なフィルムの下に、何枚もの写真が収められていた。
古いものだった。
角が丸まり、色も少し褪せている。
「見ていいのか?」
「僕のだし」
透はそう言って、一枚目を開いた。
そこには、生まれたばかりの赤ん坊が写っていた。
「……これ僕?」
「だろうな」
「猿みたい」
「赤ん坊なんてそんなもんだ」
「三上さん、夢ないなあ」
透は笑った。
次のページをめくる。
小さなケーキ。
誕生日の帽子。
泣きそうな顔でろうそくを見つめる幼い透。
「うわ、これ絶対一歳だ」
「なんでわかる」
「歯が少ないから」
「そんなもんか」
「そんなもん」
ページをめくる指先が、少しだけ震えていた。
「……あ」
透の動きが止まった。
蓮も自然と視線を落とす。
そこには、男がいた。
幼い透を肩車しながら笑っている。
背景には青い空。
眩しそうに目を細めた横顔。
「……父さん」
透の呟きは、とても静かだった。
蓮は言葉を失った。
法廷で見た遺影ではない。
血に濡れた記憶でもない。
笑っていた。
本当に、普通に。
目尻に皺を寄せて。
子どもの足を支える両手に力を込めながら。
父親の顔で。
「若いなあ」
透は写真に触れた。
「僕、父さんのこと、こんなふうに笑う人だって知らなかった」
「……」
「嬉しい」
透は小さく笑った。
「ちゃんと笑う人だったんだね」
蓮の喉が乾いた。
知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
高橋健司。
三十八歳。
会社員。
被害者。
法廷で読み上げられた情報は、それだけだった。
けれど。
この男は笑うのだ。
海へ行き。
子どもを肩車し。
誰かにシャッターを切られながら、照れくさそうに笑う。
一人の人間だった。
「これ、母さんかな」
透が指差した。
写真の端に、小さく女性の影が映っていた。
ピントは少しぼやけている。
けれど、男がその人を見つめる目は柔らかかった。
「なんかさ」
透が言った。
「こういう写真見ると、不思議だよね」
「……何がだ」
「父さんって、本当に生きてたんだなって思う」
病室に蝉の声が入り込む。
ピッ、ピッ、ピッ。
心電図の音。
「僕、あんまり覚えてないから」
「……」
「だから、父さんって最初から『いない人』みたいだったんだ」
透は写真を見つめた。
「でも」
「……」
「ちゃんといたんだね」
「……ああ」
「海にも行って」
「……」
「笑って」
「……」
「僕のこと抱っこして」
「……」
「父さんだったんだ」
蓮は目を閉じた。
奪ったのは命だけじゃなかった。
父親を「父さん」と呼ぶ時間。
反抗期の喧嘩。
進路相談。
成人式の写真。
結婚式。
孫を抱く日。
そんな名前もない無数の時間。
全部。
自分が終わらせた。
「三上さん」
「……なんだ」
「写真ってすごいね」
「?」
「人がいなくなっても」
透はアルバムを撫でた。
「この人、生きてたよって教えてくれる」
「……」
「だから、ちょっと安心する」
「安心?」
「忘れてなかったんだなって」
透は笑った。
「僕、父さんのこと忘れちゃうの怖かったんだ」
その言葉に、第五話の記憶が蘇る。
『人って二回死ぬんだって』
『二回目は、誰にも思い出してもらえなくなった時』
「……透」
「ん?」
「お前は忘れてない」
「うん」
「たとえ覚えてなくても」
「……」
「お前の中にいる」
透は少しだけ目を丸くした。
それから照れくさそうに笑った。
「ありがと」
アルバムを閉じようとした時だった。
ぱさり。
一枚の写真が床に落ちた。
「あ」
透より先に、蓮が拾い上げる。
海だった。
強い日差し。
白い波。
潮風に乱れた髪。
高橋健司が笑っている。
隣には妻。
二人とも、未来を疑っていない顔をしていた。
裏返す。
丸みを帯びた女性の字。
『来年は透も連れて、三人でまた来よう。』
蓮の指先が震えた。
来年。
その言葉は、あまりにも簡単に書かれていた。
来ることを疑わない未来。
当たり前に続くと思っていた時間。
その「来年」は、来なかった。
「三上さん?」
透の声が遠かった。
「大丈夫?」
「……」
「顔色悪いよ」
蓮は窓の外を見た。
青い空だった。
蝉は今日も鳴いている。
病院の屋上の向こうへ、白い雲がゆっくり流れていく。
世界は続いている。
けれど、あの写真の中の「来年」は永遠に失われた。
「……なんでもない」
声が震えた。
「本当に?」
「ああ」
嘘だった。
なんでもなくなかった。
胸の奥が痛かった。
息が苦しかった。
どうして今まで、自分は「被害者」としか呼ばなかったのだろう。
名前があった。
笑顔があった。
約束があった。
来年があった。
蓮は顔を伏せた。
肩が小さく震えた。
「……三上さん?」
透は何も聞かなかった。
ただ、そっとアルバムを閉じた。
夏の午後だった。
蝉の声は止まない。
心電図は変わらず音を刻み続ける。
ピッ、ピッ、ピッ。
生きている音。
失われた来年の代わりにはならない。
けれど、それでも。
今、この瞬間だけは確かに続いていた。
透は窓の外を見ながら、ぽつりと言った。
「海、行きたいな」
蓮は涙を拭った。
「……ああ」
「父さんが見た海、見てみたい」
「……連れて行く」
その言葉は、自分への誓いにも似ていた。
「絶対?」
透が笑った。
蓮は、今度は目を逸らさなかった。
「絶対だ」
夏の光が病室に満ちていた。
その眩しさが、どうしようもなく残酷で、どうしようもなく美しかった。
七月の終わりだった。
病院の窓を開けると、熱を帯びた風が白いカーテンを膨らませた。
夏はいつも唐突に深くなる。
数日前まで「暑くなってきたね」と話していたのに、気づけば蝉の声は耳を塞ぎたくなるほど大きくなり、アスファルトは陽炎を揺らしている。
中庭の植え込みでは、じりじりと焼ける土の匂いが立ち上っていた。
「ねえ」
透は窓辺に座ったまま言った。
「夏祭りって、今年もう終わっちゃった?」
「まだじゃないか」
「本当?」
「知らん」
「知らないのに答えた」
「適当だ」
「ひどいなあ」
透は頬杖をついた。
窓の外では、入院患者らしい老人が看護師に付き添われながら、ゆっくりと歩いていた。
「僕さ」
「なんだ」
「最後に夏祭り行ったの、いつだっけ」
「覚えてないのか」
「うん」
「小学校低学年だった気がする」
透は少し考えるように目を細めた。
「金魚すくいして」
「ラムネ飲んで」
「綿あめ買って」
「射的やって」
「……」
「でも、途中で熱出して帰ったんだよね」
「そうか」
「悔しかったなあ」
透は笑った。
けれど、その笑顔は少しだけ遠かった。
「僕ね」
「……」
「普通の思い出、少ないんだ」
蓮は返事をしなかった。
透の「普通」は、いつも病気と並んでいた。
遠足の前日に熱を出したこと。
運動会を見学したこと。
修学旅行に行けなかったこと。
学校より病室にいる時間のほうが長かったこと。
「だから」
透は窓の外を見たまま続けた。
「普通のことって、ちょっと憧れる」
廊下を誰かが走る音がした。
すぐに看護師の「走らないの!」という声が聞こえる。
透はくすりと笑った。
「怒られてる」
「当たり前だ」
「でも、走れるんだね」
「……」
「走れるって、すごいな」
蓮は透を見た。
細い肩だった。
大人のTシャツを子どもに着せたように、病衣が少し余って見える。
「三上さん」
「なんだ」
「夏祭り、行ったことある?」
「ある」
「楽しい?」
「……」
蓮は記憶を探った。
子どもの頃の記憶は曖昧だった。
酒に溺れる父親。
働きづめの母親。
いつからか、祭りは家族で行くものではなくなっていた。
「覚えてない」
「えー」
「人が多かった」
「それだけ?」
「暑かった」
「夢がない!」
透は声を上げた。
「普通、『綺麗だった』とか『楽しかった』とか言うじゃん!」
「知らん」
「人生損してるよ」
「お前に言われたくない」
透は笑った。
その笑い声が病室に広がる。
けれど。
「……行ってみたいな」
その一言だけは、ひどく静かだった。
「夏祭り」
「……」
「浴衣着て」
「りんご飴食べて」
「花火見て」
「帰り道、ちょっと疲れて」
「……」
「そういうの」
窓の外では蝉が鳴いていた。
命を削るような声だった。
短い夏を生き切ろうとする声。
「行くか」
「え?」
「夏祭り」
透は目を瞬いた。
「え?」
「だから」
「……」
「行きたいんだろ」
「え?」
「嫌ならいい」
「行く!」
透は勢いよく身を乗り出した。
「絶対行く!」
「静かにしろ」
「三上さん!」
「なんだ」
「約束ね!」
「……」
また約束だった。
海。
夏祭り。
来年の話。
未来を前提にした言葉。
蓮は昔、それが当たり前だと思っていた。
けれど、人は簡単に死ぬ。
約束は簡単に消える。
だからこそ。
「……ああ」
蓮は頷いた。
「約束だ」
その日の夕方。
病室の窓から夕焼けが見えた。
空は茜色に染まり、遠くの雲の縁だけが金色に光っている。
「綺麗だね」
「そうだな」
「夏ってさ」
「……」
「終わるの早いよね」
「まだ始まったばかりだ」
「でも、気づいたら終わるじゃん」
透は窓ガラスに額をつけた。
「人もそうなのかな」
「……」
「生きてる時は長いと思ってても」
「……」
「終わる時って、あっという間なのかな」
蓮は答えられなかった。
高橋健司はどうだったのだろう。
あの日の朝、仕事へ行く準備をしながら、まさか自分の人生が終わるなんて思っていただろうか。
来年もあると思っていた。
再来年も。
その先も。
誰だってそうだ。
「ねえ」
透が振り返った。
「もしさ」
「なんだ」
「明日死ぬってわかったら、何する?」
病室に沈黙が落ちた。
夕日が床を長く染める。
「……わからん」
「えー」
「お前は?」
透は少し考えた。
それから、困ったように笑った。
「いっぱいありすぎる」
「……」
「海も行きたいし」
「夏祭りも行きたいし」
「学校も行きたいし」
「アイスも食べたいし」
「本も読みたいし」
「……」
「でも」
「?」
「三上さんと話したい」
蓮は思わず顔を上げた。
「なんでだ」
「だって」
透は笑った。
「一人で死ぬの、寂しいじゃん」
蝉の声が止んだ。
ほんの一瞬だけ。
世界が静かになった気がした。
「……そんな顔しないでよ」
「どんな顔だ」
「泣きそうな顔」
「してない」
「してる」
透は少しだけ真面目な顔になった。
「僕ね」
「……」
「死ぬの怖いよ」
「……」
「本当は、すごく」
「……」
「でも」
「?」
「怖いからって、生きるのやめたくない」
夕焼けが透の横顔を照らしていた。
まだ子どもの顔だった。
けれど、その瞳には大人よりも深い諦めと希望が同居していた。
「だから」
「……」
「約束、いっぱいしよう」
「……」
「海も」
「夏祭りも」
「秋になったら焼き芋食べて」
「冬になったら雪見たい」
「春になったら桜見て」
「来年も」
「再来年も」
「その先も」
透は笑った。
「生きる理由って、そういうのでいいと思うんだ」
蓮は夕焼けの向こうを見つめた。
失った来年は戻らない。
奪った未来も返せない。
それでも。
目の前の少年は、まだ来ていない季節の話をする。
秋の話をして。
冬の話をして。
春の話をする。
まるで、未来が当然そこにあるみたいに。
