第二話 「災厄の魔女は、蝋燭を五本とヤカンをひとつください」
災厄の魔女が常連客になった。
と言うと大層な話に聞こえるが、やっていることは毎日釘を三本買いに来るだけである。
七日目も、八日目も、九日目も。
判で押したように同じ時間に来て、同じものを買って、きっちり同額を置いて帰る。もはや俺の方が釘を三本あらかじめカウンターに出しておくようになった。
変わったことといえば、あの日――「怖くないのですか」と訊かれた日から、彼女が店に少しだけ長く留まるようになったことだ。
といっても、一分が三分になった程度の話だが。
十日目の昼下がり。
いつものように扉が開き、いつものように紫の髪が揺れた。
「釘を――」
「三本ですね。どうぞ」
先回りして出しておいた釘を示すと、彼女は一瞬だけ固まった。
「……用意されていると、なんだか居心地が悪いですね」
「すみません。つい」
「いえ。……ありがとうございます」
ありがとう。この十日間で初めて聞く言葉だった。
彼女は釘を確かめる。いつものように一本ずつ持ち上げ、目の高さで眺め、指で弾いて音を確かめ――匂いは、今日は嗅がなかった。少しだけ進歩だ。何の進歩かはわからないが。
二十四ペニヒを置いて、釘をローブのポケットにしまう。
だが、今日は帰らなかった。
「あの」
「はい」
「……蝋燭は、ありますか」
俺は思わず目を見開いた。釘以外の注文が来た。記念すべき瞬間である。
「もちろんあります。蜜蝋のものと獣脂のもの、あと王都から取り寄せた香り付きのものもありますが」
「一番安いものを。五本」
「獣脂の蝋燭ですね。五本で十五ペニヒです」
棚から蝋燭を取り出して並べると、彼女はやはり一本ずつ確かめた。持ち上げて、眺めて、指で弾いて――いや、蝋燭は弾いても音がしない。彼女は弾こうとして、やめて、少し気まずそうにそっと戻した。
見なかったことにした。
「これで結構です」
「ありがとうございます。合計三十九ペニヒですね」
「あ。……それと」
帰りかけた彼女が、また立ち止まった。今度は棚の方を見ている。
「あの、ヤカンは」
「ありますよ。どんなものをお探しですか」
「……一番小さいものを」
一番小さいヤカン。うちの在庫で一番小さいのは、一人用の銅のヤカンだ。祖父が「こんな小さいの誰が買うんだ」と仕入れて、案の定三年間売れ残っていたやつ。
「こちらですね。一人用の銅製で、一ターラーと二十ペニヒになります」
彼女はヤカンを手に取った。
持ち上げて、眺めて、指で弾いた。
カンッ、と銅の澄んだ音が店内に響いた。
彼女はかすかに頷いた。今度は匂いも嗅がない。ヤカンに関しては音だけで合格らしい。
「これをください」
「ありがとうございます。全部合わせて一ターラー五十九ペニヒですね」
彼女はきっちりの額を置いた。いつも端数なしのぴったりを出してくる。財布の中に無限に小銭が入っているのだろうか。
ヤカンと蝋燭と釘を抱えて帰っていく後ろ姿は、なんというか、引っ越したての大学生のようだった。
災厄の魔女が、ヤカンを買って帰っていく。
なんだか世界の終わりが遠のいた気がした。
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翌日から、彼女の注文に変化が生まれた。
十一日目。釘三本と、マッチ一箱。
十二日目。釘三本と、塩一袋。
十三日目。釘三本と、毛布一枚。
十四日目。釘三本と、石鹸ひとつ。
釘は欠かさない。必ず三本。それに加えて、一つだけ生活用品を買っていく。
彼女が町外れの廃屋に住み着いたという噂を思い出した。あの廃屋は、十年前に逃げ出した地主の別荘の成れの果てだ。屋根は半分崩れ、壁も所々穴が開いていたはず。
あの廃屋を、毎日釘三本で直しているのか。
……気が遠くなる。
十五日目。
「釘を三本と、それから」
「それから?」
彼女はしばらく言い淀んだ。フードの奥で視線が泳いでいる。
「……鍋を」
