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一九一七年、ロシア帝国は敗北の瀬戸際にあった。皇帝はシャワーを見た事もない地方民五十万人を徴兵して首都に集めた。行き先は地獄の対ドイツ戦線である。
皇帝派の政治家は「考えなしに首都に人を集めると国を乗っ取られる」と中止を求めたが、皇帝は聞く耳を持たなかった。
やがて徴兵軍が首都に移送されてきた。皇帝を呪う五十万人は反政府暴動を起こして帝国を滅ぼした。
レーニンはドイツに降伏する事で徴兵軍を満足させた。
牢人衆は世の中を憎んでいた。彼らは苦戦の中で首脳部も憎み出した。
城内に謀反の空気が充満した。
六万人を腕力で追い出すのは難しい。何らかの手段で満足させて自発的に出ていってもらうしかない。例えば相当額の早期退職金を積む等だ。城の蔵にはまだ大量の資金があった。
幕府軍撤退後、大野は城内に「牢人に退去を命じる」と立て札を立てた。それ以外は何もしなかった。
牢人衆は当然居座った。
大野は具体的な早期退職計画を立てて、牢人衆の合意も取った上で、幕府に「責任を持って牢人衆を追放する」と約束した訳ではなかった。「何とかなるだろう」とノープランで追放を請け負っていた。
秀頼は和睦には内心不本意だった。特に大阪城からの退去には耐えられなかった。例え牢人衆に乗っ取られた城だとしても。
大野治房は最後まで和睦に反対した。治房は秀頼と牢人衆に接近して兄から政治権力を奪う動きを見せる。
淀の江戸行きは冬の寒気を理由に春以降に延期された。
譜代家臣は「善戦した」という認識だった。相当押し込まれたが、結果だけ見れば一対一でPK戦までもつれ込んでの敗北だった。圧倒的な幕府軍を相手に恥ずかしい負け方をせずに済んだ。
世界三位のクロアチアとPK勝負までもつれたら、もしかしたらW杯でも優勝出来るかも、と夢見ても不思議ではない。
大阪城にはキリスト教徒や宣教師も入城していた。戦争が始まると宣教師は逃げ出そうとした。しかし信者は「今までの教えは嘘だったのか」、「神のために死のう」と迫り、半ば監禁する形で籠城戦に参加させた。
戦後、宣教師は善戦どころか「この戦いは豊臣家が勝った」と言い出した。信者は神の力で幕府軍を追い返せたと感激した。
牢人衆は「本当は豊臣が勝っていた」と認識した。
自分達は前線で死ぬ思いで頑張っていたのに、臆病風に吹かれた首脳部が勝手に和睦の話をまとめてしまった。自分達の奮闘は無にされた。
牢人衆は偽りの講和条約を破棄して、「勝利の勢いに乗って」京都に進撃する事を計画した。
こういった発想は信者や牢人衆だけでなく、一部の関西市民も持っていた。
夏の陣の直前、鹿児島の島津義弘は激励の書状を家臣に持たせて京都の板倉勝重に送った。旅の途中、家臣は「今度も大阪が勝つ」と京都市民が噂し合っているのを聞いて鼻で笑ったという。
当時、京都や堺にはオランダ人の貿易商が駐在していた。
一月二十九日、堺駐在のオランダ人商会員は平戸の本部に宛てて報告書を送った。
―「一、二か月後に豊臣側が堀を掘り返す。そういう噂が大阪市内に流れている」
一か月どころか、幕府軍の撤退から二週間も経たない内に牢人衆は堀の掘り返しを始めた。
牢人衆は豊臣家を滅ぼそうとしていた。
(続き)




