第四話 「災厄の魔女と、雨の日の来客」
ハーゲンの秋は、突然やってくる。
朝起きたら、窓の外が灰色だった。雨だ。それも本降りの。屋根を叩く雨音で目が覚めたのは久しぶりだった。
時計を見ると、まだ四時半。いつもより三十分も早い。雨音がうるさくて二度寝もできそうにない。
仕方なく起き出して、一階に降りる。クロイツ商店の店舗部分はひんやりとしていた。秋の雨は気温を一気に下げる。そろそろ薪ストーブの準備をしなければならない。
帳簿を開く。昨日の売上を確認する。釘三本、卵六個(うち四個は練習用)、小麦粉一袋。備考欄には「リーリエさん、卵を二個目で成功。三個目も成功。四個目でまた失敗。五個目は力加減を間違えて掌の中で握り潰す。六個目で成功」と書いてある。
帳簿というより日記だ。祖父が見たら呆れるだろう。
五時になったので看板を出そうとしたが、この雨では外に木の看板を出すわけにいかない。濡れると字が滲む。祖父の手書きの「クロイツ商店 何でもあります」という看板は、もう作り直しがきかない。
代わりに、入口の庇の下に「営業中」の小さな札だけ掛けた。
雨の日は客が少ない。これは辺境に限った話ではなく、おそらく世界共通の真理だろう。人間は濡れたくない生き物だ。
いつもの朝掃除もそこそこに、カウンターの椅子に座って雨を眺めた。
灰色の空から、まっすぐに降る雨。通りに人影はない。向かいのパン屋の灯りだけが、ぼんやりと滲んでいる。マルタばあさんは雨の日でも四時起きでパンを焼く。職人というのはそういうものらしい。
ふと、思った。
リーリエは、今日も来るだろうか。
町外れの廃屋からここまで、歩いて二十分はかかる。この雨の中を歩いてくるだろうか。傘は――持っていただろうか。
思い返す。彼女がこれまでに買ったもの。釘、蝋燭、マッチ、塩、毛布、石鹸、ヤカン、茶葉、カップ(二つ)、鍋、茶漉し、小麦粉、バター、砂糖、卵、木の匙(二本)、針と糸、ボタン、タオル、牛乳、蜂蜜、干し果物。
傘は、ない。
俺はカウンターの裏の在庫棚を見た。傘はある。布張りのものが三本と、油紙の安いものが五本。
一本、よけておこうか。
いや、押し売りになる。彼女が欲しいと言うまで待つのが、商人の流儀だ。
……でも、一本くらいカウンターの端に置いておいてもいいだろう。目につく場所に。さりげなく。商品陳列の工夫だ。これは営業努力であって、断じて特定の客のためではない。
俺は油紙の傘を一本、カウンターの端に立てかけた。
それと、いつもの釘三本も出しておいた。
こっちはもう完全に特定の客のためだが、今さら隠すこともない。
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午前中は、案の定、客がほとんど来なかった。
十時にシスター・エマがインクを買いに来たのと、宿屋のリーゼが「雨で暇だからおしゃべりに来た」と言って三十分ほど居座ったくらいだ。
リーゼは二十代後半の未亡人で、亡くなった夫が残した宿屋を一人で切り盛りしている。明るい性格で、町の情報通でもある。
「ねえユリウス、最近あの魔女さんと仲良くしてるんだって?」
開口一番それだった。
「お客さんですよ。仲良くっていうか」
「クッキー一緒に焼いたって聞いたけど」
誰だ。誰から漏れた。この町の情報伝達速度は光の速さか。
「かまどを貸しただけです」
「ふうん」
リーゼはにやにやしている。この顔は面倒くさいことになる前兆だ。
「あの子、けっこう可愛い顔してるよね。フード取ったとこ、あたし一回だけ見たことあるんだけど」
「……まあ、整った顔立ちの方ですね」
「あ、やっぱり見てる。顔」
「客の顔を覚えるのは商人の基本です」
「はいはい」
リーゼは楽しそうに笑って帰っていった。何も買わずに。冷やかしじゃないか。
十一時。十二時。
雨は止まない。むしろ強くなっている。
十二時半。いつもリーリエが来る時間帯に差し掛かる。
窓の外を見た。土砂降りだ。道が川のようになっている。
一時。
来ない。
まあ、この雨だ。当然だろう。わざわざ釘三本のために土砂降りの中を二十分歩いてくる必要はない。むしろ来ない方が正しい判断だ。
