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一六一四年十二月、幕府軍二十万は大阪城を包囲した。
豊臣軍は城下町全体を土塁と堀で囲んでいた。これを惣構えという。
惣構えの南は空堀だった。西は水掘で、北と東は川を利用した天然の水掘だった。長さは各二キロ程度あった。
豊臣軍は堀を掘った土で高さ六メートルの土塁を作り、その上に高さ三メートルの土塀を築いた。土塀には二メートル間隔で弓鉄砲を打つ狭間を設けた。
土類の要所には井楼(大きなジャングルジム)や門、物見櫓(高床式倉庫をもっと高くした建物)を設置した。
徳川家康は幕府軍に塹壕戦術を徹底させた。
幕府軍は穴を掘って身を隠しながら徐々に接近した。出た土で壁を作った。
豊臣軍は土塀の狭間や井楼、物見櫓から幕府軍を銃撃した。しかし銃弾は厚く盛られた土の壁を貫通出来なかった。
塹壕は上から見るとジグザクの稲妻状だった。
右斜め上に向かって溝を掘る。出た土で溝の左側に壁を作る。ある程度進んだ所で、今度は左斜め上に向かって掘り進める。出た土で溝の右側に壁を作る。この繰り返し。
大阪の大地に無数の稲妻模様が描かれた。
城内の士気は低下した。
どうせ打っても無駄だと作業妨害の銃撃はまばらになった。南の惣構えを守る織田頼長隊は全く打ってこなくなった。頼長隊は仲間割れして喧嘩騒ぎも起こした。
家康は裏で講和交渉も進めていた。
徳川秀忠は側近の土井利勝を家康の本陣に送って総攻撃を主張した。
「城内に降伏に応じる気配がある。大御所の賢明な交渉の結果とは言え、やはりここは一気に総攻撃を仕掛けるべきではないか。和睦しても後々の災いを生むだけだ」
家康はまず講和交渉、それが失敗した場合は総攻撃を主張した。ただいつでも行けるように総攻撃の準備だけは進めておくように命じた。
二百メートルまで進んだ所で、塹壕先端部の左右に土俵型の砲台が築かれた。
幕府軍はここから大砲数百門を発射した。
二百メートル向こうから砲弾が飛んできて土塀を打ち崩した。
井楼や物見櫓は連打で崩壊した。
豊臣軍も大砲を数十門持っていた。こちらも射程は二百メートルだが、砲門数と弾薬集積量に差があった。
豊臣軍は限定的な反撃を試みた。
こちらが一発打つたびに相手は十発打ってきた。豊臣軍は打ち負けて後退した。
三百メートル先から打った砲弾は幕府軍の前に落ちた。射程を伸ばそうと火薬を沢山詰めると、暴発して兵士ごと吹き飛んだ。無理に連射させても暴発した。
大野治長は自分の屋敷の庭に砲台を構えて打ったが、火が燃え移って火事になった。
反撃はすぐに終わった。
幕府軍は一方的に砲撃した。精度や飛距離を伸ばすために井楼の上に大砲を載せて打ち始めた。これも反撃がないから出来る事だった。
豊臣軍は壊れた土塀を直そうとした。作業中も砲弾はひっきりなしに飛んできた。豊臣軍は城下町の寺の土塀や、商家の蔵の壁を移築して修理した。
幕府軍は直した壁を砲弾で吹き飛ばした。
豊臣軍は応急処置で土を詰めた米俵や竹束を置いた。
幕府軍はまた砲弾で吹き飛ばした。
やがて修理資材が足りなくなった。あっても打たれるのを怖がって修理しに行かなくなった。壊れたままの土塀が増えた。
幕府軍は砲撃を続けた。土塀は穴だらけになった。
幕府は八万人が籠る四平方キロの要塞に対し、塹壕戦術からの砲撃戦を採用した。
塹壕を掘って要塞に接近し、大砲で城壁を壊して歩兵を突入させる。これが当時の要塞攻略の解法だった。
小田原城の戦いでは三万四千人が三、二平方キロの惣構えに籠った。ここでは攻城戦はほとんど発生していない。幕府は国内初の大要塞戦で百点満点を叩き出した。
幕府軍は惣構えを連日砲撃した。塹壕工事も並行して進めた。
豊臣軍は弾薬だけでなく食料も足りなかった。救援に駆け付ける味方もいなかった。孤立無援で死を待つばかりだった。
連日砲弾が降り注ぐ中、兵士は冷たい薄い粥をすすって戦い続けた。逃げ場はなかった。脱走兵は豊臣家からも幕府からも狙われた。
兵士はろくなサポートも付けないのに前線死守を命じる首脳部を恨んだ。
十二月八日、豊臣軍総司令官の大野治長は家康の側近、本多正純に使者を送った。