「……透」
「ん?」
「夏祭り」
「うん」
「浴衣、着るのか」
「もちろん!」
「似合わなそうだな」
「ひどい!」
透は頬を膨らませた。
「絶対似合うし!」
「そうか」
「三上さんも甚平ね」
「嫌だ」
「なんで!」
「暑い」
「理由が雑!」
病室に笑い声が響いた。
窓の外では、沈みかけた太陽が街を赤く染めている。
短い夏だった。
けれど。
まだ終わっていない。
約束した夏祭りも。
約束した海も。
まだ、これからだった。
だから蓮は、ほんの少しだけ願った。
どうか。
この夏が、もう少しだけ長く続きますように。
夏の朝は早い。
午前六時を過ぎる頃には、病院の窓の外はもう明るくなっていた。
中庭の木々には蝉が止まり、まだ本気を出しきれていないような遠慮がちな声で鳴き始めている。
空は薄い青だった。
夜と昼の境目が完全に溶けきっていない、静かな時間。
病院の廊下には、まだ人影も少ない。
夜勤明けの看護師たちの疲れた足音と、消毒液の匂いだけが漂っていた。
蓮は自動販売機の前で、ぬるくなった缶コーヒーを持ったまま立っていた。
眠れなかった。
透と夏祭りの話をした夜も、結局ほとんど眠れなかった。
海の約束。
浴衣の話。
来年の話。
未来の話。
そんなものを、あの子はあんなにも無邪気に口にする。
まるで、それが当たり前に訪れるものだと信じているように。
「三上さん?」
声に振り返る。
白衣姿の女性がいた。
透の担当看護師だった。
「おはようございます」
「……どうも」
「今日も早いですね」
「眠れなくて」
「そうですか」
彼女は少し言い淀んだ。
「高橋くんの検査、今日なんです」
「……検査?」
「定期検査です」
言葉は穏やかだった。
けれど、その表情にはわずかな陰りがあった。
「何か……」
「大丈夫ですよ」
看護師は微笑んだ。
「先生からお話がありますから」
大丈夫。
その言葉は、病院では挨拶のように使われる。
転びそうになった子どもにも。
採血を怖がる患者にも。
家族にも。
大丈夫。
蓮は缶コーヒーを握りしめた。
本当にそうなのだろうか。
◇
「最悪だ……」
病室に戻ると、透はベッドの上で項垂れていた。
「なんだ」
「採血」
「まだだろ」
「だから嫌なんだよ!」
透は真剣な顔で訴えた。
「注射って絶対痛いじゃん!」
「子どもだな」
「十歳だからね!」
「威張るな」
「三上さんは平気なの?」
「……」
蓮は少し考えた。
「嫌いだ」
「ほら!」
「でも、我慢する」
「大人ぶってる」
「事実だ」
「じゃあ今度、一緒に採血しようよ」
「嫌だ」
「即答!」
透は笑った。
その笑顔に、蓮は少しだけ安心する。
いつも通りだった。
少なくとも今は。
「終わったらアイス食べたい」
「この前も食べてただろ」
「頑張ったご褒美」
「まだ頑張ってない」
「先払い制度」
「駄目だ」
「ケチ」
「違う」
「じゃあ何?」
「……終わってから考える」
「やった」
「まだ決まってない」
「でも買ってくれる顔してる」
「どんな顔だ」
「優しい顔」
蓮は目を逸らした。
◇
検査は昼前に終わった。
透は病室へ戻るなり、大袈裟にため息をついた。
「死ぬかと思った」
「採血で死ぬな」
「でも痛かった」
「そうか」
「だからアイス」
「……」
「アイス」
「わかった」
「やった!」
透は両手を上げた。
それだけで嬉しそうだった。
たった百数十円のアイスで。
病室の窓から見える空は、真夏の青だった。
雲は白く盛り上がり、まるで何も悪いことなど起こらないような顔をしている。
「何味にしようかな」
「好きにしろ」
「バニラかな」
「……」
「でもソーダも捨てがたい」
「……」
「三上さん?」
「なんだ」
「どうしたの?」
「別に」
「嘘」
透は蓮を見た。
「なんか変」
「そうか」
「うん」
透は少し黙った。
「僕ね」
「……」
「嘘って、わかるんだよ」
「……」
「母さんもそうだった」
窓の外に視線を向けたまま、透は言った。
「『大丈夫』って言う時ほど、泣きそうな顔してた」
「……」
「先生もそう」
「……」
「看護師さんも」
「……」
「本当に大丈夫な時って、わざわざ『大丈夫』って言わないんだよね」
蝉の声が響いていた。
暑い午後だった。
けれど蓮の指先だけが冷たかった。
「三上さん」
「……」
「僕の検査、悪かった?」
病室が静まり返った。
ピッ、ピッ、ピッ。
心電図の音だけが、いつも通りに鳴っている。
「……知らない」
ようやく出た言葉だった。
「本当に?」
「本当だ」
半分だけ嘘だった。
検査結果は知らない。
けれど、看護師の表情を見た。
何かを隠していた。
「そっか」
透は笑った。
「じゃあ、先生の話聞けばわかるね」
「……」
「怖いな」
小さな声だった。
「……」
「本当は」
透は自分の腕を見た。
採血の跡に貼られた小さな絆創膏。
「怖い」
「……」
「もし悪くなってたらどうしようって思う」
「……」
「海、行けなくなったら嫌だなって思う」
「……」
「夏祭りも」
「……」
「約束、全部なくなったら嫌だ」
蓮は何も言えなかった。
慰めの言葉が浮かばなかった。
大丈夫だと言えなかった。
もし違ったら。
その「大丈夫」は嘘になる。
「ねえ」
透は顔を上げた。
「大丈夫って言って」
蓮は息を止めた。
「……」
「嘘でもいいから」
その言葉に、蓮は高橋健司の最期を思い出した。
『息子がいるんだ』
『頼む』
あの日。
何一つ大丈夫ではなかった。
それでも。
人は嘘をつく。
誰かを守るために。
自分を守るために。
「……大丈夫だ」
蓮は言った。
透はじっとこちらを見つめている。
「……本当に?」
「……」
嘘だった。
でも。
「先生の話を聞くまでは」
「……」
「お前はいつも通りだ」
「……」
「海にも行く」
「……」
「夏祭りにも行く」
「……」
「だから」
蓮は言葉を探した。
「今は」
「……」
「アイスの心配でもしてろ」
数秒の沈黙のあと。
「……なにそれ」
透が吹き出した。
「全然大丈夫って感じしない」
「そうか」
「でも」
透は笑った。
「ありがとう」
「……」
「嘘でも、ちょっと安心した」
窓の外では蝉が鳴いていた。
短い命を燃やすような声。
蓮は空を見上げた。
嘘は嫌いだった。
人を傷つけるものだと思っていた。
けれど。
今日の「大丈夫」は、何だったのだろう。
優しさだったのか。
逃げだったのか。
それとも。
まだ失いたくない未来への願いだったのか。
「三上さん」
「なんだ」
「アイス、溶ける前に買ってきて」
「まだ買ってない」
「じゃあ急いで」
「……わかった」
「バニラね」
「ソーダじゃなかったのか」
「悩んだけど」
透は少し笑った。
「今日は甘いのがいい」
蓮は立ち上がった。
病室の扉に手をかける。
「三上さん」
「なんだ」
「もし、悪い結果だったとしても」
「……」
「また約束してね」
「……」
「一個じゃなくて、いっぱい」
蓮は振り返った。
ベッドの上の透は、少し怯えた顔で笑っていた。
「約束があると」
「……」
「明日が来る気がするから」
蝉の声が、窓の向こうで鳴き続けていた。
夏はまだ終わらない。
だから蓮は、小さく頷いた。
「……ああ」
「約束する」
その声は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
そして、その日の夕方。
主治医から呼び出された蓮は、白い診察室の前で立ち尽くすことになる。
扉の向こうには、まだ知らない現実が待っていた。
病院の診察室は、どこも似たような匂いがした。
消毒液と紙の匂い。
冷房の効きすぎた空気。
長年使われてきた机や椅子に染みついた、誰かの緊張や諦めのようなもの。
蓮は診察室の前の長椅子に座っていた。
白い壁を見つめる。
壁に掛けられた時計の秒針は、律儀なほど一定の速さで進んでいた。
カチ。
カチ。
カチ。
病室では、透がアイスを食べている頃だろう。
「バニラって正解だよね」
そう言って笑っていた。
「でも次はソーダにする」
そんなことを真剣に悩んでいた。
たった十分前の話だった。
「三上さん」
診察室の扉が開いた。
「どうぞ」
主治医は五十代くらいの男性だった。
穏やかな声の人だった。
けれど、その穏やかさが時々残酷に思えることを、蓮は知っていた。
「失礼します」
椅子に腰掛ける。
机の上には検査結果の紙が並べられていた。
レントゲン写真。
数値。
専門用語。
蓮にはほとんど意味がわからない。
医師はしばらく黙って資料を見つめた。
「高橋くんのことですが」
「……はい」
窓の外では蝉が鳴いていた。
閉じられた診察室の中まで聞こえてくるほど、力強い声だった。
「病状が進行しています」
その一言は、あまりにも静かだった。
「前回の検査と比較しても、心機能の低下が見られます」
「……」
「これまでの治療を続けていくことになりますが」
「……」
「正直に申し上げると」
医師は言葉を選んだ。
「楽観できる状況ではありません」
蓮は医師の顔を見た。
医師は目を逸らさなかった。
「……あと」
声が掠れた。
「あと、どれくらいですか」
診察室の空気が止まった気がした。
時計の秒針だけが動いている。
カチ。
カチ。
カチ。
「それを正確にお伝えすることはできません」
「……」
「数か月の方もいれば、数年頑張る方もいます」
「……」
「ただ」
医師はゆっくりと言った。
「"いつか"ではなく、"限られた時間"として考えていただいた方がいいと思います」
限られた時間。
その言葉が胸の奥に沈んでいく。
海。
夏祭り。
秋の焼き芋。
冬の雪。
春の桜。
来年。
再来年。
その先。
透が無邪気に並べた未来たち。
「高橋くんには」
医師は続けた。
「まだ詳しい話はしていません」
「……」
「ご家族とも相談しながら考えるつもりでした」
「……」
「ですが、彼はとても勘のいい子です」
蓮は透の顔を思い出した。
『嘘って、わかるんだよ』
そう言っていた。
「だからこそ」
医師は言った。
「残された時間を、どう過ごすかが大切だと思います」
残された時間。
蓮は拳を握りしめた。
残された。
誰にとっての。
透にとっての。
自分にとっての。
高橋美咲にとっての。
あるいは、死んだ高橋健司にとっての。
「……わかりました」
診察室を出ると、廊下は相変わらず白かった。
誰かが笑っていた。
看護師がカルテを抱えて歩いていく。
車椅子の老人が、付き添いの女性と何か話していた。
世界は何も変わっていない。
なのに。
蓮の中だけが変わってしまった。
窓の外では入道雲が空高く積み上がっていた。
夏だった。
まだ、夏だった。
◇
「おかえり!」
病室の扉を開けると、透が手を振った。
「遅かったね!」
「……ああ」
「見て!」
ベッドの上にはアイスの棒が置かれていた。
「当たりだ!」
「……」
「もう一本もらえる!」
透は嬉しそうに笑った。
「すごくない?」
「……すごいな」
「今度はソーダにしようかな」
「……」
「でも、バニラも美味しかったんだよね」
「……」
「三上さん?」
「なんだ」
「先生、なんて?」
蓮は立ち尽くした。
白い病室。
揺れるカーテン。
窓の外の青空。
透の細い腕。
笑っている顔。
先生、なんて?