一時半。
来ない。
カウンターの上の釘三本が、妙に存在感を放っている。
二時。
……来ない。
帳簿の文字がうまく読めない。いや、読めるのだが、頭に入ってこない。
雨音が耳につく。
あの廃屋は、屋根の穴を全部塞ぎ切れていないはずだ。雨漏りしているのではないか。毛布が濡れているのではないか。一人用のヤカンで湯を沸かして、ようやく覚えた茶の淹れ方で、一人で茶を飲んでいるのだろうか。
それとも。
もっと悪いことを想像しかけて、頭を振った。
大丈夫だ。彼女は「災厄の魔女」だ。雨くらいで――
がたん。
店の扉が開いた。
思わず立ち上がった。
「いらっしゃ――」
入ってきたのは、リーリエではなかった。
見知らぬ男だった。
長身で、旅装束。革のマントに雨粒が光っている。腰には剣。背中には大きな荷物を背負っていて、旅慣れた雰囲気がある。
年は三十前後か。短く刈り込んだ茶髪に、鋭い目つき。顔の左側に、頬から顎にかけて走る古い傷跡がある。
「すまない、少し雨宿りさせてもらえるか」
低い声だった。丁寧だが、どこか有無を言わせない響きがある。
「ええ、どうぞ。中に入ってください」
男は店内に入り、マントについた雨粒を払った。視線がすばやく店内を一巡する。商品棚、奥の扉、窓の位置。まるで退路と死角を確認するような目の動きだった。
軍人か、あるいは冒険者か。
「タオルをお使いになりますか?」
「ああ、助かる。買い取る」
「一枚十ペニヒです」
男はポケットから硬貨を出し、ぴったりの額を置いた。タオルで顔と髪を拭きながら、店内を見回している。
「万屋か。こんな辺境にしては品揃えがいいな」
「祖父の代から、この辺りでは何でも揃う店として知られていまして」
「ほう。では、地図はあるか」
「地図ですか。この地方の測量図なら一部ありますが」
「いや、もう少し広い範囲のものだ。大陸東部の、特に――ケルン山脈周辺の」
ケルン山脈。大陸の東端に連なる険しい山脈だ。人がほとんど住まない僻地で、そこへ向かう旅人がこの町を通ることは珍しい。
そして、俺はある事実を思い出した。
リーリエが「大陸の果ての洞窟に隠れていた」と言っていた。ケルン山脈には、無数の洞窟がある。
偶然だ。きっと偶然だ。
「あいにく、ケルン山脈の地図は扱っていないんです。王都の書店なら手に入ると思いますが」
「そうか。残念だ」
男はタオルをカウンターに置いた。それから、何かを思い出したように言った。
「もう一つ訊いていいか。この町に、最近見慣れない人間が来ていないか」
心臓が跳ねた。
だが、顔には出さなかった。祖父直伝の商人の顔だ。「何を訊かれても眉一つ動かすな。まず笑え。考えるのはその後だ」。
「辺境の町ですから、たまに旅の方がいらっしゃいますよ。あなたのように」
「旅人ではなく、住み着いた者だ。ここ一、二ヶ月の間に」
まっすぐに訊いてきた。
男の目が俺を見ている。観察するような、値踏みするような目。この目には見覚えがある。商業学校の面接官と同じ目だ。嘘を見抜こうとする目。
俺は笑顔を崩さなかった。
「この町は住人三百人ほどの小さな町でして。新しい人が来れば噂にはなりますが……最近はそういう話は聞きませんね」
嘘をついた。
人生で初めて、明確な意思を持って嘘をついた。
商人が嘘をつくのは禁じ手だ。信用は商売の命。祖父が繰り返し言っていた。「嘘はつくな。黙るのはいいが、嘘はつくな」。
だが今、俺は嘘をついた。
なぜかはわからない。いや、わかっている。わかっているが、言語化したくない。
「そうか」
男は俺の言葉をしばらく吟味するように黙ってから、軽く頷いた。信じたのか、信じていないのか、読めなかった。
「失礼ついでにもう一つ。この辺りに、空き家や廃屋はないか」
二発目が来た。
「廃屋ですか。辺境ですから、探せばいくつかあるとは思いますが、具体的にどちらの方角を?」
「特に決まっていない。心当たりがあれば教えてほしいだけだ」
「そうですね……北の丘の向こうに、昔の牧場の小屋が残っていたはずです。あとは東の森の入り口に炭焼き小屋の跡が。でも、どちらもかなり荒れていますよ」
