第三話 「災厄の魔女は、お菓子の作り方を知らない」
リーリエが牛乳入りの茶を覚えてから、彼女の注文は少しずつ「食」に寄り始めた。
二十七日目。釘三本と、蜂蜜の小瓶。
二十八日目。釘三本と、干し果物の袋。
二十九日目。釘三本と、バター。
バターだ。
人間がバターを買うということは、何かを焼こうとしている。パンか、菓子か、あるいはその両方か。
三十日目。
リーリエはいつもの時間に現れ、いつものように釘を三本確認したあと、妙に長い間、棚の前で立ち尽くしていた。
その視線の先にあるのは、製菓コーナーだった。
――製菓コーナーと呼ぶのはおこがましいかもしれない。小麦粉と砂糖と卵と、あとはベーキングパウダーが一缶あるだけの、ささやかな一角だ。だが祖父は「辺境にだって甘いものは必要だ」と言って、この棚だけは欠かさなかった。
「何かお探しですか」
声をかけると、リーリエはびくりとした。振り返った顔には、今まで見たことのない表情が浮かんでいた。
困っている。
いや、もっと正確に言えば――恥ずかしがっている。
「その……」
「はい」
「お菓子というのは、どうやって作るのですか」
唐突だった。だが、この一ヶ月で彼女の唐突さには慣れていた。
「お菓子といっても色々ありますが、何か作りたいものがあるんですか?」
「……以前、どこかの町を通った時に」
リーリエはフードの奥で言い淀みながら、言葉を選ぶように続けた。
「焼いた、丸い……茶色い、甘い匂いのする」
「クッキーですかね」
「くっきー」
彼女は復唱した。知らない言葉を覚えるときの、あの真剣な目つきで。
「たぶんクッキーだと思います。小麦粉とバターと砂糖と卵で作れますよ」
「それだけで?」
「基本はそうです。あとは混ぜて、形を作って、焼くだけで」
「…………焼く」
リーリエの表情が曇った。
「焼く、というのが問題です」
「かまどがないんですか?」
「かまどは……あるにはあるのですが。壊れていて」
壊れたかまど。考えてみれば、あの廃屋のかまどがまともに使えるとは思えない。十年放置されていたのだから。
「火打ち石で直火はできるんですが、温度の調整が」
「確かにクッキーは温度調整が大事ですね。焼きすぎると焦げるし、足りないと生焼けになるし」
「難しいですね……」
リーリエが肩を落とした。
災厄の魔女が、クッキーが焼けなくて肩を落としている。
なんだろう、この気持ちは。心臓の辺りがきゅっとなる。
「あの」
「はい」
「うちの裏に、かまどがあるんですよ」
言ってから、自分の言葉に驚いた。何を言い出しているんだ、俺は。
「祖父が昔、ちょっとした料理も出していた時期があって。今は使っていないんですが、手入れはしてあります」
「…………」
「もしよければ、うちのかまどを使いますか?」
沈黙。
リーリエはフードの奥からまっすぐに俺を見た。あの藍色の目が、微かに揺れている。
「……いいのですか」
「かまどは使わないと傷むって祖父も言ってましたし。それに、うちも最近は自炊をサボっていたので、ついでに使ってもらえると助かります」
取り繕った言い訳だった。我ながら下手くそだ。
リーリエはしばらく黙っていた。何かを考え込むように、視線が左右に揺れた。
「……ご迷惑では」
「全然。むしろ焼き立てのクッキーを一枚もらえたら、場所代としては十分です」
また言ってしまった。いや、でも嘘ではない。焼き立てクッキーは場所代として非常に妥当だと思う。
「…………では」
リーリエの声は、今日一番小さかった。
「お言葉に甘えて」
---
翌日の閉店後。
俺は店の裏にあるかまどに火を入れ、材料をカウンターの上に並べた。
小麦粉。バター。砂糖。卵。
ちなみに全てクロイツ商店の在庫から出したものだ。商売として成立しているのかは考えないことにする。
リーリエは店の裏口から入ってきた。いつものローブ姿だが、今日はフードを下ろしていた。
初めて見る、フードなしの彼女。
紫の髪は背中の半ばまで伸びていて、夕陽に照らされてほのかに光っていた。風に揺れるたび、藤の花のような匂いがした。
――きれいだ、と思った。
思っただけで、口には出さなかった。
「では、作り方を説明しますね」
「お願いします」
リーリエは俺の隣に立った。意外と背が低い。ローブで隠れていたが、俺の肩くらいまでしかない。
「まず、バターを柔らかくします。常温で戻しておいたので、これをボウルに入れて練ります」
「練る」
「こうやって、木の匙でぐるぐると」
俺がやって見せると、リーリエは真剣な目で匙の動きを追った。
「次に砂糖を入れて、さらに混ぜます」
「どのくらい入れるのですか」
「このくらいです。大さじ三杯」
「……三杯。多くないですか」
「お菓子はだいたい、想像の倍は砂糖が入ってます」
「世界は恐ろしいですね」
万屋のかまどの前で「世界は恐ろしい」と言われると、なんとも言えない気持ちになる。
「次に卵を割り入れます」
「卵を割る」
「はい。こうやって、ボウルの縁でコンと」
