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近年、織田信長研究は飛躍的に進歩した。その結果、従来の信長像に大幅な下方修正がかけられる事になった。
例えば兵農分離。かつては信長の強さ、新しさの象徴の一つとされた。
信長公記の記述が兵農分離の根拠とされる。これによれば信長は一五七八年、所領に住んでいた一部家臣の妻子を人質として無理やり安土城下に集めた。農民を城に集めてプロ兵士にした訳ではない。
信長は兵農分離を実施していなかった。そもそも兵農分離は江戸時代に成立する仕組みで、戦国時代には存在しない。どの大名も在郷被官を動員して戦っていた。
一五八〇年、信長は織田家ナンバー2の重臣、佐久間信盛に解雇通知を送った。その中に「領地を増やしてやったのに家臣を増やさないのは卑怯だ」という記述がある。
上杉家、武田家、北条家は家臣の収入を把握して、あなたにはこれぐらい収入があるから槍兵を何人、銃兵を何人連れてきなさい、という先進的な決まりを作っていた。この決まりは後に全国で採用された。
信長はそういった決まりを作らず、「お前ならもっと連れてこれたはずだよな?」と副社長を吊るし上げて解雇した。
部下に「沢山兵士を連れてこい」と指示する事を軍勢催促という。源平~室町時代まで使われていた。数や装備の指定は特にない。沢山連れてくるほど上司の評価は上がった。
連れてくる兵士の数や装備まで細かく指定する事を軍役規定という。戦国時代に初めて現れたシステムだ。
信長はいち早く豊かな地域を抑えた。その有り余る物量で諸大名を次々なぎ倒していった。ただしシステム面での先進性は見られない。非常に強力な室町大名だった。
何故上方修正がかけられたのか。
戦前の日本では徳富蘇峰という新聞会社社長が世論形勢に大きな影響力を持っていた。
徳富は対米戦争では開戦詔書を起草し、戦争末期には本土決戦を唱えた。戦後はA級戦犯に指定されたが、老齢で収監を免れた。
戦前、徳富は信長を絶賛した。皇室中心主義で、世界的な視野を持ち、様々な革新を成し遂げた新時代のカリスマだと。
明治を愛する徳富は幕府を憎み、鎖国を恨んだ。この観点から信長を脱亜入欧の祖として崇めた。家康を退嬰的な陰謀家と貶めた。
徳富説に影響を受けたクリエイターは信長を絶賛する作品を次々発表した。占領下で徳富が影響力を失っても賛辞は止まらなかった。むしろ占領下だからこそ、脱亜入欧のカリスマへの賞賛は強まった。信長はもう一人の力道山だった。
高度経済成長期以降、信長の人気は絶対的になった。その人気に沿う形で各種改ざんが行われた。
しかし信長の先進性を示すとされる戦術、政策の多くが作り話やこじつけだった事が近年の研究結果で明らかになった。他人の受け売りも多い。
徳富説は事実に立脚しないプロパガンダだった。
信長が生涯をかけて追及したのは中国趣味だった。中国風の城を築き、中国の陶器を熱心に収集した。実際の所ワインを飲んだ資料もなければ、騎士鎧を着た資料もない。強いて言うなら脱日入亜だった。
信長は朝廷と室町幕府を重んじる当時としてはごく当たり前の秩序感覚を持っていた。幕府再建を目指した上杉家に近く、独自の新国家樹立を目指した武田家、北条家と遠い。
信長と上杉謙信は手を組んで武田信玄と争った。
日本の法律があるなら、自分で新しく法律を作る必要は感じない。
幕府を顧みない武田家、北条家は独自の法律を制定した。謙信は幕府が制定した法律を使い続けた。ただし立法には消極的だったが、民政には積極的だった。
織田政権は人治の独裁軍事大国だった。立法や行政機構の整備に関心がなかった。民政にも消極的だった。訴訟の処理は滞りがちで、判決は気分次第。国力の全てを軍事に注ぎ込んで戦い続けた。
先進的な政治で盤石な支配体制を築いていた、という前提だから本能寺が謎になる。実際は恣意的な政治で乱暴な拡大政策をひたすら続けており、上も下も不満だらけだった。
秀吉は中国趣味から南蛮趣味までたしなんだ。家康は南蛮趣味を好んだ。
資料上では信長と家康のイメージは真逆だ。
洋服を着てリキュールを飲み、通訳を通さず外国人に話しかけ、「地球が丸いなら北海道を北上したらヨーロッパに行けるはずだ。ちょっと行ってみてくれない?」と無茶な要求をする家康の方が信長のイメージに近い。
徳富の作った信長像は三国志演義のように今後も残っていくかもしれない。しかし正史三国志に当たる歴史研究の世界では滅んだ。
曲学阿世は現代でも起こり得る。江戸時代なら猶更だ。
その男も正体不明の数々の伝説に彩られていた。