二つとも本当にある廃屋だ。だが、リーリエが住んでいるのは町の南西だ。意図的に方角をずらした。
嘘ではない。嘘ではないが、誠実でもない。
祖父、すまない。
「助かる。一応確認してみよう」
男は立ち上がった。マントを羽織り直し、荷物を背負う。
「世話になった。タオル代と、それから――」
男は棚に目を止めた。
「干し肉はあるか」
「ありますよ。燻製の鹿肉と、塩漬けの豚肉が」
「鹿肉を五日分。それと、水袋を一つ」
旅の補給だ。五日分ということは、まだしばらくこの辺りを探索するつもりらしい。
商品を包みながら、俺はできるだけ自然な調子で訊いた。
「旅のお方は、お仕事でこちらに?」
「ああ。人を探している」
「迷子ですか?」
「――ある意味ではな」
男はかすかに笑った。しかし目は笑っていなかった。
「三年前に見失った相手を、ずっと追っている」
三年前。
勇者パーティーが「災厄の魔女」を討伐したのは、三年前だ。
遺体は見つからなかった。
俺の中で、嫌な推測が形を成していく。
「見つかるといいですね」
それだけ言った。それ以上は訊けなかった。訊いたら、ボロが出る。
「ああ」
男は代金を置いて、店を出ていった。
雨の中に消えていく背中を見送りながら、俺は自分の手が微かに震えていることに気づいた。
---
男が出ていって十分後。
店の扉が、今度はおずおずと開いた。
「…………」
リーリエだった。
ずぶ濡れだった。
ローブは重たげに水を吸い、紫の髪が頬に張りついている。フードは被っていたようだが、この雨では意味をなさなかったらしい。靴からは水が滴っている。
「リーリエさん!」
俺は反射的にカウンターを飛び出した。
「何してるんですか、この土砂降りの中――」
「……釘を」
「釘はいいですから! まず中に入ってください。濡れたままじゃ風邪を引きますよ」
「魔女は風邪を引きません」
「本当ですか」
「…………たぶん」
たぶん。不安そうに言うな。
俺はカウンターの裏からタオルを二枚持ってきた。一枚を彼女の頭に乗せ、もう一枚を肩にかけた。
「ちょっと待っててください。裏のかまどに火を入れますから」
「いえ、あの、私は買い物に来ただけ――」
「裏に来てください」
強引だったかもしれない。だが、目の前でずぶ濡れの人間を放っておける商人はいない。いや、商人じゃなくても放っておけない。
リーリエを店の裏に連れていき、かまどに火を入れた。クッキーを焼いた時と同じかまどだ。火が入ると、すぐに空間が暖かくなる。
「ここで暖まってください」
リーリエはかまどの前に座った。濡れたローブから湯気が立ち上っている。タオルで髪を拭きながら、彼女は小さな声で言った。
「……すみません」
「何がですか」
「遅くなりました」
遅くなった。いつもの時間に来られなかったことを詫びている。
毎日決まった時間に来ることを、彼女は自分に課しているのだろうか。
「別に謝ることじゃないですよ。こんな雨の日に来なくても――」
「でも」
リーリエは俺を見上げた。濡れた髪の下の藍色の目が、まっすぐにこちらを向いている。
「来たかったので」
不意打ちだった。
この人は時々、何の衒いもなく、心臓を貫くようなことを言う。十年間人と話さなかったせいで、言葉の威力を調節する機能が壊れているのかもしれない。
「……そう、ですか」
声が裏返りかけた。
誤魔化すように、俺はヤカンを火にかけた。湯を沸かして茶を淹れる。彼女に教えた通りの淹れ方で。茶葉は小さじ一杯、茶漉しを使って、待つのは三分。
カップを二つ出した。匙も二本。
二本目の匙の出番が、ここで来た。
「砂糖、入れますか」
「……お願いします」
温かい茶を手渡す。リーリエは両手でカップを包むように持ち、ゆっくりと口をつけた。
かまどの火がぱちぱちと鳴る。
雨の音が、遠くなった気がした。
「リーリエさん」
「はい」
「さっき、お客さんが来てたんです」
言うべきか迷った。だが、黙っていることの方が危険だと判断した。
「旅の人で、男の人です。人を探していると言っていました」
リーリエの手が止まった。
「三年前に見失った相手を、ずっと追っていると」