「……いつも通りだって」
気づけば、そう答えていた。
「本当?」
「……ああ」
「そっか」
透は安心したように息を吐いた。
「よかった」
蓮は目を逸らした。
また嘘だった。
大丈夫。
いつも通り。
そう言った。
透はじっとこちらを見つめた。
「……三上さん」
「なんだ」
「泣いた?」
「……泣いてない」
「そっか」
透はそれ以上聞かなかった。
しばらくして、小さな声で言った。
「ねえ」
「なんだ」
「夏祭り、いつにする?」
蓮は顔を上げた。
「え?」
「だって、約束したじゃん」
透は当たり前のように言った。
「海も」
「夏祭りも」
「焼き芋も」
「雪も」
「桜も」
「……」
「順番にやらなきゃ」
窓の外では蝉が鳴いていた。
短い命を燃やす声。
透は笑った。
「忙しいね」
蓮は喉の奥が熱くなるのを感じた。
忙しい。
本当にそうだった。
もう「いつか」ではいられない。
全部。
間に合わせなければならない。
「……まずは」
蓮は言った。
「夏祭りだな」
「ほんと?」
「ああ」
「やった!」
透は子どもらしく喜んだ。
「じゃあ浴衣!」
「甚平だろ」
「三上さんもね」
「嫌だ」
「また言ってる!」
笑い声が病室に響く。
ピッ、ピッ、ピッ。
心電図の音。
蝉の声。
笑い声。
全部が混ざり合う。
生きている音だった。
蓮は思った。
人はいつか死ぬ。
それは変えられない。
だからこそ。
明日の予定を立てるのだ。
夏祭りに行く。
海を見る。
アイスを食べる。
浴衣の話で笑う。
そんな些細な約束が、死に抗う方法なのかもしれない。
「三上さん」
「なんだ」
「楽しみだね」
透は窓の外の夏空を見上げながら言った。
「うん」
蓮は頷いた。
「……楽しみだ」
それは嘘ではなかった。
そして、その夏祭りが二人にとって忘れられない夜になることを、まだ誰も知らなかった。
夏祭りのポスターは、一階の掲示板の隅に貼られていた。
色褪せた画用紙の上を、子どもが描いたらしい花火が大きく咲いている。
『第七十二回 納涼盆踊り大会』
『八月十二日 午後六時より』
『花火大会 午後八時開始』
病院のボランティア募集や健康講座のお知らせに紛れて、そのポスターだけが妙に賑やかだった。
透はそれを見つけた瞬間、目を輝かせた。
「三上さん」
「なんだ」
「あと五日」
「……」
「あと五日だよ」
蓮はエレベーターのボタンを押した。
「そうだな」
「え、それだけ?」
「あと五日だ」
「もっとこう……『楽しみだな』とか」
「……」
「『浴衣似合うかな』とか」
「言わない」
「つまんない」
エレベーターの扉が開いた。
冷たい空気が流れ出る。
透は車椅子の肘掛けに頬を乗せながら、小さく鼻を鳴らした。
「でも、あと五日かあ」
呟く声は嬉しそうだった。
「楽しみだなあ」
◇
「浴衣?」
病室に戻ると、透は看護師に食い気味に聞いた。
「あります?」
「何が?」
「浴衣!」
「ああ」
看護師は笑った。
「小児病棟で貸し出してるよ」
「本当に!?」
「夏祭りの日だけね」
「やった!」
透は両手を握った。
「青かな」
「え?」
「黒かな」
「何の話だ」
「浴衣の色!」
透は真剣な顔になった。
「やっぱり紺色かなあ」
「好きにしろ」
「三上さんは?」
「知らん」
「甚平だよね」
「着ない」
「なんで」
「似合わない」
「そんなの着てみないとわかんないじゃん」
「わかる」
「頑固」
透はむっとした。
「絶対似合うのに」
「お前の根拠は何だ」
「なんとなく」
「信用ならん」
「でもさ」
透は少し笑った。
「夏祭りって、特別な服着るじゃん」
「……」
「それだけで嬉しくなるよね」
蓮は答えなかった。
特別な服。
そんなものを最後に着たのはいつだっただろう。
成人式も出なかった。
スーツを着たのは裁判の時だった。
黒いネクタイ。
頭を下げる母親。
被害者遺族の視線。
謝罪。
判決。
人生の節目は、いつからか喜びではなくなっていた。
「三上さん?」
「なんだ」
「どしたの?」
「別に」
「また考え事?」
「……」
「もしかして」
透は目を細めた。
「甚平、本当は着たい?」
「違う」
「じゃあ恥ずかしい?」
「違う」
「じゃあ何?」
「……うるさい」
「図星だ」
「違う」
透は声を上げて笑った。
◇
夕方。
病室の窓から見える空は、少しだけ色を変え始めていた。
昼間の強い青が薄れ、遠くの雲に茜色が滲み始める。
夏の夕暮れは短い。
気づけば夜になっている。
「ねえ」
透は窓辺に座ったまま言った。
「祭りって、どんな匂いするの?」
「……匂い?」
「うん」
「覚えてないんだよね」
蓮はしばらく考えた。
「焼きそば」
「おお」
「たこ焼き」
「いいね」
「焼きとうもろこし」
「お腹空いてきた」
「あと」
「?」
「花火の火薬」
「火薬?」
「ああ」
「少し焦げたような匂いだ」
「へえ」
透は窓の外を見た。
「祭りの音は?」
「……」
「太鼓」
「うん」
「笑い声」
「うん」
「迷子の泣き声」
「リアルだなあ」
「人混みのざわざわした声」
「うん」
「あと」
蓮は少しだけ目を細めた。
「遠くで聞こえる花火」
「……」
「どーんって」
透は目を輝かせた。
「いいなあ」
「……」
「僕ね」
「?」
「祭りって、みんな楽しそうだから好き」
「行ったこと少ないんだろ」
「少ないよ」
「じゃあなんでだ」
「テレビで見た」
「……」
「みんな笑ってるじゃん」
透は笑った。
「だから好き」
蓮はその横顔を見た。
この子は、行ったことのない場所を好きだと言う。
知らないものに憧れる。
未来を信じる。
それは希望なのか。
それとも残酷なことなのか。
「三上さん」
「なんだ」
「僕さ」
「……」
「来年も祭り行けるかな」
夕焼けが病室を染めた。
赤い光が透の頬を照らす。
細い首筋。
華奢な肩。
十歳の子どもの背中。
蓮は息を止めた。
来年。
またその言葉だった。
「……」
「三上さん?」
「……行く」
「え?」
「来年も」
「……」
「再来年も」
「……」
「その先も」
透はじっと蓮を見た。
「本当に?」
「……」
嘘かもしれない。
叶わない約束かもしれない。
それでも。
「行けるようにする」
透は少しだけ黙った。
そして。
「そっか」
小さく笑った。
「じゃあ、信じる」
「……」
「だって」
透は夕焼けに目を細めた。
「未来って、信じるものだもんね」
窓の外で、ひぐらしが鳴き始めていた。
カナカナカナ。
夏の終わりを少しだけ思わせる声。
蓮はその音を聞きながら思った。
未来は約束されていない。
人は死ぬ。
突然終わる。
来年は来ないこともある。
それでも。
人は来年の話をする。
祭りの話をする。
浴衣の色を悩む。
その愚かさを。
その愛おしさを。
透は誰よりも知っているのかもしれなかった。
◇
「決めた!」
消灯前。
透は宣言した。
「紺色の浴衣にする」
「そうか」
「金魚柄」
「そうか」
「三上さんは甚平」
「嫌だ」
「なんで!」
「似合わない」
「絶対似合う!」
「嫌だ」
「じゃあ」
透は少し考えた。
「僕が元気になったら着る?」
「……」
「約束」
蓮は答えなかった。
病室の灯りが落ちる。
窓の外には、濃紺の夜空が広がっていた。
蝉の声も消え、代わりに遠くを走る救急車のサイレンが聞こえる。
「三上さん」
「なんだ」
「あと五日だね」
「ああ」
「楽しみだな」
「……ああ」
「眠れないかも」
「子どもか」
「子どもだよ」
透は笑った。
暗闇の中でもわかるくらい、嬉しそうに。
あと五日。
たった五日。
それは短い時間だった。
けれど、待ち遠しい時間でもあった。
そして蓮はまだ知らない。
祭りの夜、花火の音の下で。
透が初めて、自分の死について本当の気持ちを口にすることを。
夏はまだ終わらない。
けれど、その終わりは確かに近づいていた。
夏祭りの当日、空は朝からよく晴れていた。
雲は高く、白く、まるで誰かが丁寧にちぎって空へ貼り付けたようだった。
病院の窓から見える木々は、強い陽射しに照らされて濃い影を落としている。
蝉は朝から鳴き続けていた。
生き急ぐように。
自分の季節が短いことを知っているかのように。
「あと何時間?」
朝食を食べ終えた透が尋ねた。
「まだだ」
「何時間?」
「知らん」
「絶対知ってる」
「知らん」
「適当でもいいから」
「長い」
「雑!」
透は頬を膨らませた。
「今日くらい優しくしてよ」
「いつも優しいだろ」
「自分で言う?」
「事実だ」
「じゃあ、甚平着て」
「嫌だ」
「まだ言ってる!」
病室に笑い声が広がった。
◇
午後になると、小児病棟は少しだけ浮き足立った。
看護師たちは忙しそうに行き来しながらも、どこか楽しそうだった。
廊下には提灯が吊るされている。
折り紙で作られた金魚や花火が壁を飾っていた。
「高橋くん」
看護師が病室を覗いた。
「浴衣、持ってきたよ」
「やった!」
透はベッドから身を乗り出した。
紺色だった。
小さな金魚が泳ぐ柄。
「どう?」
「似合ってる」
「本当に?」
「ああ」
「三上さん」
「なんだ」
「目、逸らした」
「逸らしてない」
「嘘」
透は笑った。
「褒められると恥ずかしいんでしょ」
「違う」
「じゃあ甚平着て」
「嫌だ」
「頑固だなあ」
◇
祭り会場は病院の中庭だった。
小さなやぐら。
屋台の代わりに並ぶ手作りの出店。
ヨーヨー釣り。
輪投げ。
綿あめ。
ボランティアの大学生が汗を拭きながら子どもたちを迎えている。
夕方の空はまだ明るかった。
「すごい……」
透は車椅子の上で呟いた。
「本当に祭りだ」
その声には驚きが混じっていた。
目を輝かせながら、きょろきょろと辺りを見回す。
「綿あめ!」
「……」
「金魚!」
「……」
「ヨーヨー!」
「落ち着け」
「無理!」
透は笑った。
「楽しい!」
それは、心からの声だった。
輪投げで景品のお菓子をもらって。
ヨーヨー釣りでは結局一つも取れずに悔しがって。
綿あめを口の周りにつけて笑って。
「甘い」
「そりゃそうだ」
「雲食べてるみたい」
「食ったことあるのか」
「ない」
「だろうな」
「でも、こんな感じだと思う」
透は笑った。
蓮はその横顔を見つめた。
十歳の子どもだった。
病気でも。
余命を告げられていても。
ただ祭りを楽しむ、普通の子どもだった。
◇
花火が始まったのは八時だった。
病院の屋上が特別に開放された。
風が少しだけ涼しい。
昼間の熱気を残した街並みの向こうに、夜の帳が下りていた。
「始まるかな」
「もうすぐだ」
透はフェンス越しに空を見上げた。
紺色の浴衣の袖を握りしめる。
どん。
腹に響くような音がした。
一輪目の花火が夜空に咲く。
「……わあ」
透は息を呑んだ。
赤。
青。
金色。
大きく開いては、静かに消えていく。
歓声が上がった。
子どもたちの笑い声。
大人たちの拍手。
花火は次々と夜空を染めた。
「綺麗だね」
「……ああ」
「すごい」
「……」
「こんなの、テレビじゃわからないね」
透は笑った。
けれど。
「三上さん」
「なんだ」
「僕ね」
声が小さくなった。
「死にたくない」
蓮は隣を見た。
透は花火を見上げたままだった。
「……」
「怖いんだ」
どん。
夜空に白い花が咲く。
「ずっと平気なふりしてた」
どん。
「『人は二回死ぬ』とか」
「……」
「『忘れられなければ大丈夫』とか」
どん。
「そういうこと言ってたけど」
花火の光が透の横顔を照らした。
「本当は」
「……」
「もっと生きたい」
「……」
「中学生にもなりたいし」
「高校生にもなりたい」
「……」
「友達と喧嘩もしたいし」
「恋愛とかもしてみたいし」
「……」
「海にも行きたい」
「焼き芋も食べたい」
「雪も見たい」
「桜も見たい」
透の声は震えていた。
「全部、やりたい」
涙が頬を伝った。
「死にたくない」
花火が夜空に咲く。
祝福のように。
残酷なほど美しく。
周りでは誰かが笑っている。
拍手をしている。
屋台の片付けをしている。
世界はいつも通りだった。
それでも。
この小さな屋上の片隅だけは、違う時間が流れていた。