俺が一つ目を割って見せた。リーリエに二つ目を渡す。
彼女は卵を両手で包むように持ち、しばらく眺めた。
持ち上げて。
指で弾いて。
「それは鑑定しなくていいです」
「……習慣なので」
そういう問題なのか。
リーリエは意を決したように卵をボウルの縁に打ちつけた。
ぐしゃ。
殻ごと中身がボウルに落ちた。いや、正確には殻も中身も、ボウルの外にも盛大に飛び散った。
「…………」
「…………」
沈黙。
リーリエの手は卵の黄身まみれだった。ローブの袖にも白身が飛んでいる。
「あ、の」
「大丈夫です。もう一個ありますから」
俺は笑いを堪えながらタオルを渡した。彼女は無言でタオルを受け取り、丁寧に手を拭いた。耳が赤い。フードがないから今日はよく見える。
二個目の卵は俺が割った。
「小麦粉を入れたら、今度はあまり混ぜすぎないでください。さっくりと、切るように」
「切るように混ぜる……?」
「こう、縦に匙を入れて、底からすくい上げるような感じです」
俺がやって見せると、リーリエは恐る恐る匙を手に取った。
彼女の手つきは、おそるおそるではあったが、丁寧だった。一回一回の動きを確かめるように、慎重に匙を動かす。
「そうそう、いい感じです」
「……本当ですか」
「本当です。上手ですよ」
リーリエの匙が一瞬止まった。それからまた動き出した。少しだけ速くなった。
生地ができた。
「次は形を作ります。生地を少しずつ取って、手で丸めて、ちょっと潰す」
「丸めて、潰す」
「そうです。このくらいの大きさで」
俺が一つ作って見せた。リーリエが真似をする。
彼女の作ったクッキーは、妙に歪だった。丸というよりは楕円で、厚さも均一ではない。だが、ひとつひとつ丁寧に形を整えている様子が、なんというか――よかった。
災厄の魔女が、クッキーの形を一生懸命に整えている。
その光景は、間違いなく世界で一番平和な場面の一つだった。
「かまどに入れましょう。だいたい十五分くらいです」
鉄板をかまどに入れる。火加減を調整して、あとは待つだけだ。
二人でかまどの前に座った。
沈黙。
だが、不思議と気まずくはなかった。かまどの火がぱちぱちと音を立てていて、甘い匂いが少しずつ立ち上ってきて。秋の夕暮れの風が裏口から吹き込んできて、リーリエの髪を揺らしている。
「ユリウス」
「はい」
「なぜ、ここまでしてくれるのですか」
その質問は、いつか来ると思っていた。
俺は正直に答えた。
「正直、最初は物珍しさだったかもしれません。毎日釘を三本だけ買う不思議な客が来たな、って」
「…………」
「でも、途中から気になったんです。この人は、毎日三本ずつ釘を買って、何を建てているんだろうって。一人用のヤカンを買って、誰のためにお湯を沸かすんだろうって」
かまどの火が爆ぜた。
「砂糖を買った日があったでしょう。あの時、ああ、この人にも甘いものが必要なんだなって思ったんです。うまく言えないんですが」
「…………」
「万屋をやってると、人が何を買うかで、その人の暮らしが見えるんですよ。リーリエさんの買い物は、一日一つずつ、暮らしを作っていくみたいで。それを見てたら、なんか……応援したくなったんです」
我ながらまとまりのない話だった。
リーリエは黙って聞いていた。
しばらくの沈黙の後、彼女は小さな声で言った。
「私は」
「はい」
「十年間、人と話しませんでした」
予想していたことだった。だが、本人の口から聞くと、その重さが違った。
「勇者に敗れてから、大陸の果ての洞窟に隠れていました。人里には近づけませんでした。『災厄の魔女』が来たと知れたら、また討伐隊が送られますから」
「…………」
「食べ物は森で採りました。水は川から。冬は魔法で凌ぎました。人の言葉を使う必要がなくて……忘れかけていたこともあります」
彼女の声は淡々としていた。事実を述べているだけの、感情を排した声。
だが俺には、その淡々さこそが、十年の孤独の深さを物語っているように聞こえた。
「なぜこの町に?」
「……疲れたのです」
リーリエは膝を抱えた。
「逃げることに。隠れることに。一人でいることに。もう、どうなってもいいと思いました。討伐されるなら、それでもいいと。ただ、最後に一度だけ、人の住む場所で暮らしてみたかった」
最後に一度だけ。
彼女はそのつもりでこの町に来たのだ。
「それで、たまたまこの町を見つけて。空き家があったので住み着きました。でも、生活の仕方がわからなくて」
「それで釘を三本ずつ」
「屋根の穴を塞ごうとしたのですが、どのくらい必要なのかわからなくて。とりあえず三本から始めてみようと」
とりあえず三本から。十年間の孤独を経て、人間社会に戻る第一歩が、釘三本。
なんて不器用で、なんてひたむきな復帰の仕方だろう。
「ユリウス、あなたは」
「はい」
「最初に『お客さんはお客さんですから』と言ってくれました」
「はい」
「あの言葉で、私は――」
リーリエの声が揺れた。