「鍋ですね。どのくらいの大きさのものを?」
「その」
彼女は自分の両手で丸を作ろうとして、うまく作れなくて、結局ローブの中に手を引っ込めた。
「一人分の、その……汁物が作れるくらいの」
「片手鍋ですね。煮込み用と、スープ用、どちらが」
「……違いがわかりません」
正直だった。
「煮込み用は底が厚くて焦げにくいです。スープ用は薄手で早く沸きます」
「どちらがいいですか」
客に訊かれた。
「お一人で使うなら、スープ用の方が手軽でいいかと思いますよ」
「では、それを」
彼女はまた音を確かめて、ちいさく頷いて、買っていった。
十六日目は茶葉。十七日目はカップ。十八日目は小麦粉。
釘三本に、生活用品を一つ。まるで一日一品ずつ、暮らしを組み立てているようだった。
十九日目。
「釘を三本と……」
「はい」
「……砂糖を」
「砂糖ですね。白砂糖と黒砂糖がありますが」
「甘い方を」
「どっちも甘いですよ」
思わず突っ込んでしまった。
彼女は目を見開いた。それから――本当にわずかに、口の端が持ち上がった。
「……そうですね。では、白い方を」
その夜、帳簿をつけながら気づいた。
彼女が初めて「生活必需品」ではないものを買った。塩は必要だが、砂糖は必要ではない。少なくとも、廃屋の修理と最低限の生存には不要だ。
砂糖は、ささやかな贅沢品だ。
なぜだか、そのことが妙に嬉しかった。
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二十日目の朝。
マルタばあさんがパンを持ってきたついでに、深刻な顔で言った。
「ユリウスさん、ちょっと話があるんだけどさ」
「なんですか」
「町の連中がね、集まって話し合ったんだよ。あの紫の髪の女のことで」
嫌な予感がした。
「やっぱり『災厄の魔女』じゃないかって、みんな怖がっててさ。鍛冶屋のガルドなんか、王都の衛兵隊に通報しようとか言い出してるし」
「通報って……何か被害があったんですか」
「いや、それがね。何もないんだよ」
「何も?」
「何も。あの子が来てから、不作にもなってないし、井戸も枯れてないし、家畜も死んでない。むしろウチのパンの焼き上がりが最近やけにいいくらいでさ」
「じゃあ別に問題ないんじゃ」
「あたしもそう思うんだけどね。でも『災厄の魔女』っていう名前が怖いんだよ、みんな。名前ってのは厄介だねえ」
マルタばあさんはため息をついて帰っていった。
昼下がり、いつもの時間。
扉が開く。
「釘を三本と――」
今日は何だろう。昨日が砂糖だったから、次は何か甘いものを作る道具だろうか。ボウルとか、泡立て器とか。
「――針と糸を」
予想が外れた。
「裁縫セットですね。糸は何色がいいですか?」
「黒を」
「ボタンはいりますか」
「……ボタン」
彼女はしばらく考え込んだ。
「ボタンとは、何に使うものですか」
俺は一瞬、冗談かと思った。だが彼女の目は至って真剣だった。
「あの……服についてる丸いやつです。前を留めるための」
「ああ。あれは『ボタン』というのですか」
知らなかったのか。十年間、服のボタンを「あの丸い留め具」くらいの認識で生きてきたのか。
「では、ボタンも。黒いものを五つ」
「承知しました」
会計を済ませ、彼女が帰ったあと、俺はカウンターに肘をついて考えた。
鍋の選び方がわからない。砂糖の種類を知らない。ボタンの名前を知らない。
「災厄の魔女」は――十年間、一体どんな暮らしをしてきたのだろう。
人里から離れ、ひとりきりで。
触れたものを腐らせ、見つめたものを灰に変えると恐れられた存在が、一日三本の釘で家を直し、小さなヤカンで湯を沸かし、白砂糖を買って帰る。
なんだか――胸の奥に、鈍い痛みのようなものが走った。
同情ではない。もっと別の何かだ。
ただ、彼女が明日も来てくれればいいと、漠然とそう思った。
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二十一日目。
