第5話「嫌いじゃない、と言い切れる夜」
店を出たときには、空はすっかり紺色に染まっていた。
オフィス街の照明がやけに眩しくて、グラス一杯で火照った顔を、そっと冷ます。
「この辺、夜は静かですね」
私の言葉に、芦澤さんが「そうですね」と返す。
その距離は、妙に近すぎず、遠すぎず。
並んで歩くたびに、私は少しだけ気を張る。
昔のことを思い出さないように。
でも──思い出してしまうのだ。
「……椎名さん、覚えてます? 俺が初めてプレゼンしたとき、めちゃくちゃ噛んで」
「え……ああ、はい。あれ、確か大手クライアントの前で……」
「笑ってくれて、ありがとうございました」
「え?」
「俺、本当に緊張しぃで。新人のとき、誰と目を合わせてもまともに喋れなかった。自分でも、感じ悪いってわかってたんですよ」
(……やっぱり、そうだったんだ)
「でも、あのとき、椎名さんがちょっと笑ってくれて。あれで少し、救われたんです」
それ、ぜんぜん気づいてなかった。
むしろ「そんなつもりじゃ……」と答えそうになるけど、やめた。
少し黙って、それから小さく息を吸った。
「……たぶん、変わったのは芦澤さんだけじゃないです。私も、ちょっとは成長したってことで」
「うん、そうですね」
その言葉に、ふっと笑ってくれるのが、少しだけくすぐったい。
改札が近づいてくる。
このまま別れれば、いつもどおりの夜になる。
でも、なぜか今日は、もう少しだけこの人の話を聞いていたいと思った。
「椎名さん、また……仕事、一緒に頑張りましょう」
「……はい、こちらこそ」
手を振ることもなく、ただそれだけで別れた帰り道。
スマホの通知がひとつ鳴る。
見ると、社内チャットに芦澤さんから。
「今日、ありがとうございました。無理しないでくださいね」
ただそれだけの言葉なのに、
スマホを持つ手が少しだけ熱くなる。
──この人のこと、私はもう「嫌い」って言えない。
それだけは、はっきりしていた。