初めてだった。いつも淡々とした彼女の声が、かすかに震えるのを聞いたのは。
「あの言葉で、もう少しここにいようと思いました。もう少しだけ、買い物をしようと」
かまどの中で、クッキーが焼けている。甘くて温かい匂いが、二人の間に漂っている。
「リーリエさん」
「はい」
「毎日来てください。釘でも蝋燭でも、何でも売ります。茶の淹れ方も教えます。クッキーだけじゃなくて、パンの焼き方も、シチューの作り方も」
言葉が止まらなかった。
「この町は退屈な町ですけど、パン屋のマルタばあさんの焼くライ麦パンは絶品だし、秋になると丘の上から麦畑が金色に見えるし、冬は暖炉の前で飲むホットワインが最高なんです」
「…………」
「だから、その――『最後に一度だけ』なんて言わないでください」
言い切ってから、血が頭に昇っているのがわかった。顔が熱い。何を興奮しているんだ、俺は。
リーリエは目を見開いていた。
藍色の目に、かまどの火が映っている。
彼女は何か言おうとして、口を開きかけて、結局何も言わずに視線をかまどに戻した。
だが――その横顔が、少しだけ赤く見えたのは、かまどの火のせいだけではないと、俺は信じたい。
沈黙を破ったのは、かまどの中のぱちぱちという音だった。
「あの、ユリウス」
「は、はい」
「焦げています」
「……え」
「クッキーが。焦げています」
「うわっ――!」
慌ててかまどから鉄板を引き出した。
クッキーは――半分が見事なきつね色で、残り半分がやや濃いめの茶色だった。焦げたとまでは言わないが、ぎりぎりだ。
「……セーフ、ですかね」
「一部は明らかにアウトかと思います」
辛辣だった。
だが、彼女の目はちゃんと笑っていた。
焼き上がったクッキーを皿に並べた。歪な形のもの、きれいに丸いもの、ちょっと焦げたもの。どれも同じ材料、同じかまどで焼いたのに、一枚一枚違う。
「……いただきます」
リーリエが一枚手に取った。彼女が選んだのは、一番歪な形のもの――自分が形を作ったやつだった。
口に運ぶ。
噛む。
そして。
「…………おいしい」
彼女の声は、ほとんど囁きだった。
だが、その二文字には、十年分の何かが詰まっていた。
「自分で作ったものって、おいしいでしょう」
「……はい。おいしい、です」
リーリエは二枚目を手に取った。三枚目も。四枚目も。
黙々と、しかし確かな速度で、クッキーが減っていく。
「あの、場所代の一枚は」
「…………あ」
リーリエは手を止めた。
皿の上には、残り三枚。
「す、すみません。つい」
「いえ、いいんですよ。残りは全部リーリエさんの分です」
「でも」
「いいんです。まだ材料はありますから、また一緒に焼きましょう」
また。一緒に。
言ってから、その言葉の意味を噛みしめた。
リーリエもまた、何かを噛みしめるように、最後のクッキーを口に入れた。
「…………ユリウス」
「はい」
「明日も来ます」
「はい。お待ちしてます」
「明日は――釘と、あと」
「あと?」
「……卵を。今度は、自分で割りたいので」
俺は笑った。今日一番の、自然な笑いだった。
「練習用に多めに用意しておきますね」
リーリエは頷いて、残りのクッキーを大事そうにハンカチに包んで、帰っていった。
一人になった裏口で、俺は空を見上げた。
星が出ていた。辺境の町の空は広くて、星がよく見える。
皿の上に、食べかけのクッキーが一枚だけ残っていた。半分齧られたそれは、よく見ると――歪な形が、花に見えなくもなかった。
紫の花では、ないけれど。
俺はそのクッキーを食べた。
甘かった。少し焦げた苦みが混じった、不格好で、完璧ではないクッキー。
でも、今まで食べたどんなお菓子よりも、おいしかった。
---
帳簿をつける。
今日の売上。釘三本、二十四ペニヒ。小麦粉、バター、砂糖、卵(練習用含む)。
備考欄に、祖父ならきっと書かないようなことを書いた。
――「クッキー。リーリエさん、笑った」
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その夜。
町外れの廃屋で。
リーリエはクッキーの最後のひとかけらを口に入れ、毛布にくるまって天井を見上げていた。
屋根の穴は、まだ全部塞がっていない。星が覗いている。
だが今夜は、その穴から見える星がきれいだと思った。
十年ぶりのことだった。
「……ユリウス」
名前を声に出す。
たったそれだけのことが、こんなにも温かいものだとは知らなかった。
枕元には、白いタオルと、小さなヤカンと、茶漉しと、匙が二本。
二本目の匙の出番は、まだ来ていない。
でも――いつか来ると、今は思える。
リーリエは毛布を深く被り、目を閉じた。
瞼の裏に、かまどの火と、笑っている青年の顔が浮かんだ。
明日の朝が来るのが、少しだけ楽しみだった。
ほんの少しだけ。
十年ぶりの「明日」が、楽しみだった。
第三話 了
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