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十二月十五日、茶臼山の本陣に有楽斎の返信がもたらされた。
家康と幕僚グループは対応策を話し合った。
本多正純は返信の内容を説明した。
「人質の件。御台を江戸に送る事で本人の了承を正式に得たそうです。
転封と牢人処分の件。どちらも無理だと言っています。戦ってくれた功に報いるために牢人を正式に召し抱えたいが、こっちも金が足りないので、前右府に加増して欲しいとの事です」
幕僚は困惑した。
牢人退去要求を拒否するまでは分かる。しかしそのための金銭援助を幕府に要求するのは分からない。
家康は苛立った。
「どこの世界に負けて領土がもらえる国がある。牢人六万人を雇うとなると二百万石の加増が必要になる。もう和睦する気はないって事か?」
崇伝は何とか怒りを解こうとした。
「豊臣家は自分で領地を経営した事がありません。徳川に泣き付けば何とかなる生活を十五年続けてきたから、こんな返答を平然と投げてくる。
石山本願寺は傭兵十万人を追い出して綺麗に大阪から出て行きました。坊主にも出来る事が彼らには出来ないのです。
ここは怒らず。冷静に。一時の感情で和議を壊してはなりません」
家康は軟化した。
幕府は城に使者を送り、牢人衆へある程度の扶持米(給料)を与える事を条件に秀頼の転封を提案した。
豊臣家はこの交換条件に返答しなかった。代わりに茶臼山に使者を送って加増を再度要求してきた。家康はさすがに怒って使者を追い返した。
茶臼山の本陣は重苦しい雰囲気に包まれた。
大野は牢人衆の突き上げに負けて条件を釣り上げてきた。講和交渉はここに来て一気に暗礁に乗り上げてしまった。
家康は指示した。
「切り札を用意しろ。大野を助けてやるよ」
備前島の砲台陣地にイギリス、オランダから購入した新型の長射程大砲や、国産の強力な大砲計百門が配備されていた。
惣構えの東部に玉造という街があった。こちらには新旧大砲計二百門が配備されていた。
備前島と玉造の砲兵隊は大阪城本丸に照準を合わせた。
なお、この時豊臣家は四国の内二国への転封を望んだが拒否された。家康は代わりに上総安房(千葉)の二国を提案したが拒否された、という資料がある。
四国は阿波が十八万石。讃岐が十二万石。土佐が十万石(領主の山内家は後に阿波蜂須賀家に対抗して二十万石と自己申告する)。伊予が三十六万石になる。阿波+伊予で五十五万石程度だ。
加増を願って現在より低い所領を望んだ事になる。二国加増の話がどこかで二国転封の話にすり替わったのかもしれない。