「……透」
蓮は名前を呼んだ。
何を言えばいいのかわからなかった。
大丈夫とは言えない。
死なないとも言えない。
約束も。
未来も。
本当は保証できない。
「……ごめん」
ようやく出た言葉だった。
「僕、嫌なこと言った?」
「違う」
蓮は首を振った。
「違う」
夜空を見上げる。
花火が咲いては消える。
一瞬だけ世界を照らして。
すぐに闇へ溶けていく。
「……俺も」
「え?」
「死ぬのは怖い」
透は驚いたように目を瞬いた。
「三上さんも?」
「ああ」
「……そっか」
「怖い」
蓮は静かに言った。
「だから」
「……」
「お前が怖いって言ってもいい」
「……」
「泣いてもいい」
「……」
「生きたいって言っていい」
透は唇を噛んだ。
そして。
声を上げて泣いた。
十歳の子どもの泣き方だった。
我慢して。
堪えて。
それでも溢れてしまった涙だった。
「死にたくない」
「……」
「もっと生きたい」
「……」
「怖い」
蓮はその肩を抱いた。
抱きしめる資格などないと思った。
父親を奪ったこの手に。
そんな権利はないと思った。
それでも。
今だけは。
「……ああ」
蓮は小さく答えた。
「そうだな」
どん。
夜空いっぱいに、最後の大輪の花火が咲いた。
金色の光が降り注ぐ。
歓声が上がる。
拍手が響く。
そして。
消える。
静かな夜が戻ってくる。
「……終わっちゃったね」
透は泣き腫らした目で呟いた。
「……ああ」
「でも」
透は鼻をすすった。
「綺麗だった」
「……」
「また見たいな」
蓮は夜空を見上げた。
消えた花火の残り香が、風に乗って漂っていた。
「……また見よう」
「本当に?」
「ああ」
「約束?」
蓮は頷いた。
「約束だ」
嘘かもしれない。
叶わないかもしれない。
それでも。
人は約束をする。
未来を信じる。
明日の話をする。
それが、生きるということなのだと。
夜空に消えた花火が、教えてくれた気がした。
花火の翌朝、病院はいつも通りだった。
看護師たちは忙しなく廊下を行き交い、点滴台の車輪が床を擦る音が聞こえる。
朝食の時間を知らせる放送。
消毒液の匂い。
白い壁。
昨夜、あれほど大きな花火が空を染めたことなど、最初からなかったようだった。
ただ、窓の外だけが違っていた。
抜けるような青空。
雲ひとつない夏の朝。
蝉の声は昨日よりも激しく響いている。
生き急ぐような声だった。
「筋肉痛」
ベッドの上で、透が真顔で言った。
「車椅子なのに?」
「はしゃぎすぎた」
「自業自得だ」
「祭りって体力使うんだね」
「知らなかったのか」
「知らなかった」
透は枕に顔を埋めた。
「でも、楽しかった」
「……」
「また行きたいな」
「……ああ」
「花火も見たい」
「……」
「綿あめも食べたい」
「……」
「あと」
透は顔を上げた。
「海」
その一言に、蓮は窓の外を見た。
高橋健司の写真。
海辺で笑う父親。
裏に書かれた文字。
――来年は透も連れて、三人でまた来よう。
来なかった来年。
叶わなかった約束。
「三上さん?」
「……行くか」
「え?」
「海」
透は瞬きをした。
「……え?」
「海だ」
「え?」
「だから」
「え?」
「うるさい」
「本当に!?」
透は勢いよく起き上がった。
「え、本当に!?」
「ああ」
「いつ!?」
「今週中」
「……」
「先生に相談する」
数秒。
透は何も言わなかった。
そして。
「やったあああ!」
病室中に響く声で叫んだ。
「静かにしろ」
「海だ!」
「わかったから」
「海!」
「聞こえてる」
「海だ!」
「二回言うな」
「三回目!」
透は子どものように笑った。
いや。
子どもだった。
十歳の。
未来を楽しみにする、普通の子どもだった。
◇
「外出許可、ですか」
主治医は眼鏡の奥で目を細めた。
「……難しいでしょうか」
蓮は頭を下げた。
「高橋くんの体調次第です」
「……」
「正直、長時間は負担になります」
「……」
「ですが」
医師はカルテを閉じた。
「行きたい場所があるなら」
「……」
「行ける時に行っておいた方がいいと、私は思います」
静かな声だった。
「病気の子どもたちは」
「……」
「『今度』を失うことがあります」
蓮は顔を上げた。
「だから」
「……」
「体調管理を徹底すること」
「無理はさせないこと」
「何かあればすぐ戻ること」
「……」
「それが守れるなら」
医師は頷いた。
「行ってきてください」
◇
「許可出た」
「え?」
「海」
「……」
「行ける」
透は固まった。
まるで言葉の意味が理解できないような顔だった。
「……本当に?」
「ああ」
「嘘じゃなくて?」
「嘘じゃない」
「……」
「今度じゃなくて?」
「今度じゃない」
「……」
「今週だ」
透の目に涙が滲んだ。
「……そっか」
「……」
「海、行けるんだ」
窓の外では蝉が鳴いていた。
病室の白い天井。
点滴のスタンド。
心電図の音。
何も変わらない景色の中で。
「海、行けるんだ」
透はもう一度言った。
まるで、自分に言い聞かせるように。
「父さんが見た海」
「……」
「僕も見れるんだ」
◇
それから数日間。
透は驚くほど元気だった。
「帽子いるかな」
「いる」
「サンダル?」
「歩かないだろ」
「でも海だよ?」
「そうだな」
「海ってしょっぱいんだよね」
「多分な」
「多分?」
「最近行ってない」
「三上さんって、本当に夢ないよね」
「お前は夢見すぎだ」
「いいじゃん」
透は笑った。
「夢くらい」
病室の窓から見える空は高かった。
夕焼けの色も少しずつ柔らかくなっていく。
夏は続いている。
けれど。
確実に終わりへ向かっていた。
◇
海へ行く前夜。
消灯後の病室。
窓の外には星が少しだけ見えていた。
「眠れない」
透が小さく言った。
「遠足前の小学生か」
「小学生です」
「そうだったな」
「三上さん」
「なんだ」
「海ってさ」
「……」
「どんな音する?」
蓮は目を閉じた。
遠い記憶を探る。
「波の音」
「うん」
「ざあって」
「うん」
「ずっと繰り返してる」
「……」
「寄せて」
「返して」
「寄せて」
「返して」
「……」
「不思議と飽きない」
透は静かに聞いていた。
「匂いは?」
「潮の匂い」
「どんな?」
「難しいな」
「えー」
「鉄みたいな匂いもする」
「鉄?」
「風の匂いもする」
「風って匂いあるの?」
「ある」
「へえ」
少しの沈黙。
「楽しみだな」
「……ああ」
「ねえ」
「なんだ」
「父さんもさ」
「……」
「こうやって前の日、楽しみにしてたのかな」
高橋健司。
写真の中で笑っていた男。
来年を信じていた父親。
「……多分な」
「そっか」
透は嬉しそうに笑った。
「じゃあ」
「?」
「明日、父さんと同じ海見るんだね」
蓮は答えられなかった。
自分が奪った男の約束を。
自分が代わりに叶えようとしている。
それが許されることなのか。
償いなのか。
ただの自己満足なのか。
わからなかった。
「三上さん」
「なんだ」
「ありがとう」
「……」
「約束、守ってくれて」
暗闇の中。
蓮は小さく息を吐いた。
「……まだだ」
「え?」
「海を見てから言え」
「そっか」
透はくすくす笑った。
「じゃあ、明日言う」
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
蝉の声も消えた静かな夜。
明日。
海へ行く。
それは、高橋健司が息子と見るはずだった景色だった。
そして。
蓮にとってもまた、十年前から止まっていた時間を動かす一日になるのかもしれなかった。
「おやすみ」
「……ああ」
「おやすみ、三上さん」
透の声はすぐに静かになった。
眠ったのだろう。
子どもの寝息が、病室の暗闇に小さく溶けていく。
蓮は眠れなかった。
窓の外の星を見上げる。
明日は海だ。
約束した海。
来なかった来年の代わりにはならない。
失われたものは戻らない。
それでも。
明日という日だけは、まだ失われていない。
だから。
どうか。
せめて明日だけは。
何事もなく、穏やかに過ぎてくれますように。
蓮は、生まれて初めて願うように目を閉じた。
朝の光は、病院の白い壁を柔らかく照らしていた。
夏の匂いがした。
まだ八時を過ぎたばかりだというのに、窓の外では蝉が鳴いている。
空は青かった。
雲は高く、風はどこか潮の気配を含んでいるように思えた。
「寝坊した!」
透は飛び起きるなり叫んだ。
「まだ八時だ」
「海の日なのに!」
「早すぎる」
「でも海だよ!?」
透は本気で慌てていた。
病衣ではなく、昨日から準備していた私服に袖を通す。
白いTシャツ。
薄い青の半ズボン。
新品ではないけれど、何度も「これでいいかな」と確認した服だった。
「変じゃない?」
「普通だ」
「普通って褒めてる?」
「多分な」
「もっとこう……『似合ってる』とか」
「似合ってる」
「え」
「だから、似合ってる」
透は少しだけ耳を赤くした。
「……ありがとう」
病院の玄関を出た瞬間、熱気が身体を包んだ。
「暑い!」
「夏だからな」
「でも病院の外の暑さって違うね」
「どう違う」
「生きてる感じ」
透は空を見上げた。
眩しそうに目を細める。
「空、広い」
「……ああ」
「病室の窓から見るのと全然違う」
車に乗り込む。
エンジンがかかる音。
シートベルトの感触。
ラジオから流れる天気予報。
『本日は各地で猛暑日となる見込みです』
「海日和だね」
「そうだな」
車は静かに走り出した。
◇
街を抜ける。
コンビニ。
信号機。
住宅街。
ファミリーレストラン。
見慣れた景色が後ろへ流れていく。
「ねえ」
「なんだ」
「海って、急に見えるの?」
「場所による」
「じゃあ今日の海は?」
「……多分、急だ」
「楽しみ」
透は窓に額をつけた。
流れる景色をじっと見つめる。
「僕ね」
「……」
「病院以外の景色って、全部特別なんだ」
「……」
「学校も」
「スーパーも」
「公園も」
「全部」
当たり前のように過ぎていく日常。
透には、そのどれもが特別だった。
「だから」
「?」
「今日の海、一生忘れないと思う」
蓮はハンドルを握る手に力を込めた。
◇
トンネルを抜けた。
「……あ」
透が小さく声を漏らした。
「……え」
青だった。
どこまでも。
空よりも深く。
広く。
揺れている。
「海……?」
「……ああ」
「……」
「透?」
「……」
返事がない。
透は窓の向こうを見つめたままだった。
「……本当にあるんだ」
その声は、ひどく静かだった。
「当たり前だろ」
「でも」
「……」
「僕、テレビでしか見たことなかったから」
目を見開いたまま、呟く。
「本当に、こんなに大きいんだ」
車を降りる。
潮風が頬を撫でた。
波の音が聞こえる。
ざあ。
ざあ。
寄せては返す。
それを何度も繰り返していた。
「これ……」
透は息を呑んだ。
「波の音?」
「ああ」
「すごい」
ゆっくりと車椅子を押す。
砂浜までは行けなかった。
けれど、海は十分近かった。
「しょっぱい匂いする」
「だろ」
「風も違う」
「……」
「海って、生きてるみたい」
透は波を見つめた。
白い飛沫。
青い水面。
遠くを行く船。
空との境目。
「父さんも」
「……」
「これ、見たんだね」
高橋健司。
写真の中で笑っていた父親。
『来年は透も連れて、三人でまた来よう。』
叶わなかった約束。
「僕ね」
「……」
「父さんのこと、あんまり覚えてない」
「……」
「声も忘れちゃった」
「……」
「顔も、写真がないと曖昧」
透は海を見たまま言った。
「でも」
「?」
「同じ景色を見たなら」
「……」
「ちょっとだけ、父さんに近づけた気がする」
風が吹いた。
透の髪が揺れる。
「父さん」
海へ向かって、透は小さく呟いた。
「海、見れたよ」
ざあ。
波が返す。
「綺麗だね」
ざあ。
「約束、叶ったよ」
蓮は目を閉じた。
本当は違う。
この約束を叶えるはずだったのは、自分ではない。
高橋健司だった。
父親だった。
「……ごめんな」
思わず零れた。
「え?」
「……」
「三上さん?」
「……なんでもない」
