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二人は表御殿の大広間に幹部メンバーを集めた。
有楽斎は現在の苦境を説明して賛成を求めた。
名前こそ和睦だが、実際には降伏である。敗北した豊臣家は幕府の一大名に転落する。
正しくは一六〇九年に転落していたのだが、人々はその事実から目を背け続けてこの戦いを起こした。
現実を受け入れる時が来た。感情的に重たい決断だったが、死にたくないという気持ちが上回った。
多くのメンバーが和睦案に賛成した。
しかし牢人グループと大野グループの一部は反対した。
大野グループの内、大野治長の弟、大野治房と治胤兄弟が反対に回った。
牢人グループの内、長宗我部盛親、毛利勝永、戦国秀範が反対に回った。
織田頼長はかつて側近グループのリーダーだった。しかし父有楽斎が融和路線を進めた事でグループ内で居場所がなくなった。
頼長はすっかりふて腐れた。この会議にも病気を理由に参加しなかった。
大野は後藤の意見を求めた。
「反対の方々は『内通した諸大名が援軍に来れば勝てる』と仰るが、絶対に来ません。弾薬、兵糧も後一か月で切れます。
私達は謀反人として全員首を切られてもおかしくありません。それなのに城を出れば全て許すと大御所は仰った。何故これで和議を受け入れないのか。私には理解出来ません」
大野は幸村の意見を求めた。
「籠城の第一は人の和。次が援軍。次が兵糧弾薬。我々には何もありません。
全員の心を一つにしないと勝てないのに、皆の心はバラバラ。謀反の機運も高まっています。このまま籠っていれば反乱が起きて内側から崩れます。
謀反の一例を挙げます。
織田頼長様は配下に射撃を禁じています。先日などは誤って発砲した者を処刑して首を晒しました。何もしないものだから、対面の藤堂隊は顔が見える距離まで迫っています。
先日の大砲撃では子供まで(壊れた土塀の代わりに)石を積み上げていたのに、頼長様は奥に籠っていらっしゃった。砲弾を恐れて隠れていたと聞いています。また女性と酒を飲んで遊んでいたとも承っています。
頼長様は有楽斎様の嫡男であり、上様の御親戚に当たる方です。率先して周囲をまとめるべき立場の人が、率先して豊臣家を裏切っている。
すぐに更迭して別人を起用するべきなのに、本丸衆(首脳部)はそのままにしています。有楽斎様まで寝返ったのではないかと城兵は疑っています。
これでは勝てません」
城内では二人の発言力が圧倒的だった。反対派は黙った。
有楽斎は決を採った。
「素晴らしい意見だった。我々も反省する事しきりである。
源頼朝は洞窟に逃げ込んだが最後には平家を討った。越王は臥薪嘗胆して大望を果たした。勇者とは耐えて生きる者。死んで楽になりたがる者の事を言うのではない。
私はこの戦争を始めた人間の一人として、最も苦しい道を歩みたい。和睦を受け入れよう。
異議はあるか?」
全員「異議なし」と声を揃えた。
ようやく終わりが見えてきた。残りは秀頼。そして和睦条件である。
しかし和睦では同意見だった後藤と幸村も条件では対立した。
後藤は幕府の要求を飲んで牢人を解雇すべきと考えた。幸村は牢人の気持ちを汲んで彼らの正式雇用を求めた。両者の対立はまとまったかに見えた城内を再び分断した。
戦争は始めるより終わらせる方が難しい。




