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大野は牢人雇用派と徹底抗戦派を説得した。両派は全面的に、あるいは渋々同意した。一部は最後まで拒否し続けた。
十七日、朝廷は使者を送って幕府に和平仲介を提案した。家康は丁重に断った。
十八日、幕府と豊臣家は最後の講和交渉を持った。
幕府の交渉担当は本多正純。豊臣家の交渉担当は淀の妹、常高院である。
常高院の息子で若狭小浜藩主、京極忠高の部隊が玉造に配備されていた。
二人は京極隊の陣地で話し合った。
豊臣家は大阪城の破壊と牢人衆の追放を申し出た。
自分から譲歩する事で相手の要求を減らすテクニックがある。しかし今回は効かなかった。豊臣家が条件を釣り上げた結果、幕府も条件を釣り上げてきた。幕府はこの機会に豊臣家の完全な幕府大名化を成し遂げるつもりだった。
江戸時代の講談は「豊臣家は終始優勢に戦いを進めていたが、淀が砲撃に怯えて強引に講和を決めてしまった。淀のせいで勝てる戦いを逃した」としている。
実際は大阪城は総攻撃間近で落城寸前だった。攻めれば落ちる城を救ったのは家康だった。幕府は家康のせいで勝てる戦いを逃がした。
十分余力を残した状態で嫌々講和したフィクションの世界とは違い、豊臣家は命乞いする状態で京極隊の陣地にやってきた。幕府の要求はほぼ受け入れた。
十九日、和睦条件が正式に決まった。
・今後は家康、秀忠に敵対しない事
・大阪城惣掘を埋める事。本丸以外の防御設備を破壊する事。
・豊臣家の責任で牢人を追放する事。
・秀頼、家臣、牢人の罪は問わない。身の安全は保証する。
・将来秀頼が希望した場合、望みの国へ転封させる。
・将来淀か秀頼が希望した場合、江戸に居住させる。
最後の二項は両者概ね合意しているが細部は今後詰めていく、という意味合いを持っていた。
秀頼は転封に対しては徹底拒否の構えを見せており、十分に説得の時間を取ろうとすれば一か月でも二か月でもかかってしまう。今はともかく戦闘停止が第一という事で棚上げにされた。
幕府と豊臣家首脳部は大和+伊賀or伊勢+伊賀への転封と、淀の江戸居住で内々に合意した。
幕府は更に秀頼の江戸居住を求めた。これで江戸に住む諸大名と同じく、完全に家臣扱いになる。首脳部はこれには難色を示した。
工事は惣構えが幕府担当、大阪城本体が豊臣家担当とされた。
昭和の時代までこのような説が存在していた。
「幕府は大阪城の防御力の高さに手を焼いた。惣掘(惣構えの堀)を埋め立てるという講和条件だったが、惣掘の「惣」を全ての意味での「総」と解釈して、強引に大坂城本体の堀まで埋め立てた」
しかし平成の研究で豊臣家は城本体の堀の埋め立てに納得し、自分達の手で工事していた事が明らかになった。
そもそも幕府が戦ったのは惣構えだ。城本体が出てくるのは最終局面。しかも古い設計の弱点を突かれて一日で実質陥落している。