カップの中の茶が、かすかに揺れた。リーリエの手が震えているのだ。
「……どんな」
「三十前後の長身の男性で、顔の左側に傷がありました。剣を帯びていて、旅慣れた様子でした。ケルン山脈の地図を探していました」
リーリエは目を閉じた。
長い沈黙が落ちた。かまどの薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……その人は」
「はい」
「剣は、どんな剣でしたか」
「片手剣で、柄に青い宝石がついていました。鞘は茶色の革で」
リーリエの目が開いた。そこにあったのは、恐怖でも怒りでもなく、静かな諦めだった。
「レオンハルト」
「ご存知の方ですか」
「勇者パーティーの一人です。剣士の、レオンハルト・ヴェーバー。――三年前、私を追い詰めた四人のうちの一人」
やはり。予想通りだった。予想通りだったが、現実として突きつけられると、胃の底に冷たいものが落ちる感覚があった。
「この町のことは話していませんよね」
「訊かれましたが、新しく住み着いた人はいないと答えました。廃屋の場所も、わざと違う方角を教えました」
リーリエが俺を見た。
「嘘を」
「はい」
「あなたが」
「はい」
沈黙。
「……商人は嘘をつかないのでは」
「つきました」
「なぜ」
なぜ。
俺はかまどの火を見た。
なぜだろう。自分でもよくわからなかった。いや――わかっていた。わかっていたが、まだ言葉にするのが怖かった。
「お客さんを売るわけにはいかないでしょう」
結局、そういう言い方しかできなかった。
「うちの常連客の個人情報を、見知らぬ旅人に教えるのは商人の倫理に反します」
苦しい言い訳だった。商人の倫理。そんなものは今作った。
リーリエは俺をじっと見ていた。あの藍色の目で。何もかも見透かすような、それでいてどこか縋るような。
「ユリウス」
「はい」
「私は――あなたに嘘をつきたくありません」
彼女の声は静かだった。雨の音の中に溶けてしまいそうなほど小さかったが、一語一語が明瞭だった。
「だから話します。私のことを」
「……いいんですか」
「いいのかどうかはわかりません。でも、知ってほしいのです。あなたには」
リーリエは茶をひと口飲み、カップをそっと膝の上に置いた。
「私が『災厄の魔女』と呼ばれるようになったのは、十二歳の時です」
十二歳。
俺が王都の初等学校に通い、友達と走り回っていた頃。
「生まれつき、私には『腐蝕』の魔力がありました。触れたものを朽ちさせる力。幼い頃は制御できなくて、家の壁が崩れたり、庭の花が枯れたりしました」
「……生まれつき」
「はい。両親は怖がって、私を地下室に閉じ込めました。食事は扉の隙間から差し入れるだけ。直接触れたら腐ってしまうから」
言葉が出なかった。
「十歳の時に、村の人たちが来ました。松明を持って。私を『処分』しに」
処分。人に使う言葉ではない。
「両親は抵抗しませんでした。地下室の扉を開けて、村人を通しました」
リーリエの声は淡々としていた。事実を述べているだけの声。クッキーを焼いた日の夜、かまどの前で聞いた時と同じ声。
だが今は、その淡々さの奥にあるものが、前よりも鮮明に見えた。
「逃げました。必死で。その時に――暴走して。村を」
彼女の声が、初めて途切れた。
両手がカップを強く握りしめている。
「……村は、どうなったんですか」
「半分、腐りました」
半分。
「建物も、畑も、木も。――人は、怪我で済みましたが。それから私は各地を転々として、行く先々で同じことを繰り返しました。制御できない力が暴走して、町が腐る。逃げる。また暴走する。逃げる」
「それが、十年間」
「はい。十五歳の頃には『災厄の魔女』と呼ばれるようになっていました。各国が討伐隊を出しましたが、近づいたものが腐るので、誰も私に触れられなかった」
触れたものを腐らせる。
あの噂は、誇張ではなかったのだ。
「勇者パーティーが来たのは十九歳の時です。彼らは特殊な結界魔法を使って、私の腐蝕を中和しながら近づいてきました。それでも三日三晩かかりました。最後は力を使い果たして倒れただけです。勝ったとか負けたとかではなく、ただ、力が尽きた」