透は少しだけ不満そうな顔をした。
「またそれ」
「……」
「なんでもない、って便利だね」
「そうだな」
「でも」
透は笑った。
「今日は、なんでもなくない日だよ」
そう言って、海を指差した。
「だって、海だもん」
青かった。
眩しかった。
寄せては返す波の向こうには、まだ知らない世界が続いている。
人生みたいだ、と蓮は思った。
思い通りにはならない。
失うものもある。
戻らないものもある。
それでも波は止まらない。
前へ進む。
「三上さん」
「なんだ」
「ありがとう」
「……」
「今度はさ」
「?」
「秋も楽しみだね」
焼き芋。
冬の雪。
春の桜。
透はまた未来の話をする。
蓮は海を見つめた。
青の向こうにあるものは見えない。
明日も。
来年も。
誰にもわからない。
それでも。
「……ああ」
蓮は頷いた。
「楽しみだな」
透は嬉しそうに笑った。
その笑顔の隣で、波の音は変わらず続いていた。
ざあ。
ざあ。
父親が聞いた波の音。
息子が初めて聞く波の音。
そして、殺した男の代わりにその隣へ立つ男の波の音。
青の向こうには答えなんてなかった。
ただ、夏の海だけが、どうしようもなく美しかった。
海からの帰り道、透は珍しく静かだった。
助手席の窓に頬を寄せたまま、流れていく景色を見つめている。
白いガードレール。
海沿いの小さな食堂。
色褪せた自動販売機。
防波堤の上を歩く釣り人。
夏の光は少しずつ傾き始め、道路脇の影を長くしていた。
車内にはエアコンの音だけが流れている。
「……疲れたか」
蓮が訊ねると、透は少し遅れて振り返った。
「ううん」
「じゃあ眠いのか」
「それも違う」
「じゃあ何だ」
透はまた窓の外を見た。
「考えてた」
「何を」
少しの沈黙。
タイヤが道路の継ぎ目を越えるたび、小さな振動が伝わってくる。
「ねえ、三上さん」
「なんだ」
「死んだ人って、寂しいのかな」
蓮はハンドルを握る手に力を込めた。
「……急だな」
「海を見てたら思ったんだ」
「……」
「父さん、綺麗だなって思ったのかな」
「……」
「僕と同じだったのかな」
窓の外では、青かった海が少しずつ遠ざかっていく。
「でも」
透は続けた。
「死んだ人って、もう寂しいとか嬉しいとか、ないのかな」
「……」
「だったらさ」
透は小さく笑った。
「置いていかれた人のほうが、寂しいのかな」
車内が静かになった。
ラジオも消していた。
聞こえるのはエンジン音だけだった。
「……どうだろうな」
蓮はようやく答えた。
「わからん」
「そっか」
「死んだことないからな」
「それもそうだ」
透はくすりと笑った。
「でも」
「?」
「僕はね」
「……」
「残されるほうが寂しい気がする」
蓮は黙ったまま前を見た。
「だって」
「……」
「死んだ人は、その先を知らないでしょ」
「……」
「でも残された人は、ずっと知ってる」
「……」
「明日も」
「来年も」
「十年後も」
「その人がいないこと」
信号が赤に変わった。
車が止まる。
横断歩道を、親子連れが手を繋いで渡っていった。
小さな男の子が、アイスを持って笑っている。
「高橋のおばさん」
透がぽつりと言った。
「きっと寂しかったんだろうね」
「……」
「母さんも」
「……」
「父さんが死んで」
「……」
「寂しかったのかな」
青信号になる。
車はまた走り始めた。
蓮は喉の奥に何かが引っかかるのを感じた。
高橋美咲。
病院で会った時の、泣き疲れた顔。
『どうして、あなただけ生きてるの?』
『お願いだから、もうこれ以上傷つけないで』
そして、自分の母親。
判決の日、法廷の外で泣いていた背中。
息子が人を殺したという現実を抱えたまま、生き続けた人。
「三上さん?」
「……なんだ」
「大丈夫?」
「何がだ」
「顔、怖い」
「そうか」
「うん」
透は少し考えるように眉を寄せた。
「ねえ」
「なんだ」
「三上さんってさ」
「……」
「誰かを置いてきた?」
息が止まった。
「……」
「なんとなく」
「……」
「そんな顔する時あるから」
透は窓の外を見たまま言った。
「僕ね」
「……」
「死ぬの怖いけど」
「……」
「誰かを置いていくのも怖い」
「……」
「もし僕がいなくなったら」
「……」
「三上さん、泣く?」
夕陽が車内に差し込んだ。
透の横顔を、オレンジ色に染める。
「……知らん」
「嘘だ」
「……」
「泣くでしょ」
「……」
「三上さん、嘘下手だもん」
透は笑った。
少しだけ寂しそうに。
「僕さ」
「……」
「死ぬのも嫌だけど」
「……」
「忘れられるのも嫌だな」
「……」
「でも」
「?」
「泣いてくれる人がいたら」
透は海のほうを振り返った。
もう見えなくなった青い景色へ。
「ちょっと安心する」
「……」
「ちゃんと生きてたんだなって思えるから」
蓮は何も言えなかった。
高橋健司を思った。
妹がいた。
妻がいた。
透がいた。
泣く人がいた。
忘れない人がいた。
だからきっと。
あの人は二回目の死を迎えていない。
「……透」
「ん?」
「お前は」
「?」
「忘れられないよ」
透は目を瞬いた。
「なんで?」
「うるさいから」
「ひどい!」
「騒がしいし」
「うん」
「面倒だし」
「うん」
「すぐアイス食うし」
「悪口じゃん」
「……」
「でも」
蓮は前を向いたまま言った。
「忘れられない」
透はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「そっか」
「……」
「じゃあ、よかった」
夕陽は少しずつ沈んでいく。
今日という日も終わる。
海を見た日。
父親と同じ景色を見た日。
置いていかれることについて考えた日。
「三上さん」
「なんだ」
「もしさ」
「……」
「僕が先にいなくなったら」
「……」
「焼き芋食べる時、思い出してね」
「……」
「雪降ったら思い出して」
「……」
「桜咲いたら思い出して」
「……」
「海見たら思い出して」
蓮は唇を噛んだ。
「……勝手に死ぬ話するな」
「でも」
「するな」
「……」
「秋も行く」
「冬も行く」
「春も行く」
「……」
「だから」
信号待ちで車が止まった。
夕焼けの中。
蓮は初めて、少し怒ったような声で言った。
「置いていくな」
透は目を見開いた。
それから。
「……うん」
静かに頷いた。
「頑張る」
その声は、小さかった。
でも確かだった。
車は病院へ向かって走っていく。
夏の終わりへ向かう道を。
誰も置いていきたくないと願いながら。
それでも人は、いつか誰かを置いていく。
だからこそ。
一緒にいる今日という日は、どうしようもなく愛おしいのだと。
沈んでいく夕陽が、静かに教えてくれていた。
海へ行った日から三日後。
病院の朝は、いつも通りの顔をして始まった。
検温の時間。
点滴の交換。
廊下を行き交う看護師たちの足音。
どこかの病室から聞こえるテレビの音。
消毒液の匂い。
そして、窓の外では相変わらず蝉が鳴いていた。
季節は待ってくれない。
誰かの事情なんてお構いなしに、夏は少しずつ終わりへ向かっていた。
「ねえ」
朝食の牛乳を飲みながら、透が言った。
「海の写真、現像できたかな」
「今どき現像って言うのか」
「じゃあ何て言うの?」
「知らん」
「知らないの?」
「興味ない」
「じゃあ、できたら見ようね」
「……ああ」
「父さんにも見せたいな」
蓮の手が止まった。
「……」
「仏壇とかあったらさ」
透はパンをちぎりながら笑った。
「『海行ってきたよ』って報告するの」
「……」
「きっと、羨ましがるね」
「どうしてだ」
「だって」
透は得意げに笑った。
「僕、綿あめも食べたし、花火も見たし、海も見たもん」
「欲張りだな」
「人生、欲張ったほうが楽しいよ」
「……」
「三上さんも、もっと欲張ればいいのに」
蓮は答えなかった。
欲しいものを望む資格が、自分にあるとは思えなかった。
◇
昼過ぎ。
病室の扉がノックされた。
「失礼します」
その声を聞いた瞬間、蓮の背筋が凍った。
振り返る。
そこにいたのは、高橋美咲だった。
透の母親。
高橋健司の妻。
そして。
蓮が人生を壊した人。
「……母さん?」
透が目を丸くした。
「どうしたの?」
「たまたま近くまで来たから」
美咲は笑った。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
「少しだけ、顔を見たくて」
「本当?」
「ええ」
透は嬉しそうに笑った。
「海行ったんだよ!」
美咲の視線が揺れた。
「……海?」
「うん!」
「三上さんと!」
病室の空気が静まり返る。
「本当に?」
美咲は蓮を見た。
「……はい」
「外出許可をいただいて」
「……」
「海へ」
しばらく沈黙が続いた。
透だけが嬉しそうに話し続ける。
「すごかったんだよ!」
「波の音も!」
「匂いも!」
「父さんと同じ海、見れた!」
美咲は静かに息を吸った。
「……そう」
「母さん?」
「よかったわね」
その声は震えていた。
「本当に」
◇
「少し、話せますか」
透が看護師に呼ばれて検査へ行った後。
美咲はそう言った。
病室には二人だけになった。
「……はい」
蓮は頭を下げた。
沈黙。
窓の外では蝉が鳴いている。
「海へ行ったんですね」
「……はい」
「透がずっと行きたがっていた場所です」
「……」
「健司が」
美咲は窓の外を見た。
「『来年は三人で行こう』って言ってたんです」
「……」
「知ってます」
「そう」
また沈黙。
「……怒って、いますか」
蓮は小さく訊ねた。
美咲はしばらく答えなかった。
「怒っています」
「……」
「今でも」
「……」
「あなたを見ると」
その声は静かだった。
「どうして、と思います」
「……」
「どうして健司だったのか」
「……」
「どうして透だったのか」
「……」
「どうして、あなたは生きているのか」
蓮は俯いた。
「……すみません」
「謝らないでください」
美咲は言った。
「その言葉で戻ってくるなら」
「……」
「私は何百回でも聞きます」
「……」
「でも、戻ってこないでしょう」
「……はい」
病室の時計が時を刻む。
カチ。
カチ。
カチ。
「私」
美咲は小さく笑った。
「透のところへ来るのが怖かったんです」
「……」
「痩せていく姿を見るのが」
「……」
「元気なふりをするのが」
「……」
「『大丈夫』って言うのが」
美咲は目を伏せた。
「母親なのに」
「……」
「逃げてしまった」
「……」
「だから」
蓮を見た。
「海へ連れて行ってくれて、ありがとうございました」
「……え」
「感謝なんてしたくなかった」
「……」
「でも」
美咲の目に涙が浮かんだ。
「透の『楽しかった』って顔を見たら」
「……」
「ありがとうって、言わないといけない気がしたんです」
蓮は言葉を失った。
「……そんな資格」
「ありません」
美咲ははっきりと言った。
「あなたを許したわけじゃない」
「……」
「これからも許せないと思います」
「……」
「でも」
美咲は涙を拭った。
「透にとって、あなたとの時間は本物なんでしょう」
「……」
「それだけは」
「否定したくありません」
◇
検査を終えた透が戻ってきた。
「母さん!」
「おかえり」
「ねえ、次は焼き芋食べるんだよ」
「まだ夏よ?」
「秋はすぐ来るもん」
透は笑った。
「雪も見るし」
「桜も見る」
「忙しいんだから」
「そうね」
美咲は笑った。
少し泣きそうな顔で。
「忙しいわね」
「でしょ?」
「うん」
透は満足そうに頷いた。
「だからさ」
「?」
「母さんも一緒に行こうよ」
美咲は目を見開いた。
「……え?」
「焼き芋」
「雪」
「桜」
「みんなで行こう」
透は当たり前のように言った。
「家族なんだから」
家族。
その言葉に。
美咲は泣いた。
声を押し殺すように。
透には見えないように顔を伏せながら。
蓮は何も言えなかった。
許されない。
失ったものは戻らない。
それでも。
残された人たちは生きていく。
泣きながら。
怒りながら。
それでも誰かと食卓を囲み、季節を迎えていく。
「母さん?」