事件が起きた。
いつもの時間よりも三十分ほど早く、店の扉が勢いよく開いた。入ってきたのは彼女ではなく、鍛冶屋のガルドだった。
「おいユリウス! あの魔女に物を売るのをやめろ!」
ガルドは町一番の大男で、声もでかい。店の棚が揺れた気がした。
「急にどうしたんですか、ガルドさん」
「どうしたもこうしたもあるか。あの女は災厄の魔女だぞ。いつ町が滅ぶかわからんのに、おまえは毎日ニコニコ物を売りやがって」
「でも実際、何も被害は出てないですよね」
「今はな! だがいつ豹変するかわからん。あいつが本気を出したら、この町なんぞ一瞬で灰になるんだぞ」
ガルドの言うことにも一理はある。噂が本当なら、彼女の力は国を滅ぼしかねないものだ。
だが。
「ガルドさん、うちは万屋です」
「だからなんだ」
「万屋っていうのは、誰にでも物を売る店です。祖父がそう決めました。金を払う客に『あなたには売れません』とは言えません」
「爺さんの遺言より町の安全の方が大事だろうが!」
「……それは、そうかもしれませんね」
反論のしようがなかった。祖父の信条と町の安全を天秤にかければ、普通は安全を取るだろう。
だが、俺の脳裏に浮かんだのは、鍋の種類がわからずに困っていた顔と、「どっちも甘いですよ」と言った時のかすかな笑みだった。
「すみません。でも、やっぱり売ります」
「なっ――」
「何か被害が出たら、その時は俺が責任を取ります。でも、今のところ彼女はただの客です。毎日釘を三本買って、最近ようやく鍋とヤカンを手に入れた、普通の客です」
ガルドは顔を真っ赤にして何か言いかけたが、そこで店の扉が開いた。
紫の髪。藍色の目。深いフードのローブ。
いつもより少しだけ早い。彼女はガルドを見て、それから俺を見て、すぐに状況を察したようだった。
空気が凍った。
ガルドが身構える。鍛冶屋の太い腕が微かに震えている。怖いのだ。当然だろう。目の前にいるのは、噂が本当なら大陸最強の魔女なのだから。
彼女は黙ったまま、一歩、二歩と後ずさった。
踵を返そうとしている。
帰るつもりだ。
――ここで帰したら、彼女はもう来なくなる。
なぜかそう確信した。
「いらっしゃいませ」
俺は、いつも通りの声を出した。
「釘、三本ですよね。今日も出してありますよ」
彼女が足を止めた。
ガルドが俺を睨む。
だが俺はカウンターの上の釘を指差して、できるだけ普段通りの笑顔を作った。心臓はかなりうるさかったが、顔には出ていないはずだ。たぶん。
彼女はしばらく動かなかった。
五秒。十秒。
やがて、静かにカウンターに歩み寄った。
「……釘を、三本と」
「はい。他には?」
「…………タオルを、一枚」
「タオルですね。白とクリーム色がありますが」
「白を」
いつもの手順。釘を確かめ、タオルの手触りを確かめ、代金をきっちり置く。
ガルドは仏頂面で突っ立っていたが、彼女が何もしないのを見て、舌打ちひとつ残して店を出ていった。
店内に静けさが戻る。
彼女は釘とタオルを抱えたまま、少しの間立っていた。
「あなたは」
「はい」
「……変わった人ですね」
「よく言われます。祖父に似たんだと思います」
「………」
彼女はフードを深く被り直した。だが、その下で――今日は確かに見えた。
笑っていた。
小さく、けれど確かに。
「明日も来ます」
「お待ちしてます。明日は何を買いますか?」
「……明日決めます」
扉が閉まる。
カウンターの上には、代金ぴったりの硬貨。
そして今日も、紫の花が一輪。
俺はそれを拾い上げて、ふと気づいた。
初日にもらった花。水に挿しておいたのだが、一週間経っても全く枯れていない。
触れたものを腐らせる魔女の花が、枯れない。
――考えすぎか。
帳簿に「タオル白・一枚」と書き加えて、俺は今日の分の花を、初日の花の隣に挿した。
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二十二日目。
