8-12
幕府は各隊の作業の割り当てや資材の手配準備を急いだ。豊臣家とも工事に向けて協議を重ねた。
この間に「惣構えの破壊、本丸以外の防御施設の破壊」という作業目的が全体に周知された。
年が明けて一月八日から埋め立て工事が始まった。
工事の総指揮官は京極忠高。各隊の持ち場がそのまま担当部署になった。兵士の他に近隣住民も動員された。現場でトラブルを起こさないように法律も作った。「大阪の兵士が因縁を付けてきても無視する」、「こちらから大阪兵に手を出したら成敗する」といった内容である。
後年の発掘調査で地中から牛馬の骨が見つかったという事で、幕府軍が牛馬を食するほど補給に苦しんでいた、という説が一時出た。
しかし大阪府の調査報告によれば、これは十七世紀後半の骨細工を製造した工房跡と推定されている。発見された骨にはノコギリで切断した痕や、加工を試みて失敗した痕が付いていた。食べた後のゴミではなくて、何かを作ろうとした残骸だった。
幕府が担当する惣構えの破壊工事は順調に進んだ。さっさと帰りたいので作業にも熱が入った。
しかし大阪城本体の工事は難航した。
豊臣家がこの後に及んで和睦条件をウヤムヤにしようとした事に幕府は怒り、本体の工事まで請け負った、という話が後世の資料に出てくる。
しかしこれは単純に難工事だったからだ。豊臣家が思っていたより堀の水深が深かった。
現地の諸大名はしびれを切らした。全ての工事が終わらないと帰れない。
豊臣家はまた幕府に泣き付いた。
松平忠明は城の櫓や屋敷を容赦なく破壊して水掘に投げ込んだ。織田有楽斎の屋敷も取り壊された。豊臣家から抗議が来たが、これはあくまでも乱暴な工事の仕方に対してで、堀の埋め立てに対してではない。松平は十九日までに城本体の工事を完成させた。
幕府は残る建物の破壊を急いだ。
一月二十四日、全ての作業が終了した。各隊は本国に向けて帰還した。
三河刈谷藩主の水野勝成は弾薬箱に座って、南の平野から大阪城を眺めた。
城外の兵舎は全て撤去された。
塹壕は残された。アリの巣穴のように張り巡らされた無数のトンネルが、やがて「真田の抜け穴」伝説を生む事になる。
その真田丸は取り壊されて見る影もない。
城下町を守っていた土塁と堀は破壊された。
戦争中は隠れていた街の姿が見えるようになった。
街は比較的形を保っていた。籠城中、街から出ようとした市民は斧で指を切断された。手に包帯を巻いた市民が多かった。
街の奥に城が見えた。
本丸以外の堀や櫓、門は破壊された。大阪城は壊れた天守閣と本丸御殿だけの姿になった。
武蔵が背後からやってきて、勝成の隣に立った。
勝成はからかった。
「何だお前。よその子になったんじゃねえの?」
「蜂須賀隊は今回の戦功第一です。次の戦いでは後方支援に回されるでしょう。という事で伸びしろがない。
徳川御一門で安心して先鋒を預けられるのは日向守様か下総守(松平忠明)様だけ。戦力強化が必要ですよ。俺は誰よりも役に立つ」
「(次の戦いは)百年後には起きるかもな」
「大昔すぎて牢人時代の気持ちを忘れたんですか?俺は無職真っ盛りだから向こうの気持ちがよく分かります。
連中はもう秀頼や徳川の事は何とも思っていません。気に食わない奴は全部殺せばいい、ぐらいに考えている。次の戦いは近いですよ」