「……うん」
美咲は涙を拭った。
「行きましょう」
「本当!?」
「ええ」
「やった!」
透は嬉しそうに笑った。
病室の窓の向こうでは、蝉の声が少しだけ弱くなっていた。
夏は終わりへ向かっている。
けれど。
その先にも季節は続いていく。
秋も。
冬も。
春も。
誰かを失った人たちの時間もまた、止まることなく流れていくのだった。
九月の風は、少しだけ夏を忘れ始めていた。
病院の窓を開けると、熱を帯びていた空気の奥に、乾いた涼しさが混じっている。
蝉の声は減った。
代わりに、夕方になると鈴虫の声が聞こえるようになった。
季節は確実に進んでいた。
「焼き芋まだ?」
朝食の後、透は真剣な顔で言った。
「九月入ったじゃん」
「早い」
「もう秋だよ?」
「まだ暑い」
「気持ちの問題だよ」
「芋に気持ちは関係ない」
「ある!」
透は胸を張った。
「秋って、焼き芋を楽しみに待つ時間も含めて秋なんだから」
「面倒くさいな」
「失礼だな」
病室に笑い声が響く。
変わらない朝だった。
点滴の音。
看護師たちの足音。
窓の外の青空。
けれど、その穏やかさの中に、小さな違和感が生まれ始めていた。
◇
「三上さん」
「なんだ」
「昔、何してたの?」
昼過ぎ。
トランプをしながら、透は何気なく尋ねた。
「……急だな」
「気になった」
「なんで」
「だって」
透はカードを並べながら言った。
「三上さん、自分の話しないじゃん」
「する必要ない」
「あるよ」
「ない」
「ある」
透は頬を膨らませた。
「僕ばっかり話してる」
「お前が勝手に喋るんだろ」
「そうだけど」
「じゃあ問題ない」
「問題ある」
透はカードを机に置いた。
「好きな食べ物は?」
「カレー」
「嫌いな食べ物は?」
「特にない」
「学生の頃は?」
「忘れた」
「友達は?」
「いた」
「恋人は?」
「いない」
「趣味は?」
「ない」
「……」
「……」
「つまんない人生」
「余計なお世話だ」
透はじっと蓮を見つめた。
「ねえ」
「なんだ」
「嘘ついてない?」
蓮の指先が止まった。
「……何がだ」
「なんとなく」
「……」
「三上さんって」
透は首を傾げた。
「本当のこと、言わない時あるよね」
病室に沈黙が落ちた。
窓の外では風が木々を揺らしている。
「……誰にでもあるだろ」
「言いたくないこと?」
「ああ」
「そっか」
透はあっさり頷いた。
「じゃあ、いいや」
「……」
「でも」
「?」
「いつか話したくなったら聞く」
「……」
「無理には聞かない」
透は笑った。
「僕だって秘密あるし」
「秘密?」
「うん」
「例えば?」
「言わない」
「なんだそれ」
「秘密だから」
透は得意げに笑った。
その笑顔に、蓮は胸の奥が痛んだ。
秘密。
自分の秘密は、そんな軽いものではない。
人を殺した。
透の父親を奪った。
その事実は、いずれこの子を傷つける。
それでも。
今、この笑顔を壊したくなかった。
◇
夕方。
検査から戻った透は、珍しく疲れた顔をしていた。
「大丈夫か」
「うん」
「顔色悪いぞ」
「ちょっとだけ」
ベッドに横になる。
窓の外では、夕焼けが病室を染めていた。
「ねえ」
「なんだ」
「三上さん」
「……」
「僕さ」
「?」
「知らないままのほうが幸せなことってあると思う?」
蓮は息を呑んだ。
「……どういう意味だ」
「別に」
透は天井を見つめた。
「テレビでやってた」
「昔の秘密を知って家族が壊れるやつ」
「……」
「知らなかったら幸せだったのかなって」
「……」
「どう思う?」
蓮は答えられなかった。
もし透が真実を知らなければ。
このまま笑って過ごせるのかもしれない。
焼き芋を食べて。
雪を見て。
桜を見て。
何も知らずに。
「……わからん」
「そっか」
「でも」
蓮はゆっくりと言った。
「知らないままの幸せもある」
「……」
「知って苦しむこともある」
「……」
「だから」
「?」
「簡単には答えられない」
透はしばらく黙っていた。
やがて。
「僕は」
「……」
「知りたいかな」
「……」
「苦しくても」
「……」
「大事な人のことなら」
蓮は俯いた。
「その人の全部を知って」
「……」
「それでも一緒にいたいか決めたい」
「……」
「知らないまま優しくされるより」
「……」
「知った上で選びたい」
夕焼けが、二人の影を長く伸ばした。
その言葉は、まるで未来からの宣告のようだった。
◇
消灯後。
透は小さな声で言った。
「三上さん」
「なんだ」
「僕ね」
「……」
「三上さんのこと、好きだよ」
「……」
「変な意味じゃなくて」
「……」
「家族とも違うけど」
「……」
「大事な人」
蓮は何も言えなかった。
「だから」
「?」
「いつか秘密があっても」
「……」
「ちゃんと話してね」
暗闇の中。
透の寝息が少しずつ深くなっていく。
蓮は眠れなかった。
知らないままでいる幸せ。
知って壊れる幸せ。
どちらが正しいのかはわからない。
けれど。
真実は、確実に近づいていた。
秋の虫の声が、窓の外で静かに鳴いている。
焼き芋の季節はもうすぐだ。
雪も降るだろう。
桜も咲くだろう。
その前に。
自分は、この子に何を伝えるのだろう。
蓮は暗い天井を見つめながら、初めて「告白」という言葉を恐れた。
十月の風は、病院の窓を少しだけ鳴らした。
夏の匂いは薄れ、代わりに乾いた空気が廊下を通り抜けていく。
中庭の木々も、ほんの少し色を変え始めていた。
「焼き芋」
朝一番、透は言った。
「まだ早い」
「いや、もういい頃合いだと思う」
「何の頃合いだ」
「焼き芋の頃合い」
透は真剣だった。
「秋ってね、待つ季節なんだよ」
「待つ?」
「うん」
「夏は『行こう』で始まるじゃん」
「海とか」
「祭りとか」
「でも秋は違う」
「……」
「焼き芋屋さんの音を待ったり」
「葉っぱが赤くなるのを待ったり」
「寒くなるのを待ったり」
「だから、秋って好き」
蓮は窓の外を見た。
確かに、夏とは違う光だった。
急かされるような眩しさではなく。
少し立ち止まらせるような光。
「三上さん」
「なんだ」
「焼き芋食べたことある?」
「ある」
「どうだった?」
「熱かった」
「感想下手!」
病室に笑い声が広がった。
◇
午後。
透はベッドの上で、海へ行ったときの写真を見返していた。
「見て」
「なんだ」
「この時、三上さん変な顔」
「元からだ」
「開き直った」
透は笑った。
海を背景にした写真。
花火の日の写真。
綿あめを持っている自分。
少し困ったような顔の蓮。
「ねえ」
「なんだ」
「写真って不思議だよね」
「……」
「その瞬間は終わってるのに」
「まだここにいるみたい」
透は一枚一枚、宝物のように指先でなぞった。
「父さんの写真もそう」
「……」
「本当はもういないのに」
「笑ってる」
「……」
「だから、たまにわからなくなる」
「何がだ」
「死んだって、どういうことなんだろうって」
蓮は答えられなかった。
死んだ人。
写真の中の人。
記憶の中の人。
罪の中の人。
どこまでが「いない」で、どこからが「いる」なのか。
◇
「落ちた」
透が呟いた。
写真の束が、ベッドの脇へ散らばった。
「あーあ」
「拾う」
蓮はしゃがみ込む。
床に散らばった写真を一枚ずつ拾っていく。
海。
病室。
祭り。
そして。
一枚だけ。
違う写真が混じっていた。
男が笑っていた。
透と手を繋ぎ。
海を背にして。
優しそうに笑っていた。
高橋健司。
蓮の指先が止まった。
喉が乾く。
呼吸が浅くなる。
写真の中の男の目。
あの日。
怒鳴り声。
雨。
震える自分の手。
倒れる身体。
血。
「三上さん?」
透の声で我に返った。
「……」
「大丈夫?」
「……ああ」
「顔、真っ白」
「……」
「知ってるの?」
透は不思議そうに首を傾げた。
「父さんのこと」
「……」
病室の時計が時を刻む。
カチ。
カチ。
カチ。
「なんで」
透は蓮を見つめた。
「そんな顔するの?」
何かに気づいたような目だった。
「……」
「前も」
「……」
「海の時も」
「……」
「父さんの話すると、変な顔する」
蓮は写真を握りしめた。
「三上さん」
「……」
「父さんと、会ったことある?」
静かな問いだった。
責めるでもなく。
疑うでもなく。
ただ、本当に知りたいという声。
「……」
答えは喉元まで来ていた。
ある。
会った。
忘れられるわけがない。
お前の父親を。
俺は。
「……仕事で」
その言葉は、気づけば口から零れていた。
「少しだけ」
透は蓮を見つめた。
「……そっか」
「……」
「だからか」
納得したような。
それでいて。
どこか納得しきれていない顔だった。
◇
夕方。
透は窓際で、父親の写真を見つめていた。
「三上さん」
「なんだ」
「僕ね」
「……」
「父さんのこと、全部知ってたわけじゃないんだ」
「……」
「好きな食べ物も」
「学生時代も」
「母さんとの馴れ初めも」
「知らないことばっかり」
夕焼けが写真を赤く染める。
「でも」
「……」
「父さんのこと、好きだった」
「……」
「全部知らなくても」
「……」
「大事な人だった」
透は写真を胸に抱いた。
「だから」
「?」
「もし」
「……」
「大事な人に、知らないことがあったとしても」
「……」
「それだけで嫌いにはならないと思う」
蓮は目を伏せた。
「でも」
透は静かに続けた。
「嘘をつかれたら」
「……」
「悲しいかも」
窓の外では、赤く染まった空を鳥が横切っていく。
「怒ると思う」
「……」
「許せないかもしれない」
「……」
「でも」
「……」
「嫌いになるかどうかは、わからない」
透は笑った。
少し困ったように。
「人の気持ちって、難しいね」
蓮は何も言えなかった。
許せない。
でも嫌いになれるとは限らない。
好きだった時間まで嘘になるわけではない。
その曖昧さが。
正しさを求める大人よりもずっと残酷だった。
◇
消灯後。
透は眠そうな声で言った。
「三上さん」
「なんだ」
「僕さ」
「……」
「正解って、あんまりない気がする」
「……」
「誰かを許すのも」
「許さないのも」
「……」
「きっと、間違いじゃない」
蓮は暗闇を見つめた。
「……」
「だから」
「?」
「もし、何か話したいことがあるなら」
「……」
「ちゃんと聞くよ」
透はあくびをした。
「怒るかもしれないけど」
「泣くかもしれないけど」
「……」
「聞く」
寝息が静かに聞こえ始める。
窓の外では、秋の虫が鳴いていた。
正解はない。
許すことも。
許さないことも。
わからないまま抱えて生きるしかないことがある。
蓮は写真立ての中の高橋健司を見つめた。
写真の中の男は、相変わらず笑っていた。
責めることもなく。
許すこともなく。
ただ、そこにいた。
そして蓮は初めて思った。
もしかすると、人は「答え」を求めすぎるのかもしれない。
本当は。
答えの出ない問いを抱えたまま、それでも誰かと季節を迎えていくこと。
それこそが、生きるということなのではないだろうか。
焼き芋の季節は、もうすぐそこまで来ていた。
秋は、匂いからやってくる。
透はそう言った。
窓を開けた病室に、少し冷たい風が入り込む。
夏の終わりには湿った土の匂いがしていた中庭も、今は乾いた葉の匂いをまとっていた。
遠くで鳥が鳴く。
木々はまだ青さを残しているのに、その輪郭だけが少し柔らかくなっている。
「ねえ」
透は窓の外を見ながら言った。
「秋ってさ」
「なんだ」
「静かだよね」
「そうか?」
「うん」
「夏って、うるさいじゃん」
「蝉とか」
「祭りとか」
「花火とか」
「海とか」
「でも秋って」
透は目を細めた。
「ちゃんと聞かないと気づかない」
「……」
「風とか」
「葉っぱの音とか」
「夕方の匂いとか」
「だから好き」
蓮は返事をしなかった。
けれど、病室に差し込む光は確かに変わっていた。
同じ窓。
同じ白い壁。
同じベッド。
なのに季節だけが静かに移り変わっていく。
◇
昼過ぎ。
その声は突然やってきた。
「いーしやーきいもー」
透が跳ね起きた。
「……え?」
「いーしやーきいもー」