彼女は予告通り来て、釘三本と木の匙を二本買った。
二本。
「匙、二本ですか。来客用ですか?」
「…………予備です」
目を逸らした。
予備の匙。なるほど。信じよう。
二十三日目。カップを一つ。これで彼女が持っているカップは二つになる。
予備だろう。きっと予備だ。
二十四日目は何も買い足さなかった。釘三本だけ。しかし帰り際に、不意に訊いてきた。
「あなたの名前は」
「ユリウスです。ユリウス・クロイツ。この店の二代目です」
「…………ユリウス」
彼女は小さく復唱した。名前を噛みしめるように。
「あの、よければお名前を」
彼女はフードの奥で何かを逡巡するように瞬きした。
五秒ほどの沈黙。
「……リーリエ」
短い名前だった。災厄の魔女にしては、あまりにも。
「リーリエさんですね。よろしくお願いします」
「…………よろしく、お願いします」
たどたどしい挨拶だった。まるで久しぶりに声に出す言葉を思い出したかのように。
もしかしたら、本当にそうなのかもしれなかった。
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二十五日目。
リーリエは釘三本と、それから。
「お聞きしたいことがあるのですが」
「どうぞ」
「ヤカンで湯を沸かして、茶葉を入れたのですが、苦いです」
「…………お茶が苦い、と」
「はい。非常に苦いです。私の作り方が間違っているのでしょうか」
ついに商品相談が来た。万屋の仕事は物を売るだけではない。使い方の相談に乗るのも大事な役目だ。祖父はこの手の相談を「人生相談の次に大事な仕事」と呼んでいた。
「茶葉はどのくらい入れましたか」
「ひと掴み」
「ヤカンに直接ですか」
「はい」
「煮込みましたか」
「三十分ほど」
原因がわかった。全部だ。全部間違っている。
「リーリエさん、お茶の入れ方なんですが――まず、茶葉はひと掴みじゃなくて、小さじ一杯くらいで」
「小さじ一杯」
「はい。それをヤカンじゃなくて、カップに直接入れてお湯を注ぐか、できれば茶漉しを使った方がいいです」
「茶漉し」
「あります。これです」
棚から小さな茶漉しを取り出した。金網の細かい、一人用のもの。
「これをカップの上に置いて、茶葉を入れて、沸かしたお湯を注ぎます。待つのは三分くらいで十分です」
「三十分ではなく」
「三分です」
「…………十分の一」
リーリエは茶漉しを手に取り、いつものように眺め、弾き、今度は匂いまで嗅いだ。金網の匂いとは。
「これをください」
「二十ペニヒです」
彼女は代金を置き、茶漉しと釘を抱えて帰っていった。
翌日。二十六日目。
「昨日教わった通りに淹れました」
開口一番、そう言ってきた。
「どうでしたか」
「…………おいしかった、です」
声が少しだけ小さくなった。目線も下がった。
褒め言葉を言い慣れていないのだ、この人は。
「それはよかったです。砂糖を入れるともっとおいしくなりますよ」
「砂糖を? お茶に?」
「はい。あと、牛乳を入れる飲み方もあります」
「牛乳を。お茶に」
リーリエの藍色の目が、ほんの少し大きくなった。驚いているのだ。お茶に砂糖と牛乳を入れるという、ただそれだけのことに。
「世界は……広いのですね」
「辺境の万屋で言われると複雑な気持ちになりますが」
彼女はまた、ほんのかすかに笑った。
二十六日目の売上。釘三本、牛乳一瓶。
帳簿に書き込みながら、ふと窓の外を見た。
夕暮れの空が茜色に染まっている。
辺境の町の、変わり映えのしない夕焼け。
でも、一ヶ月前とは何かが違う。
この町に来て、まだ名前すら知らないただの「魔女」だった人が、今日「おいしかった」と言ってくれた。
万屋を継いでよかったと、初めてそう思った。
第二話 了
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