「でも、遺体は見つからなかった」
「気絶している間に、山奥まで流されていたようです。目が覚めた時には、勇者たちはもういませんでした。私は死んだことにされたのだと思いました」
だから三年間、洞窟に隠れていた。
そして疲れ果てて、「最後に一度だけ」人の住む場所を求めて、この町に辿り着いた。
「レオンハルトが来たということは、私が生きていることに気づいたのでしょう。あるいは、最初から確認しに来たのかもしれません。遺体が見つかっていないのですから」
「…………」
「ユリウス、あの人は悪い人ではありません。勇者パーティーの中では一番まともな人でした。戦いの最中にも『本当にこれでいいのか』と仲間に問いかけていました」
リーリエの声に、不思議と怒りはなかった。恨みもなかった。
ただ、深い疲労があった。
「ですが、彼が私を見つければ、報告するでしょう。王国に。『災厄の魔女は生きている』と。そうなれば、また討伐隊が来ます。今度こそ殺すために」
殺す。
その言葉が、かまどの暖かさの中で、異質に冷たく響いた。
「リーリエさん」
「はい」
「その力――腐蝕の力は、今でも」
「あります。ただ、ずいぶん制御できるようになりました。十年間一人でいた間に、嫌というほど練習しましたから」
「この町に来てから、一度も暴走していませんよね」
「はい。でも、保証はできません。強い感情に揺さぶられると、まだ漏れることがあります」
漏れる。
「あの紫の花」
カウンターに毎回置いていく、あの枯れない花のことを訊いた。
「あれは……何ですか」
リーリエはかすかに目を伏せた。
「あれは私の魔力が具現化したものです。腐蝕の力の――裏側」
「裏側?」
「腐蝕の反対は再生です。ものを朽ちさせる力の裏に、ものを生み出す力がある。花を一輪咲かせるくらいなら、制御できます」
枯れない花。それは、彼女が力を制御できている証拠だった。
「毎回あれを置いていったのは」
「…………何も壊していないという、証明のつもりでした」
声が小さくなった。
「あなたの店に来るたびに、何かを腐らせてしまっていないか不安で。だから、代わりに花を。制御できていますという……印として」
俺は初日にもらった花のことを思い出した。水に挿してから一ヶ月以上経つが、一切枯れていない。二輪目も三輪目も。カウンターの隅に小さな花瓶を置いて、全部飾ってある。
あれは、彼女なりの誠実さだったのだ。
「リーリエさん」
「はい」
「一つ、訊いてもいいですか」
「…………はい」
「さっき、レオンハルトさんは五日分の干し肉を買っていきました。ということは、少なくとも五日間はこの辺りにいるということです」
「……そうですね」
「北の丘と東の森を案内しましたが、何も見つからなければ、いずれ南西にも足を延ばすかもしれない」
リーリエは静かに頷いた。
「この町を出ますか」
訊いた。
訊かなければならなかった。
リーリエの選択肢として、それが最も合理的だからだ。見つかる前に逃げる。今まで十年間そうしてきたように。
彼女は答えなかった。
長い沈黙が落ちた。
雨の音。かまどの火。茶の湯気。
やがて、リーリエは口を開いた。
「クッキーの、作り方を」
「……え?」
「クッキーの作り方を、まだ全部覚えていません」
俺はリーリエを見た。
彼女はカップの中の茶を見つめていた。その目は潤んでいた。泣いているわけではない。泣く一歩手前で、必死に堪えている目だった。
「卵も、まだうまく割れません。三回に一回は失敗します。お茶の淹れ方も、砂糖の量がまだ安定しなくて。匙の、二本目も、まだ使っていないのに」
声が震えていた。
「この町を出たら――もう、どこにも行く場所がありません。これ以上遠くには、逃げられません。体力も、気力も、もう」
――もう、残っていないのだ。
十年間逃げ続けて、ようやく見つけた場所。ようやく覚えた茶の淹れ方。ようやく名前を呼べるようになった相手。
それを手放して、また逃げろと。
俺にはそんなことは言えなかった。
「じゃあ、逃げなくていいです」
口が動いていた。
「ここにいてください」