「……!」
透は蓮を見た。
「聞こえた?」
「聞こえた」
「聞こえた!?」
「二回言うな」
「本物!?」
病室の窓にしがみつく。
「本当に来るんだ!」
「……」
「都市伝説じゃなかった!」
「誰がそんなこと言った」
「テレビでしか見たことなかったから!」
透は振り返った。
「行こう」
「何を」
「焼き芋」
「無理だ」
「なんで」
「病院だぞ」
「……」
「……」
「先生に相談する」
「!」
透の顔がぱっと明るくなった。
「本当に?」
「駄目なら駄目だ」
「でも聞いてくれる?」
「……ああ」
「三上さん」
「なんだ」
「ありがとう」
「まだ何もしてない」
「それでも」
透は笑った。
「嬉しい」
◇
外出許可は短時間だけ下りた。
病院の玄関前。
秋の風は思ったより冷たかった。
「寒い!」
「言うと思った」
「でも気持ちいい」
透は空を見上げた。
「空、高いね」
「秋だからな」
「空って季節で変わるんだ」
「知らなかったのか」
「病室の窓って、切り取られた空しか見えないから」
蓮は車椅子を押した。
石焼き芋の軽トラックは、少し先の住宅街の角で止まっていた。
甘い匂いが漂っている。
「……!」
透は目を輝かせた。
「これ?」
「ああ」
「焼き芋?」
「ああ」
「思ったより普通だね」
「何だと思ってた」
「もっと神々しい感じ」
「芋だぞ」
「夢がない」
透は笑った。
◇
半分に割られた焼き芋から、白い湯気が立ち上る。
「熱っ」
「だから言った」
「でも」
透は一口食べた。
「……」
「どうだ」
「……」
「透?」
「……甘い」
小さな声だった。
「こんな味なんだ」
「……」
「焼き芋って」
「……」
「もっと、パサパサしてると思ってた」
「失礼だな」
「芋に謝って」
「なんで俺が」
透は笑った。
そしてもう一口食べる。
「美味しい」
「……そうか」
「父さんも食べたことあるかな」
蓮の手が止まった。
「……あるだろ」
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
透は嬉しそうに言った。
「また一個、父さんと同じことできた」
秋風が吹いた。
焼き芋の甘い匂いが流れていく。
◇
「ねえ」
帰り道。
透は焼き芋を抱えながら言った。
「死んだ人を大切にすることと」
「……」
「生きてる人を大切にすることって」
「……」
「違うのかな」
蓮は足を止めた。
「どういう意味だ」
「父さんを忘れたくない」
「……」
「でも」
「……」
「父さんのことばっかり考えてたら」
「母さんとも」
「三上さんとも」
「今の時間を大事にできなくなる気がする」
風が落ち葉を転がしていく。
「父さんは大事」
「……」
「でも」
「……」
「今、生きてる人も大事」
「……」
「両方大事じゃ駄目なのかな」
透は困ったように笑った。
「どっちか選ばなきゃいけないのかな」
蓮は答えられなかった。
高橋健司を大切に思うこと。
そして、自分との時間を大切に思うこと。
その二つは両立してはいけないのだろうか。
被害者と加害者。
死者と生者。
人はいつも、どちらかを選ばせたがる。
けれど。
「……わからんな」
「うん」
「俺にもわからん」
「そっか」
透は安心したように笑った。
「じゃあ、いいや」
「何がだ」
「大人でもわからないなら」
「……」
「僕も、わからないままでいい」
そう言って、焼き芋を見つめた。
「でも」
「?」
「美味しいものは美味しい」
「それは正解だね」
「……ああ」
「あと」
「?」
「今、一緒に食べる人がいるのは嬉しい」
蓮は透を見た。
「父さんがいなくなったことは悲しい」
「……」
「それは変わらない」
「……」
「でも」
「……」
「だからって、今ここにいる人を大切にしちゃいけない理由にはならないよね」
秋の空は高かった。
青くて。
少し寂しくて。
どうしようもなく綺麗だった。
◇
その日の夜。
透は眠そうな声で言った。
「三上さん」
「なんだ」
「もし」
「……」
「誰かに酷いことされたとして」
「……」
「その人のことを嫌いになれなかったら」
「……」
「それって駄目なのかな」
蓮は息を止めた。
「……」
「父さんだったら、何て言うかな」
返事はない。
天井を見つめる。
暗闇の中。
秋の虫が鳴いていた。
「僕ね」
透は小さく呟いた。
「誰かを好きだった時間まで、嘘にはしたくない」
「……」
「たとえ、その人に知らない顔があったとしても」
「……」
「でも、傷ついたことも本当だから」
「……」
「難しいね」
「……ああ」
「本当に」
正解はない。
許すことも。
許さないことも。
忘れることも。
覚えていることも。
どれも誰かを傷つける。
それでも人は、誰かと生きていく。
答えのない問いを抱えたまま。
焼き芋の甘い匂いだけが、まだほんの少し、病室に残っていた。
秋は深まっていた。
病院の中庭にある桜の木は、春にはあれほど華やかだったはずなのに、今は静かに葉を落としている。
誰にも見送られないまま、ひらり、ひらりと。
それは少し、死に似ていると蓮は思った。
大きな音もしない。
世界も止まらない。
ただ、それまでそこにあったものが、ある日を境にいなくなる。
それだけだ。
「ねえ」
窓際で本を読んでいた透が顔を上げた。
「葉っぱってさ」
「なんだ」
「自分が落ちる日、わかるのかな」
「……」
「風に吹かれて、『今日だ』って思うのかな」
「知らん」
「じゃあ人は?」
透はしおりを挟んだ。
「人は、自分が死ぬ日ってわかるのかな」
「……」
「僕はたまに考えるんだ」
蓮は返事をしなかった。
「怖いんだよね」
透は笑った。
泣きそうな笑い方だった。
「でも、わからないから、焼き芋食べたり海行ったりできるのかな」
「……」
「全部知ってたら、怖くて何もできない気もする」
「……そうかもな」
「うん」
「だから、知らないって悪いことばっかりじゃないのかも」
透はまた本を開いた。
けれど、視線は文字を追っていなかった。
◇
午後。
看護師が検査の呼び出しに来た。
「高橋くん、行こうか」
「はーい」
透は車椅子を動かしながら振り返る。
「三上さん、待ってて」
「ああ」
病室に一人残った蓮は、無意識に鞄を整理し始めた。
薬の説明書。
財布。
古びた手帳。
そして。
一枚の紙切れ。
蓮は凍りついた。
新聞の切り抜きだった。
何度捨てようとしても捨てられなかったもの。
十年前の記事。
見出しには大きく書かれている。
> 『会社員刺殺事件 元アルバイトの男を逮捕』
記事の隅には、若い頃の自分の写真。
そして。
被害者の名前。
高橋健司。
「……っ」
急いで記事をしまおうとした、その時だった。
「ただいまー」
病室の扉が開いた。
透だった。
「検査早く終わっ……」
言葉が止まる。
床に落ちた紙。
青ざめた蓮。
そして。
記事の写真。
「……」
「透」
透はゆっくりと新聞を拾った。
「……これ」
蓮は動けなかった。
「……」
「三上さん?」
透の指先が震えていた。
記事を読む。
一行。
また一行。
そして。
「……高橋……健司?」
病室の空気が変わった。
何かが、壊れる音がした。
◇
「……これ」
透は顔を上げた。
「父さん?」
蓮は答えられなかった。
「……」
「違うって言って」
「……」
「仕事で知ってただけだよね?」
「……」
「違うって」
沈黙。
病室の時計が音を立てる。
カチ。
カチ。
カチ。
「……透」
「違うって言ってよ」
その声は震えていた。
「……」
「お願いだから」
「……」
「嘘だって言って」
蓮は唇を噛んだ。
血の味がした。
ここでまた嘘をつくこともできた。
記事を取り上げることもできた。
誤魔化すこともできた。
でも。
透は言ったのだ。
> 「知った上で選びたい。」
だから。
「……本当だ」
透の顔から、表情が消えた。
「……え」
「……俺が」
「……」
「お前の父親を殺した」
静寂。
何も聞こえなかった。
蝉も。
虫の声も。
時計の音さえも。
「……」
「……は?」
透は笑った。
理解できない時に浮かべるような、空っぽの笑顔だった。
「え?」
「……」
「何言ってるの?」
「……」
「意味わかんない」
「……」
「だって」
透は一歩下がった。
「だって」
「……」
「海、行ったじゃん」
「……」
「焼き芋も食べたじゃん」
「……」
「花火も見たじゃん」
「……」
「僕」
「……」
「三上さんのこと」
「……」
「好きだったのに」
涙が落ちた。
「なんで?」
「……」
「なんで父さんだったの?」
「……」
「なんで黙ってたの?」
「……」
「なんで僕に優しくしたの?」
透は泣きながら叫んだ。
「返してよ!」
「……」
「父さん返してよ!」
「……」
「海、父さんと行きたかった!」
「……」
「焼き芋だって!」
「……」
「雪だって!」
「……」
「桜だって!」
「……」
「全部、父さんと行きたかった!」
蓮は頭を下げた。
「……ごめん」
「謝らないでよ!」
透は泣き叫んだ。
「そんなの!」
「……」
「謝ったって!」
「……」
「父さん帰ってこないじゃん!」
病室の外で、誰かの足音が止まった。
けれど誰も入ってこない。
「……僕」
透はしゃくり上げた。
「許せない」
「……」
「絶対許せない」
「……ああ」
「嫌い」
「……」
「嫌いになりたい」
「……」
「でも」
透は顔を覆った。
「……なんで」
「……」
「なんで、嫌いになれないの」
その言葉に。
蓮は顔を上げた。
「……」
「海、楽しかった」
「……」
「焼き芋、美味しかった」
「……」
「三上さんといた時間」
「……」
「全部、本当だった」
透は泣きながら首を振った。
「だから余計に嫌だよ」
「……」
「嫌いになれたら楽なのに」
「……」
「父さんのことも大事で」
「……」
「三上さんとの時間も本当で」
「……」
「どうしたらいいのかわかんないよ……」
蓮は何も言えなかった。
許されない。
でも、憎しみだけでもない。
人の心は、もっと曖昧で。
もっと身勝手で。
もっと優しい。
だからこそ、こんなにも残酷だった。
秋の風が窓を揺らした。
落ち葉が舞っていた。
答えはまだ、どこにもなかった。
翌朝、病院の窓から見える空は驚くほど青かった。
昨日、あれほど泣いたことが嘘のように。
世界は何もなかった顔をしている。
看護師は「おはようございます」と挨拶をし、点滴を交換する。
廊下では誰かが笑っていた。
売店では新しい雑誌が並ぶ。
中庭では、風に吹かれた落ち葉が地面を転がっていく。
誰かの人生が壊れた翌日でも。
朝は来る。
それは残酷で。
同時に、救いでもあった。
◇
透は目を覚ましていた。
けれど、蓮の方を見なかった。
「……」
「……」
沈黙だけが病室にあった。
昨日までなら。
「焼き芋まだ残ってる?」
とか。
「今日の昼ご飯なんだろうね」
とか。
そんな言葉が自然に交わされていた。
でも今は違った。
「……透」
「……」
「昨日のこと」
「聞きたくない」
即答だった。
透は壁の方を向いたまま言った。
「今は、無理」
「……ああ」
「父さんのこと考えると苦しいし」
「……」
「三上さんの顔見るともっと苦しい」
「……」
「だから」
「……」
「少し黙ってて」
「……わかった」
蓮はそれ以上何も言わなかった。
◇
昼過ぎ。
透は突然言った。
「ねえ」
「……なんだ」
「人ってさ」
「……」
「悪い人と、良い人に分けられると思う?」
蓮は答えなかった。
「小さい頃は」
透は天井を見つめた。
「悪いことする人は悪い人だと思ってた」
「……」
「良いことする人は良い人で」
「……」
「だから簡単だった」
「……」
「でも」
透はゆっくりとこちらを向いた。
目は腫れていた。
「三上さんは」
「……」
「父さんを殺した」
「……ああ」
「それは悪いことだと思う」
「……」
「許せない」
「……」
「でも」
透は唇を噛んだ。
「海に連れて行ってくれた」
「……」
「焼き芋も食べた」
「……」
「僕が苦しい時、隣にいてくれた」
「……」
「それも本当」
病室に秋の日差しが差し込む。
「じゃあ」
「……」
「三上さんは悪い人なの?」
蓮は俯いた。
「……悪い人だ」
「でも」
「……」
「それだけじゃない」
「……」
「そうだな」
透は小さく頷いた。
「それが嫌なんだよ」
「……」
「悪い人だったら、嫌いになれた」
「……」
「良い人だったら、許せた」
「……」
「でも」
「……」
「どっちでもない」
涙がまた滲んだ。
「だから、どうしたらいいかわからない」
◇
夕方。
美咲が病室を訪れた。
透の様子を見て、何かを察したようだった。
「透?」
「……母さん」
「どうしたの?」
透はしばらく黙っていた。
そして。
「母さん」
「うん」
「父さんを殺した人って」
「……」
「絶対に悪い人?」
美咲の表情が固まった。
病室の空気が張りつめる。
「……どうして?」
「答えて」
「……」
長い沈黙。
やがて美咲は静かに椅子へ座った。
「透」
「……」
「お母さんはね」
「……」
「今でも許せない」
「……」
「お父さんを返してほしいと思ってる」
「……」
「でも」
美咲は蓮を見た。
「人って、一つの言葉では終わらないの」
「……」
「『悪い人』って言えば楽なのかもしれない」
「……」
「でも、その人にも誰かを笑わせた時間があったり」
「誰かに優しくしたことがあったりする」
「……」
「だから余計に苦しい」
透は泣きそうな顔で聞いていた。
「じゃあ」
「……」
「母さんは、三上さんのことどう思ってるの?」
「……」
美咲はすぐには答えなかった。
窓の外を見つめる。
落ち葉が一枚、風に舞った。
「わからない」
透は目を見開いた。
「……え?」
「許せない」
「でも、憎しみだけでもない」
「感謝したくない」
「でも、感謝してる自分もいる」
「……」
「だから」
美咲は小さく笑った。
「わからないの」
透は泣いた。
「母さんでも?」
「うん」
「大人なのに?」
「大人でも」
「……」
「わからないまま、生きてることってあるのよ」
◇
その夜。
透は静かに言った。
「三上さん」
「……なんだ」
「僕」
「……」
「多分、ずっと許せないと思う」
「……ああ」
「父さん返してって思う」
「……」
「海も」
「焼き芋も」
「父さんと行きたかったって思う」
「……」
「でも」
透は目を閉じた。
「三上さんといた時間まで、嘘にはしたくない」
「……」
「だから」
「……」
「許すとも言えないし」
「嫌いとも言えない」
「……」
「僕にはわからない」
沈黙。
秋の虫の声。
遠くのナースステーションの話し声。
「……ごめん」
蓮は呟いた。
「謝らないで」
「……」
「だって」
透は涙を拭った。
「その言葉で楽になるの、三上さんでしょ」
「……」
「僕はまだ苦しい」
「……」
「だから」
「……」
「三上さんも、ちゃんと苦しんで」
蓮は息を止めた。
「父さんのこと忘れないで」
「……」
「僕のことも忘れないで」
「……」
「そのまま生きて」
透は小さな声で言った。
「それが罰なのか」
「……」
「償いなのか」
「……」
「僕にはわからないけど」
「……」
「逃げないで」
病室の窓の外には、冬を待つ夜空が広がっていた。
答えは出なかった。
許しもなかった。
救いも、きっと完全ではない。
それでも。
人は、答えの出ない感情を抱えたまま朝を迎える。
愛したことも。
憎んだことも。
許せなかったことも。
忘れられなかったことも。
全部抱えたまま。
生きていくしかないのだ。
透の寝息が、少しずつ静かになっていく。
蓮は眠れなかった。
冬はもうすぐそこまで来ている。
そして。
別れの季節もまた、静かに近づいていた。
冬の匂いは、ある朝突然やってきた。
病院の窓ガラスが白く曇っていた。
中庭の木々は葉を落としきり、枝だけを空へ伸ばしている。
「雪、まだかな」
透は窓の外を見ながら言った。
「まだだ」
「もう冬なのに」
「冬になった瞬間降るわけじゃない」
「でも待ってる時間も冬なんでしょ?」
「……そうだったな」
透は少し痩せていた。
歩くことはほとんどなくなり、車椅子に乗る時間も短くなった。
眠っていることも増えた。
それでも。
「ねえ」
「なんだ」
「焼き芋の最後の一口、僕が食べたよね」
「そうだな」
「ずるくない?」
「知らん」
「海も楽しかったな」
「……ああ」
「花火も」
「……」
「また行きたいね」
蓮は答えなかった。
透も、それ以上は言わなかった。
言葉にすると壊れてしまいそうなものが、この病室には増えすぎていた。
◇
十二月の終わり。
初雪が降った。
「……!」
透は目を見開いた。
「雪!」
窓の向こう。
白いものが静かに落ちていた。
「本当に降ってる」
「ああ」
「すごい」
透は笑った。
海を見た時と同じ顔だった。
「音しないんだね」
「……」
「もっと、ザーッて降るのかと思ってた」
「雪だからな」
「静かだ」
「……ああ」
「綺麗だね」
透は窓に手を伸ばした。
「父さんも見たかな」
「……見ただろうな」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、また一個だ」
「……」
「父さんと同じ景色」
蓮は雪を見つめた。
白い雪。
白い病室。
白いシーツ。
何かを覆い隠すような色。
けれど。
本当は何も消してくれない色。
◇
「三上さん」
「なんだ」
「僕さ」
「……」
「やっぱり、許せない」
「……ああ」
「父さん返してって思う」
「……」
「なんで父さんだったのって思う」
「……」
「嫌いにもなる」
「……」
「でも」
透は笑った。
「海に連れてってくれたことも本当」
「……」
「焼き芋も本当」
「……」
「雪も本当」
「……」
「だから」
「……」
「僕には、わからない」
沈黙。
雪は静かに降っていた。
「ごめんね」
透が言った。
「許せなくて」
「……謝るな」
「でも」
「……」
「許したかったんだ」
その言葉に。
蓮は初めて泣いた。
「……」
「父さんのこと、大好きだったから」
「……」
「三上さんのことも、大事だったから」
「……」
「だから、どっちかを選べなかった」
透は目を閉じた。
「ごめんね」
「……」
「答え、出せなくて」
「……」
「ありがとう」
「……」
「一緒にいてくれて」
◇
それから数日後。
透は静かに眠っていた。
「三上さん」
「……なんだ」
「春って、桜咲く?」
「咲く」
「綺麗?」
「綺麗だ」
「そっか」
「……」
「見たかったな」
「……」
「焼き芋も、また食べたかった」
「……」
「海も」
「……」
「花火も」
「……」
「来年も」
蓮は声を出せなかった。
「でも」
透は小さく笑った。
「来年って、不思議だね」
「……」
「誰にも約束されてないのに」
「……」
「みんな当たり前みたいに話す」
「……」
「また来年ねって」
「……」
「なんでだろう」
「……」
「ねえ、三上さん」
「……」
「もし」
「……」
「来年が来たら」
「……」
「焼き芋食べてね」
「……」
「雪見てね」
「……」
「海行ってね」
「……」
「桜も見て」
「……」
「僕のこと、思い出して」
透は少し考えて。
そして、言った。
「でも」
「……」
「思い出せなくなる日が来ても」
「……」
「それでもいいよ」
蓮は顔を上げた。
「……え」
「忘れないでほしいって思ってた」
「……」
「でも」
「……」
「忘れるくらい、一生懸命生きたってことだもんね」
「……」
「父さんのことも」
「僕のことも」
「……」
「全部抱えてたら、重いでしょ」
「……」
「だから」
「……」
「たまに思い出してくれたら、それでいい」
透は微笑んだ。
「その時」
「……」
「焼き芋、美味しかったなって思ってくれたら嬉しい」
◇
透が亡くなったのは、その翌朝だった。
雪は止んでいた。
空は青かった。
病院はいつも通りだった。
誰かが朝食を運び。
誰かが笑い。
誰かが泣いていた。
世界は続いていく。
透がいなくなっても。
◇
数年後。
秋。
「いーしやーきいもー」
その声に、蓮は足を止めた。
住宅街の角。
風に混じる甘い匂い。
「……」
焼き芋を買った。
一人分。
湯気が立ち上る。
「熱いな」
誰に言うでもなく呟く。
『感想下手』
そんな声が聞こえた気がした。
冬になれば雪が降る。
春になれば桜が咲く。
夏になれば海は青い。
季節は残酷だった。
透がいなくても来てしまう。
でも。
だからこそ。
季節は優しかった。
思い出す機会を、何度でもくれるから。
焼き芋を食べるたび。
雪を見るたび。
海へ行くたび。
桜を見るたび。
人は、死んだ人と少しだけ再会する。
忘れないことだけが愛ではない。
忘れてしまうことだけが裏切りでもない。
思い出したり。
忘れたり。
泣いたり。
笑ったりしながら。
残された人は生きていく。
蓮は焼き芋を一口食べた。
「……甘いな」
空を見上げる。
高かった。
秋の空だった。
あの日、透は言った。
『来年って、不思議だね。誰にも約束されてないのに、みんな当たり前みたいに話す。』
蓮はずっと考えていた。
なぜ人は、「また来年」と言うのだろう。
来年は、誰にも約束されていない。
明日さえ、本当はわからない。
それでも人は。
海へ行こうと言う。
焼き芋を食べようと言う。
桜を見ようと言う。
また来年、と笑う。
それはきっと。
死を知らないからではない。
死を知っているからだ。
失うことを知っているから。
終わりがあることを知っているから。
それでもなお、誰かと未来の話をしたいのだ。
約束されていない明日を。
誰かと信じてみたいのだ。
蓮は歩き出した。
秋の風の中を。
許されないまま。
答えの出ない問いを抱えたまま。
生きていくために。
そして、もし今、大切な誰かが隣にいるのなら。
伝えられるうちに伝えてほしい。
また来年、と。
その言葉は、未来を保証する魔法ではない。
明日を願う勇気の名前なのだから。
――あなたは、誰と「また来年」と約束しますか。
ここまで、この物語を読んでくださってありがとうございました。
『あなたを殺した手で』は、「許しの物語」として書き始めた作品ではありませんでした。
むしろ、「許せないまま人はどう生きるのか」という問いから始まった物語でした。
誰かを失った人は、悲しみだけを抱えて生きるわけではありません。
笑うこともあります。
新しい誰かを大切に思うこともあります。
そして時には、そのことに罪悪感を覚えます。
「あの人を忘れてしまったのではないか」と。
「こんなふうに幸せになっていいのだろうか」と。
けれど、忘れないことだけが愛ではないのだと思います。
焼き芋の匂いで思い出すこと。
雪が降るたびに思い出すこと。
桜を見て、「あの人なら何て言っただろう」と考えること。
そうやって、思い出したり、忘れたりしながら、人は死者と共に生きていくのではないでしょうか。
透は最後まで蓮を許しませんでした。
それでよかったのだと思います。
もし簡単に許してしまったら、透が父を愛していたことまで軽くなってしまうからです。
でも、嫌いにもなれませんでした。
海へ行ったことも、焼き芋を食べたことも、雪を見たことも、本当だったからです。
人の心は、きっとそんなふうに矛盾しています。
白か黒かではなく、正しいか間違いかでもなく、「わからないまま抱えていくもの」があります。
そして、その「わからなさ」こそが、人間らしさなのかもしれません。
この本を閉じたあと、あなたは誰を思い出すでしょうか。
もう会えない人でしょうか。
今、隣にいる人でしょうか。
あるいは、自分自身かもしれません。
もし今日、「また今度」「また来年」と言える相手がいるのなら、その言葉を少しだけ大切にしてみてください。
来年は誰にも約束されていません。
だからこそ、人は約束をします。
不確かな未来を、誰かと信じたいから。
この物語が、あなた自身の大切な誰かや、まだ言えていない言葉を思い出すきっかけになれたなら、これほど嬉しいことはありません。