「でも――」
「レオンハルトさんのことは、俺がなんとかします」
「なんとかって、あなたは万屋の――」
「万屋は何でもやるんです。それが信条ですから」
我ながら無茶苦茶なことを言っている自覚はあった。相手は勇者パーティーの一員で、歴戦の剣士だ。俺は二十二歳の万屋の店番で、剣どころか果物ナイフすらまともに扱えない。
だが。
「リーリエさんはうちの常連客です。常連客を守るのも、店の仕事のうちです」
嘘だ。そんな仕事はない。祖父の教えにもない。
でも、今この瞬間、俺は祖父の教えよりも大事なものを見つけた気がした。
リーリエは俺を見上げていた。
藍色の目に、かまどの火が揺れている。
その目から、一筋だけ涙がこぼれた。
彼女はすぐに袖で拭った。まるで見られてはいけないものを隠すように。
「……泣いていません」
「はい。見てません」
「本当に見ていませんか」
「見てないです」
見ていた。はっきり見ていた。でも、ここは見ていないと言うのが正解だ。
リーリエは膝を抱え直した。カップの茶はすっかり冷めていた。
「ユリウス」
「はい」
「……ありがとう、ございます」
二度目の「ありがとう」だった。
一度目は釘を用意しておいた時。二度目は今。
この人の「ありがとう」の重さを、俺は噛みしめていた。
---
雨は夕方になっても止まなかった。
俺はリーリエに傘を渡した。カウンターの端にさりげなく置いておいた、あの油紙の傘だ。
「これ、持っていってください」
「……いくらですか」
「サービスです」
「サービス?」
「常連客への感謝です。三十日連続でご来店いただきましたから」
もちろんそんな制度はない。今作った。今日は嘘と即興の制度をよく作る日だ。
リーリエは傘を受け取り、しばらく眺めた。
持ち上げて。指で弾いて。
「鑑定しなくていいですよ」
「…………習慣なので」
彼女は傘を開いた。店の裏口から出ていく。
「明日も来ます」
「はい。お待ちしてます」
「釘と……」
「釘と?」
「……卵を。もう少し練習したいので」
「たくさん用意しておきます」
紫の髪が、油紙の傘の下で揺れている。
雨の中を歩いていくリーリエの後ろ姿を、俺はいつまでも見送っていた。
彼女が角を曲がって見えなくなってから、裏口を閉めた。
かまどの火を落とす。カップを二つ洗う。匙を二本、拭いて棚に戻す。
それから、カウンターに戻って帳簿を開いた。
今日の売上を書く。
タオル一枚(旅人)。干し肉五日分(旅人)。水袋一つ(旅人)。傘一本。
釘は――買わなかった。初めて釘を買わずに帰った日だ。
備考欄には、こう書いた。
――「雨の日。リーリエさん、ずぶ濡れで来店。茶を二杯飲む。傘を渡す。泣いてはいなかった(本人談)」
ペンを置いて、窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
勇者パーティーの剣士が、この町のどこかにいる。
俺にできることは何だ。剣は使えない。魔法も使えない。走るのも遅い。腕力もない。
あるのは、この店と、商品と、祖父譲りの愛想笑いだけだ。
だが、祖父はこうも言っていた。
「商人の武器は、剣じゃなくて舌だ。相手の欲しいものを見抜いて、差し出してやれ。そうすれば、たいていの相手は味方になる」
レオンハルト・ヴェーバー。勇者パーティーの剣士。リーリエを追っている男。
あの男が「欲しいもの」は何だ。
単に魔女を殺したいのなら、もっと大人数で来るはずだ。一人で来ている。それも、密かに。王国の正式な討伐命令なら、衛兵隊を率いてくるだろう。
リーリエは言った。「あの人は悪い人ではありません」「戦いの最中にも『本当にこれでいいのか』と仲間に問いかけていた」と。
あの男は、何を探しに来たのだろう。
本当に殺すために来たのか。
それとも――別の理由が、あるのか。
俺は帳簿を閉じた。
明日、もう一度あの男に会えるなら。
今度は嘘をつかずに、話をしよう。
商人として。
そして――リーリエの、唯一の味方として。
第四話 了
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